梅干しと9月の思い
梅干し、うまいこと干せました。
りゅうちゃんの独り言
おはようございます、りゅうじです。
今日もよろしくお願いしまーす。
どうもどうも、梅干しがいい感じに干せました。
もう少し、たまつゆか梅干しを作れたらよかったですけどね。
ちょっと瓶が足りなくて、もしよければ食べに来ていただけたら。
はい、お願いします。
ということで、9月ですね。8月終わりまして。
9月1日、記念すべき9月1日ですよ。
好きなんですよね、9月。誕生日あるんで。
昨日ね、朝やして温めてたのに忘れてた。
いろいろ話したいなと思って。
復活の日を、この前読んだんですよね。
小松崎雄さんの西風長編小説。
すごい感動した。
今年1位じゃないかなっていうぐらいの僕のインパクトを受けたんですけど。
このポテキアフレでも紹介したんですけど、
最後の方に、残された科学者が、
俺かどうかもわからん全世界の人たちに語りかけるんですよね。
こうしたらよかったんじゃないのかなみたいなのを、
ラジオで語りかけるんですけど、
なんかそういうことよなって思ったんですね。
それを読んで。
哲学者がどうこうっていう話もそうだし、
残すとか語りかけるとかって、
生きるとかもそうなんですけど、
なんかそういうことよなって思って。
そういうことっていうことなんですけど、
最後やなって思って生きるというか、
今日は最後やなみたいな。
明日が来るかわからんけど、
だからこそ今日生きようみたいな。
そういう話を今日していきたいなと思っています。
復活の日の影響
なんでこういう話をするかというと、
その復活の日を読んだのもそうなんですけど、
復活の日を読んだもうちょっと前に、
ピースのお笑い芸人のピースのまたよしさんのYouTubeチャンネルがあるんですよ。
うずっていう。
それで30代の人に変えたいことみたいな企画をやってましたね。
100-3っていう数字の100に数字の3、100-3っていう再生リストがあるんですけど、
100-3っていう企画の中の一つで30代に伝えたいことみたいな題でまたよしさんが語りかけるんですよね。
100-3って何かっていうと、
何かテーマを決めて100個ぐらいそれについて語ると。
100個のうち3つぐらいは答えが出るんじゃないかなみたいな趣旨の企画で、
今回のテーマが30代に伝えたいことということで、
またよしさんも30代を超えて、だからこそ30代に向けて言えるみたいな話をしているときに、
僕ももう少し行くと再来年か30歳になるんで、
ちょっと見てたんですよ。
100-3の3つ目か2つ目か忘れたんですけど、
結構序盤のあたりでまたよしさんが、
僕ね、たまに死ぬんですみたいな、そんな感じで入り方忘れたけど、
そんな感じで言うんですよ。
もう少し感謝した方がいいみたいな感じでね。
何をするかっていうと、一緒にやってほしいんですけど、
公園とか風景が綺麗なところ、川とか山とか庭とか、
家の中でもいいんですけど行ってもらって、
目をつぶるんですよ。
目をつぶって、今自分が死んだと思ってみてくださいと。
これ本気で思うんですよ、本気で。
本気で今自分が死んだと思ってくださいと。
死んだと思って。
死んだ死んだと。
僕は今死んでるんだと。
もうこの世に未練もなく、何も言い残せずに死んでしまったと。
で、ちょっと神みたいなのが現れて、ふわーっと現れて、
あなたにチャンスをあげようと。
もう一回生き直せるチャンスをあげましょうということで、
チャンスをいただけるんだということで、
チャンスをもらってバッと目を開けるんですよ。
今見えてるこの自然、山とか緑とか草木とか、
それから人間が作り出してきた美しいものたちとか、
目の前を歩いていく人たちとか、
そういったものすべてが美しく見えるというか、
ありがたく感じられるというか、
そういうことをマテウスさんが言っててね、
確かにと思って。
そこまで死んだで生き直してもう一回見直すみたいな、
そこまでしなくてもいいんですけど、
でもちょっとこうやってみようと思って、
僕もやってみたんですよ。
同じような感じで目をつぶってみて、
お寺でですけど、お寺で目をつぶってみて、
死んだと思って、
もうこれ本当に死んだって言い聞かせようと思って、
もう死んだ、自分は死んだと言い聞かせてたんですよね。
言い聞かせてたんですけど、
うまいこと自分に暗示がかからなくて、
もう少し自分を捨てていこうと思ったんですね。
いろいろ言い残したこととかやり残してることとか、
例えば今読みかけの本がもう読めなくなっちゃうとか、
例えば読みかけの本が読めなくなっちゃうって思ったとき、
一番苦しかったんですけど、うーってなっちゃうんですけど、
犬と遊べないとか、
美味しいご飯食べれないとか、
川に入れないとか、
冬のこたつに入れないとか、
暖かい布団で眠れないとか、
空いた後の冷たいシャワーを浴びれないとか、
口の中に粘々したものが食べた後の歯みがけができないとか、
いろんなことがもうできないできないとか、
会いたい日にももう会えないと、
伝えたいことも伝えれない、
親にも感謝できない、
周りの人にも何も言わずに亡くなってしまうみたいな、
ゲームもできない、
いろいろなことができない、できない、やれない、
もう残した、もう死んでしまったということを案上かけたときに、
自分、本当に死んだというか、
もう何もできないようになったんだなって思ったし、
その反面、
そこまで僕自身、
悔いというか、後悔がないのかもなと思って、
ちょっと受け入れた気もしたんですよ、少しだけ。
ただ犬と遊べないとか、
本がもう読めないというのは、うーってなったんですけど、
そこはうーってなったんですけど、
でもそこまで未練はなく、
死んでるのかもしれないなと思ったりとかしてね、
そんなことを感じながら、
死んだと思って、もう死んでるわと思って、
で、ふわっとまた出てきて、
チャンスをあげようと、
まだ若いし、若くなくてもいいんだけど、
一旦、君にはもう一度、
人生を生き直すチャンスをあげようと言って、
ゆっくり目を開けていったら、
少しずつ地面が見えて、
石畳が、石段、
石の壁が見えて、
草が見えて、
ちょっと雑草、生えかけの、
抜きかけの雑草が見えて、
木が見えて、山が見えて、
青空が見えて、
眩しい太陽が見えて、
お寺の建物が見えてみたいなことをしたときに、
ちょっとゾッとしたというか、
土がピュンってなったというか、
そういうことを感じれたんですよね。
一種の瞑想に近かったのかもしれないんですけど、
うわー、みたいなのが出てきて、
またスターンと思ったんですけど、
うわーってなって、
それに確かに感謝せなあかんなと思うし、
ありがたみも感じるし、
もう少し元気に生きようというか、
もう少し自分の人生を自分らしく楽しんで、
元気で生きてみようみたいなことを思えて、
やってみたんですよ。
自然と人間の存在
復活の日もそれで読んで、
復活の日は復活の日で僕は思ったのが、
じゃあ僕は何を言い残したいだろうかと思ったんですね。
僕はこれが今日が最後の日で、
目の前におる人たちに、もしくはこのポッドキャストで、
何かを話したいと思ったときに、
ほんまに最後の最後の最終回ですよ。
もう明日死ぬとか、
今日は死ぬかもしれないみたいなぐらいの気持ちで話すときに、
何を伝えたいかなと思ったときに、
僕はまたやさんの話もあるけど、
この今の見えてる地球というか自然とかの美しさを、
何とか言葉にして残しておきたいかもなーって思ったんですよね。
なんかこう、青色なんやけど薄い赤みがかかった空とか、
この赤色って、この薄みがかかった青ってみたいな、
この青とか赤とかを知らない人たちに伝えてみたらどうしようというか、
みたいなことを言葉で伝えようとしたときには、
なんて言ったらいいんやろな、
こう、すがすがしい色だったりとか、
なんかこう燃えるような色だったりとか、
心が熱くなるような色だったりとか、
なんか見て感動するみたいな、
皆さんが見て感動するって思えるような色かなーって言ったりとか、
もちろんこの緑のこの自然の感じ、
穏やかになるとか、ゆっくりになるというか、
見てるだけで何でも良くなるというか、いい意味でね。
なんかそんな感じの色があるなーみたいなのを思ったりとか、
それを循環している、
四季があって、春があって、夏があって、秋冬があって、
それぞれの季節に朝昼晩みたいな、
太陽が昇る、太陽沈む、夜があって、星が見えて、雲の流れがあって、
夏は夏で涼しい風を感じれて、蝉の声が聞こえて、
冬は冬で寒いけど、その寒さがまたこう、
ひと肌が恋しくなったりとか、それこそコタツが楽しみになったりとか、
犬と一緒に寝たいなーって思えたりとか、
なんかそういうことを思えるような季節もあったりとかするなーみたいな、
なんかそういうことを最後のポッテキャストでは言いたいかもなーみたいなのを思ったんですよね。
で、その地球の上にはいろんな動物、植物がおって、
で、僕たちの存在ですよね、人間というものがおって、
じゃあその人間というのはどういうものなのかなーみたいなことを言おうとしたときに、
僕はなんて言うかなーというか、
こう、社会的でもあるんやけど、
でもこう、人を傷つけちゃったりとか、もしくは地球とか自然とか、
自分たちの暮らしているところさえも傷つけちゃうっていう側面はあるんやけど、
でもなんかこう、分かり合える、言葉じゃないところで分かり合えるところがあったりとか、
協力し合えるものがあったりとか、
その上でみんながみんなで協力し合って、
より良く過ごすように、
まあ開発しちゃったりするかもしれないし、
家を建てちゃったりするかもしれないし、
ちょっと自然を汚しちゃうかもしれないけれども、
なんとかみんながみんなを思い合って過ごせるような言い方をしようとしているっていうのが、
僕たち人間なのかもしれないなーとかって思ったりとか、
なんか分からないことを分からないなりに感じようとしたりとか、
なんか愛とかさ、
なんか好きとかさ、嫌いとかさ、
いろんなこう、抽象的な言葉を使いながらも、
でもその言葉でなんかこう通じ合えるものがあったりとか、
分からないなりにも、
人間存在と倫理の考察
それを探ろうとする、愛を求めようとする、希望を求めようとする、
未来を確かなものにしようとするみたいなことが、
叶えようとするっていうのが、まあ人間なのかもしれないなーみたいなのを思ったりとか、
僕はそのこう、人間学みたいなの、大学院とかで学んでるんやけど、
まあそれはこう、死について、生きるについて考えさせられたりとか、
それに付随する優生思想だったりとか、
週末期医療だったりとか、
まあそういう具体的なものもあれば、
哲学的な話があったりとか、生きるとか死ぬとかっていうものもあれば、
いろんなことが考えさせられて、
で、この存在論とかですよね、
原因があるのか、結果があるのかわからないし、
決定しているものなのか、未来が決定しているのかどうなのか、
みたいなのも考えたりとかしながら、
でもそのようなことを考えていくのが、
まあ人間かもしれないし、
それをこう、より良いものに考えていこうとすることが倫理なのかもしれないし、
で、その倫理っていうのが何とか合意形成を組んで、
みんなでこれでやっていこうっていうのが決まったのが、
法律なのかもしれないなーみたいなのことを、
僕今ちょっとずつ感じてて、
だから法律守らなあかんし、
だからもう一度法律を見直して、倫理を見直して、
で、哲学を見直して、人間のあるべき姿を見直して、
みたいなことの、この何回も何回もそれを繰り返して、
何度も何度も繰り返していくことがやっぱり大事だと思うし、
考えを止めてしまうとね、それ以上発展しない、
考えもうまく次にいかないから、
やっぱり考えを止めるんじゃなくて、
考え続けていくことが大事なんだろうなとか思ったりとかする、
そういうこう、し続けていくこと、
何とか豊かになろうとしていくことが、
人間だったりするなーとか思ったりとか、
でもその人間もこう、何かこう、考えなあかんとか、
言葉にするのが偉いんだーみたいな、
そういう一つの、一方通行の価値観じゃなくて、
やっぱり考えられへん場合も、
何かその、考えられてることじゃないところに、
感じられてるところにその人の素晴らしさがあったりとか、
言葉にできなくても他の方法で表現できたりとか、
その人がいるだけで、何かこう、
こちらが捧がるものがあったりとかする、
そういうことをこう、相互で保管し合いながら、
言葉にすることだけとか、考えることだけが偉いんじゃなくて、
みんなでみんなをこう、
うまく底上げし続けていくのが人間だし、
それをもう少しこう広げていく、
動物とか植物とか地球とかまでこう、
自分の血と手をつないだ先をこう広げていくのがこう、
人間なのかもしれないなーみたいな、
そのこの輪のつながりみたいなのも、
やっぱり美しいなーと思って、
まあそういうことも残していきたいかもしれへんのと、
思いました。
日常生活への感謝
今日はちょっとエモいっすねー。
エモいねー。
なんかそんなことをね、思ってて、
いろいろこう、
このポッドキャストをね、
してて、いろんな人に聞いていただけて、
ありがたいし、
その上で僕は何を残していくのかなーって思ってですね。
で、まあ一週間に考えたこと、
なんとか言葉にしていこうとしてるんですけど、
今こうやって、
27、8ぐらいの男子が、
それなりに言葉にしていくことが、
僕がつい30とか、
35になった時に、なんかこう、
同じような熱量で話すことができなかったりとか、
同じような言葉を気恥ずかしくて言えなかったりとか、
するかもしれへんなーって思った時に、
なんか今こうやって、
残させてもらってることが、
なんか、いいなーと思ったし、
自分がこれまた聞き返したりとかするんですけど、
その時に、ああ確かにそういうこと思ってたな、
この時期とかって思えるダイアログになったりとかもするし、
で、なんかそれが、
今聞いていただけてる人の、
気づきになったりとかもするのかなーとか思って、
話してみたんですけど、
だからね、本当に今日、
明日が補助されてないし、
明日があるかないかわからんし、
ってなってくると、
なんかもっと細かいことにも感謝できるというか、
気づいていけるというか、
なんか水が飲めることとかもそうやし、
ご飯が出てくること、
ご飯が売られてることもそうやし、
それを作ってくださる人がおるんやなーっていうこともそうやし、
それを植物から、野菜から作ってくださる人もおるんやなーって、
で、その前に生き物がおって、
鳥とかブタさんとかがね、生きてるし、
それを誰かが殺してるわけやし、
で、その鳥とかブタさんとかは生きてたわけやし、
なんかその辺をこうやっぱりこう、
僕らは見えなくなって生きてしまってるし、
見ないようにしてしまってるし、
今この目の前にしか集中させられないようなことになってきてるから、
もう少しやっぱりこう、視野を広げていかないといけないなーと、
思ったりとか、
もう少しこう、姿勢をよく立たせていかないといけないなーって思いました。
で、この前生態の先生にこう、話す機会があって、
あのー、すごいいいなーって思ったんが、
目のね、後ろ、後頭部から、後頭部に目があるとして、
後頭部から、こう、世界を見るような感じで見て、
見てくださいみたいなことを言ってくださってね、
それでどうなるかっていうと、
自分の目、ついてる目よりも、後ろから前を見るってことで、
自分も含めて、もう少し視野が広がるような見え方がするなーって僕は感じたんですよ。
運転中とか、草抜いてるときとかもそうですけど、
今こうやって話してるとき、パソコンが目の前にあるんですけど、
それを見るときも、後ろのついてる目から全体を見るようにしたら、
もう少し視野が広がるというか、そこだけに集中しない。
それは生態先生に言うには、姿勢を正しくするためなんですけど、
でもそれは別のところにも転用できるというか、
視野を広げようっていうときにも目が後ろについてると思ったら、
もう少し視野が広がる。
目が後ろについてるってことは、前の目になったら見える幅が狭まりますから、
やっぱり姿勢も正しくなっちゃうというかね、
そういう意味で伝えてくださって、
僕は確かにありがたいなと思って、
そういうところにも活かしていけたらなーって思いました。
だから当たり前じゃないしね、
洗濯機があることとか、布団があることとか、
風呂に入れることとか、当たり前じゃないから、
そういうところから感謝しちゃったりとか、
気づけたりとかしていけたらいいなって思いました。
文化と美しさの探求
ということで、復活の日の本の話から、
ビートの又吉さんの話からね、
今のありがたさとか、
一旦進化として生き返って、
この美しさをどうやって残していこうかな、
みたいな話をしました。
概要欄に復活の日のリンクと、
又吉さんの動画のリンク貼っておくんで、
もし良ければそちらを見ていただけたらいいかなと思います。
復活の日はちょっと長いんですけど、
ぜひ読んでいただけたら面白いなと思うので、
おすすめです。
ということで、
今日もお聞きいただき本当にありがとうございました。
今日か明日があるか分からないですけど、
今日か明日かお元気で楽しんで、
苦節やめてお過ごしください。
ありがとうございました。