1. りゅうちゃんの独り言
  2. [番外編#9 みゆちゃん]「何..
2025-09-22 50:34

[番外編#9 みゆちゃん]「何者」かを追い求めてしまう私たち

📝「何者かになる」ことからの解放

🎧️,tooの問うradio

🌱70seeds


自分は何者でもなれない/経済合理性から考えてしまう/「好き」の正体/具体例、お茶とポッドキャスト/思考が残らない/そうそう/「何者」になりたいとき/自己肯定感に紐づく/「好き」と「何者」/称賛を受け取れない/「30歳」のワタシ/死ぬことの焦り/すべての本を読めない


【みんなの独り言(質問·感想何でもフォーム)】  https://forms.gle/tUtz98NGaDrG9JLX9

【note】 https://note.com/__ryuchan0907

【instagram】 https://www.instagram.com/__ryxjx/


りゅうちゃん

1997年、大阪生まれ、徳島在住。関西大学人間健康学部卒業後、大手人材会社に就職。2年で退職し、お寺の一角を借りて2023年「対話する、図書館:遊観(ゆうかん)」を設立。武蔵野大学大学院人間学専攻在学。

サマリー

みゆさんは、自分が何者にもなれないという悩みを抱えており、29歳になることでその焦りが増しています。彼女は社会人になり、経済合理性や自己肯定感が影響することに気づき、自分の好きなことや価値観について思索を深めています。このエピソードでは、自己肯定感と他者からの認識が、「何者か」になりたいという欲求にどのように関連しているかを考察しています。また、ポッドキャストやその他の活動を通じて、自己探求の一環として「何者か」を目指す過程や、それに伴う葛藤についても語られます。彼女は自分の好きなことと課題解決を結びつけることで、「何者か」になりたいという思いとその複雑さについて掘り下げています。この過程において、プロジェクトに対する期待や評価に対する自己認識も考察されています。エピソードの中で、彼女は「何者」かになることへの執着と、今を生きることの重要性について考えています。様々な経験や選択が幸福に繋がる可能性を探る中で、未来に縛られることなく自分を受け入れる姿勢が重要であると語られています。

みゆちゃんの悩み
おはようございます、りゅうちゃんです。
今日はですね、久しぶりにゲストと対話したので、そちらをお届けしたいなと思います。
来ていただいたのはみゆちゃんです。
僕今ここ麦町に住んでるんですけれども、その麦町出身の女の子ですね。
BGMも聴きながら山で収録してるんで、
BGMにも聴きながら最後まで聴いていただけたらなと思います。
中身はですね、結構お互いの長い面というか、セギュララに語っておりますので、
ぜひぜひその辺も楽しんでいただけたらなと思います。
では、どうぞ。
もうこれでいつでも。
はい。
私からの振りで入って大丈夫なの?
はい。みゆちゃんが思っていることをまず話しくれたら嬉しいです。
OKです。
まず思っていることが、自分は何者にもなれないみたいなことの悩みを多分ずっと抱えてて、
で、かつ今年というか今月の末で私が29歳になるけれども、この29歳になるっていうのがさらにそれに拍車をかけている。
もうちょっとで30や、何もできてない、やばいみたいな感覚が、
すごい自分をがんじがらみにしてたりとか、なんかあんまり良くない感情として、
はびこっている感じがするなっていうのが最近の悩み事で、
そこについていろいろなんでこんなことを考えるんだろうなとか、考えないようにしたいなということはこれまでもたびたび思っていることで、
じゃあ考えないためには例えば今に集中しましょうみたいな方法論とかがすごい出てきて、
それは自己肯定感を上げるために今に集中しましょう、マインドフルネスの考え方ですっていうのは、
すごい理解ができるというか、それもすごく大事で、瞑想も良いものやなって思ってるし、
習慣にはしやすいな、それによって満たされる自分もいるなみたいなのは感じてはいる。
けれどもそれをやってもなんかたびたび出てくるこの何もできてないみたいな感情は、
すごいちょっと付き合い切れないなってところがあって、悩んでます。
社会人としての苦悩
なるほど。いつからとかあるんですか?
いつからなんでしょうね。
いつからなんやろう。社会人になってからかな?
僕もめっちゃあって、それが何者でもない感。
なんかしなあかんけど、焦り?焦燥感が常にあって、
僕そのほんまにここ1ヶ月2ヶ月くらいそうなんですけど、
本読んでてもそれに集中できないというか、読みたい本のはずなのに、
読みたい本のはずなのに、他に頭がいっちゃうみたいなのがめっちゃあって。
そうなん?意外。
そうなんですよ。なんか無理くり読んでるみたいな。
無理矢理ねじ込んでるみたいな時もあるんですよね。
それは何かって言ったら、今本を読んでていいのかと。
他にもやることあるんじゃないかなとか。
みたいなことを思ってて、すごく集中できない。
こうやって誰かと話す時も、やっぱり作業を進めるのって、
結局一人の時間とか自分の時間の時に仕事なり作業なり将来のことなりを進めるわけで、
こうやって話してる時さえもそこに集中できなかったりとかする時があって、
それって結局本末転倒の日も頭ではすごくわかるというか、そこですよね。
そう。なんかめっちゃとらわれる時あるよね。
なんか、これすごい波があるような気もしてて、自分の状態によって。
そういうタイミングの時と、これから逃れられましたみたいな感情になる時とか、私の場合はある。
多分それは自分のやるべきことができてる時なのかできてない時なのかが結構関係してきてるような気もする。
余裕の有無みたいな。
りゅうじくんの今の状態は?
一周回って、今やることをやるしかないなぁみたいなのは思ってはいます。
でもそれはなんか、頭ではわかってるって感じですね。
常に。
1個思ってるのは最近の、やっぱりその、みーちゃんもさっき言ってた通り、社会人になってからそれがあるなぁみたいなのは言うじゃないですか。
僕もそうやなと思うんですよ。
何かって言ったら、資本主義とか経済合理性を求めてるんですよね。
その土台の上で考えちゃうというか。
これがお金になるかどうかとか、これが将来に繋がるかどうかをフィルターに1回通して、何かやりたいことなり、今やろうとしてることを考えてるんじゃないかなと思って。
自分の生きていくことと関係があることだからって感じ?
そうですね。好きって言っても、一旦その経済合理性の土台の上で好きがあるかないかを判断しちゃうみたいなのがあるかなと思って。
そのみーちゃんの記事を一瞬読ませてもらった時にも、成果物とかみたいなのって、おそらくその成果物が出て相手に渡るとか自分に戻ってくるとかがあると思うんですよね。
それを求めてるってことは、この先のお金になるとか、誰かのためになるとかを考えてしまって。
好きも、ほんまに内発的な好きじゃなくて、結局外発的な好きになっちゃってるみたいなのがあるんじゃないかなとは思ってて。
そしてその好きの正体もさ、結構ややこしいなと思っていろいろ考えると、結局その自分の好きっていう感情って、もう外部の何かの事象によって自分が反応して好きが生まれてるから、
自分の中から湧き上がることはないんじゃないかって言ってる哲学者が結構多い。
でもその中で意思があるかどうかみたいな話をするときに、意思がある派と意思がない派がいてて、意思がない派の方の理論の方が、あ、なるほどなって腹に落ちるのだけれども、
でもそれでも意思はあるよねって言ってるのが、この私が今リュージックに読んでもらった記事の中で書いてたハンナ・アレントがそうやって言ってる。
けれども、好きでさえも結構周りに左右されることがあるんだったら、結局社会活動をしている限りというか、自分が家にこもって自給自足して何かをしない限りは、
もうそれに影響され続けるというか、それが人間なんやなぁと思うんやけど、
なんかその社会人になってからそうなってるなって思うことの一つに、お金の話が絡んでくるっていうのは、リュージックが今言ってくれた通りやっぱりあるだろうなっていうのは思って、
好きと自己表現の探求
で、そのお金の話と合わせて結局、これで役に立つの話がまた出てくるんじゃない?もしかして。
確かに確かに。昔そこ絡めて考えてますね。
そうやんね。なんか役に立つからお金が発生する。で、自分の好きが役に立つ状態になったらいいけれども、役に立つことに時間がかかったりとか、
なんか、まあ役に立たないこととかもさ、もしかしたらあるかもしれなくて、役に立つボリュームとかもあるだろうし、
それによって自己肯定感が左右されてる可能性がすごい高いなと改めて思って、
ボリュームと、あとはまあ、そのそれによって得る自分の報酬みたいなこととかに左右されてる可能性もあるなぁ。
でも一方でなんか純粋な好きを貫ける芯もあるなと思って、それはその、そういう社会に対して役に立つ状態の仕事と役に立たない、
もう自分が中に閉じこもってできることとの分離とかも、まあしようと思ったらできるなぁみたいな。
で、でもそれって、なんか長くなるけど、持続性が結局担保されない好きでもあるんじゃないかなと思って、
まあ、なんだろうな、私がすごいマニアックなお茶を作ったとして、それがいろんな人が、
いやもうこんなのいらんみたいな、苦すぎ!みたいな人がアタックするやん。
で、私はでもその苦いのが好きなんやけど、みたいな、たぶん自分のエゴで、すごい自分に閉じた創作なんやけど、
でもそう、自分の中に閉じた創作って結局、自分が興味・関心を失いやすいものでもあるなと思って。
他のアテンドがなかったら、なんか。
他からのフィードバックというか、反応とか。
そうそうそうそう。なんか、そう、反応がなかったら、わからん。
いや、どうかな。それでも好きなものはできるかな。わからんけど、なんか持続性はない気がする。
そこにお金もかかったりとか、時間もかかるだろうし、とかはあるかなって思ったりはするな。
今話聞いてて、おそらくたぶん、みゆちゃんはみゆちゃんなりの、僕は僕なりの好きだったりとか、
好きを出した先の、なんかこう、それこそ反応が欲しいとかもそうだし、も含めて好きとか、
出すことが好きだけでいいのかとか、その辺の、なんだろうな、人によって、
どこまでを好きと呼んでるのかが、たぶん違うんだろうなって思ったのが一つと、
いい気付き。
と、なんだっけ、持続性があるのかないのかの話は、
だからちょっとポッドキャストしてるんかなとも思ってて、僕は。
マジで何になるかわかんないんですよ、これが。
ポッドキャストが?
ポッドキャスト自体が、僕が一人で喋ってること自体が、好きかって言われたら好きですけどみたいな。
ずっとやってますけどみたいな。
けどなんか別に目標があるわけでもなく、反応もあるっちゃあるけど、
でもらえたときすごく嬉しいけど、ないことの方が多いというか、
ない日常がほぼなわけで、けどやり続けてるところに、
これなんか僕の中でも謎なんですよ。
ほー、面白い。
最初は友達に誘われたりとか、もっと聞いて聞いてってなってやったんですけど、
それが週1配信だったり週2くらいの配信があって、週間化になったりとか、
出すことが自分のルーティンに入っちゃってるとか、
それが好きかって言われたら、好きやけどみたいな。
やらないことのダメージの方がでかいからなのかな。
週間化してるってこと。
でもね、もうやめてもいいかみたいな思うんですよ。
そうなん?やめんといてや。
毎週毎週、今週くらいいっかみたいな思うんですよ。
結構ギリギリに撮ってるんですよ。日曜日に撮ったりとかもする日があって、
今週さすがに無理やなみたいな時も一応、
日曜日にそうなるなってなったら土曜日に撮ったりとかで調整したりとかするんですけど、
この調整するのとか何?とか思うんですよ。
誰からの、今みゆちゃんから続けてよって言ってくださったんですけど、
それがほぼないわけで、でもそれをやり続けてるっていうのは、
好きとかの次元でもない気もするというか。
それって何に分類されるんだろうね。
分類不能なんやけど、今のところ。
なんだろう。でも歯磨きとかって近いのかな?
うーん、そう。
歯磨きとかってあれ、磨かんかったら気持ち悪いし虫歯になるし、みたいな。
やらんかったことによる悪い未来が想像しやすいというか。
りゅうじくんの場合も、なんかもう200、あれ?100?
130ぐらい。
もう続けてて、続けてる財産。
これなんかあるよね。
あるか。
なんか続けてきたことを失うことの数値化みたいなのがあるよね。
それないんすよ、僕たぶん。
そうなの?
別にやめてもいけるんですよ。
いいやけど続けてる。
なんでやろね。
これはちょっと面白いなと思いながら僕も続けてるんですけど。
面白い。
なんか、じゃあ、今なんか私の中でその自己肯定感に紐付くものが
意気と使命みたいな話をあげてるけど、
りゅうじくん、そのポップキャストはちょっと第三なる何かが。
好きっちゃ好きですよみたいな感じですけどね。
それで言うと、その2つで分けるのであれば。
感情としては何に結びついてんの?この行動って。
感情?思考じゃなくて感情としてについてるか。
感情か。
まあでも、そうやな。
100回とか100なんかやった上で、
一人ごとでも話すことで、
発散されてる感じはあるというか、整理されてる感じはあるっていうのがあるというか。
それで言うと、もったいないみたいなのがやっぱりありますね。
僕の思ってることとか考えてることをそのままプルーしちゃってるとか、
流さない、誰にも聞かれないみたいな。
データに残らないみたいなのが、もったいないなみたいなのは多分ちょっとありますね。
それで言うと、使命になる感じですね。
アーカイブしていくことによって、
誰かに時間をかけても届くんじゃないかとか、
自分の中に残されていくんじゃないかとか、
そういう感覚ってことか。
公開日記みたいなのもあるかもね。
確かに。
りゅうじくんが前ラジオの中で、
この時自分はこう思ってたんやなみたいなことが見返せる良さがあるみたいな。
めっちゃ良いと思って。
それは、私もちょっとラジオやってみたいかなっていう気持ちになって、
絶対始めてないけど、
そういう感覚にもなったの。
公開はできないけど、音声日記はたまにやってて、
それはちゃんとやろうって思った。
残すことの大理想。
そうですね。
思考って残っていかんこともあるよね。
そうですね。全然ありますね。
去年とか一昨年とかできてたこととか考えてたけど、
自己肯定感と認識
全然考えれてないなみたいなのがめっちゃある。
去年とか一昨年の方が考えれてたってこと?
ものによっては。
ほう。
そうなん?
積み上がってるんか、別で積み上げちゃってるんかわかんないなみたいなところは。
それは、わかったから考えれてないみたいな作用か?
どうだろう。
そうか、一瞬考えきってないけど、
考えきってないけど、一回考えたから次行こうかみたいなんで忘れてるかもしれないしね。
去年聞いてたポッドキャストとか去年の日記とかで書いてることが、
確かに大事やなみたいな。
忘れてたみたいなのがあったりとかするしね。
それは確かにそういうことあるかもな。
昔の自分、いいこと考えてないみたいな。
そうそうそうそう。
めっちゃいい奴やみたいな。
そうそう。
なんかさ、この話の派生で言うと、
結局自分が考えたこととか作ってることとかって、
目に見えて残ってる形じゃないと、
自分が考えたとか思ったとかやったみたいなのって、
実感しづらいよなってすごい思って、
この記事の中でも書いてたけど、
それがなんか作ったっていうことでまず満足できるのって、
結局自分の中で忘れ去ってる状態じゃなくて、
何かものとして見返せる状態にあることが、
割とその自己肯定感とか、
何者かからの解放においては大事なんじゃないかなっていう、
仮説があるかも。
何者かになるときにやっぱり自分の認めた、
自分の自己意識と、やっぱり他者からの認められたみたいなのがあって、
余計に自分の自主になって、
何者かにはなれそうだなと思いますね。
何者かになる感情
そう、なんか、
ぎゅうじくん改めて何者の話に戻るんやけど、
何者についてさ、
どう感じてるかとか聞きたい。
何者かになりたいって、
りゅうじくんも思うっていうのがめっちゃ意外やった。
いや、こちらこそですよ。
しかもでも、日によるって感じですね。
何者かに、
何者かにならなって思ってやる人、
いや何者かにはなれないなって思うんですよ。
だから、
何者かにならなって思ってやる人、
いや何者かにはなれないなって思ってやる人、
ありますね。
何も思わん日っていうのもある?
ありますあります。
どういうシーンで何者かになるっていうのは出てくるんだろうか。
何者かになりたいときですよね。
でもそれはやっぱりさっき言ったみたいに、
他者から認められたりとか、
他者からも褒められたりとか、
相手に伝えて、
それを良いフィードバック、悪くても良いフィードバック欲しいときに、
何者かにならなあかんなって思って、
なんか進めちゃいますね。
何者かになるがまたどういう状態なのかもさ、
もしかしたら人によって違うかもしれないなとか思って、
あとは何者かになぜなりたいのかみたいな、
何者かにならなきゃいけない理由みたいなのもさ、
違うかもなあと思って、
私の場合は多分、
すごい自分の肯定とか、
やっぱり自分の存在意義を自分で感じたいとか、
死ぬ時に死に方したいなあみたいなところとかも含めて、
多分そう思ってるんだろうなと思うんですよね。
広いっすね。
そう、結構、
広いっすね。
でも、根本的には自己肯定感だと思う。
広いっすね。
そうやんね。
時間感覚も広いし、
感情としても広めかもね。
存在意義と肯定感、
まあでも、
繋がってはいる、私の中では。
僕の何者かの具体的なとかで言えば、
例えばポッドキャストやったら、
他の、例えば、
大手じゃないけど、
ポッドキャストを、
ポッドキャスターたちを雇ってる会社から依頼が来るとか、
が具体的なものであったりとか、
なるほどね。
叱咤して、
知らん人から依頼が来るとか、
そこから話が広がって、
徳島じゃないところで、
ワークショップ開くとか、
閲覧会するとか、
みたいなのが僕にとっての具体的な何者なんですよ。
なるほどね。
そうなった時に、
逆さましなあかんなってなるじゃないですか。
仮にポッドキャスターやとして、
企業に案件がもらえるっていう、
じゃあそのために何しなあかんかなって考えるときに、
何者かになろうとするってなるんですよ。
好きなこととの関係性
意外。
そうなん?
そこで僕になるんですよね。
なんか違ってる、たぶん。
脳の構造が。
面白い。
もうちょっとおしゃべり。
僕そこで、
就の時も、
誰かから依頼来るために、
エテネス頑張るかってなるじゃないですか。
じゃあどうやったら、
どの写真の撮り方とか、
どういう文章がいいんだろうみたいな、
考えたりとか調べたりするじゃないですか。
何者かになろうとするってなるんですよ。
これって、
さっき言ってた、
自分の好きから出てないなあみたいな時に、
うわーってくるんですよ。
うわーってなって、
うわーっていうのは、
外発適同期で動いてるわみたいな。
そうなったら、
ちょっと僕悩むんですよ。
周りに地球が動かされてるなあとか、
それこそ、
うまくそれこそ、
広告売ったりとか、
文章作っている人に依頼するとか、
その人のことをパクるとかで、
うまく乗り越えれる、
乗り越えれそうやなあっていう気持ちもあるし、
ちょっと嘘つけば、
うまいことトントントンって行きそうやなあ、
みたいなことを思うんですよ。
そうなった時に、
それこそ余計に外発的同期づけで、
自分の自己満足を、
拍手をしてるやんみたいになって、
ガガガガンみたいになるんですよ。
なるほどね。
でも、
やっぱり何者かになろうと思って、
ポッドキャストを始めたりとか、
刺繍を始めたりとかした時に、
でもそこ目指してたよなあみたいな、
っていう矛盾も起こるんですよね。
ポッドキャストを始める、
理由の一つが、
ポッドキャスターになるためなのか、
何者かになるために、
ポッドキャストを始めたのか、
その順番はどういう順番?
やろうと思ってやってるのは、
前提というか、
誘われたからやろう、
ぐらいのテンションです。
派生して、
副次的に、
そういう話が来るかもなあみたいな、
いろいろ想像するじゃないですか。
友達とポッドキャストを撮れるかもなあも、
ポッドキャストで知り合ったポッドキャスターと、
喋れるかもなあとか、
その辺のポツポツした、
夢の中に、
企業とか、
ポッドキャストの人から、
話が来るかもなあ、
みたいなのがあって。
なるほどね。
じゃあ、ポッドキャストをやってる中で、
出てきた何者かになるかもなあ、
という期待とかってこと?
そうです。
めっちゃ今思って、
よくそうですわ。
ポッドキャストをやってること自体は、
何者かになるための手段ではなくて、
むしろポッドキャストをやってる中で、
生まれてきた、
こうなるかもなあ、
という期待が何者かになりたい、
という感情ってこと?
そうですね。
今言ってて。
え?
そうなん?
なんかちょっと話が、
変わってくるなあ。
僕だから、
そうなんや。
でもそうですね。
思春期もポッドキャストも、
なんかこうありたいから、
逆算して今やってるんじゃなくて、
やろうみたいな。
やろう。
始まって、
始めてみたら、
いろいろ想像するじゃないですか。
はい。
の、
出てきた、
うちの一つの何者か。
りゅうじくんが、
私のそのあれ、
何者かの正体が広いって言ってたわけが、
よく分かった。
ああ、そうですそうです。
だから広いなあと思って。
それは余計に苦しいなあ、
みたいなのを感じますか?
そうそうそう。
僕の苦しさより大きい?
うん。
なんか多分ね、
自己肯定感に紐づいてるっていうことが、
結構苦しさの理由になってそうだなあと思って。
りゅうじくんの場合は多分、
物事をやる中で、
こうなるかもなっていう期待が生まれて、
その期待を叶えるにあたっての、
何者かになりたいっていう感情なのかもなあと思うけど、
私の場合はもうちょっと、
なんか、
うーん、
広いというか、
て、
底面ぐらいにある、
欲。
へー。
なんか、
底面というか、
はびこってそう。
土台じゃないけど。
あ、土台。
うん。
なんだろうな。
でもどうなんだろう。
構想は一緒なのかなあ。
みゆちゃんの何者をちょっと深掘ってください。
いやー、
え、でもまず、
その自己肯定感にすごい紐づいてるっていうのは、
間違いがないなあと思って。
自己肯定感に紐づくってどういうことですか。
なんかね、
自分、
できてないなあって思うときに、
何者かに、
ならなきゃいけないのに、
慣れてないっていう感情で、
あー、そういうことか。
出てきてるんやけど、
でもこれが、
なんかほんまにそう思って出てきてるかは、
ちょっと謎やなっていうのが、
そのいろいろ深掘ってる中で思ってて、
例えばその、
不特定多数の人たちに評価を得たいと思っているかっていうと、
あんま思ってないなあとか、
例えば、
うーん、
なんだろうなあ。
好きなことで言うと、
最近お茶を作るのが好きやけど、
じゃあお茶をもう、
日本中の万人に飲んでもらいたいとか、
評価されたいとかは、
あんまり多分思ってなくて、
かつその大量生産して、
たくさんの人に買ってもらおうとも思ってなくって、
じゃあ、
何者って何みたいになるよね。
だから好きなものと何者かが、
あんまりもしかしたら結びついてないのかもしれないけど、
いや、私好きなことは、
ほんまに近くの人たちとシェアできてたら、
わりといいかもしれないなって、
いろいろ考えて気づいて、
で、
例えば、
お茶作りました。
リュウジ君がおいしいって言ってくれました。
めっちゃうれしい。
で、結構満足。
みたいな感じの状態で、
で、もうワンジャンプあるとしたら、
その、
お茶の専門家の人たちが飲んで、
これはこうですねって言ったりとか、
これはもうちょっと、
こいつらこうですねとか言ってもらったら、
えー、うれしい。
もうちょっとこうやってやってみようかな、
みたいな。
とかって、
なったりとかするのはうれしいけど、
ジャンプしても、
わりとそんな感じかもしれないなって思って、
じゃあ、
周りの人とその自分の好きなことがシェアできてたら、
それで満足なのかって思ったら、
なんかまだ何者かがさ、
ちょっと目を出してるというか。
そこがまだ、
あれなんですか、じゃあ。
そう、じゃあ、好きなことと、
あんま関係がなかったんじゃないかなって思ったり。
どういうことですか。
そうそう、何者かになるっていうことと、
好きなことで評価されることっていうのは、
あの、
あんまり、
すごい関係してるなって頭の中で思ってたけど、
関係してないかもしれない。
周囲の評価だけでいいから。
はいはいはい。
で、じゃあ、
何者かっていうのの定義をざっくりと、
その、
多数の人に、
好きなことと課題解決の関係
たくさんいいねって言ってもらえるみたいなことにするとした時に、
それが、
必要なのって、
じゃあ好きなことじゃなくって、
えっと、
自分が今、
解決したい課題とか、
なんか、
例えばそのお茶をやることで、
山の問題を解決しようみたいなことを今、
しようとしてるけれども、
その、
山の問題に対して解決しようとしたら、
好きだけでは終わらせられないみたいな。
一人に飲んでもらったらOKとかじゃなくって、
なんか、
例えば、
山に関心を持ってほしいから、
山の中に生えてるお茶じゃなくても、
いろんなものと関わって生活の中に取り入れる生活をする人たちが、
めっちゃ増えてほしいなとか、
思ったりするんやけど、
そっちの方に関しては。
はいはいはいはい。
それは多分何者かになったりする状態、
例えば何事かを成すみたいなとか、
たくさんの人がその思想に共感してくれるとか、
そういうことがなければ、
課題解決ができないから、
それは必要やなーみたいな。
そっちの方でどちらかというと、
その数の、
ね、
数としての何者かになる必要があるみたいなのを、
思ってんのかもなーみたいな。
じゃあ、
私はその好きなことと、
課題解決を今、
紐づけてるけど、
紐づけてることによって、
実はその好きなことの評価イコール、
課題解決の時の評価みたいな感じになってて、
本当は好きなことでは評価はたくさん必要ないのに、
なんか必要やって思ってしまってるから、
好きなこととが最初すごい結びついてて、
みたいな。
なるほどー。
なるほどな。
ちょっと分かってきましたね。
そうそう、分かってきた。
それで希望の話が出てくるんやっていうのは。
そう。
お茶はお茶で、
山は山で、
やっぱりちょっと話が違うかったっすよね。
話が違かったね、やっぱり。
なんか結構無理やり結びつけようとしてるところとかがあったりとか、
山のことを解決しようとしてる中でお茶に出会ったから、
なんか、
ゆうじくんが、
刺繍やろうとか、
ラジオやろうみたいな感覚で、
お茶もやってみようっていう、
ラフに始めたけれども、
わざわざ結びつけなくてもいいかもしれないけど、
結びつけていいことの一つは、
課題解決ってめっちゃ長期的で、
結構向き合うのもしんどいから、
その中に好きなことがあったら、
ハッピーやなーみたいな。
長く続ける理由にはなるだろうなって思う一方で、
好きがそれに絡み取られていくのも、
ちょっとなー、
悩ましいって思ってるですね。
お茶の話ってあんまりこう、
何者があんま出てこなかった気はするけど、
その課題解決が入ってくると、
自己評価と他者との比較
山の話になると何者かが出てきますね。
出てくるよね。
で、その、
課題解決の中にお茶を位置づけてると、
お茶の話をするときにも何者かが多分出てくるよね。
だから、
なんか一番の理想状態は多分、
ほんまに、
お茶と課題解決がどんな風に結びつくかっていうのを、
一旦整理して、
仕組みとして自分の中に思い描いておいて、
その結果としては、
課題解決される状態にしておいた上で、
好きなことに没頭するっていうのが、
一番の解決方法なんだと思うけど、
没頭するやり方としては。
でも、それで例えば、
お茶に良い反応が得られなかったときに、
つらいだよね。
ないっすね。
そもそも没頭できない気もするし、
今今。
確かに、
りゅうじくんの一番最初の本読めない問題とかね。
になる気が、
僕はしますね。
それはあるなぁ。
課題解決の方に気になっちゃって。
いやぁ、ややこしい話やなこれ。
ほんまにややこしいというか、
結論が割と出てきづらい話。
だなぁ。
欲張りなんかね、これは。
まぁ、ある側面から見たら欲張りやけど、
別の側面から見たら、
やっぱり褒められるものでもあるんちゃうか。
好きなものがあっていいねとかもそうやし、
課題解決を見てていいな、
いいなってすごいねって言われるかもしれないし、
見方によると思いますけど。
そういう褒めが受け取りきれない自分もね、
歪んでるなってすごい思ってる。
そうなんや。
嬉しいけど?みたいな。
好きなことできてるのは、
ほんまにありがとうございますみたいな。
あらゆることにありがとうございますって思ってて。
なんか頑張ってるねとか、
すごいねみたいなのを言われても
全く受け取りきれないというか、
それは嬉しいとかはあんまりなく、
いや、ほんまになんもできてなくて
自分最悪なんですみたいな感情がむしろ、
芽生えてくるような感じ。
そうなんや。
そうなんですね。
ハッピーでやってるんやけど。
そういう面が割とある。
それなんで受け取れないんですか?
できてないと思ってるからじゃないかな。
自分がまだできてないと。
いろんなことに対していろんなことができてなくて、
すごいとか言ってもらえるようなもんじゃないっすみたいな感じで、
肩にはめてるからだと思う。
いい姿勢だと思いますけどね。
どっちもいい姿勢だと思いますけどね。
何者の話って言ったら、
それ言われて嬉しくなるがいいですよね。
うん。ほんまにそうやと思う。
でも言われてるじゃないですか今。
でも自分を下に見てるというか、
まだまだなんですみたいな謙虚に言ってるじゃないですか。
何者かになれるチャンスくれてるのに自分で落としてるじゃないですか。
それはストイックだったりとか謙虚さだったりとかがみゆちゃん持ってるから、
まだまだ私できるので待っててくださいみたいな気持ちもあるかもしれないし、
逆に何者かに慣れてたとしたらですよ。
言われてありがとうございますみたいな心から言える。
情報いいってこと?
情報よくないですか?だって。
ほんまや。
どちらにしろ。
ほんまやね。
それはほんまに見方次第というか。
え、いいね。
謙虚だったりとかストイックさがやっぱりまだあるし、
まだできてないところが言われてるけど、
言ってもらってるけど、
まだ自分の中には満足してやりきれてないところがあるから、
もう少し、もう少しってなってるんかなって思った。
受け取る練習をしたら受け取っていけるもんな。
どうなんやろって思うけど。
なんかでも多分もう一個の問題として、
自分の好きとか使命とか一旦置いといて、
30歳になったらこんな人になれるやろみたいな。
例えばこれまで関わってきた人間、
20歳の時に30歳だった人はこんなにすごい素敵な人だったなーとか思ったりとかした時に、
自分がそれに慣れてなかったらちょっとすごい辛い気持ちになったりするんやけど。
そういう他者と自分を比べて、
自分はできてないなーみたいな。
何歳にもなるのにまだこんな感じなん?みたいな。
なんか年齢で理想像を思い描いて、
うまいこと、なんか多分、
自己評価もできてないし、
他者との比較をしてしまうみたいな問題がね、
またデッドで存在しますね。
焦りと今を生きること
ルージュ君の何者かの話はそういう話ではなさそうやね。
僕はもうそこは年齢のやつは切り捨てた。
切り捨てないやん。
どうやって切り捨てたん?
年齢は関係ないなーっていうのが思ったというか。
だって60になっても70になっても新しいこと始めてる人多いじゃないですか。
そういうことをポッドキャストで聞いてたら、
40で結婚しました、子供生まれましたっていう人がおるし、
まだ全然いけるなーみたいな。
いずれになっても最初から切れる?こっちの気持ち次第で。
こっちの気持ちがあればです。
だから年齢でリミットリミットを考えるんじゃなくて、
こっちの気持ちにリミットがあるかないかで。
そこに行ったとき、僕が仮に30になったとして、
23、24くらいの僕が30のときにこうなるだろうなって思ってただろうなってことを
ふと30の自分が思い出したときに、
ほんまにそれをやりたかったらそれをやろうと。
こっちのエネルギーがあればね。
やったらいいなと思うし、
それが別に今はそっちじゃなくて、
30になったからこそのやりたいことがあったりとか考えがあって、
できないこともあるし、できることがあるみたいなことを思うんで。
確かに。
30とか40とか切り捨てましたね。
そっか。今自分ができてないってことをやらなくていいって
判断を自分がしてるんやなっていう割り切りってことやね。
それもある。
めっちゃクリアやな。確かにそうかも。
言い訳でもありますけどね。
言い訳でもあるか。
でも全部が全部できるわけじゃないし、
確かにその中でやりたいことやれてるって思うんだったら、
やれてないことに目を向ける必要もないよなっていう話ではある。
ほう、通りです。
いい話を聞いた、それは。
いや、わかんないよって。
そんなことできてないんですけどね。
なんか死ぬかもなって焦りが結構ずっとあるな。
今死んだら嫌ですか?
いや、どうかな。
そう言われると絶対いいかも。
全然いいかも。
ほなもう、死ぬのそれは。
そうか。
そうね、今死んでもいいっていう感覚は1年前ぐらいから結構芽生えてきてて、
それはありがたいことというか好きなことができてるからのようなって思うけど、
なんかだいたい死ぬ年齢ってさ、
明日死ぬかもしれんし今日死ぬかもしれんけど、
わかるけど、
親の年齢とか、おじいちゃんおばあちゃんが亡くなった年齢とか思ったら、
6、7歳まで生きれるかなどうかなみたいな感じだったんだけど、
そこまでに自分がやりたいって思ってることを全部やりきれるかってちょっと、
どうかなーとか、
焦りはすごい。
でも前よりかは亡くなってきそうな気もするけど。
あるなー。
そうないよ。
ある?
ないです。
え、そうなの?
だってね、
本好きですよね。
読むのも好きですよね。
全部の本読めないじゃないですか。
確かに。
ないものねだりってこと?
僕も1日1冊読めたらいい方ですよ。
ほんまに3日かけて1冊ぐらいはマックスのペース。
でもそれって本に限らずかもしれないけど、
本も早く読めばいいってわけでもないじゃないですか。
そうね、確かに。
ゆっくり1行ずつこの一文を心を込めて読んだ時だったりとか、
山で読んだ時とかの感じ方とかに
意味というか感動があるじゃないですか。
拍手。
なるほどね。
めちゃくちゃ素敵な比喩?
比喩というか。
え、いいね。
僕も本棚とか本に囲まれて暮らして1つずつ読んでいきたいとは思うんですけど、
それ叶わないだろうし、
どの本を選んでもその時に最適だろうなって思うし、
どこの場所でどのタイミングで読むかによっても本の感じ方も違うだろうし、
やりたいこともそれに合わせたとしたら、
やりたいことも無数にあるじゃないですか。
それを今手に取ったものがその時の最善だろうと思うし、
それを取れなかった時はそこに至らなかったかもしれないし、
取らない選択をしたのかもしれないし、
なったら今手に取っているものをどう読むか。
はー。
だからそこまで僕はそこに対しての焦りというか不安みたいな。
やっぱ結論的には今をどれくらい味わい尽くせるかってことに尽きるってことなのかな。
そう思うんですけど、僕はそう思いたいって思うんですよ。
すごい素敵な話ですね。
本当ですか。
今を生きる重要性
今ここに集中するっていうことの一番腑に落ちた話だった。
嬉しいな。
なるほどね。
選択してたりとか、選択してなくても自分の目の前に出てくるものとかを、
結局自分がどう受け取ったりとか、どんなシーンでどうするかっていうのは自分が今選択できることであり、
それはね、確かに過去の自分も未来の自分もできないもんね、そんなことは。
素晴らしい話だな。
ありがとうございます。
だってなんかもうそれで結構いろんなことが説明つくことない。
本当ですか。
なんかその好きな話、好きな話はどちらかというとすごい課題には私の中ではなってないことが多かったけど、
死命の話とかに関しては、もしかしたら本当に死ぬまでにこれやらなあかんなって思っててもできないかもしれない。
できない可能性が高いと思ってた方がいいみたいな話なのかなって思ってて、
じゃあ今目の前でできることに集中をしたりとか、それがどのぐらい効果最大化できるかとか、
自分がそれに対して楽しいかとか、それによって誰かが喜んでくれるかとかっていうことに意識を向けた方が間違いなくいいよねっていう思考になるもんね、その話をしたら。
何者かになるみたいなその状態の変容を願うよりかは、そっちの方が実は幸せなんちゃうっていうことの勧めをもらったのではないかなと理解しました。
何者かになることの探求
ありがとうございます。
なるほどね。
いやあ、そうか。
いい話だ。
そんなに?
いい話な気がする、すごい。
ありがとうございます。
これみんなこう思いながら言ったらいいと思う。
全部の本読めないから。
この一冊の本はどういうシーンでどう読むかとか、どう自分が噛み砕けるかとか、どんな感情に自分がなってるかっていうことを観察できるかとか。
いろんな読み方がありますもんね。
別に早く読んでもいいですもんね。
本によるよね、そして。
本によるし。
本によるし、自分のその状態にもよるよね。
何者か問題が割とそれで解決しそうな気もするけど、私の中では。
どう思いますか?
整理してみて。
今ちょっとその話に感動してて、見えてないことがたくさんあるかもしれない。
どうかなって思ってるけど。
僕はこう言いましたけど、それこそ本読んでるときに他のこと集中しちゃうみたいなのを最初に言ってたんで。
やっぱり言ってることと、やっぱり頭で考えてることと、やってることの乖離は全然あるんですよね。
そこは悩ましいというかね、ところであるんですけど。
でも逆に僕弱点やと思ってて。この思考もそうやし、今に集中しすぎるところが。
そうなん?
長期視線が見れないっていう。
だから僕そのポッドキャスターのある一つの夢だったりとか、
刺繍の一つの夢みたいなことから逆算できなかったりするんですよ。
長期で見れないから。
もうなんか嫌になっちゃって。
他の人のためにやらなあかんねんけどみたいな。
いろいろ考えちゃって。
いろいろ考えちゃっても生活進まなくなっちゃうんで。
だから言い訳でもあるんですよ、僕の中ではそれは。今に集中することが。
それは言い訳でもありつつ、でもリュウジ君の中で納得してることでもあるんで。
諦めですね。他の本読めないっていう諦め。
ああ、そういうことか。
今しかできないよなっていう。
それを言い聞かせて本読んだりとか、今やってることやろうとか。
みたいな感覚ね。
なるほどね。
逆算好きなんやけど、私は結構。
憧れますよ。
計画を立てるけど、結局そんなに思い通りにいかんやん。
結局、計画頼れってさ、言葉があるよね。
だいたいそうなんじゃないかなって思うぐらい、
あんまり最初に立てた戦略とか計画とかって、
あることによって報道ができるからそれはいいけど、
思うんやけど、でも未来に点を打つことによって、
今の感情を見失うみたいなのがあったら本末転倒やもんね。
未来この本読めると思うからちょっと置いとこみたいな。
嫌やん。
なんかそれが。
とかもあるよね。
良かったです。
いい気づきだったな。これ書けるかもな最終。
良かった。
ちょっと宣伝してください。
宣伝?この記事について。
記事とラジオもやってます。
確かに。
ぜひぜひ。
TWO株式会社っていう会社で今、
TWOのTOWラジオっていうポッドキャストをやっておりまして、
私が今変化ってどうやって起こせるのかっていう構造理論を探求中なんですけど、
それにまつわることをラジオで話したりとか、
あとTWOが運営するウェブメディアセブンティーシリーズで記事を書いたりなどしてます。
で、実はこの何者かの話もその記事の内容をリュージックに相談するっていうことから入った話でもあり、
何者かになることからの解放について探求する記事をもうちょっと多分この話をすることによって出せそうかなって感じです。
良かったら読んでください。
概要欄貼っておきますね。
お願いします。
じゃあそれまでに作らなあかんけど。
あとから張り直せるんで大丈夫です。
はい、頑張ります。
はい、ということでミューちゃんでした。
ミューでした。名前言ってなかった。
言わずに。
はい。
そんな感じで。
そんな感じで。いやーいい回でした。
ありがとう。
ありがとう。
はい、ではでは。
ではでは。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
50:34

コメント

スクロール