1. りゅうちゃんの独り言
  2. #112 (※繊細な内容を含みま..
2025-05-19 35:22

#112 (※繊細な内容を含みます)学問を翻訳する者に

📗『命はだれのものか 増補改訂版』香川千晶

📗『「自己決定権」という罠—ナチスから新型コロナ感染症まで』小松美彦


死生学・生命倫理について/人間についての土台のため/優生思想とは/自己決定と自己決定権/出生前診断の「生む/生まない」の判断が優生的ではないか/フェニルケトン尿症という治せる障害/欠陥を治す者とそうさせる社会


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サマリー

このエピソードでは、大学院での人間学の学びや生命倫理における優生思想と出生前診断について考察されています。特に、自己決定権の概念に焦点が当てられ、倫理的な視点から命の価値や選択の責任が探求されています。また、出生前診断における優生思想の問題や発信者の経験に基づいた障害に対する社会的な考え方についても語られています。さらに、障害を治す治療技術の進歩によって生じる倫理的なジレンマについても触れられています。学問の翻訳を通じて、難解な内容に対するアプローチが論じられており、発信者は効果的に伝えるための工夫や、聞き手の理解を深める努力について考えています。

大学院での学び
瓶に詰めるものを探してます。
りゅうちゃんの独り言
よいしょー、こんにちは、りゅうじでーす。
りゅうちゃんの独り言、今日も聞きに来てくださりありがとうございます。よろしくお願いします。
あのー、こんにちは。今日も喋っていきたいなと思うんですけど、
あの先週、大学院の話をさせてもらったかなと思ってて、
ギリギリ、ちょっと今も進めてるところで、
せっかく詰まってるよ、みたいな話を先週したかなと思うんだけど、
そこまで詰まってるって言うほど詰まってなくて、実は。
よくよくレポート見てみたら、案外、
3冊読まなくてもみたいなものもあったりして、いけそうだなと。
つい先日、昨日ですね、5月16日、今日17日の土曜日の朝8時半なんですけど、
昨日の夕方ちょい前ぐらいにレポート1個目出してみました。
結果が返ってくるのが10日後ぐらいとのことなので、それも追って、
喋っていこうかなと思うんですけど、出しましたよ、レポート。
ちょっとおさらいというか、僕の現状をお伝えしますと、
人間学を大学院で学んでて、それについて通信生で学んでるんで、
スクーリングというか、学校に通ったり通わなかったりみたいなのもあって、
それも選択できて、5教科必修で現在受けてて、
そのうちの1教科だけスクーリングっていう形で、
大学院にそのまま直接行くか、オンラインで授業を受けるみたいなのがあるんですけど、
それ以外の4教科は基本レポートで、
基本というか全部レポートで提出、採点されると評価されるということでやってるんですけれども、
スクーリングのほうは追々、人間月に1回ぐらいなので追々喋っていくとして、
それ以外のレポートですね。
4教科一気にできるわけじゃないんで、1教科ずつやっていってて、
先日、昨日出したレポートが死生学、死ぬに生きるに学ぶというか、
死生学についての1つ目の課題のレポートを出してきました。
そうなんですよ。
生命倫理と優生思想
何かっていうと、生命倫理、生命に関する倫理をどう捉えるかみたいな話を、
教科書なり、参考にしてくれと、レポートの参考文献に入れてほしい文献にはそういう話が載っていて、
生命倫理についての話が載っていて、それについて学んでたんですけど、
先に読んだ本を読みますかね。
まずは武蔵野大学、大学院の教科書と、もう1個が先生が書かれている本で、
香川千明さんという人なんですけど、命は誰のものか造法改定版ですね。
2021年4月23日に出た本ですね。
これが1冊と、もう1冊が、
小松さんという方が書かれている、
自己決定権という罠、ナチスから新型コロナ感染症まで、
2020年の12月25日に出ている本で、この2冊を参考に、それ以外も参考にしつつ、レポートを書いてくださいみたいな課題。
その課題の内容が、優生思想と出生前診断についてあなたの見解を述べなさいという課題でした。
重たいですね、なかなかね。
優生思想とか出生前診断の話の手前の生命倫理みたいなことについて、
順番にしゃべっていこうかなと思うんやけど、
なかなか日頃考えないですよね、生命とか倫理とか、命とかについて。
考えるきっかけがあるとすれば、
誰かこう身近な人が亡くなったりとか、芸能人が亡くなったりとかした時に、ちょっと命について考えてみたりとか、
あとはそうやな、1月17日とか3月11日とか、
そういう震災の日があった日の前日とか、その後の1週間くらいはそういうことについて考えるのかなとは思うんですけども、
なかなか日頃、命とはみたいな、命は誰のものかみたいな話ってなかなか考えないかなと思ってて、
でもそこを僕ちょっと考えておきたいなみたいなことをちょっと前から思ってて、
人間についてとか命とか生きることについて、それこそ死ぬことについてとかを、
嫉妬感と次に生きへんなみたいな感覚が少なからずあって、
そこを抜きにビジネスなり、結婚なり、法律なり、遊ぶなり、
土台がいないのに上に積み重ねているみたいな感覚が無きにしてもあらずで、
その土台を強くしておきたいなと思って、大学院に通おうと思って学部を探したんですけど、
それで一発目、どの授業を受けようと思って資生学にして、
生命倫理の土台の上に手生前診断であったりとか、優生思想というのがあって、
生命倫理って何かって言ったら命に関する是非というかね、倫理って言ったらいいか悪いかじゃないですけど、
善悪とかを考えていくみたいな学問で、有名なのがトロッコ問題とかね、
あなたがトロッコが走っているレバーを操作できるところにたまたま追って、
で、片方の道に行けば5人亡くなって、もう片方の道に行けば1人が亡くなって、
さああなたはどちらのレバーを動かしますかみたいな、そういうトロッコ問題の話があったりするかなと思うんやけど、
トロッコ問題で言えば人数、5人っていう人数が多い方に価値があるのかみたいな、
それを価値として判断してもいいのかどうかみたいなのを考えたりとかね、
答えはないんですけど、でもやっぱり考えるきっかけというか、考えておくことみたいなのは必要なのかなみたいなのを思ってて、
出生前診断と優生思想の話になるんですけど、
優生思想はこの遺伝子を残した方がいいのではないかっていう価値観のもと、
例えば障害者を断種、生殖させないようにしたりだったりとか、
もうちょっと世界的なあれで言うとナチスのホロコースト、ユダヤ人迫害とか黒人差別とかそういうものですよね、
そうじゃない遺伝子とか生命に優劣をつけて、こっちの方が優生だから劣性の遺伝子を残さないようにしておこうということで、
劣性と氾濫した命、遺伝子を抹殺、排除していくみたいなのが優生思想だと思うんですけど、
それが現代にも亡きにしもあらずですよみたいな話が、2冊目に読んだ自己決定権という罠っていう本の中に書いてて、
この本なかなか面白くて、自己決定と自己決定権って違いますよっていう話をまず最初にボーンと出してくれるんですよ。
自己決定っていうのが自分で決めてもいいですよみたいな話じゃないですか。
それを権利、自己決定権っていう権利の名のもとにしちゃうと、あなた決めていいですよって言われてる構図になっちゃいますよね。
そういう自己決定権があるよって言わないと進めないところもあると思うんやけど、
自己決定と自己決定権っていうまずその単語が混同して使われがちだと。
自己決定権っていうのは法律とか制度で定められてる権利のもので、
自己決定っていうのは自分で決定する自分で決めていくっていうことなので、
それはちょっと内発的なのか外発的なのかもそうやし、制度で決められてるのかどうかみたいなのもそうやし、
ちょっと言葉、似てる言葉やけどちょっとニュアンス違うねみたいな意味が違ってくるよねっていう話をまず最初にされてて、
そっからだんだんと論理を展開していくんやけど、
自己決定権っていうのを決めてるってことだから政府、国、世界は。
で、自己決定してくださいねってなるじゃないですか。
で、決定させるというかしてもらうんですよ。
ってなった時に自己決定したからもうあなたの問題、あなたの課題ですよねみたいなそこで課題がプッツンと切られるというか、
あなたが選択したのであればその選択を私たちは尊重しますっていう国家の思想のもと、
自己決定権を行使して始めると。
それが顕著な例なのが出生前診断であったりとか、中絶であったりとか。
出生前診断の影響
他にも妊娠・出産・結婚もそうやし、仕事を決めるっていうこともそうかもしれへんし、
いろんなところで自分で決定するっていう、自分で決断して進めていくっていうのがあって、
で、それを自己決定権っていうのが国家で決められてるがゆえに、
あなたは自分で決定したよね。
じゃあそのままあなたの責任であなたの思いのまま進んでるから、
そこで起こった問題、課題とか、挫折であったりとか失敗かもしれないけど、
そこは自分で決定したものであれば自分で責任を負ってくださいみたいな、
そういう分断じゃないけど、切り離しが行われてる可能性があるということも示唆してると。
なかなか面白いなと思って。
それでその本も結構尖ってるなと思ったんですけど、
人権っていうのも人に権利があるよねっていう話をしてて、人権ですよね。
それはもう権利、その自己決定と自己決定権っていう構図と同じで、
人権っていうものを定めてるから、
あなたは人として生きる権利がある。
じゃあその人として生きる権利って何かみたいな。
って言ったら人間の尊厳、尊厳を守られるみたいなことですと。
じゃあ尊厳って何なのかみたいなことで、
例えばそれで自己決定、自分で決められることだったりとか、
差別されないことだったりとか、自分で決めることだったりとか。
じゃあその尊厳を守るみたいな、
ふわっとしてるじゃないですか、正直。
ふわっとしてそれでちゃんと決め、一応名分化してるけど、
尊厳を守る、人権を擁護する。
でもいろんな解釈ができるから、そこでまた問題が起こったりとかして、
今でも法律の、日本国憲法の解釈の仕方がすごく多様に見られるし、
判断されてるから、それを決めるってことで裁判所があったりとかすると思うんですけど。
生徒とか法律の話になっていくんですけど。
出生前診断の話なんですけど、
出生前診断っていうのは、妊娠して子どもが生まれる前に、
大体高齢出産、35歳以上ぐらいの人に推奨されてる、
推奨もしてないな、希望があれば希望者に伝える、
お医者さんが伝えるみたいなインフルエンザについて、
お医者さんが伝えるみたいなインフォームのコンセプトの義務があるんですけど、
染色体の異常を調べるっていうのが出生前診断で、
昔は結構リスキーだったんですって、
赤ちゃんの周りにある羊水を取って、
その中の養分とかを調べて、検査して、
障害があるかないかみたいなのを調べるのが、
ちょっと一昔前の出生前診断だったんですけど、
最近は血液検査みたいなのができるようになって、
比較的簡単に容易に出生にあたっての、
一部ですけどね、分かる21トリソミとか、
ダウン症とかの障害と言われてるものが判断できる、
検査結果で出てくると。
検査結果もパーセントで出てくるもので、
そこまで正確性があるかと言われたら、
怪しいところではあるらしいんですけどね。
高齢出産、35歳以上の出産になればなるほど、
出生前診断の検査の精度が上がるらしいんですけど、
そうじゃない人、イカとかの人の検査は、
そこまでパーセントが出たとしても、
そうじゃないパターンというのがあるというわけで、
生まれてみないと分からないみたいなところがあるので、
パーセントが高かったところではあるんですけど、
その出生前診断があるが故に、
出生前診断と優生思想
例えば障害を持っているパーセントが高くて、
陽性ですみたいなのが出たときに、
産まないの問題が出てくるかなと思っていて、
産まないの問題が出てきたときに、
もし産まないという選択をした、
もし産むという選択をした、
みたいな選択があるじゃないですか。
それって、もう少し前の話に戻すと、
優勢的な思想なのではないかというのが、
その本の一部書かれているところでもあって、
確かにそうですよね。
ナチスもユダヤ人を迫害するということで、
ホロコーストだったりとか、
毒ガス室に入れたりとかしていたんですけど、
そのもう一個前には、
障害者を優劣な列として、
そういうことを断証していたりとかしていたと。
断証というのは日本にもあったんですよね。
それで第二次世界大戦でナチスがそういうことをしていたということがあったから、
日本も見直してそういう法律はなくしていったし、
障害者自身が立ち上がって法改正だったりとかにやっていたんですけど、
また次に、今2020年、2021年になってきて、
技術が進歩してきたと。
直せる障害、直せない障害があったりとか、
事前に障害が分かるという技術が発達してきたときに、
それでうまいの選択をしてしまうということが、
それはまた優勢的な思想なのではないかというのが問題とされていて、
構図的には一緒なのではないかなと。
ナチスがやっていた、
ナチスだけじゃないんですけど、
全世界でやっていたそういう優勢的な思想の活動、行動、行為が、
今でも水面下に潜んでいるのではないかなというのを、
すごくすごく示唆してくださった一冊で、
医療と社会の倫理
確かになと思って。
僕も大学のときに社会福祉の勉強を、
社会福祉学について学んでいて、
それぞれの福祉、日本の福祉の制度とかの勉強だったりとか、
ホームレスの方々のところに見に行ったりだったりとか、
病院に行って、患者さんとお医者さんとの間をつなぐ、
もしくは専門機関とつなぐ医療ソーシャルワーカーという仕事を見学とか、
実習に行かせてもらったりとかして、
本当はいろんなところに福祉というのが存在しているし、
いろんなところに優勢思想じゃないですけど、
そういう判断とか思想が潜んでいるというのは、
大学のときから学んでいたし、
同じゼミの一人が、
出生前診断について卒論を書いていたので、
それもまた読みたいなと思うんですけど、
卒論を書いていて、
ちょっと僕にとっては、
身近っちゃ身近、身近って言うとあれですけどね、
周りにそういう人はいないので何とも言えないんですけど、
学問的に学んだ身としては身近には感じていて、
今回大学院で学ぶときも、
そこまでハードルを高くせずに学べたし、
そういう話が理解できた。
だけどそこに倫理的にというか、
自分の中で答えを見つけ出すというのは、
なかなか難しいなと思っていて、
でもこれを喋ってみたりとか、
誰かとの話の中に盛り込んでみることで、
また考えるきっかけ、
僕もそうですし、
聞いた人が考えるきっかけになるかもしれないなと思っているのかなと、
というところが難しくて。
出生前診断の話に戻ると、
出生前診断で検査が出て、
障害の確率が高いですみたいな、
産まないみたいな、
それをどう、
僕はそこまで調べき入れていないんですけど、
産む方が多いのかとか産まない方が多いのかみたいな、
そこのあれはまだ調べてないんですけど、
でも自分が、
もし自分が出生前診断するのかどうかから始まって、
してみて、
次また出生前診断の結果がわかって、
産むのか産まないのかを、
嫌往なく選択をせざるを得ないというか、
出生前診断せなかったらそのまま産んでたけど、
出生前診断という情報が入ったことによって、
産むか産まないかの選択があるというのは、
なかなか考えられるというか、
それが政府、
制度的には自己決定権ということで、
産むという選択したよねというか、
出生前診断をするという選択したよねというので、
投げられてるというか、
自分で決定する権利ですよみたいなので、
後押しされてるっていうところもあって、
香川さんのこの教授の命は誰のものかという本の中で、
一つ、
僕が読んでて立ち止まっちゃった話があって、
同じく出生前診断の回の章の中の話なんですけど、
フェニルケトン尿症っていう、
何て言ったらいいんかな、
栄養が取れないというか、
一昔までは治療がわからなかったというか、
全部の病気がそうなんですけど、
発見当時は治療できなかったし、
そのまま障害として育っていった、
もしくは育てられなかった、
生きれなかった人たちがいたんですけどね、
フェニルケトン尿症っていう病気で、障害で。
最近というか、
今ではフェニルケトン尿症は、
生まれた子たち全員にスクリーニングっていうところを検査してます。
スクリーニング。
事前に全体を検査して、
分かったら早期発見したらそのまま治療ができるんですよ。
治せるというか、治るんですよね。
だから治療ができるから、
フェニルケトン尿症になってからの治療する医者がいないんですけど、
逆に早期発見さえすれば、
全員にスクリーニングして事前検査して分かるものなので、
それがはみつかったら治療して治せるんですよね。
そういうのがあるっていうのを知ったときに、
ひと昔前では障害だったものが、
今ではもう障害じゃないというか、
その存在すらも薄れてきてるみたいな話を聞いたときに、
なんかちょっとこうもやもやして、
それは治せるというか、
その本人が自分の生活の質を上げたりとか、
その病に苦しんでるから治したいっていうのであれば、
治すのがいいと思うんですけど、
なんかこう、すごくもやもやしたというか、
治せる障害と治せない障害というかね、
腫症前診断で、例えばダウン症というのが分かって、
分かるだけで治せない、
治すと治せないという言葉も適切かどうか分からないんですけど、
ダウン症というのが分かって、
ダウン症というのが分かって、そのまま生きますよね。
例えばフェニルケトン尿症がフェニルケトン尿症というのが分かって、
治せるんですよ。
でも一昔前は治せなかった、そのまま障害として生きてたと。
ってなったときに、
大前提、みんなが幸福に生き続けられるっていうのが
一番大事なことだと思うんですけど、
すごくこう、もやもやするというか、
治せる障害と治せない障害があって、
治せるものは全部治しておこうみたいな。
自己決定権と社会の影響
治すべきでしょうみたいな。
それこそこう、自己決定権っていうのがあるんやけど、
そういう社会の流れとか風潮とかが、
そういう選択肢しか残さないようにしてることもあるなと。
例えば仮にダウン症が治せる障害になったときに、
治しますかね、
この治すかどうかっていう選択肢さえも
なくなる可能性があるというか。
この現代、今この瞬間に生きてる僕たちは
ダウン症とか他に障害を持っている人がいるっていうことを
少なからず認識しながら生きてるけど、
その先ちょっと技術が進んだ先の未来には
そういうことを思わないまま生きれてしまう社会があって、
それはどうなるかって思考実験的に考えてみると、
みんなが同じような体を持って生きてるというか、
話になってくる。
少し拡大しすぎてはいるんですけど、
自分にある欠陥を直して生きる。
その欠陥と認識させられている自分もおるし、
それが欠陥だと自分の欠損、欠陥、ミスだと思わせる社会があるし、
それを直すことが良しとされて、直さないことが不自然とされて、
それが当たり前だとされて生きている。
欠陥を直して生きる社会にとってはそこまで良くないから、
社会はそれは対応せずに自分個人で対応させて、
社会に対応するような個人を育てる。
これで大きく見ると、それもまた優勢思想的であり、
確率的というか、均一的な社会になりかねない。
すごく飛躍して言ってはいるんですけどね。
なりかねないかなと思っていて。
そんなことをレポートに書きましたね。
難しいですね。
僕も、例えば僕の欠陥というか、
例えば僕に何か身体的な障害、内的な障害でもいいですけど、
あったとして、多分あるかもしれないし、
こういう変なことを考えるとかもそうですし、
今自分はそれを含めて自分だと思っているし、
それを含めて生きているからこそここまで生きてこれたと思っているのに、
それを直せるよって言われて、
あ、直さなあかんなよって思うかもしれないし、
直せるよって言われて、
いやでも今までこれで生きてきたのになあって思うかもしれないし、
直せるよって言われて、
まだ直しとこうかって思うかもしれないし、
それはどうなるか分からないんですけど、
でも事実としてこれまで僕の中にそういう欠陥があった上で生きてきているのに、
それを直すみたいな、直す直さんみたいな話になったときに、
なんか直さなあかんかったんや、人と違うのはあかんかったんや、
これってみんな持ってないんや、みたいなことになってて、
みんな同じ体、同じ考え方、同じ思想になる。
そこまではいかないとしても、
何か今感じているこの変なモヤモヤさえもない社会、世界があるかもしれないと思うと、
なんかちょっとモヤモヤするし、
まあでもそれが幸せにつながるのであればいいのかもしれないですけどね。
まあでもこうなんかさ、
自己決定権の話じゃないけど、
自分で決定したよねって言っといて、
なんか社会はそれに対応せんだったりとか、
見てみぬふりをしているだったりとか、
あえてメディアでは取り上げないだったりとか、
なんかそれをSNSで載せないとか、
なんかそういうことにもなってくるじゃないですか。
良い面だけ、上辺だけの面だけをメディアが取り上げたりとか、
自分では発信して、
そうすると相対的に自分の中にある嫌味と思われるものとか、
学問の翻訳の重要性
抱えてて見せるには値しないものをずっと抱えているみたいなことにもなるし、
まあどうせっていうと、
じゃあ竜じゃどうもないみたいな話なんですけど、
まあそこはすごく難しくて、
まあだからそのまだ考えてないですけどみたいな、
その出生前診断をした上で産むか産まないかの数を調べきれてないであったりとか、
そういうところのまだ学ぶ余地はすごくたくさんあるから、
まずは知りたい、学び続けたいなとも思うし、
その上で考え続けたいなとも思うし、
今日はまだまだ全然思っていることを、
僕が思っていることを伝えているだけなんですけど、
やっぱりもう少し伝わるように、
自分が思っていることだ、感じていることだ、
それこそ学んだこととか聞いた話を、
誰もが小学生でも中学生でも、
社会人でも高齢者でも、
誰もが確かにそうかもしれへんな、
これ考えなあかんなあみたいな、
そうなんや、そんなことがあるんや、
みたいな伝わるように伝えていきたいなとやっぱり思ってて、
本も難しいじゃないですか、
読める人もおるし、本が、
この前出会ったんですけど、
本読みたいんやけど、やっぱり眠っちゃうというか、
文字で覆えんのよねみたいな、
文字を覆うだけで意味とか想像ができないのよね、
みたいな話を聞いて、
やっぱりインプットの適切な、
人によって適切なインプットの方法があると思ってて、
文字なのか声なのか動画なのかわかんないですけど、
だからその本読めない人もおるだろうし、
音が聞こえない人もおるだろうし、
読めない人もおるだろうしみたいな、
そこを翻訳するようにというか、
難しいことを伝わるように伝える役割みたいなのに、
僕が慣れたらなと思って最近思ってて、
基本僕も変なこと言うというかね、
難しくここに繰り返して喋っちゃうみたいな癖があるんで、
その癖をなんとか直す、取り除かなあかんというか、
シンプルに伝えたいものを、
伝わるように伝えれるようにしたいとは最近思ってて、
これまでね、シャープ100ぐらいからとか、
ノートで書いてることを、
僕自身がね、見返すと読み返すと、
そういうことがあったから、
これまで伝えてきたことがあったし、
発信し続けてきたからこそ、
どうやったら読まれるんかなとか、
どうやったら聞いてもらえるんかなっていうのを気にし始めたし、
そういう傍ら、
難しすぎて全然わからんわみたいなものに出会うわけですよね。
もう少しこういう言い方したら分かりやすいのになとか、
ここで例とか出したらちょっと分かりやすい、
こういう例出したらいいのになみたいなのを、
僕が間に入って伝えることができたら、
もう少し学問の狭間が広がるんじゃないかなみたいなのは思いましてですね、
そういうことをちょっとずつでもしていきたいなと思って、
今日一つ配信してみました。
伝えるための工夫
だから今後も大学院で学んだこととか、
いろんな本とかの紹介とかするんですけど、
難しくなりすぎずに、でもやっぱり大事なことやから、
考えていただけるように伝えていきたいなと思ってて、
ちょっと何言ったかわからんとか、
全然考えられない、
デュージの話ではあんまり考えられへんかったみたいなことがあるかなと思うんやけど、
僕はそこをもう少し努力していきたいなと思うので、
もし何かフィードバックがあれば、
フォームで送っていただけたら嬉しいですし、
もう少しここを聞きたいよみたいなのがあったら、
僕も一緒に調べたりとか学んだりとかするので、
教えていただけたらすごくすごくありがたい幸いです。
そういう感じで僕もちょっとずつ学んでるし、
伝わるように思っていることを言葉にできるように、
語彙を増やしたりだったりとか、
例をね、例えをどこから引っ張り出したりとか、
構成をちゃんと考えたりとかしていこうかなと思うので、
徐々に徐々にそういうところも聞いていただけたらなと思います。
はい、では、そういうことで、
今日ちょっと重いというかね、
なかなか僕自身も話すのためらったところもあるんですけど、
まあでも、学んでるものとして発信できたらなと思うので、
今後も引き続き聞いていただけたらありがたいです。
ということで、
ぎゅーちゃんのひとりごとでは皆さんのひとりごとを募集しています。
感想でも意見でもアドバイスでも何でもいいので、
フォームから送っていただけたら嬉しいです。
はい、では今日か明日かお元気で楽しんで、
癖強めでお過ごしください。
ありがとうございました。
35:22

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