1. りゅうちゃんの独り言
  2. #18 続・唯識の独り言
2023-08-06 34:38

#18 続・唯識の独り言

『唯識の思想』横山紘一 著 より参照
 
仏教の流れと唯識の興り/「唯識」とは、「識」とは/仏教の目指すところ/仏になるためにすべきこと【正聞熏習/無分別智】/正聞熏習・なぜ正しい教えを聞くのか/無分別智・なぜ分別しないことが良いことか/まとめ、唯識とは【仏は二諦をもって法を説く】

『唯識の思想』
https://hb.afl.rakuten.co.jp/ichiba/1fbc8ca3.d0c2ebda.1fbc8ca4.dae543eb/?pc=https%3A%2F%2Fitem.rakuten.co.jp%2Fbook%2F13783450%2F&link_type=hybrid_url&ut=eyJwYWdlIjoiaXRlbSIsInR5cGUiOiJoeWJyaWRfdXJsIiwic2l6ZSI6IjI0MHgyNDAiLCJuYW0iOjEsIm5hbXAiOiJyaWdodCIsImNvbSI6MSwiY29tcCI6ImRvd24iLCJwcmljZSI6MSwiYm9yIjoxLCJjb2wiOjEsImJidG4iOjEsInByb2QiOjAsImFtcCI6ZmFsc2V9
00:04
こんにちは、りゅうちです。
このポッドキャストは、言わなくてもいいんだけど、思ってることを言っちゃうっていうポッドキャストになります。
よろしくお願いします。
今日はですね、結構前々から言ってた、唯識の1冊本を読み終えたので、それをもう少し分かりやすくというか、要約してお伝えできたらなと思います。
で、参考にしている本が、横山浩一さんっていう方の、唯識の思想っていう本になります。
はい、もう主にというか、98%この本を元に、僕は唯識を学んでて、今日もその本からの引用だったりとか、言葉を並べて、唯識を説明させていきたいなと思います。
で、
一点、ノートを見ながら話すので、紙がめくる音がするかなと思うんですけど、そこはちょっとご了承いただきたいなと思います。
はい。では早速、唯識について説明していきたいなと思うんですけど、その前に仏教の大まかな流れを一旦話しておきたいなと思ってますと。
で、皆さんご存じの通り、
あのー、
お釈迦様、
具を騙したアルタさんが、
開いたというか、悟って、仏教が始まったとされるんですけど、
お釈迦さんが生きてる間から、
その後、死んで、亡くなられてから数十年間を、原始仏教って呼ばれてます。
で、その後に、お釈迦様を見習って、自分も解脱というか、
悟りを開きたいという人が増えていった。
というので、部派仏教とか、正常仏教と呼ばれる仏教が起こります。
これは本当さっき言った通り、自分一人の解脱に専念する仏教になります。
で、この自分一人のっていうところに違和感を持った人が多く現れて、大乗仏教っていうのが起こります。
で、さっきの正常仏教に対して、なので、
この大乗仏教は、他者とか、他の皆さん、衆生を救済することを目的に起こっている仏教になります。
で、この原始仏教、正常仏教、大乗仏教っていう仏教の流れの中で、
元々大事にされてたのが空の思想ですね。
空って書いて、空って読む空の思想。
で、これもまた後ほど説明するんですけど、
03:02
この空の思想が行き過ぎるというか、強調され過ぎて、虚無主義に陥った時期があったんですよ。
だから、空とか何でもないとか、何もない状態とかを何もしないことがいいんじゃないかなっていう思想というか、
だなっていう認識をされて、虚無主義に陥ったと。
でも、いやそうじゃないだろうと。
空は空でも、その空じゃないだろうということで、式はあるということで有意識っていうものが考えられたというか、起こり始めたんです。
で、もう少しこの有意識、説明したいなと思うんですけど、
まず漢字ですね、有意識の漢字は、唯一の唯に、認識とか識別の識ですね。
で、有意識っていう漢字ですね。
仏教の中の有意識のスタンスというか
根本の思想というのが2つ説明されているのがあって
説明すると1つが一切有意識初変であるという一文があるんですよ
これどういうことかというと
ただ意識、有意識、すなわち心だけしか存在しない
自分の周りに展開する様々な現象は全て根本的心
すなわちあらやしきから生じたもの、変化したものであるというのが1つですね
あらやしきをまた後で説明します
もう1つ有意識無教という言葉があって
無教というのはあるないのないに
国教の教、境目という字を書いて有意識無教と言います
有意識無教というのは全ては心の中にある
心を離れては物は存在しない
心の外には物はないという考え方だそうです
さっきの一切有意識初変であるというのと有意識無教
2つとも心から全て生じているし
心がなかったら何も物はないよねという
説明が有意識の簡単な説明になるのかなと思います
この有意識における漢字の式
この式ってどういう意味ということなのかなということを言うと
式というのは必ず認識対象を持つもので説明されています
だから認識するものが
なければ式という存在もなくなるんですよね
06:04
ちょっとここから飛躍するんですけど
だから式というのはあるようでなくないようであるということなんですよ
ちょっとよく分からなくなってきましたよねこの辺から
これが有意識なんですよ
よく分からないんですよ
あるんですけどないんですみたいな説明になっていくんです
でもう
少しやっぱり説明を補足していかないといけないなということで
さっき説明し損なってた空についてもう少し説明しようかなと思います
空の定義というものがこの本で紹介されていて
その原文をね
一旦読みますね
はい
あるものの中にあるものがないとき
それは
それとして空であると如実に見る
さらにそこに残れるものはあると如実に知る
もう意味わかんないと思います
もうね耳だけなのですいません
もう少し簡単にというか分かりやすく言いますね
でまず最初の一文
あるものの中にあるものがないときっていうのは
あるものAっていうものの中に
あるものBっていうものがないときっていう意味ですね
Aの中にBがないとき
で次の文章ね
それはそれとして空であると如実に見る
つまりAの中にBがないとき
AはBがないですよね
だから空であると
Aの中にBが入ってないよねっていうことで空である
っていうのが一つ目の空ですね
でもう一文追加されてますね
さらにそのAっていうものの中に残れるもの
これはまた別のBではないCですね
Cっていうものがあるんじゃないかなと
Aの中にはまだCがあるんじゃないか
それを知ることがもう一つの空だと言ってます
はい意味わかりますか
Aの中にBがないっていうのは
それはそれで確かに空っぽだって意味で空だと言ってますね
けどAの中っていうものにはBじゃないCっていうものがあるんじゃないのかな
それをこう追求していくことっていうのが空であると言ってますね
でもう一回式に戻りますね
式の有意識の式の説明に戻ると
このあるようでなくないようであるっていうのは
この認識対象があればあるんですよ
つまり認識対象Aの中にBっていう認識対象があれば
Aの中にBっていう認識対象があれば
式が発動されてBっていうものが存在するんですけれども
09:02
Aっていう存在の中にBっていう存在がないのであれば
認識ができない
そもそも認識対象がないので
式っていうものは発動されない
けどAの中にCっていうもの
何か残ってるものがあるんじゃないかなっていう時にも
有意識が発動式が発動されて
ないようででもあるんじゃないかなっていうところが説明されるのかなと思います
ちょっと難しいですよね
ちょっとわかんないと思うんですけど
もう少し頑張って説明していきたいなと思います
そもそもですよ
そもそも仏教って何を目指してるのというか
ひいては有意識って何目指してんのっていうところに説明をしようかなと思うんですけど
簡単に言うとブッダになるためなんですよ
はい
ブッダになりたいんですね
ブッダになるってどういうことかっていうと
5個の感覚あるじゃないですか
見る、聞く、食べる、触る、匂うっていう五感があるじゃないですか
その五感覚を他者救済のために働かせることができるようになった人であり
事実を事実として知れる
また分別がない
また汚れを払拭しなくした状態の人のことをブッダって一応定義されているというか説明されてました
本当に及ばないんですよブッダには
けどそれを目指そうとしたりとかそこに行こうとすること
仮にブッダを説明するならばっていうことで
この五感覚を他者救済のために働かせることができるようになり
事実を事実として認識し分別をせず汚れを払拭しなくした状態っていうのがブッダと説明されています
有識も仏教もここを目指してます
はい
じゃあどうすればいいんだと
ブッダになるには何したらいいんだっていうことで
2つ挙げられてます
1つが正門君住
もう1つが無分別知の火を燃やすですね
この2つが言われてます
これ何かっていうと1つずつ説明していきますね
1つ目正門君住するっていうのがあるんですけど
どんな字を書くかっていうと正しいに門構えに耳で聞くですね
これで正門です
正門君住は君姓の君ってあるじゃないですか
火変に重たいみたいな書くやつの火がないバージョンですねが君で
12:08
住は習うですね
学習の習ですね
この4つで正門君住って言います
これ意味は正しい教えを聞くことってシンプルですね
正しい教えを聞くこと
じゃあ何で正しい教えを聞くことが
仏陀になるというか仏になることになるのかなっていうのを説明しますね
その説明の前に説明しないといけないことがあって
表層心と深層心っていうのがあるんです
表層表の層の心と深い層の心で深層心
表層心と深層心というのがあるんですよ
深層心という考え方が有識にはあります
その表層心の中には6個の式が入ってますと
深層心の中には2式2つの式が入ってます
それぞれ説明しますね
表層心の中のまず5式
これもなんかピンとくる人いるんじゃないかなと思うんですけど
さっき言った五感ですね
聞く
匂う
味わう
で、触覚があると
この感覚のことを合わせて五式っていうんです
もう少し定義すると
これは言葉なしでそれぞれ固有の対象を直接に把握する器官のことを言いますと
例えば目は見るっていう感覚
これはそのペンとか机とかっていう対象があって
見るじゃないですか
とかあと耳は音っていう音波だったりとか
空気の振動っていう対象があって
それを直接把握してるじゃないですか
で、匂いも何かこう
アンモニアだったりとか
アラマだったりとかの匂いを感じて匂ってる
それは対象があって匂ってるじゃないですか
で、それは目だろうが耳だろうが
鼻だろうが
言葉なしで見てるんですよ
音だって音に名前があるわけではないですし
匂いも名前があるわけではない
ただ目で見るものは便宜量というか
本とかペンとかっていう名前が付いてるんですけど
そもそもその言葉っていうのは存在しないというか
まずはその言葉なしで認識してる
この五式っていうのがまず表層詞の一番上にありますと
はい
で、次表層詞の五式のもう一個下に
15:01
意識っていう式があります
これは簡単に言うと思考のことですね
さっき言った五式に基づいて感覚を鮮明するのに働くと
で、この意識のおかげで言葉を用いて
対象を概念的に把握することができるです
で、この最初の五式と意識っていうのが合わさって
六式って呼ばれて
これが表層詞ということになってます
はい
付いてますか?
付いてきてますか?
はい
で、この次に二式を説明しますね
二式は深層詞です
深い心ですね
で、深層詞の一つ目がマナ式っていうものですね
あの、世紀末の末かな
に、那覇の那に識別の識ですね
で、マナ式です
で、これは自我執着心とも呼ばれてて
あらやしきを対象として我に執着する心ですと
で、もう一個説明が
この表層詞が汚れてる原因にもこのマナ式が呼ばれてます
はい
で、次
深層詞の二つ目がさっき言っててきたあらやしきですね
これが根本詞です
はい
これはあの、すごい説明飛躍するんですけど
体を生じて生理的に維持してることだったりとか
自然っていうものを作り出して認識し続けてることだったりとか
その一切、さっき有識の説明でやった
心がなければものがなかったりとかっていう説明の
心の種を作ってるのがこのあらやしきになります
はい
で、もう一回表層詞と深層詞を軽く説明するときにね
有識の考え方では二つの層に分かれてますと
で、一つ目が表層詞っていう層
表層詞の層の中にも語式と意識の層に分かれてますと
語式は言葉がなくて感覚器官によって認識できる
まず第一の層ですと
で、二つ目が意識
これはあの、言葉を用いて
思考する感覚器官ですね
で、この6式合わせて表層詞と呼ばれてますと
で、その下に深い層の深層詞があって
マナー式がありますと
マナー式とあらやしきがあります
はい
いいですか?
で、めちゃくちゃ最初のものに戻りますね
そもそもこの小文訓授するっていう
この正しい教えを聞くことが何で大事かっていうことを説明するときにね
なんで大事かっていうことを説明するために
今説明した表層詞と深層詞っていうのがありますと
18:00
で、この正しい教えって何なのかっていうことを
少し説明していきますね
で、今言った表層詞と深層詞を
泉、湖だったりとかでご想像してみてください
で、あの
表面に見えてる面、水の面が
ま、あの五色だったりとか五色の表層詞です
で、湖の中、水中がマナー式です
これ深層詞の一つ目ですね
で、あの
ま、泉だったりとかってどっかから水が流れてきてるというか
湧き出てるところがあるはずじゃないですか
それがあらやしきです
もう一回言いますね
表面に見えてるのが表層詞
五色と一色ってあって
その下の水中がマナー式ですと
で、湖が、泉が出ているところ、源があらやしきですと
で、えー
表層、湖が汚れてることって多々あるじゃないですか
で、まあそれはどういう理由で汚れてるかって
なんかいろいろ考えられてるんですけれども
まあ一つあるとしたら
まあゴミとか流れっぽい捨てだったりとかで
表面に浮いてること
もしくはそれが沈殿したりとか
流れてきたりとかして
水中の中にゴミが浮いて表層詞
水の表面から見えちゃってるもの
もしくはその水源ですね
泉が湧き出てくる
そもそもの水が汚いっていう
可能性もありますと
はい
で、これどこが原因かも分かんないじゃないですか
泉一つあったときに
で、だから
ここで正しい教えを聞くことっていうのが
えーっと
ゴミを投げ入れることとか
ゴミ、そもそも汚い泉を
水を流すことじゃなくて
きれいな水を流したりとか
きれいな雨を降らすっていうのが
正しい教えだと思ってください
そうするとどうなりますかね
表面に見えてる水はきれいに見えるだろうし
水の中もきれいな水が溜まってるはずだし
そもそもきれいな水が流れてきてるから
水源もきれいな水が流れ着いてますよね
こういう考え方です
えーだから
えー
表層芯が
マナー式とか荒屋式に
影響を与えることもあるし
21:02
この逆に荒屋式が
表層芯
湖の上に汚い水をあげるかもしれないし
きれいな水をあげるかもしれないっていう
この相互関係が生まれているんですよ
だから
正しい水を入れてあげなきゃいけない
きれいな水を入れてあげなきゃいけないっていう意味で
正門君主する
正しい教えを入れてあげなきゃいけないんですよ
はい
これが正門君主するっていう説明になります
でもう一つ
えー
仏陀に
仏になるにはっていうので挙げたのが
無分別地の火を燃やすです
でこれは何かっていうと
自分の自
自と
他者の他
その間にある行為っていうものを
分別しないっていう意味で
無分別地って言います
はい
じゃあ何で分別しないことが
いいことなんだろう
ってことですよね
いやーそらさもう自分もいるし他者もいるっていうのは
もう見えに見えて分かっていることで
こう他者に何かしてあげたいとか
こう何かしてほしいとかっていう行為もその中には
あるなあるじゃないですか
それを分けないってどういうことだし
分けないことが何でいいことなのか
何で仏に近づくことなのかっていうのを
今から説明しますね
はい
えー
でさっき言った正門君主の中にできた
えー
話で
荒屋敷っていうのがありましたよね
で荒屋敷が汚れる原因っていうのは
一つというか何個かあるんですけど
そもそも有意識は
自分っていうものがないものとして見てるんですよ
でえーと自分っていうものを認識するときに
多分二パターンあると思ってて
それがこれは自分であるっていう考え方と
これは自分のものであるっていう考え方があると思うんです
でこのこれは自分であるっていう方
まず最初のパターンを説明していくと
これは自分であるっていうのは
自分に執着してるっていう意味で
エゴなんですね
これ我衆って呼ばれたりします
でこの我衆
我に執着するって書いて
我衆なんですけど
これが強くなりすぎると
煩悩性っていうものになります
24:00
これは煩悩ですね
108煩悩とかの煩悩に
あのー
障壁の性ですね
で煩悩性っていうんですけど
これはどういうことかっていうと
濁った心とか汚れた心っていう意味になるんですよ
これは自分に執着しすぎると
濁った心になりますよっていう話で
なんで濁った心になるのかっていうと
言うとですよ
ここが難しいんですよ説明が
さっき言った無分別
ちゃちゃちゃ
自分に執着してるから
自分が一番になっちゃうんですよ
で一番最初に戻って
ブッダになるにはっていうところの
ブッダとはどういう人かっていうところの説明で
この五感覚を使って
他者救済のために働かせることができる人っていうのが
一つあるんですね
でこう自分に自分にって
執着してることは
し続けてしまうと
自分一人の世界になっちゃうから
それはなんか
ダメというか
良くないこと
それを超えてこう
他者救済のために働かせることができるようになった人が
一つブッダの要素を持つ人なので
我衆
自分に執着するとか
煩悩症
そのことによって
自分に執着することによって
濁った心を持った人には
なっちゃいけないんですね
でこれは自分であるっていうのは否定されます
否定されるというか
ない方がいいとされています
でもう一つ
これは自分のものであるっていうものは
これはものに執着してるんですよ
でここでいうものっていうのは
物質的なものもそうだし
自分自身の肉体もそうですと
あとは心の動きだったりとか
地位とか名誉とか
そういうなんか概念的なものも含む
すべてのものっていう意味で
ものですね
っていうこのものに執着することを
報酬って言いますね
これは法律の方に
執着の習で報酬って言うんですけど
そうすることでこの
さっき言った
合衆から煩悩症になるみたいな感じで
報酬から次処置症になるんですよ
処置症ってどう書くかっていうと
ところですね
居所のところに知る
にさっき言った小壁の小で処置症って言うんですけど
これは知られるべきものを知ることを妨げてるっていう意味になります
はい
これは自分のものだって定義するっていうことは
それをそのものあるがままに見ていないんですよ
自分っていうフィルターをかけて
自分っていうものを所有するっていうことになるので
27:05
その人として見てないんです
めちゃくちゃなんだろうな
簡易的に言うと
例えば自分に彼女ができたとするじゃないですか
って言うと
その彼女っていう言葉に引っ張られて
その女の女性というかその方を見る
その人を見てしまう
彼女だからこうしてほしいとか
彼女だからこうやってほしいとか
彼女だからこうすべきだみたいな話になっていますよね
これはその人をものとして見てるし
自分のものとして扱ってるからそういう見方をするです
そうしてしまうと
その人自身のやつだったりとか
その人自身の
素敵な部分っていうのが見えなくなる可能性もあるから
仏教ではそれを知らない方がいいと言ってますと
これがものに執着する報酬ですね
その合衆だったりとか報酬をすることによって
一番最初に戻る
無分別知ができないんですね
自と他とその行為を分別できなくなるんですよ
そもそも自分っていうものを認識してるから
自分っていうものがあると思ってるから
自分じゃない他っていう他者っていうものがあるし
自分と他者の間にも行為は絶対にあるって思っちゃいますよね
自分っていうのがあるっていうことは
それがこの自分他者でその間の行為ってものがあると
それこそあらやしきが濁っていくんですね
さっき言ったみたいに自分には彼女がいる
だからこの彼女はこうしてほしい
こうしてほしいこうあるべきだっていうのも
自分がいて他者がいてその間に行為が生じてますよね
そうなってくると自分のためにもならないし
他者のためにもなってないし
自分自身も他者もその人
自分自身とかその人
その女性自身として見れていないから
あらやしきには汚れが溜まっていく
だからそれをしないことを自分と他者とその人としては
だからそれをしないことを自分と他者とその人としては
その行為を分けない
それは全部一つであるっていうことを
理解し続けていくことを
無分別知と言って
無分別であるからこそ
仏陀に少し近づくっていう説明で
わかりますでしょうか
今までの話をざっとおさらいしますね
最初仏教の流れ説明しました
お釈迦様が生まれて部派仏教
正常仏教が生まれて大乗仏教ですと
その流れの中で空っていうのが強調されてきた
変に理解された誤解された
空、虚無であることがいいことだ
みたいなことになったんだけど
30:00
でも虚無の中にも主義があるよねっていうことで
有意識、派が起こったと
これは空の定義の中のそもそもの意味にももちろんなってる
Aの中にBはないけど
Aの中にはCがあるんじゃないかな
これが式ですよねそもそも
そこからきてます
仏教とか有意識の目指すところは何かっていうと
五識を使って他者救済のために働かせることができる人だったりとか
事実を事実として知ること
無分別であること
これを払拭しなくした状態であることですと
そうなるためには
正文訓衆と無分別衆が必要ですと
正文訓衆っていうのは正しい教えを聞くこと
なんで正しい教えを聞くのかっていうと
表層心も深層心もつながってて
どこから汚れが来るか
どこから汚れが流れてくるかわかんない
そうじゃなくて
正しい水、正しい教えを聞き続けることで
表層心も深層心もきれいになっていく
だから正しい教えを聞くことが大事だよっていうことで
正文訓衆ですと
もう一つ無分別衆の火を燃やすっていうのは
なんで分別しないことがいいことかっていうと
あらやしきの汚れは分別することから
自と他とその行為を分別することから
あらやしきは汚れていきますと
だからそれを分別しない自分も他者も
ありのままでいることを受け入れることが
無分別っていうことで
それをし続けることが一つブッダに近づくことだ
っていうことで
無分別衆の火を燃やすことを指摘してます
っていう流れになってます
つまり有識というか
ブッダは
仏っていうのは
二体をもって法を説くって教えてます
どういうことか
これは一つの存在には両面があることっていう説明になってます
僕たちは紙の表面が
机の上にあったとしたときに
紙の裏面も見ずにそれは紙だって認識しがちですよね
けどその裏には
何が書かれてるか分からないし
そもそも紙じゃないかもしれない
立体になるかもしれない
その中に宇宙があるかもしれないっていうのがある
けど僕たちはどうしても表だけを見て
紙だと判断してしまう
本当は二つの存在があるのに
両面があるのに
一つの存在
片面だけ見てしまう
けど仏っていうのはそうじゃなくて
二体をもって法を説く
この二体っていうのは二つの諦め
明らかにするっていう意味の法の諦めで
二体って言います
表の世界と裏の世界があって
表の世界は僕たちが今生きてる人々と共に生きて
自と他が対立して
ちゃんと自分と他者があって
その間にも言葉が通用する世界なんですけど
33:01
そうじゃない裏の世界もあるよねってことで
自分と他者の対立がなく
言葉が通用しない世界も存在するだろう
その状況を見たのが仏であると
その裏の世界っていうのは
さっき何度も僕が言ってる通り
あるがままの世界なんですよ
仏教とか
いろんな教えの中では
いろんな言葉で言われてます
それが真理の世界だったりとか
空の定義のところでできた
信如っていう言葉だったりとか
あとはそもそも空とか
法界って言われてるのが
そのあるがままの世界の説明の一つ
になってて
その表の世界も裏の世界も
つまりこの二体
二つの諦めを持ったことによって
二つの両面
一つの存在には両面があるっていうことを知ることが
仏の一つに
仏になることだっていうことだそうです
はい
ちょっと長めにというか
足早に説明
なんとかこうギュッとね
優意識をまとめてみましたが
いかがでしたでしょうか
僕の感想はまた別の機会に
取りたいなと思うので
今日は皆さん
ここでお別れになりたいなと思います
はい
ちょっと難しかったかなと思うんですけれども
よかったら何度か
聞いていただけたらなと思います
それでは皆さんありがとうございました
34:38

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