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の、の字の世界
佐藤春夫
うたちゃんは3人兄弟の末で、来年からは幼稚園へ行こうというのですが、
早くから自分ではお姉ちゃん気取りで、「えいちゃん、えいちゃん。」と自分を呼んでいます。
えいちゃんとは、「ねえちゃん。」の片言なのです。
うたちゃんは、えいちゃんだけに、二つ上の泣き虫の兄が泣くと、すぐ手拭いを持っていって、
涙を拭いてやったり、頭をさすったり、まことによく気のつく利口な子なのです。
それなのに、
どうしても字を覚えないのです。
泣き虫の兄さんの方は、うたちゃんの年頃には、誰も少しも教えないのに、
野球かるたで、ひらがなはすっかり読み書きを覚え、
それからは、相撲の名前と一緒に、その本字までたくさん覚えていたものです。
兄弟でも、これほど違うものか。
うたちゃんも、今には一人で覚えるだろうと言っていても、なかなかその削りもありません。
うたちゃんは、絵本でも、なんでも、
開けてみては、すぐ面白いお話をこしらえて、みな一人で読んでしまうのです。
これでは、まるで字の必要もないわけなのだと気がつきました。
それにしても、自分の名前ぐらい書けないでは幼稚園でも困るだろう。
ちょっと試しに、名前の3字だけでも覚えさせてみよう、と、
うの字から教え始めたが、やっぱりダメなのです。
2、3日かかって、やっと読み方は覚えたが、書くことはどうしてもダメなので、
諦めて、のの字を教え始めました。
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うの字の下を、ののように書くのに気がついたからです。
のの字を、はじめは丸い字と呼んで、これを読むことはすぐ覚えましたが、
書くのは逆の方向に曲げたり、尻尾の方から頭へ持っていったり、
どうしてもダメでしたが、
3日ほどしたら、どうやらそれらしい字ができ始めました。
書き始めても、読み方を忘れてはいけない、と書く稽古をさせながらも、
絵本や学校の本などを出してきて、
うたちゃんに、のの字を探し出させているうちに、
兄さんの野球の雑誌、
父からも、お父さんの新聞の後ろからも、
うたちゃんは、のの字さえ見れば、きっと拾い出すようになり、
書くこともだんだん上手になりました。
うたちゃんの世界は、今やのの字の世界になりました。
新聞には、大きいのや、小さいのや、
のの字はどっさり。
うたちゃんには、新聞ものの字ばかりです。
お兄さんの回すコマが、のの字を書いているし、
コマのひもも、お縁側でのの字になっています。
お庭の片つむりは、のの字をしょって歩いているし、
うたちゃんのヤグのからくさ模様も、
あちら向きや、
こちら向きの、のの字がいっぱいです。
お兄さんの頭の上に、
誰か、のの字を書いている、
というのを見ると、
すむ字のことなのです。
お庭に、のの字が生きて動いていた、
というので、ついて行ってみると、
ミミズがいたので、みんなで笑いました。
みんなが笑ったので、
うたちゃんは、ひどくしょげてしまったのです。
私は、本当に、のの字が生きて、ねんねしていたね、
と、うたちゃんを、なぐさめてやってから言いました。
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うたちゃん、字は、のの字のほかにも、まだたくさんあるのです。
うたちゃんの、うの字でも、たの字でも、ね。
みんな、覚えますか?
うたちゃんは、大きくうなずいた。
うたちゃんは、一時、覚えて自信ができ、
おもしろくなったのでしょう。
うたちゃんは、今に、字をみな覚えて、
世界中を読むでしょう。
きっと。