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こんにちは出口です
こんにちは本山です
リサイズ編は本山と出口が最近気になっているサービスやデザイントピックスを取り上げて
のんびり話すポッドキャストです
よろしくお願いします
お願いします
本山さん最近コーヒーとか飲んでます?
いやもう全然飲んでないな、その辺の試行品というか、そういうもの。
お茶は飲んでるんですか?
いや、ほとんど炭酸水ですね。
ああ、炭酸水ね。
僕も炭酸水最近、てか今も飲んでんだけど。
なんかフラのホップ炭酸水ってなんか、流行ってんのかなこれ?
Twitterでなんかよく見かけるから買ったんですけど。
ホップが入ってんの?
ちょっと、ちょっと、ちょっとホロ苦い炭酸水。
これを最近ずっと飲んでますね。
あ、そうなんだ。
炭酸水、なんか飲んだ気になるからいいですね。
飲んだ気になる。
まあまあ、そうね。
そうそう。いやそれで、いやまあ、コーヒーも飲んでるんですけど。
最近なんか、新しいドリッパーを買ったんですよ。
それがハリオのシンシ式ドリッパーってやつで、
コーヒー引いたやつをフィルターにかけて、そこにお湯を溜めるんですよ。
溜めた状態でお湯を流さずに3分くらい放置して、それで抽出して、
で、その後お湯をフィルターとして流すっていう、なんかそういうやつで。
それが結構手軽で美味しいっていうので、最近よく使ってます。
うーん、なんかちょっと僕はわかってないけどあんまり。
こう普通のフィルターっぽい感じにも見えるけど、こう下が開かないようになってるってことなのかな?
開けたり、閉めたりできるみたいな。
そうそうそう。
水を積止めたり、流したりできる。
はいはいはいはい。
なんかちょっとなんだろう、濃いめに仕上がる感じ。
まあその辺は浸す時間で調整できるんだけど。
まあ抽出時間が長くなるから、ちょっと濃いめになるみたいな感じだよね、きっと。
調整しやすいって感じかな、なんか。
自分で手でハンドドリップするよりも、時間だけで調整できるから。
はいはいはい
これが結構楽でいいなって言うので
最近たまに使ってます
あー
なるほどね
コーヒーは全然飲まないですか?
コーヒーはほとんど飲まないね
たまーに飲むくらいだな、ほんとに
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うん
ほんとになんか、お酒より飲んでないかもしれない
(笑)
そんなレアな
この新四式っていうのは僕初めて見たな
僕も初めて知ったんですけど
なんか最近人気みたいですよ
そうなんだ
うん
なんか僕一回あれやってみたいなと思ってるのあるんですけど
なんかねエアロプレスかな
うん
エアロプレスはちょっとやってみたいよね
うん
まあ多分近いこれに近いんじゃないけ
いや、まあ、似てるけど、ちょっと違う。 やっぱり圧力かかってる分、よりエスプレッス寄りになるというか、
ああ、そっか。
より強制的に抽出される感じになる。
注射みたいなやつで圧力かけるやつ?
そうそうそう。ぶっとい注射みたいなやつで、グーッて押し込んでるから。
そうか。あれは空気圧で抽出する感じなんですね。
そうだね。
紅茶か、紅茶みたいなやつか。
でもそれよりは多分もうちょっとマイルドな感じになるんだろうねこっちの方が
単純に浸して、自重で抽出するだけだから
あとメンテナンスが楽、洗うのが楽っていうのが結構いいですね
結局フィルター捨ててちょっと洗うだけみたいな感じだろうねきっと
エアロプレス確かに気になりますね、やったことないけど
僕もなんか、昔よくあの、だから小前に住んでる頃に、そのコーヒーのなんかいっぱい集まるイベント、コーヒー屋がいっぱい集まるイベントみたいなのをボランティアで手伝ったりしてたけど、
そこによくそのエアロプレスのお店が来てたんで、飲んだりしてたこともあったけど、やっぱりね、結構すごい濃いめに出るんだよね。
へぇー、なるほどね。
うん、まあでもエアロプレスの方が面倒くさそうですね。
いやそうそう、洗うのがちょっと面倒くさそうだなっていう。
洗うのとかも含めてね。
うん、まあ、めんどくさそうではあるね。
なるほどね。
このHARIOのやつはおすすめですよ。安いし。
僕でも、あれだな、なんか、そっちは、洗うのはめんどくさいんだけど、
その、フィルター、紙のフィルターを使ったドリップじゃなくて、ネルドリップっていう、
ああ、ネルドリップ。
細かい網目でやるやつ。
はいはいはい。
あれでやるやつも結構好きで、
僕、両方できるように持ってるんだけど、やっぱネルドリップにした方が濃い濃いっていうか、濃厚とはまた違う濃い濃さみたいなのがあって、
油分みたいな部分が紙に吸い取られないで全部流れてくから、そういう濃さみたいなのがあるんだよね、ネルドリップでやると。
あれは…
それも結構面白いです。
毎回布を払うん。
これは使い捨てじゃないんですよね?
使い捨てじゃないね。あれはだから、布だったり、僕のやつは金網っぽいやつですけど、細かい、目が細かいザルみたいなやつですけど、
それを毎回洗うしかないんだけど。
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金網のやつはちょっと気になってたな。
布はさすがにちょっとめんどくさいかなと思ってたけど。
ちょっとね、洗うの面倒くさいなっていうのはあるけど、
まあ、まあ、そうすぐパッて洗っちゃえば、そんなに手間ではないから。
なるほどね。
ネルドリップもね、試してみてほしいですね。
いやそう、なんか毎日飲んでるから、基本的に。
なんかちょっと、
毎日飲んでるんだ?
毎日飲みますね。
まあでも、1日1杯とかですけどね、僕は。
量はそんなでもないけど。
お火も全然飲まなくなっちゃったからな。
飲まないと気持ち悪いですね、僕はなんか
飲まないと気持ち悪い?
朝起きたらとりあえずひれるっていうルーチンになってますね
なんか僕はもうカフェインがきつい感じなんだよな
それは何?カレーで?
わかんない、なんかもう
いやなんか一時期飲んでたから別にその時そんな感じはしなかったんだけど
多分ずっと飲まない期間があってそれのせいなのかもしれないですね、なんか
体勢がなくなっているのかもしれないですね。
でもなんか、リンダ作ってる時に、よくインタビューでそういう話聞いたな。
なんか、ノンカフェインを好む人って結構いるんだなっていう、
カフェインキツイみたいな話をチラチラ聞きました。
なんか、ふわふわしちゃうんだよね。
無駄にふわふわしちゃうんだよ。なんかこう、徹夜明けみたいな感じになっちゃう。
なるほどね。
だからなんかこう、すごい、色は高まってるんだけど集中できないみたいになっちゃう
なるほどね
わかんない、僕もなってるのかもしんないけど、麻痺してるのかもしんない
いや多分ね、慣れてればならないと思うんだけど
単純にちゃんといいように作用すると思うんだけど、そのカフェインがね
だけどなんか、僕の場合は慣れてないのか、最近はもうなんかダメですね
そういう感じになってもいいなっていう時しか飲まない
なるほどね、お酒みたいな感じ
炭酸水もね
ソーダストリーム買おうかちょっと迷ってるんですよ
ああ、ソーダストリーム
僕はソーダストリーム使ってるよな
ソーダストリーム使ってますね
あれどうですか?
いや、まあ、物に
まあ、炭酸水って感じか
炭酸水ですけど
(笑)
うん
炭酸水ですね
どれぐらいいけるんですか?
どれぐらいいけるってなんですか?
なんか取り替えなきゃいけないんですよね
そうだな、出る
だから多分好みによると思うんですけどね
どれぐらい強炭酸にするのかによって多分回数とか変わってきちゃうから
そっか、その辺も調整できる
うん
僕は結構強炭酸の方が好きだから
強めで入れることが多いけど
なんかでも実際わかんないけど、大体目安みたいなのがあるじゃん。書かれたりするんだけど、そのサイトとかに。
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そういうので計算すると、別にペットボトルと比べて安いかって言われると、別にそんなこともないっていう結論だった気がする。
そういう感じなんだ。ゴミが出ないって。
ただ、僕はゴミが出ないっていうことの方がメリットがでかくて、自分の中で。
ペットボトルがいっぱい出てこないから、ゴミとして。
炭酸水、基本小さいのしかないですもんね。
そうそうそう。
なんか別にエコとかそういうことでもなくて、単純にゴミを捨てるのが面倒いとかそういうことなんだけど、僕の中では。
わかる。
なんか、しかもやたら僕だと炭酸水飲むから、ほとんど水分を炭酸水でとっているので、だからめちゃくちゃ飲むんですよ。
ってなると、ペットボトルとか買ってた時期も一時期あったけど、
めちゃくちゃそのペットボトルのゴミが出ちゃって、
すごいことになるんで。
だから、そう、ソーダストリームも使ってるって感じですね。
オフラのホップ炭酸水、おいしいから、
加工買いしてるけど、めっちゃゴミ出るんで。
でかいペットボトルでね、攻めてあればいいんですけど。
そうね、でもでかいのもね、
でもね、抜けてっちゃうしね。
っていうのがあるから、なんとも言えないけど。
なるほどね。買ってみるかな。ソーダストリーム。
そんなに手間じゃないですよ。
なんかソーダストリームの場合だと、
その、缶というか、圧力ボンベみたいなやつが取り替えるんだけど
その圧力ボンベみたいなやつも、その取り替えるときに空になったやつも一緒にこう、なんていうの?
来た箱で、そこ空のやつ取り替えて持ってってもらえるようになってるんだよ、配達業者に
そういうサブスク的な感じなんだ
まあサブスクではないんだけど、まあサブスクもあるのかな、ちょっと僕わかんないけど
なんていうの、取り替え用のやつを買ったら届いて、中身取り出して、空のやつ詰めて持ってってくれるみたいな
そういう交換して持ってってくれるんで、そんなに手間じゃないっていうのが
なんかそこにその電表用紙とかも入って一緒に送られてくるんで
で、最近は業者の人ももうそれ分かってて、これ交換しますよねみたいな感じで言ってくれるんで、
やりますみたいな感じで、こう中身変えてみたいな。
その場でやれるんで、そんなにそこまで手間じゃないですね。
それはいいな。
若干なんか、機械がデカいかなっていう気がしてたんですけど。
ああ… まあでかい…
まあでかいっちゃでかいかもしれないけど
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あとね意外とね、置き場所に困ると僕は思ってますよ
その置き場所っていうのはでかさっていうよりは
いや高さっていうのでもなくて
なんかね、すげえ上手くめちゃくちゃ上手くやんないと
その炭酸を入れた時にちょっと水がこぼれるんですよ
だからそういう濡れてもいい場所とか、サッと拭ける場所とか、そういう場所にしないと、なんか普通にデスクの横に置くみたいな感じで置いとくと、なんかべしゃべしゃになったりする。
なるほどね。
っていう意味でちょっと置く場所に困るっていうのは若干ありますけど。
なるほどね。
それぐらいかな。僕が入れるのが下手なだけなのかもしれないですけど。
なるほどね。
あと、いくつかソーダストリームって機械の種類があるじゃないですか。
それの種類によっても、もしかしたら綺麗に入れるやつとか、自動で入れてくれるやつもあるから、その手動じゃなくて。
それによっても違うのかもしれないけど、僕は確か一番安いやつ使ってる気がするから、手動でやるやつなんだけど。
でも最近なんか、結構新しくなってきてるから、また色々改善されてるのかもしれないね。
うん。
いや、なんかウォーターサーバーとかも、ずっと買おうかなぁ、って迷ってんだけど。
結局なんか、置き場所がめんどく、なんか結構場所取りそうだから。
買わずに、ずっと別途を取るを使ってんだ。
ウォーターサーバーの方がデカいよね。
デカいっすよね。
なんかあれもまあまあまたサブスク的な感じでこう月に1回交換とかあるじゃないですか
それが面倒くさいなぁと思っちゃうんで
そうね
囲い込まれるのが
今日は何ですか
ああそうですね今日はちょっと先週なんだっけ
NFTのアートの文脈の話をしたじゃないですか
で、最後の方にアートとは何かみたいな話ちょっとなんか
アートとは何かって言うわけじゃないけど、アートはこういうのもアートなんだみたいな話ちょっとしたじゃないですか
で、僕はその時も話したけど、なんか割とデザインとアートって近い部分があるから、その墨分けをちゃんとしておかないと自分の中で
これはデザインなのか、これはアートなのかっていうのが分からないままやってると、デザインができなくなるので、デザインは何か、アートは何かって結構普段から考えてたっていう話も確かしたと思うんですけど、
ちょっとだからそれの話もあったんで、アートとデザインの違いじゃないけど、アートとデザインについてちょっと考えながら話してみるっていうのをやってみようかなと思っていて。
で、まあメインとしてはアートの方を話そうかなと思っているんですけど、デザインはある程度、これ聞いている方がデザイナーとかも多いだろうから、なんとなくデザインはこういうものだろうみたいなのがあるだろうと思うんで、
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どっちかというとアートとはみたいな部分の方を強めに話そうかなと思うんですけれど
とはいえ僕はそのアートの専門家ではないのでちょっと
さすがになんか僕がアートはこれですみたいなふうに言うと本当かよみたいな感じになっちゃうとあれかなと思ったんで
一応参考書的なものとしてちょうど良さそうなやつがあったんでそれをベースにしながら話そうかなと思うんですけれども
参考書がですね、造形の基礎、アートに生きる、デザインを生きるっていう、まさにこれっていう感じだったんですけど、これなんか武蔵野美術大学の出版局が出している、武蔵野教授人たちが確か書いている本なのかな、だから割と教科書的な本に近いものなのかもしれないですね、もしかしたら。
どう使われているのかっていうのは 僕は知らないですけれども
っていう本があったので ちょっとそれを参考にしながら
アートとデザインについて どういうものなのかっていうのを
話していこうかなと思うんですが
アートっていう単語があると思うんですけど
アートってズバリ何だと思いますね 日本語で言うと
日本語で言うと?
アートを日本語で言うと。
芸術。
芸術だよね。
一般的には芸術って言われることが多いですね、アートは。
あとは美術とか、そういうものが言われるかな、アートっていうのは。
そもそもこのアートっていう言葉っていうのはどこから来てんのかっていうところから始まっていくんですけど、
語源としては、古代ギリシャ語のテクネっていう言葉から始まってるんですよね。
これも、もしかしたら聞いたことある方はいるかもしれないんですけど、
NHKの教育系の番組でテクネっていうのが昔あったんだよね。
今もあるのかな?確かないかって思うけど、昔あっただけだと思うんだけど。
テクネっていう言葉が語源として始まっていて、
これは元々、テクニックの語源でもあるんだよね。
つまりこれが五元というのは、要は技術ってことなんだよ、これって。
ただ、今日、現在使っているような技術っていう意味とはちょっと違う意味の技術なんだよね、この技術っていう言葉は。
さっき言った古代ギリシャの時代だと、生活に必要なもの、いわゆる工芸品みたいなものかな、生活に必需品みたいなものを作るっていうのは、
わりと奴隷というか、わりと下級階層、下の階層の人たちが仕事で職業的に作るものであって、
で、これを、これの技術じゃないんだよ、この技術って言ってるのは、ここで言ってる技術は。
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これの技術ではなくて、その、生きるために必要な食能としての技術ではない技術っていうか、
まあ、ここで言ってる古代ギリシャの場合のその技術っていうのは、医学とか建築法だとか、弁術論とか料理法っていうようなものらしいんですけど、
どっちかっていうと、ある程度裕福で、裕福だから別に仕事しなくてもいいわけですよ。
自由人として創作活動的に、政策活動的に、一般的に行う知識とか能力ということを技術と言ってるんだよね。
医学とか建築法って今で言うと職人的な技術っていう部分もあるのかもしれないですけど、
まあ当時で言うともうちょっと創作的な余りな技術なんだよね。
だから、新しいことを、まだ全然未開で新しいことを学ぼうっていうような部分の技術。
ちょっと混乱してきた。
医学とかそれがどっちって言ってましたっけ?
それがここで言うテクネっていう意味の技術。
その職人的な技術ではないんです、そこはまだ。昔はね。
まだ確認されてなかったってことね。
そうそうそうそう。もうちょっと探求的なものだったんだよね。
そういうもののっていう意味の技術っていうのがテクネっていう言葉なんで。
どっちかっていうと、そういう意味では、何ていうの、ものを作るための術っていうよりは、
なんかこう、めちゃくちゃ広い意味で、何かを知ることみたいな、探求していくことみたいなことだったんだよね。
まだ未開拓で、みんなができるようになってないというか、コミュニティになってないような領域っていうこと?
まあまあまあ、そうだね。
まだ誰も知らない部分みたいなものを創作的に考えていくっていう部分が、技術、当時の技術でテクネっていう言葉だった。
で、その後、ローマ帝国で一神教のキリスト教みたいな宗教が広まっていって、
知ること、さっき言ってた広い意味で知ることっていう意味する言葉が、ラテン語で明確に分類されるんですよ。
それがスキンティアっていう言葉とアルスっていう言葉なんだけど、
スキンティアっていうのはサイエンスの元になった言葉ですよ、どっちかっていうと。
で、そのSkinTeaっていう、まあ、サイエンスに基になった言葉は、
その、神によって作られたもの、いわゆるまあ、自然とかだよね。
ネイチャー、自然みたいなものを知ることが、まずそのサイエンスに動けになったSkinTea。
で、人間が作り出したものっていうのを知ることっていうのがAlice。
まあ、どっちかというと、人工的なものを知ろうとする活動がAlice。
アートに近い言葉として分類されていったっていうような感じ。
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だからアートっていうのを辞書とかで調べてみると、人工のとか人為みたいな意味も入ってたりするんですよ。
それはそこから来てたりするんですよね。人間が作り出したものを知ることみたいなところの文脈があるから、そういう言葉が入ってきてるみたいな。
で、その当時、分かりやすいアートでいう絵を描いたりとか彫刻したりする職人たちっていうのは、
その当時まだアルスには含まれていなくて、
本来の意味ではそのアートに美術っていう意味は含まれていないんだよね。だからそういう意味では、そのシルクo等だったり、
技術的なものであったりするわけだから。
だから、わりと海外の大学とか、欧米の大学とかで特にあるのが、アーツ&サイエンスとか、リベラルアーツっていう言葉があるじゃないですか。
これっていうのは、教養学部とか教養科目軍っていうのを指してるんだよね、意味合いとしては。
そこに別に芸術的なものとか美術的なものって含まれてないわけですよ、その意味合いとしては。
これはどっちかというと人工のとかそういうものに近くて、あと知ることとかそういうことの意味に近くて
であえてその美術とかっていうのを指すっていう場合は、そのファインアートとかビジュアルアートっていう言葉を使うんだよね
なるほど
アートという言葉っていうのはやっぱりそういう人工人員のみたいなのがあって
もうちょっとその絵画的なビジュアルアートによった考え方を言うと
キリスト教だから神が神自身の自らに見せて人間を作ったことっていうのがネイチャーみたいなものだったとして
それを人間が岩を削り出して人体彫刻みたいなことを作ることっていうのが
割と人工的なものじゃないですか それに対して
これが芸術とか美術っていう意味合いに繋がっていくんですよ
なるほど。
まず、だから知ることみたいなこととか、人工、人為のっていう意味合いがあって、
人間が人体彫刻みたいなのをして、頑張って作っていく人工的なものっていうところから、
芸術とか美術っていうところに、意味合いにつながっていくっていう感じなんですよね。
なるほどね。
それが割と西洋的なアートっていうものの考え方というか、そういうふうにアートっていうのはこういうものだっていうのがあったんだけど、
一方で日本っていうのは、そういうアートっていう考え方っていうのは、基本なかったんですよ、そういう概念が。
明治時代ぐらいまで。
で、明治時代ぐらいになって、まとわる人が海外はアートっていうものがあるけど、日本にはアートっていう考え方が全くないから、これどうやって訳そうみたいな感じになったわけですよ。
で、まあなんで日本にそういうアートみたいな概念がなかったかっていうと、やっぱり結構それは宗教感とか文化とかにすごく
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基づいている部分があって、やっぱり欧米だと、いわゆる一神教のキリスト教があって、神がいてみたいな感じなんだけど、やっぱり日本はまたちょっと違うじゃないですか。
その多神教であったりとか、なんか自然への見方っていうのも違っていて、その欧米でいうと、自然っていうのは人間と明確に分けられていて、対立する存在として考えられているわけですよね。
わかりやすく言うと、ヨーロッパって結構広い田園風景みたいなのを思い浮かべる人も多いと思うんですけど、
昔からそうだったわけじゃなくて、昔はやっぱりすごい森林地帯だったわけですよ、鬱蒼とした。
それをめちゃくちゃ開魂して、わーって人為的に作ったものが今の田園風景なんだよね。
で、キリスト教の観点から言うと、森っていうのは悪魔が棲む危険な存在である、みたいなところがあるから、その自然を征服しようっていう、征服することが善、良いことであるっていう、キリスト教の考え方があったから、
そのそういうふうに、こう、伐採して切り開いていったわけですよ、そのバーッと。
まあそういう感じで、欧米だとどっちかっていうと、自然っていうのは、対立するもの、戦っていくものっていうとあれですけど、
なんかこう、立ち向かっていく存在であって、ただ神は、いふうの対象ではあるんだよね。
で一方日本っていうのはどっちかっていうともう地震とか台風みたいにどうやっても無理っしょみたいな抗えない自然災害みたいなのが頻繁に発生してるから
どうしてもこれはもう抗えない立ち向かえないわけですよ
だから受け入れざるを得ない存在なんですね自然っていうのは
だからその日本の場合まあ多神教とかまあ自然そのものが神だったっていう神っていう考え方があって
その山の神、海の神みたいな、獅子神みたいな、雷みたいな、その自然そのものがもう神になって、自然そのものが威富の対象であり、それを受け入れて
やっていこうっていうような考え方になっているっていうところがあって、さっきのそのアートに繋げると、そのアートは、
人間が自然を重して、人体を重してやっていくっていうのが芸術だっていう話があったんだけど、そもそも
日本にはそれ自体を抗おうっていう考え方がなかったから、そういうアートに近い概念というかそういうものがなかったっていう感じなんですね。
で、結構この辺の違いというか、日本と欧米のよくわかる例の違いで言うと、例えば庭園とかはすごくわかりやすくて、西洋の、王宮の庭園とかって、
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割と人工的な感じがすごくするんですよね。その機化学的なものがあったりとかっていうオブジェクトとして。
一方、日本庭園ってどっちかっていうと枯れ山水みたいな、山とか川っていう自然を模して作られているものが多くて、
すごく自然と対立しようっていうよりは、どっちかっていうと受け入れて、それを「if」の対象として見ているっていうような感じがすごくわかりやすいっていう。
ベルサイユ宮殿みたいな俳優を作られたやつだったね。
そうそうそう。あれは完全に人間が征服しようとして意識っていうのがすごく強く出てるわけですよね、そこに。
これは俺たちが作ってやったんだ、みたいな感じがすごく出てるわけじゃないですか。
でもどっちかっていうと日本ってなんか全然違くて、どっちかっていうと作ってやったっていうよりはどう自然に近づけていくかみたいなさ、そういう感じあるじゃないですか。
そっちの方が素晴らしいものみたいな。
自然を庭で再現するみたいな感じ。
そうそうそう。
あと料理とかでもそうで、フランス料理とか特にそうなんだけど、
フランス料理って香辛料、香辛料はめちゃくちゃ使うわけじゃないんだけど、
めちゃくちゃ煮込みまくったりして、なんか素材が湧かなくなるまで手を入れたりするわけ。
一方で和食ってどっちかっていうと、寿司とか刺身みたいに、なんか素材をどう生かして味わうかみたいな工夫、人手間みたいな下物っていうのが多くて
そういうところでも結構違うよね。その自然を受け入れて生かしていくのか、それと対立して、なんか人工的に作り出していくのかっていう部分の感じが
まあなんか地理的な条件とかいろんなものも相まってそうなったっていう感じなんですかね
そういうのも結構でも宗教感の方が結構大きいんじゃないですかね、影響度としては。
もちろん地理的なさっきの自然災害とかそういう文脈としてはあると思いますけどね。
宗教と地理って結構関連してるって話をよくYouTubeで僕も見たりとかしてたからね。
アラビア系のイスラム教のなんでこうなってるのかみたいな話とか。
その辺を全部ひっくるめて、そういう流れを作られてきたっていう。
そうそうそう。
あの辺は細かくは話さないけど、見てみると結構面白いなっていう話ですよね。
結構こういう違いっていうのは絵画でもやっぱり現れてて、
西洋のいわゆる油絵とかそういうものの絵って、その考え方、一つの考え方として、キャンバスがあって、
絵の具っていう素材、キャンバスと絵の具っていう素材を使って、表現したい対象にそれを変えていくっていうような考え方も、人為的に形付けていくっていうような考え方もできるわけですよ。
要は考え方の一つとして、キャンバスとか絵の具っていう素材という自然を否定したものがアートである、人工的に作ったものがアートであるっていうような考え方もできるんじゃないかなという、西洋の絵画っていうのは。
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ちょっと分からない。だいぶジャンプがあったから分からなかったんだけど。
一方で日本の場合ってなんか水墨画みたいな感じで、とか、昔岩絵の具ってあったんだけど、今もあると思うんだけどもちろん。
自然から得た素材そのものがまず素晴らしくて、それを生かした描き方をしようっていうふうにするから、
例えばリンゴってさ、リンゴの赤い色があるじゃないですか。
だけど、岩絵の具でその赤と全く一緒の赤って再現できなかったりするわけですよ。
でもそれでもこの岩絵の具綺麗だからそれがいいよねっていうような描き方をするわけです、日本の場合は。
まあだから要はその再現することが重要なんじゃなくて、その素材をどう美しく使うかっていう部分がその日本では重要視されていたってことでね、要は素材をどう生かすかっていう部分が。
そこがなんかこう割と西洋と日本のその絵画っていう部分での考え方というか違いがあって。
で、あと日本だと、なんて言うの、古典絵画とかだったら、余白の美みたいな言葉があったりするんですけど、
これも考え方によっては、余白を作っているっていうのは、その余白、埋めないわけじゃない、そこをなんか油絵の具でバーって埋め尽くさないわけじゃないですか。
埋め尽くさないっていうのは、その部分、例えば和紙だったりするかもしれないけどそこは、
その素材を活かした結果という風にも考えられるかもしれないっていう、そういう違いがあって
そもそも油絵とかだと余白は残さないもんなんですか?
そうですね、油絵は基本
キャンバスは自分の色は見せないってことなんですか?
そうそうそう、基本的には全部埋め尽くしますね、というかもう下地をまず塗るみたいなことがあったりするから
下地を塗った上で、その上にまた重ねて塗っていくみたいな感じだから。
余白って言ったら下地っていうこと?
まあそうだね。ここで日本の古典絵画でいう余白っていうのはもう下地ですね、ほぼほぼ。
何も描いてない領域ってことですね。手をつけてない領域。
まあだからちょっとひねくれた見方かもしれないけど、そういう部分を含めると、日本の方がやっぱり素材をどう生かすかっていう部分。
再現することが重要なんじゃなくて何かしらを、むしろその素材をどう生かしていくかっていうことの方が重要っていうふうに考えた文明化があって、
結構だからそういう意味で、人工的に何とかしてやろうっていうのと、自然を受け入れてそれを生かしていこうっていう考え方の違いが明らかにあるので、西洋と日本では。
そういうのもあって、アートっていう概念っていうのが、ずっとなかったわけですよね、日本には。
で、それを、まあ、無理やり芸術だとか美術みたいな言葉に、こう、落とし込めていったみたいなのがあって、
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まあ、その芸術っていう言葉からどういう感じを得る、なんかこう、得るのかとか、美術っていう言葉からどういう感覚を得るのかみたいなのって、
まあ、人によって違うかもしれないですけど、まあ、結構大きいような気がするんだよね、その、この言葉にしたっていうのは。
例えば美術なんてさ、美しい術って書くわけじゃないですか。美しくなきゃダメなんじゃないの?みたいな感じに見えてしまったりもするんじゃないかなっていうその。
気づらとして。
これって、そうそうそう。でも語源となるアートっていう言葉とは若干違うような気もするんだよね、やっぱりそれって。
そうですね。
だから結構その辺でアートっていうものに対する考え方って、結構人に影響、言葉から影響を受けている部分ってあるんじゃないかなと思っていて、
そういう誤解っていうのは結構多くあるような気はしていますね。
で、もうちょっとそのアートって言っても、絵画寄りの部分によった部分で、ちょっと話していくと、
そもそも絵画、絵描きとして、仕事じゃないけど、職業として成り立っていくには、もちろん金銭的なものが必要なわけじゃないですか。
暮らしていけなくなるっちゃうから、お金がもらえないと。
昔から購入する人とか、依頼者があって成立してたわけでね、仕事として。
これが欧米の方の中世までは、教会とか王公貴族っていう位の高い人たちだよね。
が製作者、職人とかに依頼して、それを注文通り製作するという、本当にどっちかというとアートっていうよりは職人としての技術のみが要求されてたわけです。
一番最初は。職人ですね、本当にそこは。
だからそこに制作者個人としての考えは必要なかったわけですよね。注文通り作れよって話だから。
で、そこからルネッサンスの時代になって、画家自身の思想とか感覚みたいなのがすごく重んじられるようになっていくわけですよ、だんだん。
なんでそういう風になっていったのかっていうと、そういう風な芸術家みたいなものが誕生していくのかっていうと、
それはまあやっぱり、やっぱお金を払ってくれる人がそれを求めたからなんです。
当時でいうと、王公貴族とか貴族の人達だよね。
それを求めたからそうなっていったんだけど、なんでそれを求めてたのかっていう風になると、
その他の貴族がまだ知らなくて、しかもその価値もまだよくわかってないようなもの。
まだみんな知らないから価値が定まってないわけですよ、そのもの自体はね。
その価値の理由っていうのを自分だけが知ってるってことに優越感を感じるわけです
そういう、どっちかというと新しい価値観を作り出すっていうようなことに熱心だったわけですね
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パトロンになる王国貴族とかは、富裕層みたいな人たちは
そういうところから芸術家が昔、ただ注文通り制作する職人だったっていうのが
ちょっとずつ自分の考え方みたいなものを取り入れて、というか、作品の中に表現していって、それが評価されて価値がつくというような流れにちょっとずつなっていくんです。
その場合でいうと、その分脈では単に技術的にすごく優れているというだけじゃ満足できなくて、どう独創的で斬新なのかという作品を求めたわけだけど、
わかりやすいところで言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチとかはすごくわかりやすくて、レオナルド・ダ・ヴィンチって画家でもあったんだけど、
いろいろ数学者でもあったりとか、医学系の部分もいろいろやってたりとか、いろんな考え方を持ってる人だったんだけど、
そういうふうに独自の着想とか感性を持つ知性がある画家とか芸術家がすごく求められたわけですよ。
そういう人たちを、まあパトロンたちはこぞって評価して、こう価値、これはすげー価値あるんだ、俺が持ってるんだぜみたいな感じで、こう自慢していくみたいな。そういう感じだったんだよね。
なるほどね。
だからどっちかっていうと、この文脈でいうとアートっていうのは、その、絵画そのものを楽しむとか感じるっていうよりは、どっちかっていうと作者の思想とか感覚みたいなものを楽しむものみたいなものに近いわけですよ、その感覚的には。
うんうん。
こういう風に考えて、こういうものを描いたんだぜっていう文脈を含めて楽しむみたいな。
絵画はそういうような感じなんだよね、そのアートっていう文脈では。
割とさ、すごい評価されて、めちゃくちゃ有名な画家でもさ、
なんかすごい、これ小学生か幼稚園の人たちは描いたんじゃないの?みたいな。
なんかこんな絵が評価されんの?みたいな絵があったりするわけじゃないですか。
で、それってなんかこれ、じゃあ誰でも描けんじゃんみたいな感じになるんだけど、
もちろんだからそこがさっきに、さっきのそのなんていうの、作者の思想だとかどういう考えがあって、
こう、どういう文脈でこう描いたのかっていうのが重要だからっていうのがもちろんあるんだけど、
まあでもなんかそういうのを描けるんだったら別になんかいろいろ勉強する必要性ないんじゃないのっていうところももしかしたらあるのかもしれないんだけど
いやでも実際やっぱりそれはそんなことはなくてまあ言った通りやっぱりその表層的なものでしかないわけじゃないその
絵画そのもの自体は
すごい賃金な、誰でも描けそうな絵だったりするのかもしれないけど、それ自体は重要じゃないんだよね、やっぱり。
まあそれは、何だろう、媒体としては重要なんだけど、それ自体ではない、本当に重要な部分っていうのは。
だから、独自の発想だとか思想っていうのがどこにあるのか、どう主張があるのかっていうのが重要なんだけど、
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それを作り出すために、今までどういうものがあったのかとか、世界がどうなっているのかっていうのを知る必要性があると。
そこが学ぶべきところなんだっていうアートのね。
だから結構そういう美術系というか、芸術系だと、その過去の技法だとか、どういう絵があって、どういう風な考え方でっていう部分を学ぶっていうのは、そういう文脈で重要なんです。
で、それを学ぶっていうのはどっちかっていうと、なんていうの、それを模倣するために学ぶわけじゃなくて、その技術を知って、それを使わないために学ぶっていう文脈があるっていう話があって、
それが結構面白いなと思うんだよね。 なんかなんでかっていうと、そのさっき言ったように独自の着想とか感覚とか、その手法、もしかしたら手法かもしれないし、なんか表現みたいなのを作っていかないと評価されない、価値が出ないっていう文脈だから、
過去のものを魔法をしても全く意味がないわけです、そこは。ただの魔法でしかないから。
それをむしろ、それを知った上で、受け入れた上で、それを否定していくってことをしなきゃいけないわけだよね。どっちかっていうと。
なんかよく、型破りと型なしっていう言葉があるじゃないですか。
型破りっていうのは、型がまずあって、それをどう壊していくのか、破っていくのかっていう考えたんだけど、
型なしっていうのは、そもそも型がなくて、何もないところから、ただ自由に描いてあるものだけ、自由にしたものっていうような感じなんで、
全く考え方が違って、何も知らないで作るのと、知っている上で、それをどう変えていくとか、どう違うものとして表現していくのかっていうのは、全然違うものなんだよね。
だから、やっぱりそういうアートに昇華するっていうことのためには、画面に描かれていることっていうよりも、どっちかというとやっぱり見えてない思想だとか哲学みたいな内的な問題が問われているような気がしていて、
これは別に絵画に限らず、例えば文学だったら、業館を読むみたいな、書かれてない部分に最大の大事なことがあるみたいな、そういう感じの部分ですよね。
それがアートには不可欠な部分だっていうような話ですね。
で、このやっぱり独自の主張をするっていうのはやっぱり何かを否定する、
まあもしかしたら問題提起をするに近いのかもしれないですけど、その否定をするっていうのが。
っていうのがやっぱり重要なんじゃないかっていうふうに思っていて、
何を否定するのかをこう意識にあげるようにする必要性があるんです。
それってどういうことかっていうと、一方でやっぱり絵として描いた絵画の方も重要なわけで、なんで重要かっていうと、
この絵画によって何を否定してるのかっていうのがわかるようにしなきゃいけないわけだよ。
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っていう意味で重要なんだよね。
だからそこをわかりやすく伝えるための手段みたいなものとして絵画があるみたいな。
俺はこれを否定してるんだみたいなことをすごく絵で表現するという
要はアートは独自主張であり否定であるみたいなことですよね
すごくめちゃくちゃ端的に言うと
これまでの世界の見え方とか考え方、哲学とか思想とかさっき言ったように
それが書かれたものが優れたアートであって、みんなが共通して持っているような社会的観念みたいな、いわゆる一般共通教養というかステレオタイプじゃないんだけど、悪い方言うとセレポタイプみたいになっちゃうんだけど、そういう考え方、共感されるようなものっていうのは別にアートになり得ないわけですよ。
これっていうのはやっぱり見方を提示してるとも言えていて、その考え方を提示するっていうのは見方を提示するというか、見方っていうのは物の見え方みたいなことですね。
否定をするっていうのも、なんか世界を否定するみたいな考え方からもうちょっと違う見え方を提案するみたいなことにも近いわけですよ。
で、絵画の歴史というか、なんかそういうものを見ていくと、有名なやつだとキュビズムとか印象を張ってあるわけじゃないですか。
で、あれも同じで、キュビズムの場合だったら、その物の存在っていうのは、例えば自分から見た景色だったら、割と一次元的なものでしか見えないわけだけど、
それを多次元的に、いろんな方向から見た見え方っていうのを表現しようとしたのがキュビズムなわけですよね。
っていう一つの見え方を表現したもの、キュビズムは。印象派も同じで、印象派の場合は、ものの存在自体を絵画に落とし込むんじゃなくて、
僕らはそのものの存在を見ているようで、実はその光とか空気を見ているんじゃないかっていう考え方があって、まず。
それを絵画で表現しようとしたのが印象派なんです。
だから印象を張って、若干こうふわっとした雰囲気の絵になっていることが多いっていうかさ、
キラキラした、ふわふわした、明るい印象のものが多いと思うんですけど、
どっちかっていうと、そのものっていうものを表現しようとしているわけじゃなくて、
光とか空気感みたいなものを絵画に落とし込もうとしたから、
そういう世界の見方があるよねっていうのを提案しようとしたから、そういう表現になってるんだよね。
思想の表現であるから、その思想の考え方の違いで派閥ができて、それが何たら派っていうこと?
そうそうそう。その画家の場合どういうものが評価されるのかとか価値を持つのかっていう基準で考えることになると、
それがより新しい、今までにないもの、新しい見方だとか世界観みたいなものをどう表現するかっていうことの方が、アートの場合は重要視されるわけでね、そこで。
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だから結構ここまででだいぶアートとは何かみたいなのが、だいぶ掘り下げられてきたと思うんだけど、
デザインとは決定的にやっぱり違う感じがあるわけじゃないですか、そこで言うと。
結構デザインってやっぱり自分以外の他社とか社会みたいなものを理解しようみたいな感じで、
そこをまず掘り下げて、考えて、提案して作り出していくっていうものじゃないですか、基本的にデザインっていうのは。
アートっていうのは全く逆で、自分の内面みたいな部分を徹底的に掘り下げなきゃいけないって言われていて、たださっき言ったように世界も知らなきゃいけないんだよ。
世界も知った上で、それと自分との差が、差異みたいなもの、差がどこにあるのかっていうのを見つけ出した上でそこを掘り下げていくっていう作業なんですよね。
だから、全くデザインとは別で、デザインは社会の方を放り下げて見ているのに対して、アートの方は自分自身を結局見つめていくことになるっていう、世界観になるんですよね。
ここまででだいぶデザインとアートの違いっていうのが、くっきりわかるように、デザインを知っていれば、ある程度知っていればですけど、わかるんじゃないかと思うんですけど。
なんか1個、そうだな、すごく似てそうで違うものとして、スペキュラティブデザインっていうものがあって、それの話をだいぶ前に確かしたと思うんですけど。
エピソード60とかかな。#60とかでしたと思うんですけど。
これの違いって、結構、よくよく考えてみないと難しくて。
スペキュラティブデザインも、問題提起っていうようなものを前提としたデザインなんだよね。
だから、問題提起っていう意味では非常によく似てるんだよね。
アートも何かを否定して、その問題を提起するようなものであるから。
ただ、どういう部分が違うかっていうのは、スペキュラティブデザインを考えてみるとわかるんですけど、
スペキュラティブデザインっていうのは、例えばもしこんなものが世界に当たり前であったらっていう風になった時の、
こう、なんていうの、あった、そういうふうになったらっていう現実味を帯びた「if」の世界を具現化することで、
その上でその世界のあるべき姿やどういう未来があるべきかっていうのを、
まあ、想像してみてくださいねっていうような試みなんだよね。
まあ要は投げっぱなしなわけですよ、スペキュラティブデザインっていうのは。
そこから先は自分たちで考えてねっていう、そのきっかけ作りをしますよっていうのがスペキュラティブデザインなんだよ。
ただアートっていうのはやっぱりも子が持つ絶対的な主張がまずあるわけですよそこに
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これは子なんだよみたいなのが
だからまあそういう部分でなんていうのあくまで考え始めるための装置をデザインしてみようっていうのとは
圧倒的に違うわけですねそこのアートとスペキュラティブデザインっていうのは
なるほど
この辺はねスペキュラティブデザインのエピソード多分聞いてもらうとよりわかるのかもしれないですけど
具体例も含めて
そういう意味でもやっぱりアートとデザインっていうのは全然違うもので
なんかすごくデザインとか仕事でやってると
すごくアーティストっぽいような感覚を得る時ももしかしたらあるかもしれないですけど
やっぱりそこってすごくよくよく考えると
アートじゃないなっていうところに落ち着くところはやっぱりあって自分の中で
どこかしら、デザインなんだけど、ただね、すごく難しくて、感覚的にアートなんじゃないかって思うところもあるんだよね、そこって。
なんかよくわかんないですけど、そもそも、いわゆる美大出身の人とかが、これはアート、これはデザインみたいに、そのカテゴリー分けを気にするのはなんでなんですか、そもそも。
これは評価の方法が全然違うからですね。
なるほどね。
いいデザインとされるものといいアートとされるものの評価の方法が全く違うからなんですよ。
それはまあ分かります。
だからそこで、そこで「これはいいアート、すごいアーティストっぽくていいね」って言われると、
なんかもう全く違う評価をされてる感じになっちゃうから、気にするんですね、そこで。
いいデザインではないよねって言われちゃうことになるわけ。
そこで、反対的な意味として。
なるほど。
だから、すごく気にしている部分だと思いますね、そこは。
なるほどね。
これでアートが何かっていうのが分かりましたかね?
分かりました。
分かった。分かった。けど、なんて言ったらいいのかな?
僕はまあ、アート一切かかって、コーナーを買ったんですよ。
大学はまあ、多少デザイン寄りだったけど、エンジニアリングとデザインだったから、
完全にこう、なんていうんですか、自分の自己主張をどう表現してみたいな、そういう文脈の話は一切教育としてないわけですよ。
基本的に道具をどう作るかみたいな話。
だから今の話を聞くと、
なんか改めて、
今みたいな話を、例えば美大とかでは、
なんですか、その、
大学入ってすぐにそういう授業があるわけですか?
なんか、アートとはみたいな。
ああ~。
僕の場合はなかったんで、
わかんないですけど、
授業自体はなかったんで、わかんないですけど、
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でもあんのかもしれないですね。
そもそもそれだけ考え方が違う中で、スキルとして絵を描くなり学んだりするというところの共通点でデザインとアートが結びついているわけじゃないですか。
元々は一緒なところからスタートしているしね。
マインドは全く違うわけじゃないですか。
その中で、よくデザイナーは美大卒じゃないといけないのかどうなのかみたいな話ってあるけど、
そういうことを聞くと、アート的なマインドで教育を受けて、デザインスキルを身につけてデザイナーになるっていうのが、
なんていうのかな、結構なんかマインドのギャップが大きいんだなっていうのは改めて思うところではありましたけどね。
要はエンジニアリングを大学の時に受けてて、それでその後デザインを学んで僕は今みたいなタイプの人間になったんですけど、
それはなんかマインドのギャップはないんですよ、単にプログラムを描いてるのか、フィグマイジーっていうのかの違いでしかなくて。
マインドの違いは全くないんですよ 課題解決という軸で
でもなんかアートの教育を受けて デザイナーに商業デザイナーになったとします
UIデザインになったとしますってなった場合って マインドが大きく変わるわけじゃないですか
スキルは一緒かもしれないけど
っていう難しさがあるんだなっていうのを 聞いてて思いましたけどね
でも本当にそこだけだと思いますね
ただやっぱり、美大からデザイナーになるとかが多いっていうのは、
デザインには考え方も必要だけど、それを表現する技術も必要なわけだよね。
うん、そうですよね。
別にそれ自体がすぐものになるってわけじゃなくても、相手とコミュニケーションを取る必要性もあるわけだから、
それをどう表現していくかっていうのが、単純にテキストだけなのか、それとも絵なのか、アニメーションなのか、実際のものなのかによって全然変わってくるわけだよね。
そういう意味で、技術としての、ここでいう技術は知ることっていう意味の技術じゃなくて、単純に物を創作するための技術ですね。
形作っていくための技術っていう まあその能力が美大の方が優れているっていう分脈でデザイナーとして優れている部分が
優れている人になりやすいというかまあそういう訓練を受けているからね
っていう分脈があるっていうだけですよね
スキルとマインドの切り分けが必要だっていう
いやまさにそうでなんかこの本の中でもデッサンについて話があったんだけど
元々この造形の基礎っていう、アートに生きるデザインを生きるって、
章で言うと、1章が美術大学で何を学ぶのか、2章はアートを学ぶ、3章はデザインを学ぶ、っていうような感じで、
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明らかにアートとデザインを対立するものとして書いてるわけですよ、この本体は。
で、それってどこから企画が立ち上がってきたかっていうと、
やっぱりこういう武蔵美術大学の中でも アート寄りの先生とデザイン寄りの先生で
考え方が絶対違うわけじゃないですか 当たり前だけど価値観が違うから
だけど基礎的な技術としてもデッサンはあるわけですよ 両方に デザイン側にもアート側にも
そうなったときにデッサンの教え方に関して すごく対立が生まれるらしいんですよ そこで
デザイン系だったらここはこうだろみたいのがあって、アート系だったらここは別にこうじゃなくていいみたいな感じの、すごい対立があって論争があるらしいんです、そこに。教授陣の間で。
その文脈からちょっと整理してみようというか、どういう違いがあるんだろうというのを考えようというところからこの本が生まれてるらしいんですよ。
なるほどね。
で、その中の一つ、一番最初にやったデッサンっていう部分で、共通してあるんだけど、全然違う文脈のものだよねっていう、
住み分けというか、書き分けっていうのはやっぱりしてあって、
アートの文脈だったら、デッサンっていうのは別に成功に何かを書くものではなくて、
どっちかっていうと、デッサンさえも表現の手法なんだよみたいな感じの書かれ方してるわけですよ、その考え方として。
なるほど。
まあ要は、なんていうの、完璧に描かれた、さっきで言う油絵みたいに全部塗りつぶしたものっていうのが、一つのアートっていう考え方もあるし、
表現の手法としては、ちょっとサラッと描いた、デッサンっぽいものすらも、それはなんか別にアートですよ、アートの表現としてはありですよね、みたいな感じのものがあって、
しかもそこになんか、すごくきちんとそれを描写でき、ものを、対象となるものを描写できてるかどうかっていうのも関係ないわけですよね、そこは。
そのアートの文脈で言うと。
ただもちろん、基礎的な技術としてのデッサンっていうのはもちろんあるんだけど、その表現技術、ちゃんと線が描けるかとか、
丸が描けるかとか、そういう部分はあるんだけど、
それは共通してあるんだけど、その先に行くと、アートの場合は、
いや、別にでも、ちゃんとした線引ければ、別にそのちゃんとした線を引こうが引かないが、
それはあなたの勝手だから、別にどっちでもいいですよ、みたいな感じになっちゃったりするわけですよ、表現の主法だから。
でも一方でデザインの分脈だと、ものを見る力みたいなものがすごく重要視されるわけですよね。
どう、世界を理解しなきゃいけないわけだから、その他者とか世界っていうものを理解しようとしたときに、それを正確に見るってことが必要になるわけですよ、まず。
そういう分脈からデッサンっていうのが重要視されていて、結構人間ってものを、世界を見てるようで、ちゃんと見てるようで、割と単純化して自分の中で見てるっていうところがあるんですよね。
要は見たいところだけ見てたりとかしてて、実は細かい部分をちゃんと見てなかったりするわけですよ。
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で、それをデッサンっていう行為、なんか過去、それを書き写すっていう行為をすることによって、よく見るっていう行為をすることで、その世界をちゃんと見ようっていうような訓練がデッサンなんだよね。
そのデザインでいうデッサンの役割というか。
そういう、こう、全く考え方が違っていて、
その、だから、アートの場合のデッサンとかだと、
結構、木炭みたいなので、
割と雑に描いたりするみたいなことが多かったりするらしいんですけど、
デザイン系の場合のデッサンの場合は、
鉛筆で結構精密に描くみたいなのが重要視されてたりするわけですよね、そこで。
うーん。
まあ、なんか結構、だからそういう、なんていうの?
同じデッサンっていう、なんか基礎技術の部分においても、
アートとデザインって全然違う考え方があるから、
そういう部分は、ちゃんとそれを知った上でどっちを自分はやっているのかっていうのを意識しないといけないっていう部分はあるよね。
なるほどね。
なかなかそういう思想の違いを見たのは、エンジニアリング系の大学ではない話ですね。
そうだね。
実際でも、僕がこれを学生の時にできてたかっていうと、全くできていないよね。
まあ、そうですよね。
こういう考え方があるっていうのは。
まあ、そうですよね。
なんかわかんないけど、ちゃんと描けばいいんやろうみたいな感じで、頑張って描くみたいなさ。
わかんないけど、入るモチベーションとしては、単に描くことが好きだったりとか、そういうこともあるわけですよね。
そうそうそう、あったりするだろうと思うしね。
でも、よくよく思い出してみると、ちゃんと先生はそういうことを言ってたような気がしてますね。今思い返すの。
まあ、大学はそういうもんですよね。
特に僕の大学の場合はどっちかっていうと、芸術っていうよりはデザイン寄りだったので、デザイン分脈的な、どっちかっていうとアートではないデザインの価値観っていうものをどう意識してもらうかっていうようなことをよく言ってたような気がしますね。
そのものの見え方の話もそうだったし。
この文脈でだいぶアートっていうものがデザインとどう違うのかっていうのは、だいぶ理解できるんじゃないかなっていうふうに思うんじゃないかなと。
それを聞くと、やっぱNFTアートはアートだなって思いますね。
結構アートな感じがしますよね確かに
デザインではないな
というかなんだろうな
NFTと呼ばれているものの中にも大きくアート
この間紹介したアートっぽいアートと
よりビジネスっぽいものがあるんですよ
技術として使っているNFTみたいなのもあるよね
そうそうそう
指標として使っているというか
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ボアドレープとかそういうやつなんですけど
はい
で、なんか最近
結構それは全部をひっくるめて
日本のメディアとかで
NFTアートとか言われるんですけど
なんかそれはちょっと違うよね
みたいなのがあったんですけど
そういう意味では
やっぱNFTというか
マイコントラクト、クリプトアートというか
そういうのの源流はやっぱその
純粋なアート活動そのものなんだな
っていう気は
ていうかそもそもビットコイン自体がそうなんだよなってのはありますけどね
まあまあまあそうかもしれないよね
思想として反政府的というか反中央集権的な考え方がある中での
こういうものが必要なんだっていってサイハーパン活動ですよ
でそれの中で出てきたものとしてビットコインというアレゴリズムというか
要は結構、考え方に対する絵画に近いよね。表現するものとして、それがビットコインだったっていうだけであって。
佐藤氏中本っていうビットコイン作った人って、強烈にそういう思想が強かった人だから、そういう意味ではやっぱアーティストなんだろうなと思うし、
逆にビタリックっていうイーサレアムの創業者とかいるんですけど、
その人はどっちかというともしかしたらデザイナー寄りなのかもなみたいな感じはありますね。
まあまあ中間かもしれない。
まあなかなかでもそこを完璧にこう澄み分けるのって難しいですよね、やっぱり。
なんかできるだけ澄み分けたいなっていう気持ちは僕の中にもあるんだけど、
でもなかなかそこをモヤモヤとした部分っていうのはやっぱりあるんじゃないかなって気がするんだよね。
でも二つ切り分けてやってる人もいるわけですよね。アート活動とデザイン活動を。
そうだね。でもやっぱりそこは究極的に言うと、他者を考えるかどうかだと言ってしまっても僕はいいんじゃないかなと思ってるんだよね。
他者を考えた瞬間にそれはもうデザインにかなり近づくんじゃないかなと思ってて。
じゃあ例えばアーティストの人になんか依頼するとするじゃないですか、お金を支払ってうちのこのアートワークをお願いしますみたいな、その時はその瞬間はその人がやってることがデザインになるってこと?
デザインになると思ってます僕は。
なるほどね。
少なからず何かをそこで他者を考えた瞬間にそれはデザインにかなり近づくんじゃないかなと思いますね。
なるほどね。
それが自分の表現だったとしても。
なるほどね、その辺が難しいよ
まあそこはまあ厳密にどこまで切り分けたりしても、あんまりそこまで意味がないので、あれなんですけど
まあでもなんかそういう自分の中の敷居というか、そういうものを持っておくっていうのは必要な気がするんだよね
自分が今何をしているのかとか、何を考えるべきなのかっていうふうに立ち止まったときにわかるから、そういうのは。
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指針になったりするから。
なので、ちょっとね、だいぶはしょって、デザインの話ほとんどしなかったけど、アートの話をだいぶしたんですけど、
結構ね、もうちょっとだから具体的な技術的な手法とかそういう部分も含めてデザインとアートの考え方の違いとかもあったりするから
まあ色々とその辺はまた別の本だったり、まあこの本もそうですけど、読んで見て考えてみてもらえるといいんじゃないか
まあ割と基本的な部分というか、なんだろう、抽象的な部分ばっかり今回はその考え方的な部分ばっかり話したので
さっきのデッサンみたいに、同じものでもデザインとアート両方にまたがって存在して、考え方が違うものみたいなのもあったりするわけだから。
その辺は皆さんおいおいというか、それぞれ学んでいたりするだろうし、学んでいってもらえるといいんじゃないかなと思いますね。
ということで、今回はそういうアートの話でした。
はい、リサイズHEMのご質問やご感想、リクエストなどハッシュタグ #リサイズHEMでTwitterにつぶやくか、小ノートにあるお便りのリンクから送っていただければ配信内で取り上げたりしますので、どしどしいただければと思います。
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ということで今回はここまで。また次回お会いしましょう。さようなら。
さようなら。
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