1. ブックカタリスト
  2. BC047『リベラルアーツ 「遊び..

面白かった本について語るPoadcast、ブックカタリスト。今回は、久しぶり?な気がする「ごりゅごが普通に喋る会」でした。

テーマは、タイトルにもある通り「リベラルアーツ」

なんですが、個人的にはこの本はBC039「現代のインターネット環境と退屈の哲学」から繋がる「幸福論」の一つとして解釈した部分が多いです。

きっかけは、ブックカタリストの読書会でこの本を紹介してもらい、そういえば自分は「リベラルアーツ」ということばの意味をきちんとわかってないし、考えたこともないかもしれないな、というところから。

そんなことを考えながら読んでみて、もっとも自分の印象に残ったのが7章の「江戸に遊ぶ編」でした。

ここは、主に(著者が大変好きであろう)杉浦日向子さんという、漫画家、江戸風俗研究家の方の著書を参考にしたエピソードも多く、杉浦日向子さんの著書を読んでみよう、と思えるきっかけにもなりました。

今回は「こうやって読みたい本が増える」みたいなパターンの、もっとも典型的なものの一つを体験できたという感覚です。

電子書籍を積んだ状態になっていた下記2冊なんかも、この本きっかけで「読んでみようかな」となっています。(2章が古代中国の六芸の説明)

本の内容自体は「一言で結論を言ったらいかんやつ」「考えるという過程が大事」というタイプのものなので、リベラルアーツってなんなん、という「答え」は簡単に得られるものではないんですが、本の中身自体も「古代ギリシア・古代ローマ」的な話から古代中国や、日本の江戸時代。歴史的なところだけでも様々な時代から学ぼう、という幅広いもので、こうやって「いろいろなことを学ぶ」ことを通じて考えることがリベラルアーツに繋がる行為なんだろうな、ということを考えることはできるようになりました。



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サマリー

ポッドキャストエピソード『リベラルアーツ 「遊び」を極めて賢者になる』では、遊びを通じて人生を楽しむ技術であるリベラルアーツについて語られています。遊びの定義やリベラルアーツの源流、日本における歴史などが探求され、リベラルアーツという言葉の誤解を解くために、リベラルアーツが遊びとアートを通じて自由を追求するための技であること、日本と西洋の文化や教育の違いが歪んだ理解につながっていることが考察されます。さらに、フリーダムとリバティの違いや仏教における自由の概念についても検討されます。エピソードは3つのチャプターに分かれ、最初のチャプターでは、リベラルな自由とは何かというテーマが取り扱われます。次のチャプターでは、江戸時代の遊びの文化について話が展開され、遊びを通じて自由を得る方法が探求されます。最終的には、AI時代における遊びとリベラルな生き方について考えられます。

目次

リベラルアーツの基本
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第47回の本日は、リベラルアーツ 遊びを極めて賢者になるについて語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
なんか最近はスペシャルなシリーズがいっぱいあって、なんか久しぶりな感じがするんですが。
確かに。
goryugoが読んだ本について語るターン、どのぐらいぶりかなというやつです。
今回の本は、ブックカタリストの読書会で教えてもらって、そこで興味を持って読んでみたら、ちょうど自分が今考えていることと相性が良かったというのもあって、
これは良い本だな、ぜひ紹介したいなと思って選んだ本です。
なるほど、簡単な書士情報をいただければ。
2027年6月にシュウエイシャインターナショナルから出ている、著者が浦久俊彦さんというやつ。
赤系の新書って言ったらいいんですかね、シュウエイシャの。
そうですね。
著者のことはあんまりよく知らなかったので、ざっと調べてみると、型書き文化芸術プロデューサー、文筆家というお仕事をされている方らしく、
調べてみると、過去にクラシック音楽の入門っぽいような新書を何冊か書かれておりました。
こういう分野の本というのは、たぶん1冊目ではないかなと思います。
ちなみにどういう本なんでしょうか、概要で言うと。
どっちの本、この本?
この本。
この本はね、すごい雑な分類をすれば教養書、リベラルアーツという教養を学ぶための教養の書。
一応、だから自己啓発的な内容が含まれているという感じ?
ないとは言わないけれども、正直その部分は自分はほぼスルーしていると思うのであるとしても。
最後の方は言ったら自己啓発っぽい部分はありましたが、少なくとも本編ではほとんど触れることはないと思います。
なるほど。
本の中にも出てくるんですけども、若い頃に学校の先生に1たす1について、
足しても1にならないものってありますよね。水の粒と水の粒を足しても1にならないですよね、みたいなことを言ったら、
先生がこのクソガキがみたいなこと言って、お前みたいな奴はろくな大人にならんっていう感じで怒られたらしいんですよね。
なるほど。
で、それが超ムカついて、もう俺は日本の学校なんて辞めるって言って、若くしてフランスに行って、
そこでいろいろ苦労しながら日本に戻ってきていると言えばいいのかなっていうような経歴があるみたいな方で、
本編でも触れるんですけど、やっぱり外国に行くことによって日本人であるというアイデンティティが確立されただとか、
そういうような要素もあったりして、非常に教養という言い方をすればいいのかな。
ゆっくり考えましょう。リベラルアーツというものについてじっくり考えてみましょうということにすごく良さそうな感じでした。
なるほど。
で、大雑把な全体の流れとして、
最初にさっきの先生にクッソムカついて学校辞めたみたいなことを話していたりだとか、
リベラルアーツとは何なのかみたいなのを軽く触れてから、まずリベラルアーツの源流を知ろうと。
リベラルアーツというものがそもそも西洋の概念なので、やっぱり西洋の知識というか世界の捉え方みたいなものを分かっていないと、
なかなか理解しがたいことがいっぱいあるぞっていうようなこともいっぱいあって、
西洋のリベラルアーツの原理となったものだとか、似たようなもので中国にもそういうルーツみたいなものがあったりだとか、
日本の観点から見た西洋のリベラルアーツ、日本にリベラルアーツというものがどういうふうに帰ってきたかっていう大雑把な歴史みたいなものを振り返りつつ、
その次がリベラルという言葉とアーツ、アートのアートですね、単数で言うと、っていう言葉をちゃんといろいろルーツを考えてみよう。
そこまでが大きく前編って言ったらいいんかな、リベラルアーツの基本。
後半としてリベラルアーツって何なんて、著者は簡単に言うとリベラルアーツとは遊びだって言ってるんですよね。
遊ぶための技としてリベラルアーツってどういうものなんだろうっていうのをいろいろ考えていく中で、
一番面白かったのが江戸時代の江戸の住民というものが遊びの達人だったんじゃないかっていう話があって、
そこのエピソードとかいろいろありつつ、実際に我々がリベラルアーツを生活とか仕事で役に立たせるためにはどういう感じのことをしたらいいんじゃないかみたいなことが書かれていて、
最後第3部は割と著者の主張というか、こういうことがやりたいみたいなことが話されていたという感じかな。
なるほど。ちなみに本書ではリベラルアーツと呼ばれているものはニアイコール教養という理解でいいんですかね。
遊びとリベラルアーツ
理解でいいと思うんですけれども、割と教養という言葉に対しては著者はあまりいい印象を持っていなくてっていう雰囲気はあるのかな。
そこも日本に入ってきた過程でっていうところでいろいろ触れられてるんですけども、すごく大きな括りで言えば教養だと思うんだけれども、
世間一般で言う教養みたいなイメージだと、やっぱりリベラルアーツってそうじゃないと思うということを言っているイメージ。
あー、著者が言うリベラルアーツは現在僕たちが名指しているような教養とはちょっと違うということが言いたいと。
ちょっと違うと捉えているという印象でしたね。
なるほど。
強く否定とかもしていないし、そんな教養ではないみたいな言い方はもちろんしていないんですけれども。
もうちょっとなので根本的にというか、さらに言うとリベラルアーツにやっぱり答えはないっていうのが最終的な答えではあったんですよ。
そういうことも含めて、やっぱり倉下さんがこれまでに何とか紹介されていた重要なのは結果じゃなくて過程だっていう本だったかなっていう。
だからシンプルに結論を言ってしまったら多分誤解するというか、あんまり意味がない本というのかな。
リベラルアーツについて考えていこうという本ですね。
そうですね。どちらかというとそう受け取った方が良いですね。
だから多分リベラルアーツについて考えるということは、おそらくリベラルアーツを好意するということに含まれることだと思うっていう。
そういう複雑な入れ子構造にもなっている気がします。
ちなみに副題は別にドラクイを意識しているわけではないですよね。
あります。ちょっとエピソードが出てきます。
なるほどね。了解です。
強くっていうわけではないんですけど、それ面白いからそれならっていうので最初に話しておこうかと思うんですけど。
著者はそもそもリベラルアーツというものを一言で集約する日本語に当てはめるなら遊ぶっていう感じ。
言うっていうのがリベラルアーツの日本語訳として適当なのではないかということを割と序盤に言ってるんですよね。
例え話としてというか、我々の世代なら絶対わかると思うんですけど、
ドラゴンクエスト3の遊び人のエピソードというものも触れてあって、
ドラクエ3で画期的だったのが自由に仲間を選べて、
ダーマの神殿で転職ができて、
その中で特別な職業として僧侶の呪文も魔法の呪文も使える最強キャラ賢者っていうのがいるんですよね。
賢者になるためにはモンスター、ダンジョンをクリアして悟りの書っていうものを手に入れてきて、
レベル20になると賢者になれるっていうのがドラクエ3の割と大きなターニングポイントというか、
ハイライトの一つだったりするんですけども。
そのドラクエ3で選べる職業に何の役にも立たない遊び人っていうキャラクターがいて、
遊び人というやつはレベル20まで上げれば悟らなくても、悟りの書がなくても賢者に転職できてしまう。
著者が言ってるのはこれは非常に示唆的な出来事で、
遊びの経験というものを十分に積むことができたら、
何かに頼って悟るということをしなくても悟りに得た賢者になれるんだ。
我々は遊ぶことによって悟ることができるし、
逆に悟るためには遊びがないといけないっていうような話が出てきて、
クラッシュさんがまさに予想していた通りのその話は出てきます。
ちなみにこの遊びと悟りの文脈で、遊びとは何か、悟りとは何かが定義されているのか。
さらに言うと、遊びというものがそもそも定義ができないところが遊びなんですよね。
そこがリベラルアーツの難しさでもあるし、楽しさでもあるし、
遊ぼうって言われて何するってないじゃないですか。
大人になるとだんだん遊べなくなってくると思っていて、
大人になると飲み会でしかクラッシュさん遊ぼうってしないんですよね。
確かに確かに。
それは結構本質をついているような気がして、
遊びを我々は忘れてしまっているし、遊ぶということを結構できなくなってしまっている大人になると。
そういう点でも遊びというものはまず定義がない。
そして定義がないからこそ遊ぶためにリベラルアーツを学ばねばいけない。
だからどっちが先かというか、結局考えて遊んで、
余裕を持って一冊を通して遊ぶということも一緒に考えていきましょうというイメージではあるのかな。
リベラルアーツの意味と定義
日本語だともともと何々遊ばせとか何々遊ばすっていうような言葉とかって古語として残ってましたよね。
今はあまり言わないと思うんだけども。
そういう意味でも日本でもともとおそらく遊ぶことが得意だったというか、
遊ぶということが結構古代から当たり前のようにできていた人種というか民族なんじゃないかみたいな話があったり。
その象徴として江戸時代の江戸っ子というのは、
良い腰の金を持たねえって言うじゃないですか。江戸っ子は。
あれって生き様として良い腰の金を持たねえっていうのはその生き様でもあったんだけれども、
本当にみんな貧乏だったらしいんですよね。
あの時代の町民と呼ばれる人たちは本当に毎日その日入ってきた金を飲み食いに使ってしまったらもうなくなってしまうような貧乏な暮らしだったんだけれども、
全力で遊んでいた。
そういうところをリベラルアーツというものを通じて学んだりだとか、江戸時代の遊び方を振り返って見てみて学んだりだとかしていこうというのが
大きなその全体の本の流れですかね。
なるほど。
で、著者の場合、さっき言ってた先生に1たす1はなんで2になるのかっていうことを聞いたら、
すげえ怒られてムカついてその外国に行ってしまって、
なんかねやっぱフランスに行って詳しくは書かれていないんですけれども結構苦労をしたらしいんですよね。
我々よりも多分ちょっと年上でもあったと思うので、あのイエローモンキーというのは多分フランスに行けばバカにされていて、
そういうことを苦労しながら、職業を選ぶような余裕なんてなくって、職業を選べない人生を選んで生きてしまったっていうふうに言っていて、
それは一般的には不幸なことだと思うんですけれども、著者はおかげで仕事と遊びというものを区別しないで生きていくことができるようになった。
これはなかなか哲学的な発言ですね。
まあ難しいですよね。働くということと遊ぶということ、仕事という概念、労働という概念、いろんな言葉があるんですけれども、
著者がやっているような話とかを見ても、著者の音楽を社会に役立てるという視点で仕事をやっている人っていう意味で、
世間一般で何しているかよくわからない人に属すると思うんですよね。
そうですね。
そういう意味でも、そういうふうに仕事と遊びというものが区別ができなくなってしまったことは不幸ではあったんだけれども、
それによって今につながっているというようなことでもあって、悪くはなかったんじゃないかみたいなことは言っていて。
なるほど。
リベラルアーツとは一言で言うならば、人生を遊び続けるための技であるというのが、その著者が考えているリベラルアーツの定義というのかな。
なるほど。
リベラルっていうのを遊ぶという、遊という漢字を当てはめると、自由っていうものと発音とか雰囲気も似ていて。
確かに。
日本語の自由が難しいのって、よくある英語のフリーダムっていう単語とリバティっていう単語があるじゃないですか。
日本語に翻訳するとどっちも自由なんですよね。
そうですね。
でもリベラルアーツってリバティにあるわけで、日本でいう自由というのは割とフリーダムとして解釈してしまう場合もあって。
なるほど。
リベラルアーツの理解と誤解
なのでリベラルアーツっていうことに自由学問、自由芸術みたいな言い方をしてしまうと、やっぱりリベラルアーツというものを誤解してしまうよっていうのかな。
割とそういうようなことは思っていて、さらに仏教とか東洋でも結構自由というものって深く考えられていたりするらしいんですよね。
そういう観点から見ても、今やその自由の意義を本当に根本的に理解して語れる人っていうのはすごく少なくて、非常に難しいものになってしまっていて。
そういう意味でも一番リベラルというものをイメージとして捉えるのにいいのは、この遊ぶっていう感じじゃないか。
なるほど。
っていうのと、もう一個がそのアーツ、アートという言葉。
はい。
これもまた超難しい言葉と言えるんですけれども、我々がアートっていう言葉を聞いたら、芸術をイメージしますよね。
一般的にはそうでしょうね。
でもなんかその著者が語っているところなんですけれども、アートというものは、まずそれを理解するためにはキリスト教的な宗教観が必要だっていう話をしているんですけど。
キリストの世界においては、すべてのものは神様が作り出したものなんですよね。
アートというものは、神が作った自然とか人間ではなくて、人間が作ったものというものはすべてアートとして分類されるというのが、西洋的な感覚ではそういうことらしいんですよね。
なるほど。
エピソードとしても面白かったんですけど、日本だとお勉強の分類って、文系と理系って分けるじゃないですか。
それが、西洋ではそういう分け方をするわけではないみたいで、いわゆる理系と近しいものは、神が作り出した世界を学ぶものというのがサイエンス、理系的なもの。
自然科学全般ということですね、要するに。
人間が自ら作り出したものを学ぶというものが、日本語で言う人文学とか文系というものに分類されるもので、アートというのは人間が作り出したものすべてに関しての総称というのが、アートという言葉の本来的な意義というか、西洋人がイメージする意義。
だから日本人がその感覚を理解しないで考えようとすると、結構苦労をするというか、やっぱり直感的に分かりづらい。
で、著者が言うには、いい言葉があるって言ってるんですよね。
それも江戸時代に出てきた言葉なんですけれども、ひらがなで言う技っていうやつ。
この言葉からイメージするものというのが、西洋人がイメージするアートとすげえ近いんじゃないか。
あえて肝心すると技術の技という字で、アーツは技術やから語感も一緒やと。
そういう意味でまずリベラルアーツというものを日本語訳するのであると、人生を遊び続けるための技だと考えておけば、
おおむね著者が言いたいというか、おそらく西洋人がイメージしているリベラルアーツというものの日本語訳としてはこれが最適なのではないか。
っていうのがまず最初に出てくる話です。
そこからリベラルアーツって何なんていうか、もともとどういうものだったのっていう話があって、
ざっとなんですけど、割とこの人が音楽をやっているからなのか、音楽って俺たちがイメージするものと全然違うよっていうようなことをすごくよく言っていて、
欧米で音楽というものは一つの言語として考えられていて、日本人には全然理解がしがたいものなんですけれども、
音楽とリベラルアーツの関係
音楽というものはギリシャとかローマの時代とかだと、宇宙の仕組みを知るための言葉みたいな印象があったみたいなんですよね。
例えばピタゴラスのエピソードが出てきて、鍛冶場みたいなところに行ってハンマーキンキンキンって鳴らしていたら、
ハンマーが共鳴しているっていう様子を見て、共鳴しているハンマーの重さみたいなのを調べてみると、
共鳴から整数による調和、音のオクターブでの響きだったり、5度とか4度とか3度とかそういうのもあると思うんですけど、
調和みたいなものを見つけて、これは神が作り出した何か、そういうニュアンスなのかわからないんですけど、
世界の仕組みとして音というものは、宇宙を知るために重要なものだと考えられていたっていうのかな。
そういう意味での言語。音楽を使って誰かとコミュニケーションするということじゃなくて、
ある種の体系的な何かがあって、そこに分析とか研究できる余地が広がっているっていうような理解かな。
そうですね。たぶんそれがギリシャの話で、そこから現代に至るまでにどういう流れがあったのかわからない、
そこはちょっと詳しくは書かれていなかったんですけれども、おそらくそういう流れから、
欧米人というものは音楽というものに対しても、日本人が抱く音楽というイメージとかなり違うイメージを持っている。
さらに言うと、音楽家という言葉で言ったら、日本だとミュージシャン以外はありえないですよね。
ただそれも西洋の歴史で言うと、作曲や演奏することだけが音楽という定義になった。
音楽っていうのはほんの数世紀前までの出来事で、さっき言ってたピタゴラスみたいな音の共鳴を調べて何とかをするみたいな、
そういうようなことっていうのは芸術家という概念ではなかったっていうのかな。
楽者の方向だったっていうのかな。
音楽っていうのは全然感覚が違うよっていう話もいっぱい出てきていて、
元々古代ギリシャでは音楽というものは、宇宙の音楽と人体の音楽と道具の音楽っていう3つのカテゴリーがあったみたいで。
どう区別するのかが気になるね。
例えばで言うと、色というものは光の波ですよね。音っていうのは空気の波ですよね。
だから目に見えない何かがあったみたいな印象があるみたいなんですよね。
いわゆる俺たちがイメージする音楽というものは、その中でも道具の音楽しか当てはまっていない。
これは現代のリベラルアーツというものを学ぶ一般的な西洋のリベラルアーツ、基本7科みたいなものに音楽が含まれているのはこういう理由だっていうふうに言っていて、
我々が音楽というとやっぱり一般にイメージする音楽としてのアートをイメージしてしまいますよね。
だからつい芸術的なものという音楽をイメージしてしまうんだけれども、あんまそういうものでもないというか、そこもストレートに理解してしまうとちょっと歪んだ理解になるというのかな。
日本の教育とリベラルアーツの歪み
中国にも同じような音楽、リベラルアーツに近いような陸芸というものがあって、そういうような概念も中国にもありました。
リベラルアーツ的なものは西洋に限らず少なくとも中国にはあって、それはきっと日本にも輸入されているので、大きな意味では日本人もその根本の概念みたいなものはあるって言ったらいいのかな。
そこから日本に入ってきたリベラルアーツというものが、明治初期にリベラルアーツは最初に紹介された時はやっぱり芸術という訳語が当てられてしまって、リベラルアーツというのが芸術と言われていて、やっぱり教養という概念なんかとは全然結びついていなくて、
芸術とかアートに結びついたものとしてそのリベラルアーツというものが日本で理解されるようになってきた。その後に教養主義という、なんか著者は日本的な偏った価値観みたいな言い方をしてるんですけども、というものが生まれて、それと結びついてその日本のリベラルアーツという言葉のイメージができたんじゃないか。
日本型の教養主義というのは、そのせいで勉強ができない人を見下すみたいな、そういうような悪しき伝統も結構影響を与えているのは、間違った教養の概念とかリベラルアーツの概念というものが良くないんじゃないかみたいなことは、著者は言っていました。
なんかね、西洋のものを無理やり早期に日本に入れてしまったせいで、やっぱり変なことになったみたいなんですよね。これもキリスト教的なまた価値観の話が出てきてくるところなんですけど、日本だと自然というものは神様よりも上位に置かれてますよね、概念として。
神様に対して、やっぱり西洋だと最上位にいるのは神で、神が作ったものとして人間とか自然というものがあって、なので日本人は割と自然に異形の念を抱くというのが、割とニュートラルにあるみたいなんですけれども、
キリスト教的な世界観だと自然というものは神が作り出したものだから、人類がコントロールできる、人間よりも割と下に置かれるという概念が、割と一般的みたいなんですよね。
日本というものはもともと自然が自分より上にあったはずなのに、西洋の教育カリキュラムは基本的に自然というものは下に見ている。
それをあまりにも急に、特に明治維新の頃に取り入れてしまったせいで、学問というものが歪んでしまったというか、文系だとか理系という学問の区別というものも変な価値観になっていたり、変な自然観になっていたりっていうので、
結構、学ぶこととかリベラルアーツというものが歪んだ概念、間違った捉え方をしているというのは、そういうところにあるんじゃないかと言っています。
西洋のリベラルアーツを持っている人は、そういう自然感はあまり歪んでないってことなのかな?
っていうようなニュアンスのことを書いてあったというか、そういうように取れたんですけれども。
それはだいぶ西洋を持ち上げすぎているような気がしないではないかも。
どっちかというと、そもそもがリベラルアーツという概念は西洋から生まれたものなので、
日本人の概念がそのまま日本にストレートに輸入すると、やっぱりイコールにはならないですよね。
その辺の歪みというのの原因というか、ずれの原因というのはそういうところにあるんじゃないのかなという。
割と多分この人は日本教育とか嫌いなのは見ていて思います。
大体ここまでの流れでそれは感じています。
自分もあんまり日本の教育がいいとは思っていないので、割と同意しているというのは結構あると思う。
そんな感じで、リベラルという言葉とアートという言葉をもうちょっとしっかり考えてみようというので、
フリーダムという言葉とリバティという言葉がどっちも日本語だと自由という言い方をしてしまうんですけれども、
あえて説明するならば、フリーダムというものは受動的な自由である。
リバティというのは能動的な自由である。
その表現の自由という言葉を使う場合に当てはまる自由はフリーダムを意味するもので、
自由の女神というものはリバティという英単語が割り当てられる。
その自由というものもちゃんとしっかり考えてみましょうというか、
リベラルアーツでいう自由というのは表現の自由の方の自由ではないということをちゃんと知っておかないといけない。
表現の自由の方の自由、つまりフリーダムとリバティの意味的な違い、受動的と能動的な自由というのは違うのはわかるんですけど、
もう少し具体的にいきませんか。
例えば表現の自由はフリーダムである。
それはわかるんですけど、それはどういう自由。
どんな自由がフリーダムと言える。
つまり受動的な自由とはどういう自由なのか。
与えられるもの的なニュアンスなのかな。それで言うならば。
与えられるものと自ら行使するものの差ってことかな。
そうですね。だから、っていうイメージなのかな。
この本の理解と同じかどうか知りませんけど、一応僕の中でフリーダムっていうのは制約がない、制約されないという意味での自由。
リバティは行動できるというプラスの自由っていう風に、マイナスがないのとプラスを取れるっていうぐらいの差で受け取ってるけど。
おそらく著者が言いたいこともそうだろうと思うし、能動的受動的という言葉のニュアンスをそういう風に言えるんじゃないですかね。
リベラルの話。
そこでもう一個あれですね。仏教にもその自由というものの解説というのがいっぱいあって、そこも割と難しかったんですけども。
東洋にも仏教語としての自由というものはあって、やっぱりそこはそこにはそのなんて言うんだろう。
さっき言った制約がないという自由ではなくて、自由というものは結構自ら積極的なものであって、創造的なものである。
自ら選んで獲得しなければならないという自由みたいなものがあるみたいなんですよね。
当然日本の場合その自由というのは先にあって、誰かがそのフリーダムとかリバティーを訳そうとしたときに、これ自由でいいんじゃねって誰かが言って、自由っていうことになったんでしょうねきっと。
おそらくそうですね。なので言葉が今の日本人が聞いてイメージする自由という言葉が、割とフリーダムのイメージであることが多いような印象はあるんですよね。
それはなんでやろうな。
なんでなんでしょうね。それは確かに考えてみないといけないかもしれない。
リベラルな自由
つまりリベラル的な自由っていうのが僕らの日常にないからってことなのかな。
おだしょー 著者が言うにはそこがひずみだみたいなことだと思うんですけれども。
無理に東洋概念に西洋を埋め込んできたから、そういう変な誤解が生まれたではあるのは、たぶんその著者の意見はそうだと思うんですけど、なんかもうちょっと考えられそうですよねそこは。
だから自由っていうのは制度として多分与えられるもの。表現の自由も一番そうだけど。
さっきの受動的っていう言葉でいいけど、待ってるだけで得られるものがそっちの自由で、自分から獲得しなければならないものがリベラルの自由だったときには、言ったら待ってるだけでは永遠に手に入らないわけじゃないですか。
ということは、たとえば普通に生きてるだけでその概念を獲得するのが難しい?ナチュラルには。
難しいと思います。おそらく。
だから僕たちがイメージしにくいのかなと。
たぶんね、おかみという言葉があるんですけど、その辺りと関連しているような気がするっていうか。
だからおかみが与えてくれる自由はいつでもフリーダムで、そもそもそのおかみに対して抗う権利を行使するのがリベラルやから、だからあんまり日本的な概念じゃないよね、そのリベラルの方は。
そうそう。ただ考えてみると、たとえばなんですけど、結構農民って一気やってたらしいんですよね。
確かにね。その頃はあったんや、ということは。
その著者の話につなげるならば、江戸時代の人たちは結構リバティーな方の自由をやっていたような気がするんですよね。
で、たとえば平安時代とかそれ以降でも、権力争いをしてあったわけじゃないですか。
つまり絶対的な権力が一つだけあってっていうことではなかったはずで、そこに様々なリベラルがあったはずなんですよね、ということは。
そうですね。さらに言うと、天皇と武家があって、二重統治だったっていう意味でも、なんかね、そのおかみという概念ではやっぱなかったような気がしますね、そうやって考えると。
やっぱ戦中戦後の国民が一丸となってあたりから、徐々に醸成されてきた感覚なんかもしれないですね、それは。
そうですね。だから言うならば、東洋の自由というものがもともと江戸時代までなんとなくみんな持ってたんだけれども、
その西洋文化が輸入されて教育に当て込まれたことで、なんか両方が混ざってごっちゃになって、変なふうに理解しかされないようになってしまったのかもしれないですね。
うーん、そもそも江戸時代の前までって日本国っていうカテゴリーはほとんどなかったわけじゃないですか。それぞれの地方文献が大量にあったわけで。
海外に対抗するために日本国っていうのを大急いで大急いで取りまとめた、その旧御次第のナショナリズムなわけで。
だから江戸時代がたぶん残ってた西洋の時代なんだよね、その気持ちが。それを途絶えてしまったみたいな。
ていうのはなんかあるのかもしれないですね。そういう意味で言うと確かに江戸から学ぶというものはヒントとしては非常に面白いし良いのかもしれない。
というので江戸時代に割と面白かったなっていう話が出てきていて。
江戸時代の遊びの文化
18世紀後半に江戸っ子という概念が誕生して、彼らは遊びの達人だったと言われている。
おそらく文献に何か残っているんだろうと思うんですけど、将軍様も庶民の遊びというものは結構いろいろ憧れていて。
祭りだったり船遊び、花火、物見湯さんみたいなおそらく行楽旅行とかそういうお祭りイベントごとみたいなものというのは江戸時代にはすごくいっぱいあったんだけれども。
同時にその頃って、今よりもはるかに締め付けだとか取り締まりというものも厳しくて、生活の楽さで言えば全然楽ではなかったみたいなんですよね。
飯食えんくって寄金で飢えて死ぬっていうのが当然まだ当たり前にあった時代で。
今時、菓子なんてものはないことを考えたら当然相当厳しいんだろうし、酔い腰の金を持たないというのは本当に持てなかっただけなんだけれども、貧しさを遊びに変えるために創意と工夫をしていたのが江戸っ子だと。
一番、著者が書いていた中でまじかすげえなって思ったのが江戸らしい遊びというもので、象徴的なものというのが枯れのみ、枯れ闇、枯れた野原を見に行くという遊び。
そんなものが江戸時代に実際に存在していたらしいんですよね。
月見でもなく花見でもなく雪景色を見に行くわけでもない、冬の一面の枯れた何にもないところをわざわざ見るために遊びに行って、楽しかったって遊んでくる。
これを遊びとして成立させてしまうというのは、確かに遊びの達人しかできねえよなっていうことをすごい思わされて。
日本語で言うと、行きと野望。野望に対する行きの極致みたいな感じだよね。
行きの極みですよね。何もないところ、まあでもそうですよ。だから例えばで言うならば、その何もないのがいいんだみたいなのは多分行きですよね。
確かに。
なんでここ何もねえじゃんって言ってしまうのは、やっぱり野望だと思うんですよね。
これが自分の中のほぼ一冊の中のここが一番良かったっていう話だったんですけど、これがこうやって遊びを見つけるんだな、これが遊びなんだなっていうのが、全てがここに集約されているような気がして。
何もなくても遊べるし、遊びって何するのって言ったら、何もないところを見に行くだけでも遊びになるんだよっていう。
ちなみにですけど、なぜ江戸なんでしょうかね。
この人が杉浦ひな子さんだったかな、という江戸時代研究者の方がいるんですけども、その人のことがめっちゃ好きみたいです。
その人からの影響が大きくて、江戸時代めっちゃ面白いっていうので、そこからいろいろ引き出してきているのではないかと想像します。
例えば江戸とか、江戸っていうのは象徴的なところで、江戸時代にはこの国の首都的な存在だったわけですけど、平安時代とかは本当に何もない場所、誰も住んでなかった場所を、
基地ですね。
信仰をしたわけですね。ということは、その江戸っていうのは要するに都会なわけですね。都市なわけですね、作られた。
で、例えば江戸でイメージしたときに畑耕やしている姿は思い浮かばないじゃないですか。
そう、町人しかいないんですよね。町人と武士しかいない。
だから、持たないってことが言えるっていうライフスタイルがそこにあるわけですよね。農民は農地を持っているし、そこから動けないわけじゃないですか。
だからそのライフスタイルとそのマインドセットがやっぱりセットになっているんだろうなというのは聞きながら思いましたね。
AI時代の遊びとリベラルな生き方
今の話を聞いてちょっと思ったのが、現代がAIの発展によって、そういう意味でみんな江戸っ子になれるんじゃないかみたいなことを思って。
なるほど。
生きるために、言ったら米作らないと人間死ぬんだけど、日本で言えば。江戸っ子たちは誰一人米を作ってないんですよね。
確かに。
米を作る役割というのは、江戸時代は農民がになっていたんだけれども、今で言えば限りなくAIで自動というものに近いものにできるような可能性は結構見えてきている。
だとすれば、我々は遊ぶことのみに専念することはできるのかもしれない。
暇と退屈の倫理学を引けば、そのような遊びを身につけないと僕たちは生き延びられない。暇すぎて。そういうことは言えるかもしれないですね。
同じく、この本が気に入った理由は、暇と退屈の倫理学からの話の答えの可能性としてもすごく役に立つなって思ったんですよね。
なるほど。
こういうふうに遊びを身に出すというものは、暇と退屈との戦い方というかの大きなヒントになって、何もないところからでも暇つぶしというものを作り出すことはできる。そこの象徴がこのカレーの実というものでもあるというような気がして。
そうですね。ここで話を広げておくと、そのAI時代のエドッコスタイルっていうのが、例えばですけど、AIだって人間の代わりに畑を耕してくれるのと同じ程度に人間に娯楽も与えてくれますよね、きっと。
無限の暇つぶしの娯楽を与えてくれるはずですけど、おそらくそれにNOを言うのがAI時代のリベラルでしょうね、きっと。
そうですね。だから与えられた遊びではリベラルは獲得できないですよね。
そうそう。遊びを作るというマインドセットを保持し続けるということが、そういう時代におけるリベラルなんじゃないかなというのをちょっと今思いました。
だからやっぱり自動生成されたゲームではダメなんですよね、きっと。
おそらくダメか弱い。強い弱いで言うと弱いって感じがするかなと。
ひょっとしたらなんですけど、自動生成された絵画もそういうことが言えてしまうんですよね。
あり得るね。
そこはもうまさにリアルタイムな問題にちょうどなってますからね。
確かに。
人間が描かなくても、実用としての絵画と芸術としての絵画がもう明確に分かれてしまうというふうにも言えるのかな。
なるほど。
もうAIが描いた絵はイラスト屋の代わりになりますよね。
なるね。
ただモナリザはAIにはならないんですよね、たぶん。
AIが描いたことになった瞬間にモナリザの価値が減ってしまうとかなくなる。その絵画の価値がなくなる。
つまり、ある画家が描いたというストーリーを背負っているからこそ意味があるわけで。
そうそうそう。そこに。
だからそのストーリーを分脈して、技術的に同程度の絵がそこにあるというだけでは、芸術には多分ならないでしょうね。
それも答えではないんですけれども、やっぱりそのAI時代にどうやって生きていくかとか、いかに生きていくかのヒントというのは、なんかその辺にもあるような気がして。
なるほど。
まあ確かに、いかに遊ぶか。
うん。
そうですね。だから遊ぶという、違うな。モナリザの場合はやっぱりストーリーがあるからっていうのもきっとあるんですよね。
だからバリュー、価値っていうのはそこに宿る。それがないものは、AIで作ったものと区別できなくなってしまうっていう、その分岐点。バリューの分岐点がその辺にあるでしょうね。
うん。あれですね。培養肉と人間、本物の肉との違いとかっていうのも、生きるためだったら培養肉を食っていれば何も問題ないんだけれども、なんかその原始の喜びみたいなもので言うとやっぱりその肉を食わないとそういう感覚は得られなくなってしまうんじゃないかとも思うし。
うん。でも半分だから、その記号的消費というものが含まれてしまうわけですけど、でもそうしない限り、その経済的価値の付与っていうのができなくなる。だって圧倒的にコモディティになっていくわけだから。そこで経済活動を回していくためには、そういう意味付けっていうのを行う必要は絶対にあるでしょうね。
だからもう、そうですね。絵を描けるということはコモディティ化されてしまって、まあでもきついですね。絵を描くことを仕事にしていた人は。
うーん、どうなんやろうな。わからんけど。逆にそのAIが描かなそうな絵を描くということで、何かバリューを獲得できるんじゃない?例えば、恵比寿よしかずさんの漫画は多分AIには描けないと思うよ。
あ、分かった。だからそれでいうと、あれなんだ。フリーダムな世界の絵を描いているだけでは食えなくなるんだ。結局は。リバティーな、なんかその絵を描くという行為のみではやっぱバリューにならないから、やっぱその考えないと生きられないというか、遊ばないと人気にならないというか見てもらえないというか。
うん。
ただ絵を描くだけでは、もうきっと生きていけなくなってしまうんだろうなという。
まあ、そうでしょうね。
うん、難しいですね。我々文章を書いていて、まだないって思っているけれども、そんなことは一瞬でひっくり返ることは十分に起こるので。
だから、この問題はさっき言ったように、僕たちが労働から解放されたら何も問題なくなるわけじゃないですか。言ったら、食っていけるかどうかが問題なわけで、今ここで現金。
ああ、そうですね。うん。
それが仕事ではなくてもいい趣味の段階であれば、別に無個性でも個性でも、プロダクトはどんどん作っていけばいいわけで、だから今過渡期というか分岐点の中にあって、僕らは仕事せなあかんから、そのAIが今脅威になっているというところですよね。
そうですよね。だから生きていけたら別にAIでいくらでも作ればいいじゃん。俺は書くからって言えるもんね。
そこが言えてないところがAIがまだ不十分なところというところでしょうね。
江戸時代の生き様
そうか、そういうところですね。あと、江戸時代の人たちの生き方の概念としてかっこいいなというのがあって、これはさっきも話した杉浦ひな子さんが書いている江戸時代の生き様みたいなやつなんですけども、江戸の人たちというものが、何で生きるのかという話を言われたときに、今生きているからとりあえず死ぬまで生きる。
それが生き方というか、江戸っ子的な生き様というのかな。ちょっと引用なんですけれども、何のために生きるのかとか、どこから来てどこへ行くのかなどという果てしのない問いは、ご飯をまずくさせます。
まず、今生きているから生きる。食べてくそして寝て起きて死ぬまで生きるのだ。こう言われれば気が楽になります。その辺りが江戸っ子な生き様というか、生きることを考える上で、ある意味哲学と反対な方向とも言えるかもしれないんですけれども、生きることに悩んだときにはすごく大きなヒントになるんではないかなと思って。
おだしょー 哲学と反対になるとおっしゃられたが、別にこれ自身が一つの哲学という気がしますし。
おだしょー そうですね。そういうふうに言えるかな。
おだしょー だから最近その日暮らしの人類が。
おだしょー それ今、俺も読もうと思ってます。
おだしょー 読んでまして。ちょうどほぼ同じ。その日を生きるっていう将来のことを考えないっていうようなその生き様が語られてるんですけど、そのマインドセットとしては多分一緒でしょうし。
おだしょー 人がなぜ生きるのかとか大きな目的っていう、その精神性がやっぱり一神教に由来するもんじゃないかなと僕は思うんですよね。
おだしょー だからこれ結構普遍的じゃないんじゃないですかねきっと。その大きな目的を描くっていうのは人類そのものの普遍的というよりはある文化の中の一般的なものであって。
おだしょー だからゴルゴさんが哲学的ではないっていうのはその一神教的な哲学ではないかもしれないけど。
おだしょー そうかもそうかも西洋哲学的ではないかもしれない。
おだしょー ないけどでも例えば別のあり得る哲学の形としてあるんじゃないかなと思ったって感じ。
おだしょー まあ一般的にあれかな。まあそうかな。まあそんだけですね。
おだしょー まああと江戸時代の人の同じく産内主義というもので、持たない、出世しない、悩まない。
おだしょー 家事が多いしお金がなかったっていうのもあるんだけれども、何も物を持ってなかったし出世しようともしなかったし、悩すぎたことはもう直実に持ち越さない。
おだしょー 面倒くさいことは考えない。で言ってるのは、これも杉浦ひな子さんなんですけど、私たちは今この真逆のことを完全にやろうとしているんじゃないか。
おだしょー まあそうですね。
おだしょー うん。できるだけ物を多く持ち、この辺りは最近反動が出て、全部反動が最近はもう出てきていて、この人はちょっと昔の人なので先を行っていたのかなって感じではあるんですけども。
おだしょー まあそのできるだけ物を多く持って出世して、明日どうしようかっていうことばっかり悩んでしまっているという生き方ではなんかこう辛いんじゃないのか。
おだしょー これでもこの持つ出世しよう、悩もう、つまり問題を解決しようっていうのは、結局その消費を刺激するための宣伝にさらされているせいではないか仮説があるんですけど。
おだしょー まあ本来の人類はそうではなかったってやつですよね、遺伝子的には。
おだしょー 結構そういう風な文化とまでは言わないけども、持つが一番消費主義に出ますけど、出世するのも一緒で、結局出世するためにスキルを磨けましょうっていう話になって、
おだしょー まあそのスキルビジネスですし、悩む問題、いろんな美容の問題とか、磨けの問題とかも、それを一つの悩みとして仕立て上げることによってその解放を得るというわけで。
おだしょー だから、そのある種の広告主義から距離を置くと、自然にそっちに、つまり江戸国資質になるんじゃないかなという気がしますが。
広告主義との距離
おだしょー そのあたりのヒントがあるっていうところなんでしょうね。その広告主義から距離を置く考え方として江戸国の生き方から学ぼうというのかな。
おだしょー あと江戸話ばっかりなんですが、江戸時代の人たちには時間がないっていう感覚もなかった。
おだしょー 時間っていうのは、自分が生まれる前からあったし、自分が死んでからあるんだから、時間がないなんていう概念を持ちようがないというのかな。時間は減るもんでもない。
おだしょー あー美味しかったとか、あー楽しかったっていう、そういう良かった時間だけいい時間として記憶に残っている。
おだしょー 何も感じなかった、何も起こらなかった時間というものは存在してないので、さっきの江戸講で言うと、悩みもしないし考えもしない。
我々がそれをヒントとして考えたらいいんじゃないかって言っているのが、時間というものを効率で考えるんじゃなくて、感動で時間をいかに膨らませていくのか。
それこそが、そういう時間を作ることというか、そういう時間を過ごすことというのが、人生を遊ぶということの本質なのではないか。
おだしょー つまり、人生を遊ぶってどういうことですかっていう時に、自分の時間を感動で膨らませていく数々の行為の相対であるっていうようなまとめ方ができると。
おだしょー そうですね。見事にまとめてくれてありがとうございます。いいなと思って、こういう考え方をちゃんと自分の中でもなんとなくイメージとして、
例えば最近、効率的なものってあんま目指さない方がいいよねっていうことは結構思っていたりしたんですけども、それをちゃんと言語として説明してくれていたというのかな。
効率主義とか合理主義とか管理社会とか、そういう言葉って、やっぱり遊びというものと真逆な言葉だよねっていう。
そういう言い方をすると、自分が最近思っていることとも大きくつながるような気がして。
あと言っていたのが、真面目がダメだって。
おだしょー 聞き覚えのある話ですね。
おだしょー ちょうど前回、読書会で出てきた話なんですけど、これは長江明さんというフリーライターが言っていたので、本を読んで不真面目になろうっていうことを提唱しているやつなんですよね。
で、面白いなと思ったのが、不真面目な奴が書ける迷惑なんてたかが知れていると。
真面目な人というものの迷惑っていうのがすげえ困ることで、テロリスト、テロも戦争も不真面目な人はやらないでしょ。真面目な人がやるでしょ。
おだしょー 間違いない。
おだしょー 真面目に考えて戦争をするんであって、面白半分で戦争する奴なんていないぞと。
そういう意味でも我々はもっと不真面目にならないといけないっていうのは、これはすごくいい言葉だなと思って。
で、似たようなので言うと、俺が好きな高野秀之さんとかも面白いことを結構言っていたりして、
それはタイに行った場合に、みんながタイ人というものがいかに長期スパンで物事を考えない面白い人たちかっていう話で、
この人の場合はもっと割とふざけた感じで書いているというのかな。気楽な感じで書いているんですけど、こっちはより本質があるような気がして。
例えばタイの人に良いことって何?って言うと、日本だと良いことって言うと給料が上がるとか管理職に出世ぐらい、あと退職金がどうのこうのとかそんなことしか出てこない。
働いていて。そんなことに40年縛られるのは嫌だと思って、高野さんは好きなように働いていて。
例えばタイ人とかってエイズのこととかを何も恐れたりはしないらしいんですよね。
なんでかっていうと、エイズというものはだいたい半年ぐらいしてから発病するもので、人によっては3年とか5年経ってから影響が出てくるもので、
明日のことを考えないタイ人というものが半年先のことなんて考えるわけない。そのぐらいの気楽な生き方で全く問題ないと思うし、
タイだと大学を卒業してから就活をするらしいんですよね。
一般的に日本だと2年生か3年生とかで大学に行きながら就活をするんですけども、そんな忙しいじゃないですか。
だから無理はしないというのがタイの基本理念で、大学にいるときは勉強をして終わって暇になってから就活をする方が合理的じゃんっていう考え方をタイの人たちは当たり前にやっている。
著者が言ってたことともつながってくるんですけど、日本にいると世界の見え方がめっちゃ狭くなるんですよね。
いろんな国に出て、いろんな人のいろんなものを見てみると客観的な人間らしさみたいなもののヒントもあるだろうし、
外国に行ってこそ自分が日本人であるというアイデンティティは海外に行って初めて気が付くみたいなことはすごく言っていて、
日本人であるということから海外に行くと日本人になるということができるようになる。
つまり先ほどの言い方をすれば、僕らは日本人であるけど与えられた日本人であると。海外に出ることで初めて自ら日本人を獲得するみたいなことができるようになると。
みたいなイメージのことを言ってました。この本がわりと若い人抜けに書かれている本で、若い人たちはぜひとも何なら最初に今から半年とか以上海外に住むという経験を若いうちにしておくといいぞということはすげえ言ってます。
そりゃ良さそうですね。
リベラルアーツの実践
というような感じで、最後の方にいかにリベラルアーツを活かしてどういうことをやっていくかみたいなことは書かれていたんですけども、
やっぱり答えというよりはこの辺りの自由とは何か、リベラルとは何か、アートとは何かみたいな考える過程こそが重要なのではないかなという印象がありました。
たとえばこの本でリベラルアーツとはこうだって書いてあって、そうかって読んで納得して実行する人って真面目ですよね、きっと。
そうそう、ダメなんですよ、それでは。
己の中でリベラルってどう生きていくのかということを考えなければならないという意味で、答えがないしない方がいいというのはあるでしょう。
ある意味そういうのってやっぱり難しいということとも言えるので、なかなか難しい本だったなというふうにも言えるんですけれども、
個人的に思ったのは、どこからでも面白いことを見つけ出せるし、どこからでもリベラルアーツを実践するヒントというものはあらゆる場所にあるんだなっていう感じはして、
なんかね、ブックカタリストはめっちゃリベラルアーツだと思うんですよね、自分の場合で言うと。
まあ、しかしでしょうね、きっと。
うん、俺の中でサポータープログラムみたいなものはやっているけれども、しかもそのために、そのためにじゃない、そもそもが本を読んで話せるようになるために結構時間をかけてメモを取って話す準備をしたりしているんですけど、
遊んでいるとやっぱ思うんですよね。
まあ、仕事をしている感じは少ないよね。
定義で言うなら多分仕事なんだけど、仕事しているつもりはない。
そうか、だから業務な感じはしない?
それはあるかもね、そうそうそうですね。
他の働き方、生き方というのがどういうふうに応用できるかっていうのは人によって違うので、
じゃあみんなブックカタリストやりましょうって言ってしまったら、それは真面目な人の間違いだと思うんですけど、
まあなんかいろんなやり方で遊ぶということを考えるきっかけになった、ヒントになったというのかな。
まあでも最終的な結論として結局リベラルアーツはよくわからんかったではあるんですけども、
そうですね。
まあでも多分やっぱそういうもんなんだろうなって思いました。
うーん、まあ著者、結構これはリベラルアーツ2.0というか、著者定義には多分なってるんですけど、
まあでも今の時代にいわゆる求められている教業とかリベラルアーツが獲得しようとしているものを書くっていうのがここにはありそうですね。
うーん、まあそうですね。おそらくそうなんだろうと思います。
まあという感じで、そのぐらいかな。
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それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
58:57

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