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はい、打合せキャスト第71回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ライフハックニュース的なのは実はあまりないんですけども、ワークフローリーの話なんですが、
最近マノさんが続々とショートカットキーを上書きするブックマークレットを発表されておりまして、アレンジして僕も使ってるんですけど、
まあなんすかね、楽しいですね。単純に楽しいですし、やっぱりこういう拡張性が汎用ツールと合ってるというか、
こういう汎用ショートカットキー、汎用使い方っていうか、ツールそのものを自分の使い方に合わせられるっていうところがあって、
次世代というか、これが多分アランケイが目指したような形なんだろうなという気はしますね。
自分で道具を作っていくみたいな。
単純に便利という以上の何かがここにはありそうな気がするんですよね。
あれですよね、理想を言えばこれってワークフローリー自体が提供している拡張性ではなく、
まあ勝手に、
まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ、まあ
自分でない限りは多分ある程度はできるんですし、多分それ以上に多分こういう使い方がしたい、そのためにはどんな機能を付与すればいいのかと考えることが、
多分使い方を一段階進化させることにね、多分つながるんですよね。
それはありますね、きっとね。
マルさんがワークフローリーにインボックス機能を持たせるっていうようなショートカット機を導入されたんですね。
それって例えばどの階層のどこにフォーカスしていても、ホーム直下に項目を新規追加してくれるっていう機能なんですよ。
僕のドマ式の場合ってホーム直下に1個それが出てくるのはちょっと困るので、
デイリーバインダーっていういわゆるインボックス+デイリーノートみたいな項目がトップの上から2番目にあるんで、そこの下に入ったらいいなと思ってスクリプトを改造したんですけど、
やっぱりそのここに入ったらいいなって考えることがね、やっぱすごい重要な気がするんですよ。
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だからスクリプトを自分で作っていくっていうのはどういう使い方がいいのか、自分にとっていいのかっていうのを考える契機に多分なるんですよね。
それはすごいありますね。
だからこういうのが当たり前になるかどうかは別として、できることの面白さっていうのがデジタルというかパソコンツールの面白いところやなと感じている今日この頃です。
今回の主要のテーマなんですが、レスト管理と複数プロジェクト問題ということで、僕5月31日、41歳になりまして、
おっさんの階段をどんどん登っていってるわけですけども、無理できない年齢というか、
無理した時の反動が翌日以降に、土日にやってくるというそういう状況は、年齢的なものもありますし、僕1年ぐらい不調でダウンしてたこともあって、体調が完全に戻ってないせいもあるんでしょうけども、
タスクを全部数え上げて、それをリストにして、隙あらばそれを一つずつこなしていくっていうアプローチというかシステムというか、
もう無理やなっていうのが最近感じているところです。
ちょっとその境目の年齢ですよね。
今回僕はだから1年ほど半休業してたから、ある種この諦めの境地に達せたところはあるんですけど、
逆に体がもっと普通に元気やと、その境地にはなかなか至れないんじゃないかなという思いもありますね。
それでもうちょっと先にもっとひどい形で振りかかってくる可能性がありますね、それは。
仕事したいっていう、まあしたいかな、せずにいられないというか、フリーランサーから特にはそうなんですけども、
抑えるという発想がノーマルな状態ではなかなか出てこないんですよね。
それはね、みんながそうなのかどうかはわからないですけど、やっぱり仕事の状態と仕事じゃない状態がもう地続きで繋がっちゃってますもんね。
確かに確かに。
っていうことは逆に常にその仕事のモードがどこかで頭の中で回ってるっていうことにもなるし。
だからアルコールなんですよね、きっと。だからアルコールでその仕事の気分を一回洗い流すっていう、
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だからあんまり健全じゃないお酒の飲み方っていうやつですよね、これは。
だからこの辺からは頭を切り替えるとか、休むっていうことを意識的にその、
限界までさざれて限界に乗ったら休むとかではなくて、休むっていうことを一つの、何ですかね、時間割として埋め込んでいくっていうことをやらなければ、
多分意識的にやらなければ実現されないだろうなという感じはしております。
はい。
なんか、佐久さんが休むことについて注意を払ってることとかってありますかね?
僕は倉下さんと違って放っておくと休んでしまうタイプなので、
なるほど。
逆に、何だろう、休むためになんか意識する必要ってあんまりないんですよ。
逆に昔からそうだったので、自分はその人並みの仕事をするためにものすごく意識していってなかったんで、
なるほど。
その癖がついてるんですよね、逆に。
あー、そっかそっかそっか。
いかに自分をそのモードに入れるかっていうことばっかり考えて、
それであれをリビットを越えちゃうみたいな。
あー、でもだから、そっか。
だから、たくさんの場合は、上り坂を上っている車でアクセルをちょっと強めに踏むことが癖になってるから、
普段から踏みっぱなしになりがちということですね、だから。
踏みっぱなしというか、踏んでないといけないっていう、どっかに頭の隅にそういうのがあって。
方向は逆だけど、起きてる現象は一緒なんですね。
そうですね。あとはそもそものキャパが少ないので、
例えば、倉下さんの仕事をしている様子を見ているとするじゃないですか。
そうすると、同じくらいの量が自分にもできそうな気がしちゃうんですよね。
実際にはキャパ的には3分の1ぐらいなんですよ、倉下さんの。
まあ、分かんないですけど。
だから、そういうことからもキャパを簡単に越えちゃうっていう問題がありますね。
倉下さんの年の時には会社員だったので、
その時の意識の仕方と今の意識の仕方って多分変えなきゃいけない。
そうですよね。
その時はもう本当にやばいと思ったら、
逃げる。
逃げているように周囲から見えることを恐れずにいかに逃げるかというのが多分重要だ。
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本当に死ぬかもしれないと思った時期ですね。
40、41ぐらいの時は。
キャパが少ないから、人より少ない量で死ぬかもしれないと思って。
だからそういうことがありましたけど、
逆に今は自分が放っておくとやらない人間だという意識が強すぎてやっちゃうみたいな。
逆に倉下さんは放っておくとやっちゃう感じですか?
やっちゃいますね。
仕事と言える直接的に金銭に結びつくもの以外も含めると、
ブログの更新とか書評記事とか、
暇があればやりたいしやらなければならない、その2つの気持ちが混合したものに結構強く支配されてたですね。
今はだいぶほぐれましたけど、39以前を考えると、
例えば、妻と一緒に買い物行って妻が20分ぐらい服を見ている時ですら何か書かないと損してるような感じはありましたね。
若干病気ですね。
多分それはもうそうやったと思います。
多分だから、そのように、時間を埋めるかのように記事をたくさん書くとかしても、
あまりエフェクティブではないというか、乱造というのではないですけど、
1個1個の仕事の大きさが小さいんですよね。
PVとかは多少増えるかもしれませんけど、自分の仕事にとってのインパクトのある作業にはならないんで、
作業をするだけしても、作業した成果が返ってこないんで、余計焦るんですよね。
そうするとまた作業量を増やすことで対応しようとするんですよ。
だから、今のどうしようもない感じがあった時に、もっと記事を書けばいいってなって、
もっと浅い記事をたくさん書いて、でも結局どうもだらけから、またっていう風に、
非常に悪い状況に流れていってた感じがありますね。
今、もう1回してみると。
そういう風には見えないですけどね。
中押しかもしれませんけども、けどやっぱり、焦りというのではないですけど、
やっぱり、生産的なことをし続けなければっていうような感じはずっとありましたね。
本当に、休むまでは。
やっぱりでも、その生産的なことというか、その非生産的な時間があってはいけない
みたいな脅迫観念を持っている人は多いですよね、今は。
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特に現代は特にそうじゃないですか、やっぱり。
これだけだから、言ったらIT技術っていうのは個人をエンハンスメントするというか、
エンパワーするツールで、個人がいろいろできるっていう。
個人がいろいろできるってことは、個人が持ってる1時間あたりの生産性が高まったっていうことなので、
1時間何もしないっていうのは、1時間バソン使っていろいろしてる人に比べて、
ことごとく生産性が低いっていう、相対的にすごくできる人に比べて、
全然してない人ってものすごく低く感じてしまうというか、
それがSNSを通じてはっきり可視化されてしまうんで、
だから余計にそういう圧迫感みたいなのは生まれるでしょうね。
そうですね。これでそういう休めない強迫観念スパイラルに陥る人と、
逆にひたすら人と比較して自分はダメだ、方向に行ってしまう人と出てくるわけですね。
全体的に良い結果にはならないですね。
こういうのってよくあるんですけど、仕事をたくさんするためには休まなければいけないっていう、
逆向きのベクトル、プラスの方向を求めてるときに実はマイナスが必要だっていうことが結構あって、
ブログの記事をインパクトのあるものにしようと思うときにって、
やっぱり数を減らすことの方が大切なんですよね。
でもその判断が、視野が狭くなってくるとプラスだ、プラスだってなってしまうんで、
だから本来必要なものと逆の方をどんどん求めてしまうんですよね。
今マイナスが必要なのに細かいプラスを集めてしまうみたいなことがあって、
これが難しい、人の当人では多分気づかないですね、きっと。
これ今すごい胸に刺さってる人がたくさんいる中で、これを聞いている人にはいるんじゃないかなという想像をしてますけど、そうですよね。
だからでもやっぱり当人はその切実感の中で生きているので、
本人が考えたり悩んだりしているだけではマイナスの方向が、今求めているのと逆のものが必要だっていうことを自覚するのは多分難しくて、
逆にでもだからそこは他者が必要なんですよね。逆じゃないんですけど。
比較する他者とするよりは対話する他者が多分必要なんですよ、そこでは。
そうですね。だからやっぱり体かメンタルのどっちかを壊す以外の方法で気づけなきゃいけないわけですよね。
それが一番望ましいですね。
でもだから早めに体とか心を壊し掛ける、端が崩れる音がするところで気づけたらまだいいとは思いますけど。
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ギリギリ崩れてから気づくのでは骨を折ったらくっつくのに時間がかかるみたいなもので、
怪我って程度が深くなると半切れして回復するのにも時間がかかってしまうので。
だから全く何も問題なく生きていけるという状態はもちろん理想なんですけど、
問題があったときに早めに気づけるっていうのが一番現実的な感じで。
やっぱりそれってこうやって人と喋ることじゃないかなと僕はわりかし感じるんですよね。
この前ベッコと北さんと喋ってたんですけどね。
彼の労働環境について話を聞いてたんですけど、どう考えてもやばいんですよ。
海外の人たちが多くて、向こうの方が圧倒的多数で、日本のルールを向こうを無視しないけど、
彼は日本のルールで調整しなければならないという30億のような状況なんですよね。
そこでマネージメントをするっていうのは竹槍で戦闘機に立ち向かうくらいのハードモードをしていると僕は思うんですけど、
その中に当事者にいるとその異常性ってなかなか見えてこないんですよね。
だからやっぱり自分の当たり前と思っていることと他の人の当たり前っていうのを交換してみないと、相対的に言って絶対に見れないと思うんで。
だから会社の同じ境遇にいる人たちで愚痴を言い合うというよりは、全然違う環境の人と話してみるっていうことの方が遥かに開いてますし、色々築きやすいのではないかなと。
同じ趣味で集まっている人って同じ世界観なので基本的には分からないですよね。
一人一人スパンソンが集まった人たちの中ではやっぱりそのタスクを一個でも達成する方が前であるみたいな感じだと思うんで、そこで交流してても多分その異常性ってなかなか気付かないと思うんですよ。
だから異なる人たちと対話するっていう意味での開かれた対話ということをしないと、本当に気づく体が実際に壊れるまでは気付けないんじゃないですかね、こういうのは。
ただ問題はその気づいたからといって止められるとは限らない。
限らないです。それはもちろんそうですけど、気づいてないよりはいいんじゃないですか。
まあそうですね。
気づいただけではどうしようもないですけど、でも本当に切迫している状況って、その仕事を辞めたらいいのにっていう判断すら多分出てこなくなるんですよね。
やめられるかどうかは別としても、辞めるっていう選択肢がコマンドに上がってこないんですよね。
これはね、やっぱりまずいと思うんですよ。
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そうですね。
全てのコマンドが目の前の次にあることに集中しちゃって、というかそっち向きにアラインされちゃってて、そこから外れるものが入る余地がなくなるんですよね、そういう時って。
だから、多分ね、その会社というか組織の中にいるそういう状況に対してどうするかっていう話と、
一人でやってるときに、一人でそういうスパイラルに入ってっちゃうときにどうするかっていうのは、ちょっと性質がもしかしたら違うかもしれないですけど、
ただいずれにしても、その状況を癒すって大体自分では「いや、休めないんだよ」っていう思ってるんですけど、
おそらくその休めない状況で一番重要なのが休むことだという、
そうそう、まさにそういうことです。
パラドキシカルなことになってるわけですよね。
そういうときにどうしたらいいのかっていうのは難しいですよね。
でも、一人で考え込むことが書いてないことだけは間違いないじゃないですか。
そうですよね。
そうなるとやっぱり誰かに話すことなんですね。
それが、多分、今それまでに話してた人では解決しないからその状況になってるわけで、
それまでと同じ人と喋ってたら多分ダメで、
それより上の人に、例えば上司やったらそれより上の人に掛け合うとか、
あるいはその第三機会に話すとか、そういう別の人と話すっていう意味での開き方を持っておくっていう事じゃないかなと思うんですよ。
確かに。
うーん。
本当だ。
「仕事休めないんだよ」って。
僕、口に出したことはないですけど、ずっと思ってましたけど、
やっぱりフリーラインスが仕事を休んだらダメみたいな謎の規範性を持ってたんですけど、
でも1年休業してみて、別に休めるんですよね。
休めちゃうんですよね。
一応それは、最低限メルマガだけは更新してましたけど、
例えばブログを毎日更新しなくなったからといって、
例えば、ウェブからラシュタニーの存在感が消えたかというと、別にそんなことになったわけでもなく、
URLスタイル更新したら、普通に今でも読みに来てくれる人がいらっしゃるわけで、
妙な脅迫感を持ってた、休めないっていう理由を制度化する脅迫感を持ってたんですよね、確かに。
妻もよくそのしんどい時に無理して仕事に行こうとするんですけど、
「いや、待て」と。
まあ、店舗で働いてるんですけど、
「あなたが一人行かなかっただけで、回らない店舗はまずまずいだろう」と。
それは、正直な言い方としてもまず間違ってるだろうと。
今日はもしかしたら行かなあかんかもしれないけど、
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まずその状況を変えていかないと、同じことがずっと繰り返されるよって、
他人に対してはそんなアドバイスをするんですけど、
同じことを自分に適用できないんですよね、これ。
不思議ですよね、それね。
そうなんですよ。
判断力がないわけではないんだけど、自分には適用できないと。
逆接近だから一つ話すことが重要だと思うんですよ。
他人になる適切な判断ができるんですよ。
だから適切な判断を交換し合うことなんですよね。
そうですね。
だから自分で人で考えてるってことって、
それは執筆とかいう仕事は分析が、文書の責任が自分なんで、
最終的にはジャッジメントって自分が下しますけど、
でも、ジャッジメントに至る間の道って、話し合っても全然いいんですよね。
だから僕らみたいなアウトサイダーというか、
集団に馴染まない人って、あんまり話し合うことを好まないというか、
自分でやった方が早いというわけではなく、自分で解決したいというか、
そういうのってないですか、なんとなく。
ありますね。
僕は結構あるんですけど。
でもそれはやっぱりある種、楽で相手に迷惑をかけないメリットもありつつ、
独りよがりというか、独善的というか、多少の傲慢さがあるなというのは最近、
41だって思いますね、なんとなく。
ありますよ。それは結局、人を信用してないんですよ。
そういうことなんですよ。
なんかもうやったら面倒くさいことになるから、みたいなところがやっぱりちょっとあって、
やっぱりそれはでも、そうやって一人でやったらうまくいくって考えてるっていうことでもあるんで、
でもそれはやっぱりちょっと自分の力を誤って黙算してるというか、
そういう感じが最近してて、だから本当に最近は色々、
ちょっと自分で考えて無理やったら、よく人に相談するようにしてますね。
編集者さんにもよく言いますし、カーソルメンバーにもよく言うんですけども、
昔は一通り全部検討した後に相手に伝えるってことをしてたんですけど、
基本的にものすごく時間がかかるんですね。
だからラリーが遅くなるんですね。行ったり来たりの。
結局自分で一人で考えたって穴があるんで、ラリーは起こるんですよね、結局。
そうですね。
ゼロになるわけじゃないんで。
もちろん相手に負担がかけない程度にこっちでは考えるんですけど、
早めにパス返した方が、やっぱりそのパスの行き来の多い方が、
人の考え、知性の交換が行われるんで、全体的にスムーズになるなという。
面白い話はみんなが知ってることなのかもしれないですけど、
僕は結構一人一匹狼的に生きてたんで、
41歳になって初めてそういう考え方に至れるようになりましたね。
だから、自分でボールを持ち継ぎないっていうことって、
その問題解決について会話して解決していこうっていう態度に変わってきてるってことですね。
41歳でそういう判断ができればいいんじゃないですか、それは。
24:05
まだできてないですもんね。
パスの交換の数が多い方がいいっていうのも、
絶対に間違いないと思うんですけど、
パスの交換のやり方の向き不向きってあるんですよね。
だから、どういう人とのパスの交換のやり方が自分に向いてるのかっていうところを、
できれば早めにしておきたいところですよね。
やっぱりその向かない交換の仕方をすると、
逆にダメージをくらって、結果的にまた交換を諦めちゃうっていうことが起こるんですよ。
それは自分の話ですけど。
いや、わかりますよ、わかります。
でも、それはだからといって、パスの交換やっぱダメだっていうことではないんですよね。
そのやり方が自分には向いてなかった。
もしくは交換する相手が自分のあれとは合ってなかったっていうことなので、
そこをいかに見極めて、自分に合った相手と自分に合った交換の仕方ができるようになれればいいですよね。
そうですね。僕も一時期は会社じゃないですけど、組織隊に属してましたし、
店長でしたけど、その店のオーナーはいましたし、SVっていう本部の方とか、
そのエリアの部長みたいな、2段階ぐらい偉い人とか、たまに喋ってたんですけど、
やっぱり、情報の、こっちだからの提示の仕方で向こうのリアクションも変わってくるっていうところもありますし、
松間の話を聞いてても、法連相に向かない異常心みたいなのがいるなっていう。
ありますね。
前Aっていうことをやった時に、これは違う、これからはBしなさいって言われて、
次Bしたら、なんでBしてるねんっていう怒る上司がいるらしいんですけど、これ最悪なんですよね。
最悪ですね。
こういうのに出会うと確かに、あんまりやりとりせずに、ちゃちゃっと自分でしてしまおうみたいな考え方が醸成されてしまうのがよくわかるんですけど、
でもうんふうんなんですけどね、やっぱり上司側からしても早めに相談された方がいいっていうことの方が絶対に多いんで、これは。
上司側からしたらまあそうですよね。
細かいこと聞いてくるならお前自分で判断しろって言いながら、なんで報告しなかったっていう、
本当に終わってる人たちがいるらしいんですけど、
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本当にマネージャー検定っていうの、ちょっと、
受からないとマネージャーになってはいけないぐらいの厳しいルールがあっても僕はいいと思うんですけど、人の上に立つ人間っていうのは。
だから本当は昇進試験とかってそういうために取るがいいあるべきだと思うんですよね。
試験はあるんだけど、採点の観点がどうも違うんでしょうね。
求められてるマネージャーと。
でもやっぱり昇進試験ってあんまりマネジメントを習った記憶もないし、
マネジメントの技術を測られたこともあんまり記憶にないですね。
業務知識とか、業界における今後10年の何たら何たらをかけみたいなことはありますけど、
それはそれでいいんですよね。
人を導くっていうか、人をマネージメントするためのスキルってまた別ざまに存在してて、
もうそれをはっきり技能として測定というか観察できるんですよね。
あの人ができるかできひんかっていうのは。
でも多分その勘違いされてる企業が多いですよね。
だからリーダーシップとマネージメントって別問題よっていうことを分かってないというか。
それは多いですね。
リーダーシップがあればこの人をリーダーにしていいみたいな感じがあって、
それは要するにそういうことが可能なんで、スタートアップだけなんですよね。
リーダーシップがマネージメントであってよいのは。
はいはいはい。
でもそこはあんまり理解されてなくて、
人に命令を下せたらい、それでもうリーダーみたいなそういうね、
誤った観点から起こるんで、
そういう人たちと仕事をしてると確かにあんまり法連想とかしたくないかもしれないですけど、
でも全国の3割ぐらいの上司はちゃんと話を聞いてくれる人だと信じてるんで、
上司だけじゃないですけどね、先輩とかタブ所の人とかなんでもいいんですけどね。
話してみることっていう。
一人で抱え込まないで話すとか困ってたら、
例えば図書館に行って秘書の人に本を相談するとかなんでもいいんですけど、
案外そういう話ってないんですよね。
自己啓発って事故で解決するもんなんで、大抵あれ。
他人にお便りの技術ってあんまりないんですよね。
そうですね。
あれはだから自己責任の大きな、なんすかね、ごびゅうと言うんですかね。
人と協力しましょうっていう方が、多分人生においてはるかに重要なはずなんですけど、
自分って一人しかいないけど他人って日本でも一億人以上いるわけで。
そうですね。
だからまあ、休む技術って半分は僕の中では人に頼る技術に最近、
半分は他人に頼る技術になりつつありますね、だから。
ああ、なるほど。それはでも大事な視点ですね。
僕にかなり欠けているところですね。
いや、わかりますよ。
僕も同じ期間にだいたい一人でやりたがるので。
30:04
でもやっぱりその、そこで、そのやり方の領域っていうか、
歩いていける距離の範囲ってやっぱり狭いんですよね。
一人だけでできることっていうの。
だから仕事のシャティを広げようと思った時にはやっぱりある程度、
他の人も巻き込んで迷惑かけることも半分同意の上で一緒にやっていくっていうことを受け入れた方が、
仕事としては良いものになるかなという感じがしてますね。
そうですね。
組織でそういう、なんていうんでしょうね、ちょっと閉じたタイプの、
あんまり人に相談できないで、自分で抱え込むタイプの人がマネジメントをする立場になって、
ちゃんとマネジメントしなきゃいけないと思い、人の話を聞くと、部下の話を聞いて、
ちゃんとマネジメントしようと思った時にどうなるかというと、
部下のすべての悩みとか仕事を全部自分の中に抱え込んで大変なことになる、
わかります。
という人がいたんですけど、私なんですけど、
そうなるんですよね。
そうなると思います。
だから、なんでしょうね、
マネジメントをちゃんとやろうと思うのはいいんだけれども、
同時に自分の扱いというか、
はい。
なんでしょうね。
他人をマネジメントする以上は、自分もできていけないことがあって、
閉じて一人でやる機質のままマネジメントだけしようとしたら、やっぱり変なことになる。
そうでしょうね。
という問題もあるわけですよね。当たり前ですけど。
僕の観察上、ヒラグループからリーダーとかマネージャーに選ばれる人って、
大抵仕事ができる人なんですよね。
仕事ができる人って、大体自分でやりたがるというか、やる人なんですよ。
だから実効力が高いかな、この場合でいうと、ビジネスの部分。
でも、マネージャーって実効力じゃなくて、
訪人力が必要なんですよね、あれは。
だからね、そのベクトルが急に変わるんですよね、仕事が変わると。
そこのギアチェンがうまいこといかへんと、
本当に、あらゆる部下のしりぬぐいを自分でしながら自分の仕事もするっていうのが無理やりになっちゃうんですよね。
そうですね。
でも、これは結局、マネージャーとはいかにあるべきかっていう研修が多分ないかな、きっと、恐らくは。
そうですね。
だからまあ、それが、まあね、やっぱり気質的にそれが自然にできる人とできない人っていうのもありますけどね。
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まあ、そういうことと合わせて、自分自身がどうやって休むかと。
休みを自分の時間の中に挿入していくのかっていう、多分その両方なきゃいけないんでしょうね。
だから、これは結局セルフマネージメント、自分に対する自分のマネージメントってことなんですよね、要するに。
まあ、そうですね。
だから、その自己管理っていう事、自己管理という感じで表現してしまうと、その、えー、to doを満たすみたいな感じになっちゃうんですけど、
マネージメントって観点を取ると、まあ、ちゃんと休む、だって部下をちゃんと休ませるんやったら、自分もちゃんと休ませようよっていう話になるんで、
だから、そこの意識のスライドができたらいいんですけども。
それをね、俺がやっとくからお前も休めになっちゃっといいからっていう事ですよね。
そうそう。結局それ、自分でやる場合、全部自分でやることになりますからね。
で、あの、半分以上、半分さっき言った人に任せることが半分休む技術やと言いましたけど、その残りの半分って、
複数プロジェクトを極力並行して走らせないっていうのが僕の半分の柱なんですよね。
並行して走らせない。
だから、今までは3つ重要なプロジェクトを持って、1日その3つのプロジェクトを1日間とか2時間とかやって進めていくっていう方式やったんですけど、
それを複数持たないと。プロジェクトは1個だけにするっていうやり方が僕のもう半分の休み方ですね。
で、それが最近崩れてるんですけども。
それは要するに、一度に1個、なるべく一度に1つをやるっていう事ですか?そのシンプルに言えば。
そうですね。1日に1プロジェクトしかコミットしないということで、もう少しちょっと1週間にそのプロジェクトしかコミットしないぐらいの感じですね。
今まではだから、複数のプロジェクトを1週間に配置してここでこう進めてみたいな段取りを考えて進めてたんですけど、
今は月曜日から金曜日は書籍やったら書籍を書くことをして、土曜日だけ書籍のプロジェクトを辞めてメルマガを書くと。
日曜日は午後から休むっていう風にややこしい段取りを考えなくしたんですよね。
複数プロジェクト減らすと段取りが減るんですよ。段取り作業とか。だからすごく楽になるんですね。
当然でも進捗は一時折々減りますけども、その分肉体的な負荷は減ると。
作業量が減るだけじゃなくて、メタな作業も減るんで、管理作業も減るんで楽になる状況が続いてたんですけども、
先月あたりから若干法則に乱れが出てきまして、複数プロジェクトに着手してしまってますね。
それはやっぱり振りかかってくるからってことですか?それとも自分の中でそろそろ複数プロジェクトやってもいいかなっていう。
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両方が。たまたま仕事の話を重なっていただいて、今ならできるんじゃないかなっていう思いもあってやってますけど、
時々LINEを超える日が出てきますね。大抵の日はまだ大丈夫ですけど、
ちょっと詰めすぎたなっていう時はたまに出てきますね。
1日プロジェクトの時はほとんどなかったんですけども、確定進行した日だけですね。
あの日は3日くらいダウンしてましたけど、それ以外は新しい執筆法を試してうまいこと言ってたんですけど、
ここ最近ちょっと昨日やりすぎたかなっていうことが感じる日がやっぱりちょいちょい出てきますね。
やっぱり翌日なんですよね。
翌日ですよ。間違いなく。
当日じゃないところが難しいところなんですよね。
当日だったら、当日の最後のすごく疲れてるんですけど、でも次の日に残ってる感じがやっぱり強く出ますね。
だからフィードバックが遅いんで気づきにくいんですよね。
まあそうですよね。でもそう感じてるっていうことはもうすでにちょっと超えてるんでしょうね。
おそらくそうですよね。きっと。
だからタスクリストに並んでる状態では無理感が見えないんですよね。
できそうな気がする。実際できるんですけど、タスクリストに並んでる状態では次の日疲れるアラームが出てこないというか。
そこが多分一番の問題で。
複数プロジェクトを進める場合でも意識的に実践してるんですけど、
GTD方式というか、全プロジェクトのタスクを明らかにして、それをリストにして持っておくということをやめてるんですよ。
はい。
僕ね、今と昔を比べて、今はほぼアウトライナー+テキストエディターでやってて、昔は何かしらのツールにいわゆるプロジェクトごとにタスクを設定して一覧できるっていう方式をしてたんですね。
これ完全リスト方式と仮に呼ぶとすると、今の状態と完全リスト方式を比べると、
やっぱりね、完全リスト方式ってさっき僕が言ったタスクやらなきゃいけない感じを強めるんですよ。
はい。
だってタスクが並んでるから。
これね、すごい重要な問題ですけど、タスクとして並んでることってやらなければいけないと感じるんですよね。
これ、今当たり前のことを言うてるように感じられるかもしれないけど、それがタスクじゃない形で記述されてると、そんな気持ちって湧いてこないんですよ。
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情報整理の言い方すると、メモとして書いてあるものってそんなに切迫感がないんですよ。
はい。
だから、チェックリストとかタスクリストに並んでると、やらなければならない、で、今時間があるからこれをやろうっていう気持ちになるんですよね。
気持ちが生まれるんですよ。
で、当たり前のこと言うと、生まれるからタスクリストって効果があるんですよね。
そのためのものですかね。
そうそうそうそう。
でも、それを網羅的に全部やったときにどうなるかっていうと、その、やる気にさせられすぎるというか、やる気の過剰が起こってしまうんですよ。
はい。
だから、僕が例えば1週間でできるタスクが50として、1日でできるタスクが7としたときに、タスクリストに500タスクが並んでたら、もうこれは完全に過剰なんですよね。
そうですね。
でもね、これに気づかないんですよね。
なぜなら、全てを網羅することが大切だっていうGTDの教えが頭に染み付いてるからなんですよ。
それはGTDの教えなんですかね。
教え、でも。
イメージとしてはありますけどね。
全てを記録して、把握して、一段できるようにしていくっていうマインドセットが、あの系統はだいたいそうなんですけど、ちょっとぐらい見逃してもいいよって言ってる方は一個ないんで。
全てをちゃんと忘れずに記録しおきましょうっていう話をずっと洗礼の日を受けてたんで、だから抱えてるべき、やるべきことになりそうなもの、あるいはなってるものは、全てタスクとして保存しておかなければならないという規範性がずっとあって、それをタスクリストに反映してて、
僕はそのタスクリストを見るたびに、それらのタスクをやらなければいけないものだと再確認してたんですよ。
それが例えば、さっき言ったように1週間のキャパが100回なのに、500のタスクを全部見てたとしても、もう疲れるだけなんですよね。
だから100で、まず100あれば十分だし、1日に関して言えばさっき言ったように、1日の分だけでいいんですよね。
1日の分か1日の分を超えるちょっとだけでいいんですよね。
1日の仕事をするときに500のリストって絶対いらないんですよ。
でもいらないってことで、なかなか気づかなかったんですよね。
それはやっぱり時代的なものですよね。
あと僕がさっき言った、自分は放っておくとやらないから、怠けるから、怠けないように仕組みを作っておかなきゃいけないっていう脅迫観念って多分同じものなんですよね。
それで、子供の頃から誰かに言われ続けてきたんですよ。実際、学校で言われたのか、親に言われたのか分からないですけど、両方かもしれないですけど。
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実際僕は放っておくと宿題やらない、踏み倒すタイプの子供なんですね。
家で勉強もしないし、宿題もやらないし、課題は出さないし、だからやるようにしなきゃいけない。
子供の頃はやらなくても怒られるだけでよかったんですけど、仕事はそういうわけにはいかない。
そうすると自分は放っておくとやらない、踏み倒すタイプだっていうのが頭にあるんで、
そうしないようにどうするかっていうのを、自己啓発所とか律用所を読むと、何が書いてあるかっていうと、
GTDに代表されるタスクリストを作って、忘れないように全部書き出しておいて、
時間があるときにはできるものをピックアップしてやりましょうって書いてあるんで、
それをやらなきゃやらなきゃと思うから、そういうものができちゃうんだと思うんですよね。
あるところからその弊害の方が大きくなっていった面はあって、それを必要とする状況もあるんですけど、
必要がない、むしろ害になっちゃう場面も結構あるんですよね。
だからそこがすごく難しくて、会社員だった時っていうのはほぼ毎日何かの締め切りがある状態だったんで、
やっぱり毎日忘れちゃいけないことがあるんですよね。絶対に落としちゃいけないことっていうのがあるんで、
やっぱりそれはそういうタスクリスト的なものの力を借りないと抜け落ちるんで必要だと思うんですけど、
そうじゃないときにそれをやると、ひたすら脅迫訓練だけが膨れ上がっていくというか、
じゃあそういうときにどうするのか、何もいらないのか、それとも何か中間的な方法があるのかということを考えなきゃいけないんですよね。
たまたま自分がやるようになったのは、数を決めてその数を超えたら全部やらない方に落ちちゃうっていう。
一番それが何というか、自然に機能するということにあると気づいたんで、そういうふうになったんですけど、
まだ余力があってももう6個だとか7個超えたらもうやらないと、本的には。
ものすごくやりたかったらやるけれども、やっちゃいけないにするとまたそれが脅迫訓練になるんで、
だからもうこれ超えたらやらなくていいと。
それは比較的うまく機能してるんですよね。ただやっぱり締め切りが積み重なってくると、それだと終わらないという別の脅迫観念が出てくるんで、
45:09
結構その状況に合わせては使い分けみたいなものが必要になるかなと思いますね。
そうですね。でもやっぱり、6つタスク6つ方式でやらへんやつは下に置くって隠すっていうようなシンプルな方法でも、
やっぱり機能するのは見えなくするからなんですよね。
見えてることの大きさっていうのってやっぱり考えてる以上に強力なんですよね。
ふかしかしだけいけない。
だから完璧なタスクリストって見えすぎてるんですよね。もう明らかに。
だから全プロジェクトのタスクとか見えてもしゃーないんですよね。
そのリストのビューで自分の抱えてるプロジェクトが多分10あったとして、もっと多いでしょうけど10あったとして、
そこに含まれてるタスクの一覧が見えたとするじゃないですか。
何の目的がそこにあるのかと見てどうなるのかって話なんですよね。
何もないんですよ。
こんだけあるんだなとはわかりますけども、わかるだけなんですよね。
実際例えば必要なのってプロジェクトにやろうと思ったときに自分が次何をしようとしたか思い出せたらいいはずなんですよね。
だからもっと限定的なビューでいいんですよ。
どうしても必要になったときに全体ビューが見えるという形の方がいいんですよ。
でも普通のやつって逆なんですよね。まず全体が見えちゃうんですよ。
あれはもうだから自分はこんなにやることを抱えてるんだよっていうことを、
毎回ツールを開くたびに知らせてくるんですよね。
これはやっぱりつらいんですよ。だからビューのスタイルが逆なんですよね。
だから僕最近ワークロリーで兄弟項目に移動できるショートカットを見つけて大喜びしてたんですけど、
おかげで最近ホームを表示しないようになってきたんですよね。
それで最近この話がきついなんですよ。ホームを見たくないんですよ。
今プロジェクトAにズームしてると、で今それが終わってプロジェクトCに行くときに
一回ホームに戻ると全部見えちゃうじゃないですか。それが嫌なんですよね。
全体像が見えるっていいことのように思いますけど。
だから本を一章呼ぶためにそのことに一回ずつ木字に戻るような感じ。
次の章行かせてくれよって感じするじゃないですか。
そういう感じがして、だから僕はワンズームした項目の移動だけで最近そうでてますね。非常に快適なんですよね。
結構視差的ですよね。その話って。
48:03
だから全体が見えたらいいという、全体を把握したいという気持ちと管理するということと関わりはあるんですけど、
スクロップボックスの僕3000ページって全体像って見えないんですよね。そのための項目を作ってないんで。
だから見えないんですけど、でも使えるんですよね。だから全体像って必須なもんではないんですよね。
あった方がいい場面もあるんですけど、デジタルで情報を使うときって、
先ほど言ったように、ワークフォーリーのホームを移動しないといっても、別に移動できちゃうんで。
だから別に全体像ってそんなに必要なものなのかなっていう若干ラディカルなことを考えてますね。最近。
だから常に必要ではないんですよね。必要に応じて見られればいいんだけどね。
そうそうそう。ホームポジションが全体っていうのはね、なんか違う気がしますね。
それは大事なポイントですね。きっと。
だからそのようにホームを全体するとさっきのように結局、数が多すぎたりとか、自分の認知の把握を超えるように時間が経つとなるんですよね。
だから時間が経つ前はいいんですよ。全体像がちっちゃいんで。おそらくその見た目も不可にはならないんですけど。
長いこと使っててその構造が膨れ上がってきたときにどうしてもそのホームが鬱陶しくなってしまうっていうのがあって。
だから、区要大項目を移動するようにすると、流度が必要以上に固定化されて使いにくくなるんではないか疑惑もあったんですけど、
それ以上にホームに戻らなくていいメリットの方が大きいですね。今のところは。
全体像が見えない方がいい。っていう場合の方がいい。普段は。
普段はだって僕らはフォーカスの中を移動してるはずで、一日一歩ごとに自分の人生は何かを考えたりはしないじゃないですか。
それってあれですよね。例えばどこかの時点でその全体を見て調整する前提ではあるわけですよね。
もちろんだから、例えば項目、ホーム直下に6つぐらい大項目は並んでるんですけど、その順番を並べかえるときにはホームが必要ですね。それは当然。
でもそういう場合にだけ出てくればいいものだという感じになってますね。
それをレビューっていうんでしょうね。
そうでしょうね。きっと。おそらくは。その時は逆に個々の項目は見えなくてもいいんですよ。
これが本当にズームとズームアウトの関係性でしょうね。きっと。
なるほど。
で、兄弟項目を移動すると何が面白いかっていうと、途中の項目を見るんですよね。
51:04
はいはいはいはい。
今5番目に移動したときって、4回移動ボタンを押すんですけど、その度ごとに途中が目に入って、これノートめくってんのと一緒やなって思うんですけど、これってデジタルにはんまりなかったよなって思うんですよね。
はいはいはいはい。
あのページめくってる感がありますよね。
これが見ようとしないけど目に入るっていうのと、でも逆にホームっていう全体を見たくないって逆のこと言ってるようなんですけど、でもそれはいいんですよね。個別のものがその時流れて目に入ってくるのは気にならないんですよ。
そうか。面白い。
不思議やなと思って。
なんででしょうね。
でもだからあえてページを移動してると、最近これ見てなかったなっていうのが目に入るっていう不思議な効果があるんですよね。
そのフォーカスした状態を保つことっていうのは、リミットを超えないというか、休みを取るというか、そういうことにつながっていると思います。
だから上がるでしょうね。だから1プロジェクトしか見ないということなんで、第1項目1個が1つのプロジェクトに相当してるので、ズームした状態であるってことは、1期と画面には絶対に1つのプロジェクトしか表示されてないということなんで、
1個上に登るたびに、ホームに戻ると複数プロジェクトが目に入ってしまうんですよね。だからそれが、またあれもやらなあかんなっていう、安倍というか、先ほど言った、順序立てたりとか優先順位につけるような心が働いてしまうんじゃないですかね。
そのやり方で、やるべきことだったことをやり忘れたとか、抜けちゃったみたいなことって起こらないですか?
やるべきの強度によるんですけど、本当にやるべきことは忘れないですね。つまりガチの締切が決まっている、僕の場合もと言うゲラーを月曜日に返すみたいなことは忘れないです。
代わり、あれをやっておいた方がいいなっていう程度の強度のやることは、見逃すことは当然あります。それを受け入れたということですね。
それはわかりやすい。それはやるべきことじゃないんですよね。
昔の自分はそれをやるべきことにカウントしていて、そのやるべきことを全部網羅してやろうという、ある種の支配欲求みたいなのがあったんですけど、
それでは負担が強すぎるなというところに思いだった感じですね。
なるほど。それでわかりました。なんか感じが。要するにやるべきことのハードルを上げたわけですよね。
54:00
そうですね。そういうことです。
大抵のことはやるべきことではない。できればやりたいことだけど、それは正しいかな。
だから僕の中でタスクになるものは本当に限定されているんですよね。さっきも、今やったらゲラーのチェック項目1章から7章まではタスクになってますけど、
それ以外のものもろもろってメモだけなんですよね。タスクとメモの違いって頭にチェックマークをつけてるかどうかだけなんですけど、それだけでもやっぱり心の軽さは違いますね。
ということは以前は心は軽くなかったんですね。
そう思います。きっと。その当時はわからなかったです。今と比較するとやっぱり重たかった。だからあらゆるやった方がいいことをタスクしてたんで。
それ重いですよね。
だから現実的にできることは少なくて、例えば時間が経った時にやっぱり無理やからっていうこともたくさん出てくるじゃないですか。思いつきのことの中には。
でもそれはタスクの残骸として残ってるんですよね。だからやるべきことを、今でもやるべきこととして残っちゃって、これもやったらいいなとかこれもやった方がいいなっていうのが全部タスクになってるんで。
やっぱりタスクになったものを消すのって難しいんですよね。心理的に。達成もしてないのに。
だから本当にやるっていう段階で初めてタスクにするか、もう僕は最近だからやった後にメモをタスクに書き換えるという事後処理の方も増えてますね。
昔はそんなこと絶対なかったですけど、今はだからやっちゃったタスクとしてタスクが立ち上がることの方が結構多いですね。
なんかそう考えるとやっぱりそのいわゆるタスク管理アプリの、まあよしやしじゃないですけど、そういうものの腹む問題点っていうのもわかりますよね。書いたことが全部タスクになるんで。
メモにも戻せないし、だから情報が固定が強く固定がされてしまうんですよね。そこの場合って。
チェックボックスがついたタスクになっちゃうんですよね。あの中に書き込んだ瞬間。
そうですね。だから会社措置権の中で言われたことは絶対にやらなきゃいけないっていう強度の強いタスクの場合は別にいいでしょうけど。
でもまあどうなんですかね。知識労働でそんなに硬いタスクってあるんかな。あるんかもしれませんが。
僕のフリーランスの場合って、さっき言ったら他人との約束がある締め切りが決まってるコミットメントもありますけど、
例えば本の反則活動とかプロモーションとかこんなことしたらいいんじゃないかみたいのは全てアイデアなんで。
その全てアイデアをタスクにしてたらキリがないですし、その関連のアイデアと他人との締め切りの中間ぐらいにもタスク的なものっていうのがいっぱいあって、
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それを全部リストアップしてたんではチェックボックスが溢れ替えることになっちゃいますよね。きっと。
そうですね。
クラシタさんっていわゆるタスク管理アプリを使ってたことってあるんでしたっけ?
えっとね、ToDoistは一時期使ってました。でも、それ以前はEvernoteでタスク化にしてたとか、スクラップボックスでタスク化にしてたとかですね。
そうですよね。あんまり、何かこう、なんだろう、ToDoistとか、なんかああいう。
一応全部触りは触りましたけど、どれもこれも固いかデータベースすぎるかどっちかで続かなかったですね。
でも続かなかったけが、多分さっき言ったように全体像が見えすぎたせいやと思うんですよ、きっと。だから最初の方がうまくいくんですけど、続けてると嫌になるっていうのは、その全体像が見えすぎる問題で多分説明できると思います。
だからその全体像が見えすぎる問題は多分アウトライナーを使っていても使い方によって起こるんですね。
起こると思います。そう、起こるんですよ。これね、そう、こんな話を今しようと思ったんですけど、プロジェクト、抱えてるプロジェクトっていうのがいくつかあるとするじゃないですか。
それをデータを保存するために、Macの中にフォルダを作るじゃないですか。アウトラインを作るものは、ワークフローリーの中にもさっき言った大項目をつけて、中に項目を立てていくんですけど、
対応させたくなるんですよね。つまり、Macのフォルダに作っているプロジェクトは、ワークフローリーも並んでないとダメじゃないかという感じがすごくしてくるんですけど、
例えば、そうやって作ったものって、大半中身が空なんですよね。プロジェクト名だけをリストアップするために作ってるんで。
これがまずいんですよ。こういう使い方するとさっき言ったように見えすぎるのが強まってしまうんですよね。
わかります。
Macのフォルダって直接見ないんですよ。大抵は。触るときって大体フォルダを直接開くか、ターミナルで移動して開くかで、ターミナルで移動するときってCDコマンドっていうのを使うんですけど、あれってズームなんですね。基本的には。
見えないですもんね。
他は見えなくなる。だから別にMacで使っても邪魔にはならないですけど、ワークフローリーって作業するときに広げる場所なんで、まな板のような場所なんで、
そこに無関係というか、操作に関係ないものが、ただここにプロジェクトがありますよっていう見出しだけが並んでいるのってすごく邪魔であることに最近気づきましたね。
だから中身がないプロジェクトはワークフローリーには並んでないですね。
なるほど。
並べたくなっちゃうんですね。
あれは自分の抱えているプロジェクトをここで一覧したいという欲望があるんでしょうね。
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これも一覧病というふうに言えると思うんですけど、無くても全く困らないんですよね。
一覧の欲求とか、網羅したいとか、網羅したい、整理したい。
あとそれを全部美しい体系として整理したくなるんですよね。
それが使い勝手というか、使い勝手を悪したりとか、使う人に負担を強めている傾向はありますね。
なんかもう本当に、プロジェクト揃えたくなったときに自分の欲求にちょっとゾッとしましたもん。
自分これ並べたがってるけど中身かなやんっていうときに気づいて、これがあかんかったんやなっていうのに気づいたというか。
という具合にあれですよね。やっぱり自分でギリギリ首を締めてるような、そういう行為っていうのが多分一人一人の中にあるんでしょうね。
あるでしょうね、きっと。
それがまたある種欲求というか、快楽と結びついているところもあって。
そうそうそう、そこが問題なんですよ。
だから嫌なことをしてるわけじゃなくて、そうすると楽しかったりするんですよね。楽しかった人が、ある種の正義を実行しているような感覚があって、
その流度揃えたりとか丁寧にするっていうのが、否定する感覚がなかなか湧き上がらないんですよね。
で、きれいな構造が出来上がって使いにくいツールになるっていうこの悲しいジレンマがやってくるんですけども。
そうですよね。あとテンションが上がってる時にものすごく壮大で緻密な構造を作ってしまうみたいな。
それが後で自分を圧迫してくると。
要素の項目A、B、Cって作った時に、そこでイマジナリーなDとEもいるだろうみたいな、
別にいらないんですけど、A、B、Cと流度が似てる他の項目も荒かで作ってしまうんですよね。
で、やっぱり使わないんですけど。だからやっぱり人間のそういう気持ちって強いんだなというのは思いますね。
まあ、特にそういう傾向の強い人間ってのはいるでしょうね。
まあまあこういうツールが好きな人は多分特にそうなんでしょうけど。
そうなんです。逆にそういうツールに惹かれる人ほどそうなので。
だから逆にそっちに悪い方に使ってしまう可能性がありますね。
必要に応じて作るっていう、先回りしないっていう、整えるために先回りしない項目が必要になった時に項目を作るっていうやり方にしたら
だいぶスマート、スマートというか軽くなりましたね、ワークフローリーが。
そういう意味ではスクラップボックスって割にそういうところを防ぐところがあるんじゃないですかね。
1:03:01
ありますあります。
なんというか、変に壮大な体系を作ろうとする欲求を。
大分類病っていうのを抑制するのがあって、だからそこはやっぱりツール側があれぐらいやらないと人間って作ってしまうもんだなっていうのはありますね。
だから。
あれ不便だって言う人は多いと思うんですけど、その不便さが押しとどめてる壁っていうのがあるんだなっていうのは、自由に使えるツールを使っていると余計思いますね。
そうですね。
悪いことしてる感じがないですもん、だって構造を整えてる時って。
いやもういい、良きことですよね。
だから押しとどめるものがないですからね、自分の心の中には。
まあ一種の支配欲ですよね。
そういうのもあるんですよ。だからこれを手放すところですね。
だからタスクにしないとか、メモにとどめておくっていう意味でタスクにしないとか、必要のない、揃えるためだけの項目を作らないとかっていう、それは全て支配欲を手放すことなんですね。一覧しないことも含めて。
だから逆に言うと支配欲が自分を苦しめてるっていうことになって、これは多分心理学の話と合致するでしょうけど、きっと。
ありそう。
だから前半の話も一緒なんですよね。他人に相談するっていうのも、ある行為を自分の中の支配に置かないっていう、半分誰かに渡すってことなんで。
だからどっちも一緒なんですよね。やり方、アプローチが違うだけであって。自分の支配下に対象を置かない、置こうとしないと。多少の不便とか、不便というか、整理できてないとか、コントロールできない、的な感を、僕は受け入れるっていうようにすると、むしろ自分が楽になる。
最初に気持ち悪さが多分あるんですよね。手放すとか、粒度を揃えないのはめちゃくちゃ違和感があるんですよ、最初。在約感ほど強くはないですけど、間違ったことをしてる感じがすごくするんですけど、結果的にその方が使いやすくなるんですよね。
そうですね。
必要な粒度は結局揃うんですよ、もし本当に必要なら。
それはそうです。
それから揃えようとすると多分ダメなんですよね。
だからそう。どのような状態で粒度が揃っているのかっていう、まず思い込みの粒度が多分あるんですよね。実際の粒度とそれが多分違っているんですよ。
ありますね。
前半に揃えてしまうと使いづらいですけど、結果的に揃う粒度は、実践的粒度は多分普通に揃うんですよね。僕もワークローリーのホームの直下の大分類は自分の中では全部粒度が揃っているんですよ。
はいはい。
ただ今までの感じからすると、これはこれでいいのかっていうのは確かにありましたけど。
いやだから中身がないのに先に粒度を揃えるという行為はまさに先にアウトラインを作る行為じゃないですか。それと同じことが起こっている。
1:06:06
だからこれはだから文章を書くことだけじゃなくて人間のある種の知的行為なんですよね、きっと。
そうですね。
先回った処理っていうのは。
それが自分を縛るんですよね。
だからある形作るというレベルやといいんですけど、それが縛るまでいくと強すぎるんですよね。だから。
強度の立て方にも程度の問題っていうのがあって。
軽い程度やったらいいんですけど、強い程度になると逆に自分の身動きを阻害してしまうっていうそこがあるんですね、きっと。
なんかよく休む、休まなきゃいけないっていうのは、その休息をタスクにして。
あれはだから本末にどうにしようと。
タスクに入れるみたいな話あるじゃないですか。
僕は誰でも本末に入れるってことなんですよ。だからタスクにしなきゃいけないという気持ちを捨てることが多分大切なことであって。
タスクにして休んでたら、だからその所作が変わってないですね、何も。
多分それ休めてないと思うんですけど、そもそも。
休みがタスクになってるわけですね、それ。
やることの管理をしなくていいっていう状況に至れることが、その死になる解放のはずなんで、きっと。
ということは、だから問題はどう休むかではないんですよ。
まあそうでしょうね、きっと。
まあでも、まあ休むのは難しかったですね、本当に。
この1年間でようやく少しずつできるようになりましたけども。
それはだから休むことのそのものの難しさというよりは、僕が仕事中毒やったから、程度が強いところやったから休むのが難しかったっていうのも大部分あると思いますが。
そうですね。
だからまあ休むのが難しい理由って人によってちょっとずつ違って、休むと罪悪感がある人みたいなのもあるし、まあ同じか。
たぶん同じだと思うんですね。
本源はたぶん一緒だと思います。
全然休んでも罪悪感はないんですけど、ほっとくとやっぱり、あれはそうだね、難しいですね。
どこかに休んではいけないというのがあるのか。
まあ、労働を浴びておくという文化、でも日本もアメリカもわりかし勤労をたたえるような文化体系ではあるんで、そこにつまつく使っているとなりやすい傾向はあるでしょうね、きっと。
同じことだから、例えば東南アジアとかの文化の場合はここまで切迫したものではないような予感はしますけども。
そうですね。
1:09:01
でもやっぱり今のお暮さんでも、例えば締切とか人道の約束は守ろうとするじゃないですか。
もちろんそうです。
やっぱ文化によってはそれさえもまともにないっていうのも多いわけですよね。
だからそこ、まあ変な話、自分の体のことを考えたらどこかで誰かに不義理をしたり、なんかの締切が遅れてもいいということも含めてやっぱり、こう自分の中に持っておかないと。
そうですね。
っていうところもありますよね。
だから自らの規範性の脱構築ということですけども、これ本当に自分の中の規範性というのはもう前提というか当たり前なんで、そういう考えが一つの考え方でしかないっていうのに思い至るのって苦難の道なんですよね、きっと。
最近は締切だから中途半端な状況で向こうに送るとかちょっと2、3日待ってもらうということは普通にできるようになりましたけど、昔はもう徹夜上等でしたからね。
それは若さゆえだし、そういうことをやった経験が何か価値があったということも思いますけども、でもやっぱりコマンドが少なかったっていうのは確かですね。選択肢が少なかったっていうのは。
だからあんまり若いがゆえに許されてたことという感じはしますが。
そうですね。難しいですね。あんまり20歳とか22、23歳の人があんまり堂々と「いやいいんすよ、すべきに」なんてやってるのもどうかなって確かに思うんですけど。
そう思う心が僕たちの文化的な残りとして残ってるわけですよね、基本的に。
そうなんです。だからこれ自体がもう規範性であって。結局、結果として何が起こるかだけなので重要なのは。
だから日本人はもっと、ぐーたらと言うんじゃないですけど、人に頼ったりとか、結構締切とかも、ユーズが聞く話が多いんですね、裏では。裏ではっていうか。誰かに困ることを発生させる場合もありますけど、そこまできちっとしてないんですね。
だから多少ユーブログとかでも、あるテーマで記事を求めると、そのテーマでなければならないって面白いのが結構多いんですけど、全然逸脱していいんですよね、わりかし。
そういう世の中の仕組みって物理的な法則じゃないんで、わりかしユルイんですよね、物事っていうのは。
そのように考えられたら、もう少し自分のコマンドが増えていくかなという気はしますけども、これはでも人生経験ですからね、こればっかりは。
そうですね。
1:12:01
僕の場合は多分若い頃すごいゆるゆるで、かなり早い段階で会社員辞めちゃって、最初に就職した会社1年で辞めて、その後なんかこうゆるゆるでやってきたところがあるんで、その時に会社の人と仕事をするには舐められちゃいけないみたいな気持ちがどっかで芽生えたんですよ。
わかります、わかります。
だから、こう見えても俺は絶対締め切りには遅れないぞとか、こう見えても俺の作る物の品質はお前の会社のやつより高いぞみたいなのを見せつけたいみたいな、何かが芽生えたんですよね、20代の後半ぐらいに。
それがすごく悪い意味で自分を苦しめてきたところは、今でもちょっと残ってますね、それは。よくないですね、それは。
そうですね。ある程度までやったら職業意識というか職人意識として働きますけど、でもやっぱり強すぎるのはやっぱり問題で、しかもそのいい品を作るというよりは舐められないという目的のためというのはもう間違ってますからね。
そう、完全な本末戦闘ですね、それはね。
結構30代初めぐらいとかに結構そういうのがありましたね。
喧嘩越しになるみたいなところもあった。
いやでも本当だから自分でカーソルの編集長やってるのはわかりますけど、例えば締め切りに遅れた原稿を低く見るなんてことはないわけなんですね。当たり前だけど。
まあそうですね。
でもやっぱり自分が書き手側になるとその気持ちって結構怖さなんでしょうね、ギットだから。
そうでしょうね。
ケチをつけられたくないとか隙を見せたくない気持ちなんと思うんですけど、もちろんそれあたりに迷惑をかけないという良いメリットもあるんですけど、それよりも恐怖心の方が多いんでしょうね、ギット。
恐怖心と防衛、同業反応みたいなね。
だから一度反対側を拝見してみると、過剰な怯えやったなっていう気はしてますけど、でも言葉で差としてわかるもんでもないんでね、きっと。体験しないとわからないというか。
まあそうですね。でもそういうのあるよっていうのは大事でしょうね。
そう、今言ってたと思いますけどね、今でもそれ残ってますね。企業と仕事を相手に仕事するときとかね、初めての他人と仕事をするときとかは多分それ残ってますね、今ね、自分には。
良くないですね。
まあね、ケースバイケースっていうのを持ち出すと何でもあれですけど、ケースバイケースのときはもちろんありますけど、大抵の場合って、まあ舐められないですし、まあ舐められないですし、もちろん世の中に本当にもう先入観で物を言ってくる人間がいるんで、フリーランスというだけで下にいる人たちは、別に言いますから、舐められないですっていうこのコマンドは持っておいてもいいと思いますけど、全員に対してその強度で当たる必要は多分ないんですよね。
1:15:09
ない、そう。ないですね。
そうなんで、逆にそれってこう容易に、そうじゃない人に対するその自分に対して、そうじゃない他人を今度下に見るみたいな方向にすり替わるんですよ、そういう感情っていうのは。
だからね、まあ総合的には良くないと思います。
そうですね、確かに。そうですね。
だから自分の荷物を下ろすと、人の背負っている荷物が見えるようになるんですけど、自分が荷物を持ってると、人が荷物を少ないと、なにあいつ全然荷物背負ってないやんけ、みたいな感じになっちゃうんで、不幸の押し付き合いしかなってないんですけども。
そうなんです。何もいいことは起こらないですからね。
まあね、だから、でもこれはやっぱり習慣的とか文化的な周りの人間がどう考えているのかにも左右されるんで、だから多くの人は似たような考えを持ってるでしょうね、きっと。
まあ多いと思いますよ。
それが多分日本人の美徳としてカウントされているんでしょうけども。でもまあ、その逸脱できるよ、そのゲームから降りることができるよっていうのは間違いない話で、ちょっと変な人には見られるかもしれないですけど。
そうですね。
まあでもね、ほんと変な人に見られる方がメンタルとか体を壊すよりも、
遥かにいいですね。
遥かにいいですよ。
そうですね、それは間違いないと思います。
メンタルやっちゃうとね、2年、3年平気で飛んじゃったりしますからね。
ほんの飛んでるのもそれは間違いない。
飛んで戻って来れればいいけど、戻って来れない場合さえあるんで、ほんとそれは大事ですね。
だからいつでもゲームから降りられるというか、降りられるというか、本当に降りていいんですよね、いつでも。
いつでも参加しているゲームから降りられるはずなんで、職業であろうが、なんであろうが。
そうですね。
それがつい忘れてしまうっていう、ズームが固定されている状態があって、だから他人と話すことっていうのはズームを移動することであり、ケースバイケースでズームアウトすることになるということでしょうね、きっと。
と思います。
今回はちょっと、容易に解決ができる話ではないですけど、
僕の場合はとりあえず他人、簡単に他人に頼る、簡単にっていうとおもうですからね、でも今までに比べると簡単に他人に頼ったりとか、
あるいは複数プロジェクトを進めるにしろ、無理にタスクにしないとか、全体を把握しようとしないっていうやり方で、心の負荷を減らしているようなところがありますね。
この場合はあれですね、数を決める。
そうですね。
数を決めて機械的にその数を超えたらなし。
っていうのは、機械的って判断を自己に入れない、自己で判断していずに外部的に判断するっていうのも、この場合は多分重要でしょうね。
1:18:03
だから、自分の感覚でいうと、例えば働ける気持ちがあるから働くってことになっちゃうんですけど、その判断間違っているわけですからね。
そうなんです。
ちょっと先週、ちょっと思うところがあって、それを崩したんですよ。
はいはいはい。
あっという間にちょっと体調が悪くなって、あ、ダメだなこれと思って。
これも30代ぐらいまでだったら大丈夫だったんでしょうけど、そうではないと。
ペース配分も年齢とか環境によって変えていかないといけないということですね。
ですね。
はい。
今回はこんな話にしたいですが、何かご知らせ等ございますか?
特にはないです。
はい。
僕は多分7月の23日に発売されるであろう本のゲラーのチェック作業を進めております。
あ、23日なんですね。
おそらく23日の発売に間に合う形になると思います。今、このペースやと。
はい。
はい。
タイトルはまだあれですね、内緒なんですね。
どうなんやろうな。どうなんやろう。
まあ内緒にした方がいいんじゃないですか、今。
いや、でも同時に発売される某本のタイトルは編集者さんが言ってたんで。
いや、それは編集者と著者の関係だからじゃないですか。それ言っちゃいけないんじゃないですか。
でも、タイムラインに流れてたような気がするんです。確認とっとくべきやったな。
そういうのが出るよって流れてたの見ましたけど、正式なタイトルとかは見てないような気もしなくもない。
いや、出てました。僕はその本の編集者さんが言及しているカギカッコを見たんで。
僕の本もなんか予約本、ほにゃらら、ドットコムみたいなのに並んでたのは見たんですけども。
見たんよ。
Amazonとかには並んでないんですが、どうなるのか聞いておけばよかった。
あの、ノートの本なんですけど、タイトルが…
言っちゃう?言っちゃう?
言わないようにします?
いや、僕は別に聞きたいんですけど。
これは収録切った後でもいいですよ。
本タイトルとサブタイトルがありまして、本タイトルが「すべてはノートから始まる」っていうタイトルで。
おー、いいタイトルです。
サブタイトルはまだ内緒にしてました。
あんまり意味が…いいタイトルですね。
「すべてはノートから始まる」。ノートだけがカタカナです。あとは全部ヒタカナですね。そういうタイトルの本です。
ノートをずっと見せかけてというような本になっております。
いいタイトルですね。
ありがとうございます。これめっちゃ考えました。
いいタイトルだと思います。
あとは、表紙がどんな感じになるのかと、
副題がどれぐらい内容をサポートしているかというあたりを、
1:21:02
ティザー的にちょこちょこ出していけたらなと思うんですが、
そんな感じでございます。
というわけで、今回の話、私はこんな感じで休んでいるというか、
あるいはこんな感じで複数プロジェクトを管理しているとか、
あるいは全体像なんか必要ないぜという同意のご意見があれば、
#打ち合わせCast、ギラガナで打ち合わせ、アフォアウェットでCastまでいただければ、クラスタがチェックしたいと思います。
ありがとうございます。こんな感じでやりすぎないようにしていいですか?
やりすぎない方法というのは確かに聞きたいですね。
これ結構みんな持っていると思うので、ぜひハッシュタグに投稿していただければと思います。
というわけで今回はこれまでにしたいと思います。お疲れさまでした。
お疲れさまでした。