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サマリー
今回の打ち合わせCastでは、様々なツールやテクノロジーの進化、そしてそれらがもたらすメタファーの変化について深く掘り下げています。まず、Notepad++のMac版リリースや、Visual Studio CodeのようなElectronベースのエディタのメモリ消費問題、そしてネイティブエディタへの期待について触れられています。Obsidianのコミュニティサイトの登場や、Firefoxの画面分割機能、Evernoteのタブ機能復活と値上げの話題も取り上げられました。さらに、執筆支援アプリ「Core」の紹介や、ワークフローリングのアップデート、そしてアウトライナーのメタファーに関する考察が展開されました。特に、アウトライナーの操作を「Zoom」「Collapse」「Dive」といった言葉でどう表現するか、そして「アウトライナー」という言葉自体が持つ誤解や、そのメタファーとしての限界について議論が交わされました。生成AIの普及に伴い、プロンプトエンジニアリングの重要性や、人間の創造性、自己変容との関係性についても考察が進められました。最終的には、生成AIがもたらす「頭を使わない」というリスクや、インターネット黎明期の文化との比較、そして現代におけるメタファーの役割の変化について議論が締めくくられました。
- エディタの進化とネイティブアプリへの期待
- Obsidianコミュニティとブラウザ機能のアップデート
- Evernoteの進化と価格改定、そしてMermaid.js
- サブスクリプションモデルの課題と代替案
- ノート.comとSubstackの多言語化、そして執筆支援アプリ
- Workflowyのアップデートと隠しテクニック
- ツールとメタファー:アウトライナーの操作表現
- アウトライナーという名称の誤解と受容
- 縦書きと横書き、そしてノート術の変遷
- 生成AIと文章作成:発見的ライティングの可能性と課題
- プロンプトエンジニアリングと知的生産の未来
- メタファーの重要性の変化と言語能力
- 生成AIの利用と自己変容、そして人間の役割
- ハイパーテキストのビジョンと現代インターネットのギャップ
- インターネット黎明期の文化と生成AIの現在
- ユーザー意識の変化と通信の自由
- 生成AIの道具としてのベクトルと人間の役割
- 企業・国家レベルの信頼とテクノロジーの未来
- アウトライナーのメタファーと今後の展望
エディタの進化とネイティブアプリへの期待
うちあわせCast第百九十一回ということで、 今回もゲストにたくさんお迎えしております。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
1ヶ月ぶりぐらいな感じですけども、いろいろありまして、 いろいろ追いかけたいんですけども、
まずWindowsの定番テキストエディターの Notepad++というのがありまして、
前、ダウンロードしたアプリケーションに、 ウイルスが何かうんどんかんどんみたいな話が名前が上がったときに紹介したと思うんですけど、
全く別件で、Notepad++がMacに対応ということで、 Mac版が出ている。
今になって。
基本的に同じ著者の方がMac版を作ったということではなくて、 全然別プロジェクトとして動いているらしいです。
で、ネイティブAPIで書き直しと書いてあるので、 おそらくですけどもSwiftを使って書いているのではないかと思われます。
クラシカルな感じの見た目ですね。
そうですね。今これを私が使うのかどうかはちょっとわからないですけども、 ネイティブエディターということなので、
Visual Studio Codeというのがこの辺のコードエディターでは超有名で、
コーダーからエディターまで、文章書きからコーダーの方まで、 結構広く使われていると思うんですけども、
Electronというパッケージというかライブラリーというかで作られており、 VisualStudio Codeは。
で、ノードJSがバックエンドで、 ChromiumというChromeのちっちゃい版みたいなのが入っており、
まずファイル容量が規模の割にでかいというのと、 ひたすらメモリを食うという問題がありまして、
それに比べたネイティブエディターというのは、 基本的に10分の1とまではありませんけど、
半分から5分の1の間ぐらいのファイル容量もメモリも少なくなるんで、
そこまで高度なことはしたくないという方は、 選択肢になるかなと思います。
で、Visual Studio Code最近アップデートが多いんですけど、 全部AIエージェント対応の機能ばっかりで、
僕全然使ってないんで、 ただエディターが重くなっていくだけという、
ちょっと悲しい感じがあるんで、 最近乗り換えようかなと考えてるんですけど、
ネイティブエディターとか、 エレクトロンで作られたエディター以外が
選択肢に最近なってきてるかなと。 生成AIを動かしているときに、
ひたすらメモリを食うんですよね。 なので、パソコンにおけるメモリの
起床価値が上がってきてるんで、 あんまりアプリには使ってないという方が
多いと思うんで、今後アプリケーションが使う メモリの割合みたいなのが
ケアされるかつての昔のような時代に なってくるんじゃないかなと思います。
でもエレクトロンベースのものが10年とか そのぐらい経ったと思うんですけど、
また一周してまた時代が戻るみたいな。
っていう感じがあって、 やっぱりエレクトロンは両方とも
スポントエンドもバックエンドも JavaScriptで書けるという
メリットがありまして、結局そうすると 何が嬉しいかというと、
コーダー、プログラマーが楽なんですよね。
でも、最近プログラマーは 自分でコードを書かないので、
2つの言語を使ってても別に何も関係ないわけですね、 生成AIにとっては。
なのでそこの人間的制約を模して アプリが作れるんであれば、
Nativeに近いほうがスペック的には 絶対いいのは決まってるわけですから、
そういうふうに動いていくんじゃないかな というふうにはちょっと思います。
なんかあれですね、何年か前に Notepad++は英語圏のWindowsで定番だったエディターで、
日本だと何年か前にWZエディターの Mac版というのが出ましたが、
あれどうなったんでしょうね。
全然聞くかもしれないね。
聞かないですけど、なんか機能はすごいけど、 Macに移植すると見た目が
ちょっとアイテムになってしまうという、 このNotepad++もちょっとそういう感じです。
機能がすごいのはわかってるんですけど、 WZエディターも機能は素晴らしいんだけど、
ちょっとこの見た目厳しいなみたいな感じ。
いかにもWindowsからやってきましたみたいな感じ。
それもなんかちょっと昔のWindowsからやってきました。
感じがしますね、それは確かにそうですね。
でもWZエディター大好きだったんですけどね。
現代の私たちが果たしてそれを使うのかどうかは分かりませんけど、
エディターの選択肢が増えること自体はいいと思いますね。
Obsidianコミュニティとブラウザ機能のアップデート
Obsidian Communityっていうのができたらしく、
DiscordにObsidianの公式のチャンネルっていうのはあるんですけど、
それとは別で、プラグインとかテーマ、
サードパーティーじゃないや、コミュニティ参加者が作っているような
プラグインとかテーマとかがテーマごとに分類されて
見つけやすくなっているというサイトでございまして、
ObsidianのプラグインはObsidian上から当然探せるんですけど、
タイトルで検索するしかない。
だからコマンド系ツールを探してるんやけど、
みたいな探し方ができなかったんですね。
コマンドって打ち込んで、その説明にコマンドって入ってたら
それ見つかるけど、カテゴリーとかジャンル分けがなかったので
Obsidian上では。それが非常に見つけにくくなってきたのが、
ここの形で統一的なプラットフォームで見つけられるようになったっていうのと、
あとこれの背景でレビュープロセスのオートメーション化が
かなり進められたそうで、生成AI以降に公式のプラグインとして
認められるためにはレビューを通過する必要があったんですけど、
全く進めないと。なぜならば提案が多すぎたと。
それはもうさすがに無理だろうということで、
ほとんどのことをコードチェックをオートでレビューして
公開できるようにして、深刻な問題が報告されたときとかに
人間のレビュアーが出馬ってくるみたいな形になったようで、
かなりレビュー待ちの渋滞は解消されたということで、
こういうサイトもできたんで、今後with生成AIと兼ね合いで
どんどんどんどん増えてくるんじゃないかなと思います。
細かい話なんですけど、Firefoxで画面分割機能が追加されまして、
Chromeで元々あったので、Firefoxいずれ絶対に追加されるだろうと思って
見てみたんですけど、当然きれいに分割できて、
ワークローリでも画面分割はできるんですけど、
うーんって感じです。
何もしていない状態から分割をすると、右側に分割されて
ワークローリがもう1回読み込まれるんですよね。
そうなりますね。
それは求めてはいないんですよ。
ずっと開いておきたいかっていうと、ずっと開いておきたいわけで、
他の用途では全然いいんですけど、アウトラインを二重で使いたい
という役割にしてはちょっとオーバースペックかなというところが
感想ですね。
なるほどね。
それ以外の用途をやったら全然便利だと思います。
そうですね。ずっと開いておくならまあいいけれども、
なんかちょっと思いついてパカッと開きたい時って、
なんか15秒ぐらい待たされる感じが。
あのもたつきはちょっと日常使いはないです。
2つ開くとやっぱり画面上のタブもその2つ開いてしまうので、
2枚。明らかに邪魔ですし、なんかちょっとそこは違うかな
というのは感じましたが、ぜひ分割でやりたいという方は
試してください。
Evernoteの進化と価格改定、そしてMermaid.js
タブで言うと、エバーノートが11になって、ようやくタブ機能が
復活しまして、今まではもう単ウィンドしかなかったんですけども、
開いてるノートとかノートブックとかを新しいタブで開く
ということができるようになりまして。
できなかったんですね。
今まで19まではできてたんですけど、12になってできなくなって、
11になってようやくかなり長い時間タブが開けてなかったんですけど、
まだ開けられるようになったということで、ようやく戻った
っていうのと、あとMermaid.jsっていうフローチャートとかを
レシリしたら図にできるっていうライブラリーがあるんですけど、
それに対応したんで、コードブロックとかにMermaidを書けば図として
表示されているっていうような機能が加えられて、非常にモダンな
エディターになりつつあるんですけど、値段が上がったらしく、
もうそれはないんじゃないかっていう声をたくさん聞きまして、
アドバンスっていうプランで年間18,000円なんですよ。
年間18,000円はさすがに高いかな。
一応AI機能はある程度幅広く使えるので、一応リミットはあるとは思うんですけど、
ある程度高くなるのは仕方がないにしても、年額18,000円はちょっと
払えへんのじゃないかなという感じがちょっと僕はしておりますね。
もう一個下のプランも月額7,099円やったらいけるかなと思うんですけど、
ノートのリミットが1,000枚までなんですね。
これは無理なわけですよ。
ここの間、スターターとアドバンスの間ぐらいがあればいいかなと思うんですけど、
多分この敷地を超えられずに辞める方は結構多いんじゃないかなと個人的には考えておりますね。
そうですね。
企業としてはある程度値段上げていかなあかんのは当然にしても、ちょっとねという感じはしますね。
サブスクリプションモデルの課題と代替案
だからこのサブスクの問題点は前も言いましたけど、エヴァノートだけならまだしも、
結局どうしても仕事でMicrosoft 365を維持しなきゃいけない。
それまた何か年間数千円では済まないわけじゃないですか。
それにプラスしてこれが乗っかり、さらに何かもう一個あったりすると、
ちょっと個人でそれ維持するのがなってなっちゃうんですよね。
なのでまた第二段階ノーションとかに逃れる人とか、あるいはローカルベースに戻してっていう感じ。
月額は1,500円という感じですけど、2,000円払ったら生成AIのサブスクリプション払えるわけですよね。
ローカルにMDファイルでクロートとかでっていうことも全然視野に入ってくるわけで、
ここまでの値段になってくるとちょっと競争相手が強くなりすぎるんじゃないかなと思うんですけども、仕方がないかな。
今は生成AIの課金をしなきゃいけないパターンもありますもんね。
例えばGoogleにある程度お金を払えば、
Googleキープ、Googleドキュメントにジェミンをついてくるということになったら、
エヴァノートの料金の身を取り感が出てきてしまうかなと。
MCPっていうエヴァノートを生成AIから操作するためのプロトコルみたいなのがまだ整備されておらず、
ノーションとかはあるんですね、MCPとかいうのが。
当然Googleサービスは全てジェミニ経由で触れるに対して、
エヴァノートがまだそこに追いついていないと。
間違いなく追いついてくると思うんですけど、
今ギャップでこのタイミングやとお客さん離れていくんじゃないかな疑惑はありますね。
そうですね。
ノート.comとSubstackの多言語化、そして執筆支援アプリ
細かくはない話なんですけど、
ノート.comで日本語で書いている記事が多言語化対応ということらしく、
海外の方には勝手に翻訳されて表示されるということだと思います。
サブスタックももう始まってるのかこれからなのか分かりませんけど、
同じ多言語化対応ということで、
全部生成AIがどうにかするということだと思うんですけど、
このノートとサブスタック両方ともに広告モデルじゃないんですよね。
課金モデルなので。
お客さんが増えたことによってどういう嬉しさが出るのか、
多言語の翻訳によって圧力があって払い戻しとかが増えるのかちょっと分かりませんけども、
全体的に言うといいんじゃないかなと。
絶対にいいとは言い切れないけど、いい方向ではあるかなという感じはしてますね。
とりあえずオフにしました。
そうでしょう。
それはそうと思います。
Coreっていうエディターが最近できたらしく、
普通のエディターに生成AIの機能が付いてますというのが売りらしく、
MacOS向けの執筆アプリなのかな。
全然使ってないし、使うつもりもないんですけども。
生成AIのモデルの調整なのかハーネスなのかは分かりませんけども、
あんまり嘘はかかないよというような売りがあって、
それはどこまで本当なのかは分かりませんけども。
でもさっきも言ったように、月額1,200円払うのだったら
2,000円でクローズとか使えてしまうので、
これはちょっとなという気はしてしまいますね。
こういうのも使ってみないとわからないですけれども、
これがなければいけない理由が、
この説明を見る限りではちょっとわからない。
といえばわからないかなという感じがしますね。
具体文句で、AI司書が文脈を読むとき、確かな資料を探し出します。
国立国会図書館の膨大なコレクションとも連携し、って書いてあるんで、
こんなリソースありますよで、嘘をつきにくいということだと思いますね。
国立国会図書館のコレクションから選んでくるんやったら、
嘘はつかないよねということなんですけど、
それはちょっと売りとしては弱いかなという気がせんではないですね。
そうですね。それを必要とする人はいるかもしれないけれども。
本当に執筆においてでしかAIを使わない場合やったら、
1,200円で可決みたいなことはあると思うんですけど、
他の作業とかファイル周りを仕事させようと思ったら、
結局、ジェミンとかグロードコードが必要になってくるんで、
そうなると料金二重に払ってるようになっちゃうと思うんで。
この手のツールはさっきから同じこと言ってますけど、やっぱり難しいですね。
生成AI自体がもともと汎用的な作業をしてしまうので、
この専門ツールプラス生成AIの魅力がかなり薄れてしまう感じが、
どうしても出てきますね。
要はこれ以外のなんか、
エディターがもっと生成AIと一緒で進めやすいみたいなことが
売りに出てくるんやったらちょっと考えるというか、
まあありかもしれませんけど、
現状ではそこまで強いアピールは感じなかったなってところですね。
そうですね。エディター部分は普通ですよね。
それにたぶんAIのチャットカーのところと、
資料の提案をしてくれたりとか。
でもこれとVSコードの横に表示されてるのとあんまり変わらないというか、
そこまで得意ではないので。
そうですね。縦書きができるとか、
日本語の文章に特化したエディターって機能はある?
ありますね。タイプライターモードも搭載ということで、
エディターはちゃんと作ってあるということで、
そこにこだわりたい方はというところでしょうかね。
そうですね。
あと、執筆の進捗を確認できるとか。
でもやろうと思えば別にやらせられますからね、苦労さに。
環境さえ自分で作ってしまえばというのが、
作りたくない方はあれですけども。
見た目がかっこいいですね。
そうですね。これはモダンな感じで出来上がってるんで、
それはいいと思いますね。
あとエディター話でいうと、藤井太陽先生が自分で
Macのネイティブのエディターを作っておられて、
本当すごいですよね。
すごいなと思いながら完成を楽しみにしておりますね。
やっぱりVS Codeの限界みたいなのを感じておられたらしく、
当然ネイティブで作った方がいいよねということに落ち着かれたので、
縦書きもスムーズにできて、
分節ごとに移動みたいなこともっていうことを狙っておられて、
やっぱりある程度テクノロジーに親しめの筆筆家が
生成意外を手にするとすごいことになるよなという感じはしましたね。
そうですね。そういう意味ではより格差が広がるんでしょうね。
まあ、そりゃそうですね。
スキルを持ってる人と持ってない人の格差が広がるんでしょうね。
Workflowyのアップデートと隠しテクニック
あと細かいワークフローリングアップデートの話でいうと、
Eメールでワークフローリングに送れるという機能があったんですけども、
それがトゥモローとかトゥデイとかが指定できるようになった、
明日の項目に送れるようになったみたいな話が一個と、
あとこれまでiOSのショートカットAPPはワークフローリング項目なかったんですけど、
生まれまして、ただし今日のインボックスに送るかな、
インボックスに送るというコマンドだけが使えるようになったんで、
Hey Siriから行くか、ショートカットで自分で作るかみたいなことをすれば、
インボックスに送るメモアプリは簡単に作れるようになったという感じですね。
そんなもんかな。そんなもんついでに、ちょっとネタなんですけど、
ワークフローリングのネタなんですけど、上位項目が4つあるじゃないですか。
例えば、ゴミ箱みたいなのを設置したいと直接削除するんじゃなくて、
ゴミ箱を作りたいと。しかし、この主要な4項目の下にゴミ箱を置きたくないとするじゃないですか。
どっかの下位項目に置くのがワークフローリ的解決なんですけど、
見てもらうだけではわからないと思うんですけど、この4つ目の項目から下に行くと、
どうなってるかというと、最上段のバレットを消してるんですよ。
ここに空白のバレットがあるんですね。スクロールすると隠しコンボがあって、
さらに行くとゴミ箱があるという。これ何がいいかというと、
ブラウザでフォーカスが項目にないときにスペースを押すとスクロールになるんですね。
だからスペースキーをこの状態で一発押すと次の画面に行くんですよ。
もう一発押すとゴミ箱に行くと。逆にシフト押しながらスペースだと戻るんですよね。
なので一見、それぞれ3つぐらいの領域のワークフローリを使っている気分になれるというのが、
これ隠しテクニックで、これでもバレットを消さないと、ここに全部出てくるので、
消さないとできないんですけど。これ面白いんですけどね、
トップを見てもらったら分かるんですけど、空間域を無視するんですよ、左のサイドバー。
これすごくないですか。
すごいですね。
これ便利だなと。
こっちだったらこの項目だけど、下に行きたかったらここからアクセスできるということになっているのに、
これのやり方で初めて気が付きました。ワークフローリめっちゃ長いこと使ってますけど、
初めて空間域を無視するという。このサイドバーほとんど僕意味ないやんと思ってましたけど、
ちゃんと意味がありましたね。独自の意味がありました。
かしこいですね。
要するに何も入ってない行はサイドバーでは無視されると。
だからよく気分を開けるために空間域を入れて項目を開ける人いると思うんですけど、
その場合でもサイドバーはちゃんと詰まってくれるというところですね。
なるほど。
あとこの一番上の行だけバレットを消すっていうやり方をすると、
気がついたんですけど、ほとんどテキストエディターなんですよね。
まあそうですよね。
基本的に本文を書くときって一番上の行しか並べないんで、
こうやって見たらこれも普通のエディターみたいな。
何か過剰書きにするときだけ初めて出てくるみたいな感じになるって。
これだからコセンスがそうなってるんですけど、
1イントテからバレットが出てくるっていう感じで。
このCSS発行することによって結構エディターっぽく使えるなっていうのが最近の発見のその2位ですね。
なるほど。
ただCSSを上書きできないとダメなんで、標準アプリからでは無理という悲しい制約がありますね。
ブラウザーでないと無理です。
というところがネタなんですが、今回主題なテーマとして、
ツールとメタファー:アウトライナーの操作表現
ツールとメタファーについてということなんですけど、
ツールのメタファーという話とツールとメタファーという話があると思うんですけど、
アウトライナーのメタファーという記事が野村鉄さんが書かれておられまして、
まず操作、ツール全体をどう捉えるのかと、
操作でどんな言葉が使われてるのかっていう話がありまして、
Zoom、内緒はフォーカスっていう言い方がイメージするもの。
特にZoomとフォーカスもちょっと僕は違うと思うんですけど、
ZoomとフォーカスとNarrowは全部ちょっとニュアンスが違う。
違いますね。あとホイストもありますね。
ありますね。そうですね。
っていうそのような操作と、あと折り畳みとZoomがまず違うよねって話がまず大きいところであって、
確かに折り畳みとZoomはメタファー空間がだいぶ違いますよね。
まあそうですね。
Zoomのほうが階層的な感じがするかな、僕の場合で言うと。
そうですか。
僕の場合はZoomのほうが階層感が出てくるかな。
そうですか、僕逆ですね。
そうなんや。
折り畳みっていうのは日本語だけなので、
英語だとコラプスになるんで、折り畳みじゃないんですよね。
あれは日本語の考えで言うとどういう動作になるんですかね。
それがね難しいんですよね。コラプスって崩すになっちゃうんですよね。
うーん、なるほど。
だけど違うじゃないですか、崩すっていう。
そうですね、はい。
だからコラプスってデイブ・ワイナーが初期から使った言葉なんですけど、
ホイストとコラプスはなんか違うんじゃないかなって思ってたんですけど、
ワイナーさんの中ではそうなんでしょうね。
うーん、そうか。
だからコラプスって、折り畳むというよりも下の階層をスコーンと抜くみたいな、
だるま落としみたいに間を抜くみたいなイメージでコラプスなのかなっていう、
くしゃっと圧縮するようなイメージでコラプスなのかなとちょっと思ってたんですけど。
反対はエクスパンドかな。
エクスパンドですね。
エクスパンドは日本語の語感でも漢字が広げるとか展開するみたいな感じで、
それはいいんですけど、
コラプスはそもそも僕、日常的に見かけた単語ではなかったので、
言葉を見たときにイメージがまずつかめなかったんですけど。
そうですよね。
エクスパンドの逆ならコラプスじゃないだろうという気もするんですよね。
気はしますよね。
それはしました。
その辺のニュアンスは難しいですけど。
うーん、そうか。
折りたたみ、展開と折りたたみはあんまりだから、
階層感っていう言い方がそうか。
僕とコサクサで今違ってたな。
違ってたんですよね。
僕が言う階層感は、建物のビルの高さ?
階層ですね。
構造的な階層がそこにあるというイメージは、
折りたたみと展開では出てこないという感じなんですね。
ズームやとその階に入るみたいな、移動するみたいな感じがある。
フォーカスはちょっとズームと違って、
フォーカスとナローはちょっと似てるんですけど、
ズームは倍率を上げるので、
顕微鏡のズーム数とかデジタル地図の縮尺を上げたり下げたりっていうのがズーム感なのかな。
ナローはあんまりアウトライナーの文脈では使われなくて、
EMACSとかの…
オーグモードの時だけですね。
ある表示範囲を限定するっていうのはナローですよね。
ここの領域だけ表示するっていう感じですね。
そうですよね。
だからナローは多分オーグモードだと、
この特定の階層をナローするっていう使い方をしてますけど、
通常のEMACSだって階層が関係なくても、
この範囲からこの範囲までを限定して表示するっていう、
このマークの位置とこのマークの位置の間だけ表示するみたいな使い方もあるんで、
多分階層とは関係ないんですよね。
ある範囲、縦長のファイルのこの部分だけを抜き出して作るみたいな感じですね。
そうかそうか。
だからそこには階層感はあるときもあるけど、別になくても成立する。
フォーカスもだから階層である必要はないんですよね、互換的に。
焦点をそこに当ててるっていうニュアンスですもんね。
Zoomは見え方の解像度を変えるという言い方があって、
その見え方の解像度の階層として見立てれば階層的ではあるか。
そうですね。
これ難しいな。
難しい。だからZoomに似た言葉でワイナーが使ってたのはもう一つ、
Collapse Expandと別にDiveとSurfaceっていうのがあったんですよ。
なるほど。でもそれはなんかしっくりくるかも。
だから潜ると浮上するんですよね。
その号が多分イメージに合ってるんですよね。
Diveが多分一番しっくりきますね、なんとなく。
ゲームにとって統一的見解は今のところないということですね。
このOutlinerというZoom上において、あれを操作をどう呼ぶのかというのは。
ないです。ない上に、ワークフローインがZoomという言葉を使ったのは良かったとは思うんですけど、
それが従来のOutlinerではホイストとかフォーカスって呼ばれてたものですよという説明なしに使ったので。
なおかつ伝統的なOutlinerはいかずフォーカスとかホイストって言ってるんで、
そういう混乱も用語の間にはあるなというところで。
ただ一番機能をうまくイメージさせているのは、その中ではやっぱりZoomかなという。
特にワークフローインを使っていて、ボタンを押したときのアクションを踏まえるとZoomしている感じはするんですよね。
そうなんですよ。見えるように表示していますね。
操作感、UIとともにセットで機能するネーミングという感じがしますね。
そうですね。そこまで緻密に計算して作ったというのもワークフローインのすごいところだったと思うんですけど。
結局どういう、このメタファーはそもそも人によって言葉によって連想するものは違ってくるわけですし、
ある程度共通項があってもこれって決められない。
メタファーの限界という話があって、結局メタファーって例えなので、
例えであるということはそのものではないということですから、必ずニュファンスのズレがあるから例えなわけですから、
例えには限界がありつつ、逆にアウトライナーをメタファーとして使うみたいな方が有意義だという話があって、
アウトライナーが何かというよりは、あれってアウトライナーっぽいよねっていう説明の方がメタファーとしてはいいだろうという話があって、
これはまさにそうだろうなとは思うんですけど。
タクさんがアウトライナーという名前はずっと誤解を招くと思っていろいろ考えてきたけど、
結局アウトライナーはアウトライナーでいいっていう結論に達したのも、
結局アウトライナーそのものは、アウトライナーをメタファーとしては使えるけど、
逆向きで何か言うのは難しいって話を多分こうしてると思うんですけど。
そうですね。
アウトライナーはアウトライナーでしかないですよね。
どこまである程度禁じさせたとしても、どうしても違う部分が残ってしまうし、
そこの残ってしまう部分が些細なものであれば気にせんでいいというのが説明ではあるんですけど、
でもやっぱり従前な理解とはならないですよね、それは。
ならないですね。
だからアウトライナーっていう言葉が、
アウトラインを作るものという誤解を生むからダメなんじゃないかとずっと思ってきたんですけど、
いや、でもアウトライン作るんだよなって先思うんですよね。
ただそこで言ってるアウトラインっていうのは、
昔神の時代に作っていたああいう木字案的な意味でのアウトラインのことではないんだけれども、
ああいう階層的なテキスト、デジタルで階層的なテキストという意味でのアウトラインではあるんですよね。
アウトライナーを使うというのは結局、文章を書こうがリストを作ろうが結局全部、
結果的にはアウトラインを作っていることになるので、
だから仮に従来の伝統的な意味でのアウトラインを作ってないとしても、
アウトライナーで作っているのはアウトラインだと考えればアウトライナーでいいんじゃないかという。
伝わりますかねこれ。
だから問題はアウトラインという含意がまず伝わるかどうかなんですよね。
そうなんですよ。
そこがまず、そもそも言われたように、
静的紙のような静的なアウトラインと勘違いしてしまうの手前に、
そもそもアウトラインがわからない、アウトラインというコンセプトがわからないという場合もあって、
これはもうちょっとどうしようもないなと思うんですけど、
そういう人たちのために何かメタファーを用いてわかってもらおうと、
この表現者は努力するわけですけども、
そうは言ってもという限界はあるよなという感じはしますね。
そうですね。だからやっぱりさっきの出てきた、
フロイのズームするときのUIというかアニメーションの表示の仕方とかも、
何をやっているのか可能な限り操作をするときにわかるようにしている。
そういう工夫をしてるわけですよね。
それがないと結局メタファーが、
メタファーって本当は理解しやすくするためにあるはずなのに、
むしろイメージを限定する方向に働いちゃうっていうメタファーの失敗みたいなものがあって、
アウトラインっていうのは多分ずっとそういう、
アウトライナーに対するアウトラインっていうのはそういう役割を果たしてきた、
ネガティブな役割を果たしてきたんですよね、多分アウトライナーに対して。
アウトライナーの可能性を限定する方向でイメージさせちゃってたんですけれども、
ワークフロイがやったのはもうまあこれ操作、
見てもらえばわかるよねっていう風にいったわけですよね、ワークフロイは。
多分それが一番いい方法だったんだろうなという。
なるほど。
ちょうどワークフロイがもう15年ぐらいになるんですかね、ワークフロイ出てきてから。
ぐらいでしょうね、きっと。
ちょうどその頃に技術的にもそういうことが、
特にブラウザーの中でそういうことができるようになってきたというところもあって、
90年代にそれをやろうとしてもたぶんできないと思うんですけど。
まあそうでしょうね、きっとね。
だからそうなってみると、
ああやって動きで動的に何をしているのか見せるということができれば、
いちいちメタファーで示す必要はないという哲学だったんじゃないかなと思うんですよね。
まあそうですよね。
だからアウトライナーって言わなかったんですよね。
まあかなり意図的にはそう感じだったんでしょうね、そこがね。
明らかにアウトライナーを作って言いながら言わないというところは、
何かやっぱり違うものとして認識されたいという感じはあったんでしょうね。
そうでしょうね。
僕はそこはすごく高く評判、評価って言って偉そうですけど、
アウトライナーという名称の誤解と受容
すごくそれはいいなと思った部分と、
それ以上の伝統的なアウトライナーに対するリスペクトがないんじゃないかという2つの思いで、
ずっと僕の中では攻めにあってきたんですけど。
そうですね。でもまあ難しいな。
だからアウトライナーを名乗ってたらここまで普及しなかった可能性は全然高いわけですからね。
高いと思います。
まあそうだな。
勝手なイメージですけど、アメリカのホワイトワーカーの人たちは、
おおむね文章を書くときのアウトライン構造っていうのを修練して大人になっていると思うんですよね。
まあどうですかね。ただ何であるかはおそらくわかってるでしょうね。
見出しとトップの目出しから始まって、中の見出しに降りていくで、
文章が出来上がるっていうイメージというか、認知の構造みたいなのがまずありでアウトライナーと出会うのと、
日本の衛星随筆的な感じでアウトライナーに出会うのとでは、
やっぱり理解の距離感がだいぶ違うような気がしますね。
だいぶ難しさがある分、動的なアウトラインっていうのを受け入れやすい可能性もありますけど、
でもそもそもアウトライナーってこれ何が便利だろうって思いやすいこともあるでしょうね。
そうですね。
僕が前職で会社にいたときに同僚にアウトラインを作って見せたときにも、
2種類あるんですよね。
あいう階層的なテキストの状態で見せたときに、直感的にその意味を理解してくれる人ももちろんいるんですけど、
あのインデントの意味を理解してくれない人も一定数いるんですよね。
なんか直されちゃったりとかして、なんか頭ずれてるよとか言われたりとか。
まあでもそうか。笑いごとではないな。
いわゆる随質型なのか、べったりとした文章の状態しかそのテキストというものを認識していないと、
アウトラインの階層、インデントの意味がわからないんですよね。
僕ちょっとそれは想像したことがなくて。
なるほどなるほど。
アウトラインは知らなくても、インデントとしてあれば、
これはここに属しているということは伝わるものだと思ってたんですよね。
だけどやっぱり伝わらない人が一定数いるという落とし穴があって。
それは多分いろんな経緯があって、でもその人たちだって、
例えば大学行って卒論帰ったりとかおそらくしてるわけですよね。
だからそういう構造的に何かアウトプットするということ自体はやってきたりしてるわけですよね。
あとプレゼンするっていうスライドを作っても、
ちゃんとパート分けして見出しスライドみたいなの挟んだりしてるから。
アウトライン的な思考自体はしているんだけれども、
それをインデントで表現するという文化の中にはいなかったんで、それが伝わらない。
それが伝わらないと、どうやったってアウトラインのメタファーは伝わらないわけですよね。
僕の感覚だと3割ぐらいそういう人いるんですよ。
そうか。
現代やったら、情報一層でやってるのかどうかは知りませんが、
もうちょっとリリースとか上書きには親しんでいてほしいという希望的感覚はありますが。
あとインデントで構造を表現するっていうことで言うと、
例えば今大学でPythonとか書かされたりするわけじゃないですか。
あれなんてもう、インデント自体が言語の仕様に含まれてるわけだから。
インデント言えないとエラー出ますからね。
だからそういう意味ではずいぶん変わってるかもしれないですけど、どうなのかな。
いやーわからないですね。
インデントの構造的意味が理解できないけど論文書けている人っていうのは、
構造的把握はしてるけどそれがインデントと結びついてないのか。
そういうことでしょ。
構造的把握してないけど論文書けた人なのか。
僕はちょっと判断つかないと思うんですよね。
そういうこともあり得ますよね。
結局論文のアウトプットそのものはベタっとした文章じゃないですか、基本的には。
見出しはたぶん1、1とかを書いてると思いますけど、
1、1って書いてるからってそれが構造的に理解されてる保証はないわけで。
まあそうですね。
インデントと構造的把握は密接につながっているような気がするのは、
Pythonとか書いてるせいなのかどうなのかわかりませんけど、
繋がってそうな気がするんですけどね。
僕は逆にアウトライナーで育っちゃったのでわかんないんですよね、そこが。
ただ確かに、インデントでテキストの構造、論理の構造を表現するということを、
おそらく日本の学校で習った覚えはないんですよね。
それはないですね、確かに。
ただ、木字案構成案的なものを作りなさいと言われたことはあって、
それは結局、そうしたら実質的にアウトラインを作るんじゃないかなと思うんですけど、
でもよくよく考えたらインデントされてない木字案ってあるよなと思って。
ありますね。
一段しかない。
ありますあります。
それもアウトラインなんですけど。
構造感が薄いですね。
文章の木字っていうのは構造感がなくてもフローというか、
語りの流れが表現されてれば、場合によってはいいわけで。
それは全然いいんですけど。
そうするとやっぱりインデントで構造を表現するという概念がインストールされる機会はない場合もあるんだなと。
そうですね。
パッと自分のことを振り返ってみたときに、
例えば原稿用紙に文章を書いたときに、あんまりインデントでうんうんっていうのは。
ないでしょ。
行頭の時代はあるにしても、インデントで構造的表現するっていう発想が多分出てこない。
横書きで書くときですよね、なんとなく多いのは。
そうですね。
インデントって結局タイプライターなんで。
タイプライターでタブを一個右に寄せて、
そこに頭を添えることでインデントするっていうところから来てると思うんで。
日本語でも原稿用紙でも、引用文は一段下げるみたいなルールがもしかしたらありますよね。
ありましたよね確か。
ただそれも構造的というよりも見分けられるようにしましょうくらいの、そういうフォーマッティングな話ですよねきっとね。
そうですね。
だから原稿用紙を使っている限り、そもそもインデントするほどの幅がないわけですよね。
そうですね。
400字図目原稿。普通の原稿は一行20字ですよね。
ちょっとインデントできないですよね、それだけしかないと。
そうですね。
マス目原稿用紙がフラットなベタっとした図筆と非常にマッチしたメディアであり、文章を書くこととそれが結びついている限りは、おそらくはそうなってしまう。
そうですね。
文章エディターのあれで書きましたけど、結局日本語ワープロが非常にアンビバレントなところがあって、
欧米の要するに西洋的なコンピューター的な発想と日本の原稿用紙的な発想の接中的なものになったんだよね、その日本語ワープロの特に専用機が。
だから結構ワープロで横書きで、一行半画80文字全画40文字みたいな画面で書いているにもかかわらず、概念的には原稿用紙のマス目になっているみたいな。
そうするとやっぱり構造感は埋まりにくいというか。
ですね。
そうですね。
縦書きと横書き、そしてノート術の変遷
この縦書きと横書きの問題は結構根深い感じがしてまして、前ノート術の本を書いたときに、基本的にあの本で横書きのノートの話しか書いてないと思うんですけど。
そうでしたね。
縦書きどうですかって言われたんですけど、もうちょっとスペースもなくて書けなかったんですけど、自分のことを振り返ったときに、例えば胸ポケットにミニノートを入れてメモを走り書くときに、絶対に横書きなんですよね。
はい。
縦書きでメモを書いた試しがないんですよね。
ないですね。
それはちょっと分析したかったんですけど、ちょっと余裕がなかったんですが、明らかに何かあるんですよね。僕らと縦書きの関係があるんですよ。
で、おそらく縦書きは身体的表現で、文章を書くことと非常に結び付いている気がする。
縦書きが?
縦書きが。横書きはもっとカジュアルな感じがする。
そこに文化的に学んできたものがおそらくあって、僕はメモ書きと文章書きは書くことの中で分かれてますけど、それが分かれてない方がおられて、文章を書くことしか身体化されていないのであったら、おそらくその構造を持ってアプローチするみたいなのは多分生まれてきにくいんだろうな。
メモ書きのときって絶対に矢印とかを引いて、これはこれの説明っていう構造を付与するし、多分買い物メモを作る段階ですらおそらくは構造を付与しないと不便だと思うんですよね。
で、買い物メモも絶対に横書きですよね。
縦書きしないですね。
だって縦書きしたらお品書きじゃないですか、それは。
そうですね。できたらかっこいいですけどね、筆でサラサラサラとかで。
お品書き自体あれも作品じゃないですか、基本的に。メモ書きとかっていうのはそうじゃなくて、書くってことで縦を選んでるか横を選んでるかで、僕たちのライティングエンジンが多分変わってるんじゃないかなという気はしますね。
そうですね。でも振り返ってみれば、大学ノートって横書きじゃないですか。
横書きですね、横書き。
だから普通に授業でノートを取るっていうときは、デフォルトは横書きになるわけですよね、ノートを使うと。
国語の授業のときは横書きと大学ノートを縦にして使ったりとか縦書きで書いたりしましたけど、あれは版書が縦書きだったからだとおそらく思うんですね。
それはノートの形成を縦に使ったり横に使ったりするんですけど、ちゃんとした文章を書きなさい、学校の場合は作文を書きなさいって言うと、突然、デフォルトが出てきてますめになるわけですよね。
だから文章を書きなさいって言って何が渡されたときに、僕らが働かせるエンジンは縦書きで訓練されたほうしかたぶん働かなく。
そうなるんですよね。
固い硬直的な文章しか書けない。
ノートとかは自由に書いてても、文章を書きなさいっていう場に置かれたときに、急に原稿用紙、マインドセットが復活してしまうってことがたぶんあると思いますね、これは。
そうですよね。しかもノートを使うときは、ノートを必ずしもびっしりマス目に埋めるわけじゃなくて、面を広く使って、左右に分けて矢印引っ張って丸書いたり四角書いたりして、論理の構造とか流れをそういう形で表現できるわけじゃないですか。
だけど、原稿用紙を渡された瞬間に、最初からマス目全面に埋めていくから。
それでいいのかということをあんまり考えてこなかったし、
それが考えること、書くことに対してそれがどう影響しているのかということも、おそらく少なくとも学校で教えるというところではあんまり考えられてこなかったわけですよね。
で、やっぱり60年代の終わりに知的生産の技術が出てきたときに、なんでみんなあんなに衝撃を受けたかというと、そうじゃない利用が提示されたからですよね。
ノートを面で使うか、マス目を順番に埋めていくんじゃない書き方、考え方が初めて提示されたので、それは断片を記述していく、最初から出来上がった文章を作るんじゃなく、
思考の蓄積と表現するときの小座名という形で断片を組み立てていく、今までにない方法、アナログだけどある種デジタルな方法が提示されたというところに、すごい画期的なものがあったんですけど、
そこから文章なりノートなり、学校で勉強するという現場にはおそらくフィードバックされることはなく、個別の先生で考えられてきた人はいっぱいいると思うんですけど、
実際に子どもが習うことには全然フィードバックされず、かなり最近まで来ていきなりICTのほうに行ってしまったというイメージを僕は持ってるんですが、
僕は現場に関わってるわけじゃないんで、そうじゃない現場にいろんなことがたくさんあるかと思いますけど、ただそういうイメージを持ってますね。
ある年代までは確実にそうやったと思いますね。文章を書くことの苦手意識というか、そもそも文章を書くことは非常に困難なことであるという世界観みたいなのは、
原稿用紙教育で磨かれてきたっていうか、育まれてしまったものな気はしますね。
あと文豪イメージと文章を書くことが結びついちゃってて。文章を専門的に書く人のイメージっていうと、どうしても写真で見た座宅みたいなところに着物を着た文豪が座って、
丸めた原稿用紙が周りにいっぱい散らかって、酒口暗号的なイメージがあって。
それが書く行為というふうに。
そうですね。頭悩ませて原稿用紙を丸めて捨てて繰り返すような営みであるという認識はあるでしょうし。
必然的に原稿用紙を使えばハサミで切り取るという方法はあるにしても、一般的にはそのやり方しかないというか、それが自然に選択されてしまう。
メディアが手法を方向付ける、推路付けてしまうところがあって。
だから原稿用紙で書くっていうのも一種のメタファーなわけなんですね、結局のところ。ある種の行為を喚起するメタファーですよね。
カードとか小金とかあるいはワープロとかによってずれていってますし、現代の人はデジタルスマートフォンで書いてますし、
おそらく原稿用紙メタファー、文章を書くことと原稿用紙メタファーがそこまで強く癒着してないとは思いますけど、
そういう人たちは多分チャットとかのテキストなので、いざ文章を書こうとなったら同じことになるかもしれないですけど。
そうなんですよね。結局スマホ、あとカトキの時代には携帯、ガラケーで小説書いちゃうみたいなことがあって。
それはやっていること自体はすごいことだと思うんですけど、やっぱり編集するしないということで言うと、あんまり編集のことは考えられていない。
そうですね。
するにしても画面で見える狭い範囲での出し入れはあるかもしれないけれども、大きい範囲をごそっと編集するということはあんまりしがたい環境になってしまって、
で結局、結果的にはイメージ的には頭から埋めていくというところから離れていないようにも見える。
確かに。それはそうですね。
生成AIと文章作成:発見的ライティングの可能性と課題
で、そこに生成AIが来てしまったと。
だからどうなんでしょうね。
デジタルで編集しながら作っていくというのは、後々の歴史観が見れば単なるカトキのものだったのか、どうなのかちょっとまだわかんないですけど。
構造をひとまず書いておいて構造的に整えつつ新たな構造を発見するという発見的ライティングみたいなことを先生がどれだけ促してくれるのかというところがまず一つで。
多くの人はそんなことしたくないので、自分が出しました、生成AIが構造を整えました、で多分終わりになってしまう。
そこの構造からスタートすることが多分できない。できないというかね、多分ね、しようと思わない。
やっぱりその整った文章には手を加えられないという感じがあるので、どうしても。
だからそこで終わってしまって、その発見的なとこまでは至らんままに終わってしまうとしたときに、じゃあもう人間なんか書く必要はないっていうところに多分落ち着いてしまうんですよね。
発見的があるからこそ僕たちは好んで文章を書いているわけで、発見的というか生成変化的ということなんですけど、書いた人間が変わらへん、変化しない、執筆なんてほぼ無価値で言うとちょっと言い過ぎですけど、僕の中ではそれぐらい強い意義を持っているものなので。
でもそこに意義を感じない人であればもう別に生成AIで、だらーっと自分が喋るだけ喋ったら、もうすげー希少点決が揃った文章になりましたで、いいじゃないですかって言われたら、まあいいですよねっていう風になるし。
だから最近はそれよりもさらにもう一歩すごいことを言ってて、LLM wikiっていうのがあるんですけど、自分が生のデータを蓄積したら、そこからwikiの構造を作るのは生成AIに任せるっていうやつなんですね。
自分は何も構造的制御しなくていいですよっていうやつなんですけど、そこの出来上がった構造をベースにするには、あなたが発見した素材から文章が書けますということになるんですけど、それはもうお前いらなくないかっていう、そして人間いらなくないか感がね、めっちゃ強いなと思うんですけど。
その与えるデータが生成AIに対して、例えば自分がこの本を読んだみたいなデータは、極論生成AIは疑似的に持ってるわけですね、その本のデータみたいなのは。本当に持ってるかどうかは知りませんけど、それっぽいものは学習してるわけで、それをわざわざなんか弱いデータを与えて文章を書かせるぐらいなら、あなたが介入しないほうが多分いいんじゃないかと思うんですけど。
人間がやる以上、なんか人間が構造を整える、整えるというか構造を見出すっていうことで、おそらくその見出される構造は生成AIが見出す構造に比べれば非常に整ってなくてデコボコしてて、むしろひん曲がってたり、あっちかこっちとなんか遠い場所が繋がってたりするでしょうけど、それが価値なんじゃないかなと思うんですよね。
それはやっぱり人間がその構造に対して何回もトライして、いやこうじゃない、こうじゃないって手をかけること、手間をかけることで初めて生まれてくるもんじゃないかなと思うんで。だから人が読む価値がある文章は人が書いた文章になって、生成AIが書いた文章は生成AIが読むっていう、その2極のパイプラインになっていくんじゃないか。
生成AIは生成AIと繋がって、人間は人間と繋がってっていうふうになりそうですし、なったほうが健全かなと思う。生成AIが書いた文章を人間が読むなんてもう苦痛でしかないんであれ、本当に。
とりあえず長いですし、削ることを知らないんで、その読み手の苦労を知らないので、とりあえず全部並べていきますから。やっぱり人間は、人間が読むと思うから文章を削るわけじゃないですか。で、文章術の一番最初に言われることは削りなさいですよね、基本的には。10回いたらまずに削りなさいって多分言われると思うんですけど、それがないので彼らは。
だからやっぱり人間が読む文章は人間が書き、生成AI同士の情報のパイプラインは生成AI同士でもうダイレクトにやってくださいというのが、知的政策の未来な感じはしますね。
だから、生成AIで思い出すのが、昔80年代の前半ぐらいに、前半じゃないな後半か、80年代にNHKで情報の世紀、情報科社がこれからのコンピューターはこうだよっていう番組があって、
司会をトロンプロジェクトの坂村健さんがやられているっていう番組があったんですね。
そこでこのワープロの話が出てきて、当時のワープロ専用機の話が出てきて、
その綾子さんが当時、まだそんなに多数派じゃなかったワープロを使う作家として出てきたわけですよ、そこで。
ワープロは素晴らしいという話をその綾子がしていて、何が素晴らしいかというと、
試行錯誤の跡を見せない。
なるほど。
要するに、その綾子さんの言い方だと、作家の原稿用紙でいろいろ線引っ張って消して、突き出して直したりする、そういうのを見るのが好きだっていう人がいるけれども、
私はそういうものを人様にお見せするのは失礼だと思います。
なるほど。
歌手の方も一番よく歌えたテイクを残して、レコーダーの人間として発表するのであって、そういう試行錯誤の過程を人様にお見せするのは失礼であると。
そこでワープロは何がいいかというと、どれだけ試行錯誤をしても、最終的なこの美しい出来上がった状態だけを人様にお見せできるのも、
とにかく失礼のない機会であるという意味のことを、その前は言っていたわけですね。
で、それを聞いて思ったのは、逆に試行錯誤の後を残すことこそ大切なんじゃないかということを、僕は逆に思ったんで。
それで文章エディターの機能として必須なのは修正履歴。
うん、なるほど。
なぜかというと、その試行錯誤の後というのが結局、その文章が試行のプロセスを経て完成に近づいていく自己変容の記録だからですよね。
はいはい、そうですね、その通りですね。
で、結局そこが、生成AIによって書かれた文章に欠落している部分であって、欠落というかない部分ですよね。
どっちが優れているとか優れていないんじゃなく、完成品を比較しちゃうとわからないけれども、
その背後にどれだけの、そのあやこの考えによれば人様にお見せしたら失礼なものがあるかが、実は重要なんじゃないかというふうに、
すごく思うわけですよね、今となっては。
そうですね、確かにね。
サービス業として、商品を売る人間として言う言い方で言うとその通りで、
たとえば寿司屋さんが、私めっちゃ修行してきたんですっていう態度で寿司握られても困るわけですよ。
だからそれはそうとして、でもそこにそういうものがあったんだという歴史までなくなってしまうのは困るわけですね。
そういうこと。
で、やっぱり、特に文学が特別そうだと思いますけど、文学じゃなくても、
やっぱり読み手に自己変容を促すような文章ってあるじゃないですか。
あります。
で、やっぱり読み手、読者に自己変容を促すような文章というのは、おそらく書き手の自己変容が起こっているわけですよね。
おそらくはね。はい、おそらくそうだと思います。
で、そこの部分の重要さ、そこをどう残していくかというか。
AIの有効性自体は、もう今更疑うとか好きじゃない、好きとか嫌いだとか言ってるような性質のものではないですけど、
そこを残すということをどうやってやるかということをすごく考えていて。
やっぱりAIが、生成AIで書かれたものを読んでも自己変容は起こらないんですよね。
それは書き手の変容が起こっていないからで。
そうですね。逆に言うと今の生成AIを使って書く人たちは、自己変容を起こすような使い方をまずしていない、生成AIに対して。
だからそこから生成される文章がそれを引き起こさないのは当然として、生成AIそのものが自己変容を否定しているわけではないので、使い方次第ですけど、まだ開発はされきってない感じはしますね。
だから生成AIを使うとしても、それが自己変容につながるような使い方というのはもしかしたらあるのかもしれないし、実際にもしかしたらもう今それをしている人だっているかもしれないけれども。
そういうことはすごく考えますよね。
でも逆にある意味では、プロンプトを考えることで自己変容を仕立てる場合はあるかもしれないですね。
プロンプトエンジニアリングと知的生産の未来
それはもう全然あると思いますよ。それは直近の話ですけど。
やっぱり例えば、「〇〇について教えてください」ってチャットGPTに投げる場合と、「〇〇について教えてください、大学生向けのテキストを意識して大学教授が書いてるように、
冒頭には身近なエピソードを出して興味を行きつけるようにし、中盤あたりは出れないように」みたいな感じでかなり長めのプロンプトを出したら、かなりまともな文章を出してくるんですよ。
あのチャットGPTのうざい感じはもう全くなくて。だから結局僕らがプロンプト下手なだけなんですよね。そのチャットGPTに文句を言っている大半は。
すごく読める文章を書くためには、それに等しいぐらいのプロンプトがいるんですよね。極端なこと言ったら、2000字の文章を書くために2000字のプロンプトがいるかもしれないですよ。
でも、そこのことに気づいた人が書く文章は、おそらく何かの変化が起きてるわけですね。
その文章そのものに変化が起きてるのかどうかわからないけど、彼は正々堂を使う中で多分変身していくことが起きているとは思いますね。
そうですね。
だからそこまでもしかしたら、正々堂を使うにしてもそこまでもしかしたら手をかけたものによってなされたアウトプットは、もしかしたら読者の自己変容にもつながるのかもしれないし。
と思いますよ、きっと。
例えばプロンプトの中で、特にこの点が重要で、この理解に至るまでのフニャララを書いてくださいってことを書けば多分いいですし。
それがプロンプトで指示できるってことは、当人がそれを気づいているというわけですね。
そこの気づきの表現を最終的に自分で文章を書くか、正々堂のプロンプトで書かすかっていう、そこの着地面が違うだけであって、当人は理解しようと努めているっていう間のプロセスを踏んでるわけですから。
それは当然文章にも影響はするでしょうし、そこのプロセスをすっと回すんやったら、どんなプロンプトでも多分ダメだと思いますね。
そうですね。
だからどうなのかなー。
どうなんでしょう。それはちょっと僕の理解がまだ浅いという前提で聞いてほしいんですけど。
でもやっぱりプロンプトにこだわりまくるということにしても、
生の文章を書いていくときみたいに、自分はこんなことを考えていたのかということに後から気づくというような現象が起こるだろうかという。
プロンプトを書くということは、100%自分が何をしてほしいのか意識して理解しているということになりませんか。
それで結果的に自分が意識していなかった何かをAIが返してくるってことはあるでしょうけれども。
はい。
プロンプトを考えるという、理想的なプロンプトを作り出すというとき、それは何を支持したいのか100%意識していないとできなくないですか。そんなことないですか。
つまり、結局プロンプトを書きながら、自分は何をさせようとしているのかを発見しながら書くわけですね。
あらかじめ頭の中にあるイメージを言葉にするんじゃなくて、どうプロンプトにしたらいいだろうと、自分はどこに焦点を当てて何をしようとしているのか、つまりほとんどアウトラインを書いているわけですよ。
そのアウトラインの精度が高ければ高ければ一緒です。プロンプトも文章ですから、プロンプトを書きながら考えて、出力を見てプロンプトを書き直すみたいなことをしている段階で、文章を書いていることとプロンプトを書いていることの境界がかなり薄れてくると思います。
それはアウトラインを書きながらいつの間にか文章を書いてるのに近い変容。
全く同じとは言いませんけど、あるかなりの近接を迎えると思いますね。
だから今、これらの情報をもとに文章を書いてくださいみたいな、ちゃっちぃプロンプトとは目視的に大いに違うんだなという感じがします。
全く同じとは言いませんけど、新しい形の深い知的生産のありようがそこに生じるとは思いますね。
文章じゃなくて、画像を出力するためのプロンプトにこだわりまくる人たちがいるじゃないですか。
あれを見てると本当にすごいなと思うんですけど。
逆に自分が好みの画像を書かせようとした時に、いかに物事を認識してないのかが、物を見てないのかがよく分かって。
さっき僕が文章のプロンプトについて言いましたけど、やっぱり僕は文章を書いてる人間なんで、文章の構造に対する解像度が高いわけですよね。
だから冒頭に気を引くエピソードを持ってくるっていうのも、文章家にとっては言語化しないで、暗黙の了解で共同に持ってくるものを意図的に意識して、プロンプトに直してるわけですけど。
だからそういう能力は、良いプロンプトをコピペしたら書けるとかじゃなくて、毎回毎回プロンプトを生成するわけですね、そのシチュエーションにあてた。
そのプロンプト生成能力が、次世代における知的生産能力になるでしょうし、
それは結局物事の本質をがっちり捕まえて探していこうとする、探索的プロンプティングっていう感じにはなるんで。
今のこのプロンプトで必ず勝つみたいなとは、たぶん全然違うものだと思いますね。
そうですね。そうなると、むしろ生成された結果よりもプロンプトそのものを保存して、それをアウトプットしたほうが良い気がしますよね。
他の生成アイを使う人にとってまず勉強になるでしょうし、最近聞いた話なんですけど、
コーディング、プログラミングしている会社でもほとんどコードは生成アイが書いているときに、
人間が書いたコードって人間がレビューするのがまず当然なんですけど、レビューが追いつかないと。
そうなるときにその会社はプロンプトレビューっていうのを始めたらしいんですよ。
どう書いたかって、この指示でこういうアクスルになったから、次回はこういう書き方にしようとか、こういう書き方いいよねっていう知見の共有のされ方になってきたらしく。
レビューの対象がプロンプトレベルになってきている。でも確かにプロンプトの制度によって出てくるものが圧倒的に違うので、
だからこれからはもう絶対自分で文章を書くのはやらないと、生成アイに書かせるっていう人たちが磨くべきはプロンプティングでしょうね。
もちろんそれはそうですね。
その人なりのプロンプティングっていうのがある。プロンプティングにある創造性、クリエイティビティに気がつけない人は、
多分出てくるアウトプットもクリエイティビティがないっていうことになってしまうので、どっかの層に必ずクリエイティビティは残るんですよね。発揮される場所が違うだけで。
でもその発揮のされ方によって、当然その人がコミットしている度合いが違うというか、つまり家を作る人でも実際に釘を打つ人と一級建築士で設計図を作る人はどっちも家を作るという行為にコミットしているわけですけど、
発揮されている能力とかクリエイティビティが違うわけですね。層が。別に偉いか偉くないかじゃなくて、クリエイティビティが発動しているレイヤーが違うわけですけど、そのレイヤーが上に行くと生成愛のプロンプティングっていうことに、おそらくはなっていく。
で、おそらくどんな仕事でもクリエイティビティを突き詰めたら事故との対話っていうのは多分避けられないと思うんで。
それは文章を書く人だけの特権ではないわけですから。
建築家だっておそらく事故との対話と変容っていうのが多分行われてると思うんですけど。
そのレベルで、今までの文章書きとは質の異なる事故の変容が、おそらくプロンプティング・ライティングでは起こるんではないかと予想しますね。
でもやっぱり同じではないとは。全く同じではないとは思いますけど。
メタファーの重要性の変化と言語能力
という時代にですよ。
という時代にですよ。
さっきの出だしのメタファーの話に戻りますけれども、有効なメタファーの在り方というのも変わる。
変わるというか、もしかしたら今までより直接的にメタファーが重要になってくるというか。
メタファーって今まで理解するためにこう考えたらいいんじゃないというものだったのが、
例えばプロンプティングにおける指示の中でのメタファーの重要性というものはおそらくあるかもしれないし、
そうすると文章というか、いわゆる知的生産におけるメタファーの重要性というのはすごい上がってくるような気もしますね。
まあ確かにそうですね。
対人アイディアとメタファーが通じる通じない、その人の文化圏とか環境によってはありますけど、
先生へのプロンプトはだいたいもうある程度何が効くかは、何が効くって言い方がもうちょっとGPTっぽくて言えないですけど、
何が効果があるのかはある程度基盤があるでしょうし、
当然のように彼らは言葉の印象に引っ張られるので、
どんなメタファーを持ってくるかで、指示の制度とか方向性は変わってくるでしょうね。それは間違いなく。
そうでしょうね。
例えが上手い人っていうのは、まあ言葉が上手い人ですからね、基本的には。
言語能力が高い。
結局言語なんですね。
言語能力なんですよね、基本的には。
だから、例えば、今まででいうとアウトライナーの各ノードというかトピックを、
例えばカードのメタファーで捉えるとわかりやすいですよ、みたいなことがありましたけど、
逆に、カードのメタファー、これをカードとして考えてみたらどういう結果になるか。
逆にカードじゃなくて、ベタ打ちの文章として考えたらどうなるか。
それぞれで結果が変わってくるというか、
自分の認知としても変わってくるし、
それこそAIに対して何か指示するときの結果も変わってくると思うし、
そういう意味ではすごくメタファーが直接結果に関わってくるというか。
まあそうでしょうね。
本の出版編集者の方に、メタファーはあんまり使わんほうがいいと言われる方も結構いらっしゃって。
おっしゃられたように、誤った認知を生んでしまうから。
わかりやすいのはいいけど、違ったものをわかってしまうみたいな。
つまり誤解を冗長させてしまうから、本当に効果的なメタファー以外はむしろ使わずに
実直に書いたほうがいいという編集者さんもらわれて。
メタファーは言語スキルでいうと結構上のほうに属するんですよね。
効果的なメタファーを使うには。
そこら辺で差が、自分の持っているイメージを相手に伝えるために普通には使うんですけど。
生成AIは基本的にはメタファー、言葉しか渡せない。
画像も渡せますけど、メタファーしか渡せない。
テキストしか渡せないんで、メタファーのようなもので自分のイメージを伝えられる力があれば非常にいいですし。
彼は指示が曖昧やとデフォルトでこうでしょうに引っ張られるんで。
引っ張られると言うと解釈するんで。
タスク管理ツールを作ってくださいって言ったら基本的にそのタスク管理ツールっぽいものしか作らないんで。
例えでキリッとくるものを添えれば、そんなこと誰もこんなツールなかったわみたいなものを作り得ると思うんで。
だから常識的なものが一回外れるためにメタファーでずらすみたいなのは効果的かもしれないですね。
だから生成AIが来ても人間の言語能力を鍛える必要性は衰えることはなくむしろ強まる可能性があり、
どうやったらそれが鍛えられるかというと文章を書くことっていう結果に、プロンポと書くでもいいんですけど、
生成AIの利用と自己変容、そして人間の役割
人間が読んでくれる人がいる限りにおいて、文章を書くことが言語能力を鍛える一番簡単な知的トレーニングかなという気はしますけど。
そうですね。
正直僕はまだ納得してないんですけど、
さっきの自己変容の話の部分がやっぱり負に落ちてはいないんですけど。
いや、それはそう思います。
僕もある種のイマジネーションで補っている部分がありますけど。
ただ、プロンポティングに想像力がいるというのは、
それはもちろん。
そこを突き詰めたときに、僕らは全然突き詰めてないんで、そこの領域に覗いてませんけど、
やっぱクリエイティビリーが必要な領域を突き詰めると、
中にいたような関係がおそらくは生じたろうっていうイマジネーションを持っているってことですね。
そこは間違いないと思うんですよね。
それは間違いないと思います。
逆に言えば、僕も何が負に落ちていないのかというのをうまく表現できないわけですよね。
違和感は理解します。
僕も強い確信のもとで言ってるわけじゃなくて、
そうじゃない部分はあるだろうなというのは常にあって。
やっぱ当人の意識が、つまりプロンポティングしてるのは僕なわけですよね。
僕は文章を書くようにプロンポティングしてるから、
文章を書いてるのと同じかもしれないですよ、僕の観察は。
純粋なプロンポティングで、そのような変容が起きるかどうかまではまだちょっと何とも言えないですけど、
書きながら考えながら書くっていうことをしている人にとってのプロンポティングはそういう位置づけになるだろうなと思いつつも、
セイセイエア事例がある種のアフォーダンスというか、
こうしましょうみたいな促しを持ってるので、
その促しに負けてしまうと、何回いいとこでも終わってしまうっていうところは、
プロンポティングを突き詰めないっていうことは、あるかないかというとあるかなという気はしますけど。
そうですね。そこは未だ解決しない問題としてありつつも使うわけですけども。
それはもう確実に使うことにはなりますし、
使ったほうがいい局面は普通に多いので、
人間がやるべき作業じゃないものが、日本社会では山積みのようにあるので、
それはもう全然使っていったらいいつつ、でもやっぱりもっとごく単純な話、
現代人はあまりにも日常で運動しないからジムに行くわけですけど、
セイセイエアを使うようになったら、その知的な運動をしなくなる結果、
もうどっかで頭使うことをせへんと困りますよねって話には多分普通になると思うので。
セイセイエアのプロンポティングに頭使わへんにしても、
何か自分で頭使ってするっていうことはどっかではしとかないと、
精神健康的にまずいことにはなるようなという気はしますね。
それはありますね。
本当に頭使わないようになるんですね。
メールマガジンにも書いたんですけど、
ジェミニちゃんはノートブックLMに日報を1週間分渡したら、
一週、週報のまとめを書いてもらうってことをしてもらってて、
最初はその週報のまとめを見て自分で書いてたんですけど、もう一回まとめを。
気がついたらやってなくて、もう。
はじめはちゃんとこれ自分の頭を動かして書かなあかんからと思ってたのに、
気がついたら3週間くらい全くやってなくて。
自分のことを観察すると、精神偉大化書いたまとめを読むと、
もうお腹いっぱいになってるんですね。
今週の自分は振り返れたっていう感じなんですけど、
でもそこにあるのって客観的な行動を振り返ってるだけなんで、
例えばあの時点で僕はどんなことを感じたかっていう人間の手で考えてたような、
思い返して考えてたことは全く書かれてないんで、
僕の風在なんで、僕の行為はあるけど、
僕の主体がそこにはないと。
やっぱり思い返して科学ってめっちゃエネルギーを、認知的エネルギーを使うわけですけど、
人間の脳はやっぱりそういうのを極端に避けようとする気配があって、
だから、その生成AIの便利さに無意識に乗ってると、
本当に頭を使わへんようになっていくと思いますね。
これはスマホ脳という言葉がありますが、
もう生成AI脳みたいなのが普通にあると思います、これは。
なるほど。
まあわかる気がしますけど。
こっちが頭を使って、向こうも知的な作業をして、
その合作でもっとすごいことができますよねっていうのが、
たぶんハッピーな未来だと思うんですけど。
脳も、人間の脳はそのハードな環境をあんまり好んでおらず、
頭を使いたくないという感じになってきて、
知的じゃない知的生産物が増えてくるという、
まあ暗い未来もありますね。
そうですね。
まあどうなのかは全然わからないですけど。
ハイパーテキストのビジョンと現代インターネットのギャップ
そういえば、ハイパーテクストという本をついに読み終えまして、
ジョージ・P・ダンゾーさんの。
ちょっとね、中盤結構苦しかったんですけど。
読み頃づらいでしょ、あれ。
苦しかったですね。
面白い話がいっぱいありましたね、やっぱりね。
基本的に、ハイパーリンクが例えば教育にもたらすものを、
いいものとしてビジョンを描いておられて、
半分賛成できるけど、そんなに明るい未来ばかりでもないかなという感じはしましたが、
まあでもこの時代にこれぐらいの展望が描けたんだなというのはちょっと面白かったですね。
そうですね。まあもちろん今となってはなというところがいっぱいありますけれども。
ありますね。
特にハイパーリンク、今思うウェブにおけるハイパーリンクと違うのは、
逆リンクが自動的に付加されるというところ。
それがあってこそ本来ハイパーテキストだったんだろうなというのは、
すごくあれを見ていると感じますね。
僕が使ったことがない、名前も聞いたことのないアプリケーションを大学の中で使って、
例えばその分野横断的な教育で、ある教授が作った資料が別の授業とかで参照されて、
まさにハイパーメディアな学習・研究ができるようになるぞっていうのは、
非常にハイパーテキストの有効な使い方である。
現代のインターネットは一体どうなってしまったんだというギャップはすごいですけどね。
そうですね。結局あれはインターネディアという、
そうそう、インターネディア、インターネディア。
というハイパーテキスト環境を大学の中だけで使っているわけですよね。
だからそこに閉じた中で大学が管理して、
学生と教授が使っている分にはそうなるんだけれどもなっていう、
その当時は想像していなかった、いろんなことが外側にあるわけですけど。
ただやっぱり、今のネットを見ているともう忘れられちゃっている、
いろんないいものもたくさんその中にはあるなという。
やっぱりある程度、老人会の人が感じていたインターネットのキラキラした風景みたいなのは、
現代では確実に損なわれてしまってるんで。
そうですね。
でもやっぱりね、誰かが、おじいちゃんが言っていかなあかんと思うんですよね、これは。
あれっていいもんだぞって言わへん限り、失われてしまうので。
そうですね。
どこまで、あくまで理想論としてでも、やっぱりああいう繋がっていくものっていう、
共有されるものっていう良さみたいなのは、再確認したいとこではありますね。
そうですね。
だからそれを言うときに、「はいはい、わかりました、おじいちゃん。」って言われるだけで終わらない何かを提供しなきゃいけないわけですけども。
そうですね、確かに。
そんな難しいわけですよね。
だって僕、インターネット老人会どころじゃないですからね。
ワークロ専用期老人会。
そうかそうか、なるほど。
インターネット老人会なんて、あれですよ。
あの、ガキですからね。
95年以降ぐらいですからね、インターネット老人会。
そうですね、確かにね。
まあそれ以前にね、少なくともその15年ぐらい前からの老人会が、僕のまた先輩だったわけなんで。
それを考えたこの2、30年は激動の激動が続いたっていうときで、
一番大きなインパクトが今やってきてるってことですね。
そうでしょうね。ここまで大きなインパクトを感じたのは初めて。
要するに商用インターネットが使えるようになって、
自分の部屋から初めて接続できたとき以来ぐらいのインパクトがありますね、間違いなくね。
インターネット時代っていうのはおそらくですけど、
個人主義というか民主化開かれた文化みたいな憧れワクワク感とともに、たぶん盛り上がったと思うんですけど。
この生成以外にその文化的な何かがどう付随してるのかがまずわからないというか。
なんかちょっと違うんちゃうかなっていうところが多いんですけどね。
その文化的な何かが付随する前に変わっていってしまうので。
そうかそうかそうかそうか。
インターネット黎明期の文化と生成AIの現在
結局その背後にある文化的な側面というか、その哲学的な側面をコントロールしてるのが作る側だけなんですね。
確かにそうですね、そろそろ。
使う側のそれが生まれる前にもう次のステップに行ってしまうので。
確かに。
そこがすごく危険というか、しかもそれを開発している人たちの偏りというか。
確かに。
アメリカですよね。やっぱりその危うさというのはもう今誰の目にも明らかになっているわけで。
まあその頭脳の面はすごい人たちがいっぱいいて、お金もあって。
で、なおかつアメリカなり中国なりっていうそういう国家的な政策と結びついた環境にある中でものすごい勢いで生まれていく。
インターネットだってそうだったんですけど、アメリカの防衛国防予算から始まっているところに利用者ユーザーの文化が乗っかっていったんですけども、そんなものが生まれる時間ないですもんね。
そうですね。だからインターネットは特に最初のアメリカの特に軍事的なところからスタートしたけども、
ユーザーにちょっとアナーキーな感じの人たちがいて、個人の価値とか解放みたいなのが謳われるとともに広がったと。
で、日本の場合はそのツイッターの普及、以前はどっちかというとそういう人たちが多かった。
多かったと思いますね。
それ以降はちょっと変わってきたっていう文化的変容があったわけですけど、そもそも今の生成AIのユーザーにはそれを特に、なんか民主化が開かれたみたいな話をたまに聞きますけど、つまり誰でも絵が描けるようになるっていうのはいいよねっていう技術の民主化みたいな話は聞きますけど。
それは昔のインターネットが描いたようなグローバルな解放とはだいぶ距離があるような気がするんですよね。
まあそうだし、昔のインターネットが描いたそれも幻想というか、本当にそれがあったのかどうかは正直今となってはわからなくて。
はい。
そうですよね。
結局国家レベルの巨大な予算から生まれたものがベースになっている。
あと研究機関ですよね。
インターネット自体はアメリカの国家予算だし、
ワールドワイドウェブは、エネルギーなんとか研究所のティム・バーナーズリーさんが作ったわけですけども、
もともとは研究者仲間で使うつもりで作ったっていうところで。
しかもそれだってすごく大きいレベルの研究なんでね、個人レベルでコツコツ研究してるレベルの研究じゃないところなわけで。
そこに個人が乗っかっていったっていう。
ユーザー意識の変化と通信の自由
そうですね。乗っかれる余地があったから素晴らしかったんかな。
それ以外の可能性があった。ある種の遊び場になれた。
無料で使えたし、それ以前のパソコン通信と違って中心ということがない。
その中心性の良さが現代フランシスコと結びつくわけですけど、
生成業は中心しかないですからね。
中央サーバーが止まったらクロードユーザー全員悲劇ですからね。悲鳴上げますからね。
そこら辺の中央集権的なものの最も極まった形がそこに現れてて。
便利でしょって言われたら間違いなく便利で、無かったら困るでしょって言われたら無かったら困るんですけど。
でもあの当時のビジョンを語った人たちの影はほとんど見かけないというか。
便利ですよねということしかあんまり言われていないというか。
そうですね。
あとユーザーの感覚も当然変わっていって、
僕覚えてるの昔、2000年代の初めぐらいにだったと思うんですけど、
会社でインターネットメールを使うじゃないですか職場で。
そのときに会社のPCで仕事をしていて、そこで仕様のメールをするというときに、
やっぱりセキュリティ上のリスクが当然あるので、上司寸みたいなところが監視をするということについて、
ほとんどの人がふざけるなと言ったんですよね。
うん、なるほど。
会社の中だろうと指針の除くなんていうことは、
そんなことは上司寸だろうと許されないことだという意見が体制だったわけですよ。
今は通らないですよね。
そうですね。
今は通らなかったとしても多くの人が文句言われてたぶん、
まあやっぱりセキュリティに入ってます。
今の人って多くの人が、
でも会社のPCで仕様の通信するのは良くないよね、
会社のPCでアダルトサイト見ちゃいけないよねって、
大抵の人はそれで納得すると思うんですけど、
2000年代前半は違ったんですよ。
そうですね。
もちろん全員が全員じゃないんですけど、
いやいや会社だろうとなんだろうと、
通信の自由は基本的な権利だろうと。
考える人のほうが多分多かったですよ。
うん、そうでしょうね。
考えてみればそれは非常に真っ当な、
僕は今でもそう思ってますけど、
今でもそう思ってますけど、とはいえ、
例えば職場でPC使ったら当然監視をされていると想定して使いますよね、それはもちろん。
実際監視されてるでしょうし。
だからそういう意識も変わっていった。
ただアナーキというか、
そういう個人の権利、通信と個人の権利っていうことに対する考え方というのは、
ずいぶん今の常識とは違っていたようなところなんですね、25年くらい前は。
そうか。
生成AIの道具としてのベクトルと人間の役割
もちろんそれが変わる理由はあったんですけど。
もちろんね。
安全面、セキュリティ、利益を使うというのは当然必要な配慮ではありつつ、
トレードオフとして何をどこまで失っているのかということを考えなくなるのはちょっと怖いと思うんですけども。
そうか。
結局生成AIも道具の一つで、使い方次第ですよねって言ったらすべて終わっちゃうんですけど、
でもやっぱりツール自身が持つベクトルみたいなの確実にあって、
例えば僕が生成AI使ってこれまでプログラミングしたことがなかった人が自分のツールを作れるようになりましたっていうのはかなりハッピーな話だと思うんですね。
同じように着想とか世の中に発表したアイディアがあるけど文章を書くのがこれまでとても下手やったと、
でも生成AIを使うことによって人様様に読んでもらえる文章を書けるようになりましたと、
自分の考えを世に発表できるようになりましたって言うのも同じくらいハッピーだと思うんですよ。
そういうふうにある種のできなかったことを埋めてくれる装置としてまさにテクノロジーとして活用されるのはいいですけど、
インターネットは人と人をつなげる道具だったと思うんですよね。ある種のメディアであった。
でも生成AIは生成AIと人間をつなげるだけなんですよね基本的に。そこがどう埋まるのかが興味がある。
前半はできひんかったことができるようになるは諸手を挙げて賛成しますけど、
人が生成AIとしかしゃべらなくなる未来は、たぶん間違ってるんじゃないかなという気がしますね。
そうですね。ただ、生成AIとしゃべることでいろいろ救われたりっていう面があるのも非常によく理解できますし、
だから非常に多議的ですけど。
365日に24時間カウンセラーと一緒に生活するのは本当にその人の精神性にいいのかっていう問題はたぶんあると思うんですよね。
そこの切断、彼らはサービスなのでもっと使ってほしいわけですね基本的には。そこが問題なんですね。
そこのベクトルというかアフォーダンスがあるからこそ、その人の人間のリアルを侵食してしまうっていうところが常に怖いというのはありますね。
生身のカウンセラーなら常に向こうで適切な塩梅をおそらくコントロールしてるわけですからね。
そうですね。間違いなく。
それがうまくいかないというのはあるんですけど。難しいですね。こんな難しいことを考えなきゃいけない道具ってなかなか今までなかったですよね。
確かに人間に類する内緒はそれを超える知性を持つテクノロジーですからね。
より人間の使い方が問われるようになってきていますし。
深く考えないで使えばいいじゃんとは通らへんツールだと思うので、これに関して言うと。
だから、生成AIとは何なのかのメタワーがまだ全然なくて、そこは考えなあかんかなとは思いますね。
あとさっき倉下さん言われたとおり、サービスを提供している側というものがあって、
それ僕だけじゃないと思いますけど、やっぱりそこの提供する側に対する根本的な信頼がない状態で使っているという面もあるわけですね。
それはどこがよりマシかマシじゃないかっていうのはありますけど、それはあくまでも現時点でのことで。
そうですね。
実際それをリードする役割の個人について考えると、かなり問題のある人物が多いように思いますし。
やっぱりそういう人物によって提供されているサービスにどこまで預けるのかっていうこともありますからね。
少なくともそれがなかったら1日回りませんっていうレベルのことを、チャットGPTに任せたくはないというのはありますね。
他だったらいいんかって言われたら別によくはないんですけど、
かといってもGoogleにどっぷりつながってる身として何が言えるのかって思ってしまうので、
もうGmailを捨てる決意すらできませんから、アカウントを。
もう共犯者ですね。
企業・国家レベルの信頼とテクノロジーの未来
だからここに至るまでの、それこそ2000年以降のインターネットの歴史の中で、
そういう状況が作り上げられてきたわけですよね。
それもインターネット例明記には理解できなかったことですよね。
そうですね。
まあ難しいな。
どこが価値残るか以前にやっぱりある日突然その企業が信頼できなくなりましたって使いたくないですってなった時に困る度合いが半端ないんですよね。
今でも僕MacBook Airを使いたくないからWindowsに移るかって言われたらそんなことはまずないんで。
別にApple嫌いじゃないですけど、Appleが嫌いになった時にちょっと困りますけど、
でも例えばLinuxにするみたいな選択はギリ残ってるわけですよね。
理解られるわけですね。データも大抵はテキストファイルに残ってるから移行できますけど、
深くコミットして自分がCGファイルとかを育ててきたものからどこまで離れられるかっていう。
そういう自分が信頼しようとしている会社が、
真っ当で会ってくれと祈り続けるしかないというようなところではあるんですけど。
そうですね。
その会社に対する信頼が結局ある意味では、
トップのある特定の人物に対する信頼とほとんどイコールになってきて、
しかもその状況が企業レベルじゃなくて国家レベルになっているというわけじゃないですか。
そうですね。
やっぱり90年代的な感性でそれをまともに受け止めようとするとかなりしんどいし。
ニュースを見るだけでしんどいですからね、まともに受け止めたら。
わかります。
やっぱりね、世界レベルのこんなはずじゃなかった的な価値があるわけじゃないですか。
ありますね。
はずじゃなかったよなっていうふうに、あらゆることについて思うことが増えますからね。
確かに。難しいと言いながらも付き合っていくしかないというとこなんですけども。
メタファーの話をだいぶ離れましたけど。
そうですね。やっぱり物事を捉えるときにメタファーが活躍し、
政治的な意味に対するメタファーが不在してることは、
現代的にはかなり課題であり問題ではあるとは思いますね。
そうですね。
それがないまんまそれぞれの理解とコミット度で、
だけれどもみんながそこに入っていかざるを得ないという状況の総合的な厳しさもありますね。
そうですね。
アウトライナーのメタファーと今後の展望
実際僕は使わないってことはないにしろ、
比重は浅めに抑えておきたいかなというのが現状の感じですね。
というところで、
どうしようかな。
アウトライナーを例えるとしたら、
これみたいなアイディアがある方は、
ハッシュタグ打ち合わせキャスト、
ひらがなで打ち合わせアルファベットキャストまでいただければと思います。
何かお知らせしたいこととかございますでしょうか。
今日は特にありません。
僕は新しいテキストボックスが完成したんで、
完成するまでずっとその作業にかかりきりあったんで、
ほとんど何もしてないですけど、
また近々お披露目させていただこうと思います。
まるまる作り直したんですか。
ほぼまるまる作り直しました。
作り直したというか、
コードを書いてまくろうとなんですけど。
結構時間はかかりましたが、
言いたいきんやったみたいな話はまた近々したいと思いますんで。
今回はこれまでにしたいと思います。
お疲れ様でした。
お疲れ様でした。
01:43:54
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