Postalkとノーション関数2.0
うちあわせCast第百三十五回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ニュース的なものなのですが、以前から紹介していたPostalkというクラウドメモ付箋型カードツールみたいなのがあるんですけど、紹介している間に実は結構たくさん機能が追加されておりまして、
特にAIをChat GPT 3.5とか4とかを使った機能が結構たくさん追加されてまして、全然フォローアップできていないんですけど、そうやって利便性が上がった一方、機能を利用制限というのが始まるらしく、今月まずやったかな。
これまで一応無限にボードを作れたんですが、上限30枚までやったかな、までに制限されるということで、正直30枚使えたらたぶん十分なので。
僕には問題ないと思うんですけど。仕事とかで利用する場合にもっとたくさんとかいう場合は、その使い放題のプランとか買い切り方かなっていう感じに利用する。
あとそのAI的な機能もいくつか制限がかかるということで、その辺詳しくはどこかチェックしてください。紹介のページ。結構面白いスラックのスレッドを取り込んだりとか、いろいろデジタル的な連携機能強化が進められていた模様でございます。
ノーション関数2.0というのが始まりまして、スタートしまして、もともとノーションには関数という機能がありまして、これは関数というと要するにExcelの関数みたいなやつにスプレッドシートにマス入れて、
エコールサムとか言ったら合計値出てくるみたいなやつやと思います。それがよりコード化して、関数の出力が数字とかテキストだけじゃなくて、もっといろんなものが出せるようになったぞみたいなことが書かれてましたが、ほぼわからない。もうちょっとノーションどうなっているのかわからなくなってきました。
ノーションというのは何なのかということがもうすでにわからないですよね。
そうですね。今どんな機能があってどう位置づけられててということもよくわからないです。基本的にはもともとデータベース志向というか、表組とか表計算的なものを手軽に使えるというところが他のツールにない特徴だったと思うんですけど、
その表組とかの機能強化が最近では盛り盛り進められている模様でございます。全然わからないので、詳しい人がいたらぜひ教えてくださいというところで。
だんだんノーションの中で全ての仕事が完結するという方向にいっているように見えますけど。
そうですね。関数ができるのだとこの前はプロジェクト管理の機能が追加されて、タスクとかサマリーとかが自動的に受信されるみたいなことになってまして、言ってしまうとかつてのEvernoteが抱いた夢をさらに追求しようとしているという感じですが、
若干心配というか懐疑的な話があるのですけども、正直こうやってどんどんその表がスプレッドシートに近づけば近づくほど、スプレッドシートでいいじゃないかという、Googleスプレッドシートでいいじゃないかという気がしてしまうんですけど、僕にしては。
単一のツールにまとまっていることの利便性っていうのは確かにあるのですが、あるのですが、常にてんてんてん。本当にノーションで何でもカレンダーもインポートできますし、表計算もできるし、テキストも書けるし、マークダウン的なことも可能で、リンクも埋め込めるし、ウェブクリップもできるとなってきたら、まさに万能ツールという感じなんですが。
やっぱり決定的なのは、万能ツールであるがゆえに何をしていいのかわからないということが起こりがちだなというところで。
そうですね。
だから、個人が手軽に使うノートツールという感じではどんどんなくなりつつあって、
そうですね。
いわゆる知的労働のためのデータペースみたいな感じに、ちょっとずつ動いているかなというところですね。
逆にアナログで言うと、最近このクワク界隈があまりブログを書かれてないので、皆さんあまり話題に上がってないですけど、
コモンプレイス手帳術というのがYouTubeで流行っておりまして、ご存知です?
知らなかったです。
YouTubeとかでググっていただいたら、カタカナでコモンプレイスで漢字手帳術か、英語だとコモンプレイスノートブックかコモンプレイスブックスかな、
そんなのでググったら出てくる。簡単に言うと、気に入った言葉を書き抜く帳みたいな、そんな感じです。
好きな言葉を。
紙なの?手帳なの?
手帳です。手帳でやる。ノート手帳でやるというところで、あんまり具体的なフォーマットはないと思うんですけど、
左側にページをやや左寄りに縦線を引く、だからリーガルパッドみたいな感じで線を引いて、
コモンプレイス手帳術
右側の広い部分に引用とか書き抜いた言葉を書いて、
左側に自分の中でのタグ付けみたいなのを左に書くみたいな感じでページを埋めていって、
先頭のページにインデックス作って、自分が集めた言葉とかを自由自在にアクセスできるようにしましょうみたいな感じのノート手帳です。
流行るかどうかは分からないです。最近YouTubeで見かけるようになってきました。
でも流れてきたことはありますね。
これですか。
これですか。なるほど。
このコモンプレイスって実は歴史がある手法でして、
コモンプレイスってGoogleとちょっとグラビティが低いんですけど、
かつてのいわゆるエッセイみたいな時代ですよね。
ヨーロッパの伝統的なエッセイを書くために、
あの時代のエッセイっていうのは中心となるキーワード、よく使われる汎用的な表現とかキーワードとかっていうのがよく使われるし、
それを使うことが主流みたいな感じがあって、
それを書くためによく使われる言葉を採集するためのノートの使い方みたいなのがあって、
それがコモンプレイスと言われるものをやったらしいです。
その話誰かが書いてたかな。
どこかで。
マリエさんか。
誰かが。
言われてみれば、結構昔からあったという話を読んだ記憶がありますね。
そういう言葉集めみたいなものは、現代のカード法とかにも通じるというような論じ方はできると思うんですけど、
それがどこで発掘されたかわからないですけど、現代の手帳術に復活していると。
バレットジャーナルとか日記とかとはまた違って、外にある言葉を集めてお気に入りの本を作ろうみたいな感じのイメージとしては、
引用辞典を作ろうみたいな感じで、
例えば気分を上げたい時の言葉みたいなそういう分類をして、
例えばそういう言葉には赤いシールを貼っておくと。
そうするとページ見くった時に簡単にわかるよっていう非常にアナログリズムな感じの方法なんですけど、
なんか結構注目されてるらしく、やっぱり2023年になってもそういうのは残り続けるんだなというのはちょっと思ってます。
そうですね。逆に新鮮に見えたりする。
見えるでしょうね、きっとね。それはレコードがいいっていうのと多分同じような感覚で。
やっぱりこれはデジタルじゃなくてアナログという感じが何かしますね、なんとなく。
そうですね。
手を動かして残すっていうのと自分の手書きの文字っていうのと、
何かをメイクというよりはクリエイトして自分の手で作っていくっていうような感覚があるのがきっと楽しいんだろうなと思います。
新しい本の執筆方法
そんなとこかな。というわけで本題というかテーマなのですが、
前回ロギング仕事術について主にどんな内容かということについて語ったんですが、
引き続きということで、それ以外のお話をしようかと思うんですが、
まずどう書いたのか。結構特巻工事というか短い時間で執筆したのですけども、
特殊な書き方というのではないですけど、
新しい、これまでにしていなかった書き方で書いたという話ができるんですけども、
名付けたんですけど、ちょっと忘れたんですが。
名付けたんだけど忘れた。
ちょっと待ってくださいね。
ちょっと待ってくださいね。
なんとかしてお話ししますが、
ごく簡単に言うと、本って例えば4章とか5章とか何でもいいですよ、最初に章立てを作りますよね。
第1章から書き始めて。
人によっては全部言語ができてから送信する方もおられますが、
大抵は小単位で1章ができたら1章を送って、
引いて読んでもらうみたいな感じが多いと思うんですよ。
僕も大体今まではそうしてきたんですけども、
第1つは特幹工事的だったのと、
並行して筆筆プロジェクトを含めて3つ抱えていたので、
今までのやり方では取り回しできないだろうということで、
新しい方法というか、うまくいくだろうやり方っていうのを試したんですね。
うまくいくであろうやり方の発端となったのが、
リビジョンという本で。
リビジョンという本はあれ、ごく簡単に言うと連載を書いて本にするということじゃないですか。
これまでもずっと本の原稿はなかなか進まないことはあるけど、
例えばしごたのっていうメディアの連載は一度も休んだことがないという、
自分の中での対称性、非対称性か非対称性っていうのを感じてたんで、
連載なら書けるのだろうと。
だから本も連載で書こうと、まず思ったわけですね。
ただしでも、そこの媒体を作る、
メディアとかブログとかを作って記事を書くとか、
メルマガで連載するということではなくて、
編集者さんだけが読んでいるという体で連載を書いて、
週1回とか2週に1回のペースで原稿を、
その週に1回2センチとか4センチとかは決まってないんですけど、
ある分量だけを毎週定期的に送っていって、
最後まで書き上げるというやり方をしたんですね。
その方法を名前つけたんですけど、覚えてないですけど。
仮、イマジナリー連載方式ということですね、要するに。
どこの媒体にも連載を持ってないけど、
読者数1、編集者が読むだけの連載を、
毎週原稿を送り続けていくっていう方法を、
本当に毎週続けて出来上がったっていう。
それで本できるんやってちょっと驚きましたけど、できましたね。
できました。楽だったとかそういう感じはあるんですか?
楽だったはないですけど、ひどい苦労がなかったという意味では楽でしたね。
それはやっぱり連載定理したからっていうことですか?
連載に定理した定理と、あと前回も言いましたけど、
この本、ロギング仕事についてはワンテーマで、
構築的というよりは語り的というか、
セミナー的という言い方をしましたけど、
流れる語りにしようと。
だからこそ連載方式でも破綻なく仕上がったかなという印象ですね。
これ連載形式で送っていたものと、
最終的に本になった原稿っていうのは、
どのぐらいの変化があったかというんですか?
細かい語字雑字とか抜きにして、
大きな構造的文章的な点だけをフォーカスすると、
90%そのまま。
すごいですね、それは。
一応原稿送って、編集者さん全体揃ってからミーティングしたんですけど、
途中に出てくるこの説明はもうちょっと頭の方に出した方が分かりやすいですねって言って、
頭に出して、例えばこの説明を1,2,3で揃えたらもっといいんじゃないですかって言われて、
確かに読んでみるとそうやなというので、
ちょこちょこっと順番を入れ替えたっていうことが1回あったぐらいですね。
それ以外はもうほぼ書いたまま、一通り流して書いたまま書きまして、
で、出来上がりましたね。
それはむしろ逆に、
こうなんというか、伝統的な書き方にひょっとしたら近いのかな。
でもわかんないですね、伝統的な書き方がどうなのかよく知らないですけど。
そうなんですけど、例えば夏目漱石とかって新聞で小説を連載していたっていう話を聞いたことがあって、
リアルタイムで読んだわけではないですけど、
あれは出来上がったものを分割して出してたのかな。
毎週、僕のようにそうやって書き下ろしで書いていったんですかね、あれはね。
気になるな。
わかんないですね。でもたぶん毎週書き下ろしてたんじゃないですか、新聞小説って。
原稿用紙で書くっていうことも基本的にそのような書き方ですよね。
基本頭から流して書くっていうことで、
デジタルのような途中で構造変換とかっていうのはほとんどないっていう。
やるとしたら相当気合を入れて赤を入れなあかんっていうことになってくるから、
ある意味では確かに伝統的というか、
デジタルの利便性とデメリット
デジタルの力をそこまで有効活用していない書き方やったんかもしれないですが、
その点で思うとやっぱりデジタルがもたらしたものの利便性とデメリットですよね。
だからこの場合で言うと考えすぎてしまうっていうデメリットが必ずデジタルには起こると。
そうですね。
毎週書く場合はもう書いちゃったから仕方がないっていう。
だからリビジョンもほとんど似たような感じだと思うんですけど、
もう前書いちゃったからもうこれは仕方がないという割り切りで進んでいくっていう。
ある意味諦めとともに書いていくっていうことがあって。
それでも大きな破綻っていうのはなくて書き上がるし、
多少の変更はあるにしても構造的に立体的なものはできないが、
一つの語りとしては成立するものが書けるんだなっていうのはちょっと思いました。
ただ、点をつけるんですけど、
並行して進めて3冊の本すべて同じやり方でやってたんですね。
この本はログインするときはほぼパーフェクトにそのまま仕上がった。
11月に発売される本、ノート術の本は、
1回書き直しが発生しました。
書き直し全体が。
もうちょっとこれあれやなと思って頭から書き直したのが1回ありました。
今発売未定ですけど、今進めている3つ目の本は3回ぐらい書き直してます。
やっぱりその書き直しが発生しているものほど、
僕は構築的に捉えている、本を立体的に捉えている節があって、
立体的なものはこのやり方でストレートにはできないなというのが、
対比的によくわかったなと思います。
その立体的っていうのは、
イコールやっぱりテーマの大きさとか複雑さとか、
そういうことと対応してるんですかね。
僕は率直に言うと、1つの大きなテーマっていうのがあるとして、
それを細かいテーマごとを章に割り当てて、
その章の並びと組み合わせによって、
大きなテーマへとリーチしていくみたいな感じですかね。
テーマを構造的に構築するみたいな感じ。
ロギング仕事ってそういうことはなくて、
あるいは記録しながら仕事をしようということを、
一つの流れに沿って説明しているだけで、
ある意味だから、順番の並べ方によって分かりやすさは変わるかもしれませんけど、
並べ替えたとしても、構造が破綻することはないですね。
分かりやすさが変わることはあっても、説明の構造が壊れたりはせんけど、
僕が目指しているような構造の部分は、
順番が変わると破綻してしまうようなものであって。
これはつまりテーマが書いたことによって影響を受ける。
書き直しと構造の複雑さ
相互作用があるからですね。
だからこそ、簡単な語り流しをそのままというふうにはいかない。
だから書き方との内容の交互というのはありますね。
ある書き方でうまくいく本と、
うまくいかないというか、ある程度の手間を必要としてしまうということはあります。
ただ、文章を書き下ろすということそのものは、このやり方だととても楽ですね。
疑似連載。
疑似連載を流れに沿って書いているだけなので、
一旦それにはまれば、構造的複雑な思考を抜きにして、とりあえず目の前の文章を書く。
ロギング仕事はそれで考えなくて済んで書きましたけど、
その他の本については書き終えた後に、一回構造的に考え直そうということが発生して、
それだとこうやなと思って書き直しというのが起こって、それが終わった後にまたということが何度か起こる。
これはある意味、バザール執筆法の典型的な進み方で。
ロギング仕事はバザール執筆法のゼロタームで終われたという感じですね。
そこまで必要なかったということですね。
書くときの楽さはこれで担保できることは分かったと。
あとは構造の複雑さっていうのはどう出していくのか。
先に構造的複雑さを考慮してから文章を書くというのは多分成立、僕の中では成立しないと思うので、
このやり方は多分避けられないだろうなという感じはしますね。
ちなみに倉須田さんの言われる立体的って、立体的ってどういう意味ですか?
それを簡単に説明してください。
一番分かりやすい立体性でいうと、まず1章で話があると。
2章は1章を読んでいることが前提で進んでいくと。
1章で構築された概念が2章に使われる。2章で構築された概念が3章で使われるというのが一番単純な形の立体性で。
もっと複雑な立体感というのは多分あると思うんですけど、とりあえずそのようなものになっているのが立体的で、
逆にエッセイのようにどこから読んでもいいですよっていうのは、僕の中では非立体的というか平面的な感じがしますね。
総合依存性がだんだん高くなってくるみたいな感じですかね。
コンテンツごとの総合依存性と並んでいる順番が、そのコンテンツ全体にとって意味を持っていくって感じかな。
なんとなくそういう本を書きたいみたいな思いはずっとあったんですけど、
タッキング仕事術を書いた後にいただいた感想とかを見ていると、別にそれだけが正解ではないなというところをちょっと思っているところですね、最近は。
書き方と関係するのか、テーマ自体がシンプルだというのもあるんですけど、その分読みやすくてわかりやすいという印象を抱くというのはきっとあるでしょうね。
立体的にはどういう定義かは別として、僕の本もたくさんの本もやっぱり最初から最後まで読んでほしいと思って書いているし、最初から最後まで読まないと最後のピースが埋まりきらないような感じで、ちょっと読者に対して負担が大きいなというのは感じるんですよ。
それこそ適当にパパッと読んでいったらなんとなくわかるというものが担保されていて、より詳しく読んだらより詳しくわかるっていうぐらいのほうが、実用書という意味で言えば、むしろ正解というか機能してるんかなという印象ですね。
Aという情報をAというのはこれでこれでこういうことですよっていう形でストレートに提示するか、Aということを語ってるんだけどBの話が出てきて、
でもそのBの話を語ったことによって改めてAのことを読んでみると、そのBの話がなかった時よりもちょっと違う形で頭に入ってくるみたいな、なんかそういうのってありますよね。そういう本ってありますよね。
そういう本って憧れる気持ち。あとABCDって読んでいって初めて全体としてXっていうのが浮かび上がってくる。そのXはAからFまでを読まないと浮かび上がってこないみたいな感じの本っていうのに、憧れというかかっこよさみたいなのはあるわけですけど。
でもやっぱりそのニーズと合ってないんでしょうね。やっぱりノウハウ書とか実用書でやっちゃうと。
そのノウハウ書を実用書をどう定義するかにもよりますけど。
ノウハウ書はいいとしても実用書というところで実用に向けた本っていう意味で言うと、そういう回りくどいというかひねった本はどう言ったらいいのかな。合ってないというか、狭い道をフェラーリで走るみたいなそういう不適合さをなんとなく感じますね。
僕の中では結構新しい価値評価軸が手に入ったというか。変な話ローギング仕事って内容自体は本当にシンプルで多分産業でようやくできると思うんですけど。でも読んでみたらふしぶしにちょっといいことが書いてあると思うんですよ。
本編に関係ないですけど、よく言及されるメリットと嬉しいことを区別しましょう。区別できるよねっていうことが書いてあって、あれ全然ローギングには関係ないことなんですけど。僕の中では結構重要なメッセージと語られてるわけですが。
そういうふうに、実用書ストレートやけどもちょっといいことが書いてあるみたいな書き方もできるなというのが今回の発見で。昔だったらコラムとかに書かれてるようなことを本文にそのまま入れてる感じですけども。そういうのも読書の豊かさの一つかなというのは書き終えた後に思いましたね。
コラムないですね、そういえば。
直線を脱線させるようなことは一切やめてるわけですね。その読みのリニアを崩さないというか。
ローギング仕事術の書き方とアウトライン
それ気がつかなかったですね。そういえば、だいたい倉下さんの本ってコラムがあるんですけど。
中が多分しますけど、ないですね。
本文の中に引用もないはずで、つまり本文の中にある別のルートっていうのを発生させないようになっている。だから本当に語り、リニアな語りをそのままっていうようなものがイメージされてます。
引用もないですね、確かに。
だから参考文がない。
確かに。言われてみれば気がつかなかったですね。
だからちょっとやっぱり僕のこれまで書いてきた本の中では異業種というかちょっと違う位置、ポジションにいる本ですね。
確かに。それで読みやすいのかな?
まっすらすらとは読める、止まらなくて読めるようにはなっていると思うんですね。
僕も囲みとか中とかつい好きで入れてしまうんですけども。
まあ確かにね、あれで読むルートがずれちゃうとかね。
ずれるためにやってるんでしょうけど。
本線をクリアに保つためにそうじゃないものを横に逃すっていうことだと思うんですけども。
今回の本はあえてそういう方式を取らずに。
ロギングについて読んでたら2、3いいこと書いてあるぞみたいな感じの方式になってて。
だからこれは新しい僕の書き方というか、こういうのも成立するんだなというのはちょっと発見でしたね。
なるほどですね。
まあそれぐらいかな。
新しい、今これまでとは違った本の書き方で一つの成功例ではありましたかね。
やっぱり一回ごとに書くのが楽っていうのもありますし、
締め切り効果のおかげでもうこれでいいやっていう諦めの境地にも浸りますし、
送る相手がプロの編集者さんなので、何かいい温かいコメントが返ってくるわけですね。
モチベートするのがアジのスキルなわけですから。
なのでより続けやすかったというのもあると思いますね。
しっぴつの一番の敵ってのはやっぱり孤独さ。
あるいは孤独さから生じる疑念というか、これでいいんやろかっていうことなので、
そこをどう消していくかっていうことを考えたら、
そのしっぴつマネジメントシステムみたいなのも役には立ちそうですね。
ちなみにアウトラインは作りましたか?
アウトライン目次案を作ったのは覚えてますけど、
アウトラインと呼べるものをページを開いてみようか。
ロギング。
こっちはあれですよね、編集者さんに提示したようなもので。
一応ありますね。
一応ありますね。
ちょっと待ってくださいね。
これは画面共有をして、コードか。
画面共有できます。
聞いてる方には全然わからないでしょうけど、
アウトライナー。
アウトライン.テキストワールドにインデントが付いてるから、
これもともとはワークフローリーで作ってコピペしたんかな、多分。
何となくそんな感じがしますね。
これはこの画面はVS Codeかな。
これはVS Codeですね。
VS Codeで今表示してますが。
しっぴつのプロジェクトには何か、
アルファベットを2文字で省略するプロジェクト名を付けて、
これはLM、ロギングメソッドの頭文字で取ったLMっていうので、
毎週土曜日に原稿の送信で、
6月頭に学校目標というのを書いておいて、
これは実際この通り進んでいって、
仮タイトルみたいなのがあって、
序章を第1章、第2章、第3章、終章、クイックスタート。
ほぼこの通りですね。
ほぼでも最終の目次と変わらないですね。
ほぼ変わらないですね。
ほぼ変わらないですね。
ちょっとだけ順番変わってるけど。
変わってたりとか、
あとこれがその1とその3が多分ないかな。
おそらくこれやったことを書くと、
やろうとしていることを書くの2つがありますよという話に
たぶんすり替わってるはずで、
その3は上がってなかったかな。
あとの方にまぶされた感じですね。
それ自身が1つのテーマとして、
この本の中の中心的なテーマになってきたっていうところはありますが、
おおむねこの通りかな。
これはもうちょっと細かく書いたやつですけど。
これはだからもっと前のやつかな。
編集者さんと打ち合わせしてて、
アイディアロギングとアウトラインの変更
その時はアイディアロギングとかライフロギングとかっていうような
項目も出せるかなという話だったんですが、
それはもうこの3章にまとまったという感じで。
やっぱりこういうのを見られるというのが、
すいません見られてるのは僕だけですけど、
いいですね。
ありがたいですねこれは。
だからそうですね、
アウトラインは変わってないと言いましたけど、
執筆を始める前に打ち合わせがあって、
その中でアウトラインは変更されてますね。
そうですね。
あとね、書いたことを素材に考えるっていうのが、
最終盤ほど大きい扱いじゃなかったっていうのが意外ですね。
そうですね。
これはだから、
僕の中ではこの3つは並列項目やったんです。
頭の中では。
頭のアウトラインではこの3つ並列項目やったんですけど、
書いてるうちに、
なんかこの人異物やなっていう感じが出てきて、
だったら2つ。
だからなんか項目を上げるときって、
3つ上げたくなるじゃないですか。
はいはい。
なので3つ上げたんですけど、
合わなかったんで、
実情に合わせて変えたというところですね。
それが消えちゃうんじゃなくて、
むしろ独立した項目で上がっていくっていう。
変わったと。
回数がそこだけ1個上がっちゃったわけですね。
そういうことも起こりますが、
項目の変更と立体的な考え方
でも元々立体的に考えてなかったので、
特に問題はなく、
項目が1つ上に上がっただけで、
進むことができたというようなところですかね。
なるほど。
あれですよね。
連載的な感じは、
このアウトラインにある大体1項目ずつぐらい。
そうですね。
最初は1項目ずつに書いていって、
後半はちょっと間に合わないかなということで、
ちょっと増やしたりはしましたけど、
ペース的には大体そうですね。
なるほど。
ここにある1項目を書けば、
次いっていいやろうという感じで進んでいって、
大体ある程度つけてくると、
このボリュームやったらこれぐらいのことは書けるだろう、
みたいなボリューム感覚も磨かれてくるんで、
後になるほど書きやすかったかなというところですか。
逆に言うと、この流度でしか考えていなかったですね、
アウトラインというのは。
あとは出たとこを、出たとこを磨かせて。
でもどうなのかな。
やっぱりある程度こういうことを書こうみたいなイメージはあったので、
デタラメなアウトラインではなかったですけど、
思いつきというよりは、
走り書きメモに近いかな。
そういうふうに浮かんでいることの見出しが並んでいるという感じで。
書くことがシンプルな上に、
自分でやっていることですし、
新しい概念の創出が何もないですから、
知的労働としては簡単な方だったかなというのは思いますけど。
新しい概念を定義して、
それをどう使っていくかみたいな知的作業になってくると、
リニアにただ書いて終わりというふうにはいかないですよね。
後から戻ってやっぱりこれがこうみたいな入れ替えが絶対起こってくると思うので。
そうですね。
でもやっぱりこの前に、
全てはノートから始まるがあったからっていうところは、
前回もその話言ってましたけど。
それはやっぱりあると思うんですね。
難しい話はそっちで。
だからもうここは部分的に限定していいっていう、
むしろ限定してやろうという思い切りができたのはありますね。
僕の中でいろいろ言いたいマインドセットが常にあるわけですけど、
そこは切断しやすかったですね。
確かに。
逆に結構抑制した感じなんでしょうね。
多分一番抑制した方ですね。
スベノが一番開放して書いたとしたら、
こっちが一番抑制したかな。
余計なことは書かんとこうっていうさっきの引用とかも含めて、
何が余計かは別として、
実用に問わないことは書かないでおこうという感じで書いてたから、
庭作りと文章作成の類似性
ある種楽には、そういう意味では楽に書けたかなと。
まあそんなとこかな。
書き方については大体そんなとこかな。
いろいろ新境地で、
でもやっぱりバザール執筆でこのように成功する方がマレーアだろうなと思いますけど。
そういう感じですか。
リビジョンの場合は書いた後に構造を作ったから、
2人の原稿から立体性を立ち上げたから、
立体感がある方になりましたけど。
こないだ読み直したんですけど、よくあんな風になりましたよね。
おかしいですよね、あれ。
リコラージュってああいうことなんだろうなと思いますけどね。
結果的にどっかでも言いましたけど、
リビジョンっていう一つに定まらず常にアップデートしていく心持ちっていうのが、
2人の方法を並列して並べることによって、
単一の方法の絶対性っていうものを解体しているみたいなことを、
どっかで言いましたけども、
最初から考えたわけじゃなくて、
そうならんだらそうなったぐらいの感じなので。
その偶然性と構築感の、
あれはもうプロセスを見てたから言えますけど、
結構いろいろ偶然じゃないですかね。
にもかかわらずすごい構造感があるというか。
しかも僕の方のパートはそれほど変わってないんですよね。
そうですね。僕は構造に合わせるために書き換えることがあるんかな、要するに。
どっちかというとクライシスタさんが合わせてくれた感じなんですよね。
構造というか。
文章を直さなあかんとしたら、
編集する方が直した方が話が早いというだけのことであって、
それは別に遠慮とかじゃなくて手間の話ですけど、
だから立体にするために変更っていうのは当然あったわけですけど、
でも逆に言うとそういうやり方であれば、
流れで書いた後にも立体感を作れるということは確かで。
結局ああいうのも言って、
映画の編集と同じようなことなわけで、
そのシーンだけ撮って、
そこから物語という立体性を立ち上げているわけですから、
そういう編集の中でもきっと偶然的なものっていうのは絶対たくさんあると思うんですよ。
だからある種そのものづくり、情報づくりのベーシックって言うとおかしいですけど、
ある種原始的なやり方なんじゃないかな、
庭の形が生まれるときっていう本を山内さんの本を読んで、
日本の庭園みたいなお寺の庭を作るっていうのをフィールドワークした本なんですけど、
そこの庭師の方の、
しかも、庭に置かれる岩も、
岩売ってると石売ってるところに行って、
この辺ひと山をくださいみたいな感じ、雑に、雑に描いてるんですね。
そこに石売ってるとこで、
お手紙を書いて、
お手紙を書いて、
お手紙を書いて、
その中に、
お手紙を書いて、
お手紙を書いて、
その中にお手紙を書いて、
に雑に気味あるらしいです。その石を庭に運び込んで、庭を見て、石を見て、とりあえずこれ1個置いてみようか、みたいなとこから始まるらしいです。
で、借り置きして、その借り置きした風景を見て、ちょっと遠い場所に別の石を置く。で、同じことを繰り返して、こんなもんかな、みたいな感じで進めていくらしいです。
だから、置いたらどうなるかを見てから考えるっていうやり方って、これ執筆でよく分かるなーって、ちょっと思います。
書いてみてから考えるっていうこと。で、そこのやる風景とかを、自分の意識でコントロールするというのではなく、
その素材とのインタラクションによって風景を作り上げるというのも、多分ね、ちょっと意識的すぎるな感じかな。なんか炙り出すみたいな感じ。
古川さんによると、庭っていうのが、ああこれは綺麗な庭だなって注目されない方がいいと。
むしろそのお寺は山の中にあるんで、後ろは山とか林とかがある風景が広がってるんですね。
その一部になっているぐらいがちょうどいい、みたいなニュファンスのことを言われるんですけど。
そういう自然さを出すっていう、でもそれは人工的な工事じゃないですか。だから人工というのは自然の反対義なわけじゃないですか。
人工によって自然を出すっていう非常に難しいことをやっておられるんですけど、でも設計図を使わないものづくりって、
でも常にそういうふうに偶然性とか、そこにたまたまあったものとかによって左右されて進んでいくもんじゃないかなというのを、その庭づくりの本を読んでて感じました。
でもだから物を作るのってそういうことなんでしょうね、きっと。
そうだと思います。だから工業生産、大量生産っていうのが頭に前になってきたときに、違った形のものづくりっていうのが生まれてきた。
設計図通り作るのが前みたいな感じになってきたわけですけど、もっと古来のというか、ものづくりっていうのは常に不安定さ、だってその素材の意思そのものが毎回形が違うようなわけじゃないですか。
そういう中でどう対応するっていうのもおかしいけど、どうアレンジメントしていくのかっていうのが常に、そういうふうな想像性の発揮のされ方っていうのが常に動いていくもので。
おそらくだから、アウトラインを作ったとしても頭の中に設計図がないような本づくりっていうのも同じような心持ちでやっていけるし、やっていった方が良いという感じ。
だからリビジョンも典型的な感じですね。だから相手が置いた意思に合わせてこっちが意思を変わっていくみたいな感じで、そういうふうにメイクされていったもので。
でもやっぱり意図ではコントロールできないので、最終形を考えてあの連載を変えたわけじゃないですからね。
いや、そうですよね。
だからどっか偶然性に身を晒すっていうことができた方がいいし。
だからアウトラインを立てても連載形式で毎回送って書くっていうのも一回一回切断していくということなので。
だから流れまかせですよね。流れまかせから後から見た時に構造であるかのようなものを立てらせるみたいな感じの作り方、書き方っていうのが可能だろうなと。
まあ、どうだろうな。
まあ、その、執筆っていうのはアート的に位置づけるのか、アートの対意って何やろうな、工業的に位置づけるのかによってもこういうノウハウへの評価って変わってくるとは思うんですけど。
そうですね。
例えば、1日に3つブログ記事書くというような意味のプロセッシングでははっきり言って飛行に過ぎて成り立ちませんけども、こういう方法は。
そうじゃないライティングというのもあって、それは何のために行われるかは別にして、やっぱりある種コントロールを手放すっていう感覚はあってもいいかなというところですね。
そうですね。
だからそのアウトライン、例えばアウトラインって設計図だと思ってしまうと、もちろん設計図のアウトラインもあるんですけど。
たぶんこういうものを作ろうって最初に決めて、そのとおりにやろうとする。で、うまくいった、うまくいかなかったっていう話があるんですけど、そうするとその偶然性を取り込むことができなくなるわけですね。
で、なりますね、もちろん。
だけど逆に、偶然性を取り込んだ結果、今どうなっているかっていうのを見ることができるのもまたアウトラインだったりするわけで。
例えばその庭、設計をしないで庭を作っていくというときに、ここにたまたまあった石を置いて、それに合わせて周りを作っていった結果、今どうなってるのかっていうのを2回から見るみたいな。
そういう役割もおそらく文章で言えばアウトラインは果たすと思うんですけど、
それをどこまで、その中でさらに現状を把握した結果、良いとと違っているから直そうと思うのか、偶然出来上がったこの構造をこれをベースに作っていこうと思うのか。
結局いろんな捉え方ができますよね。
そうですね、確かに。
今すごく何を言っているのか自分で分からなくなりましたけど。
アウトラインの役割
庭本の中では、設計図はない代わりに、庭そのものが庭の設計図だという伝聞題の話が出てくるんですけど、実際仮に置いてみるとか仮に線を引いてみるっていうことをして、その感触を確かめるっていうことをすると。
それが設計図が発達する一つの役割である作業をする人にイメージを伝えるっていうことを庭そのものがしているんだと。設計図が本来すべき役割を庭そのものがしていると。
実際に置いてみて、例えばちょっと離れてみるとかことをして確認するわけですけど、文章の場合って離れてみるっていうことがどういう点かな。
物理的にできないというか、つまりモディサイド追加したらええっていうものじゃないじゃないですか。
だからやっぱりそこはアウトライン的なものが確認する上ではどうしても必要で、構造としてのアウトラインっていう構造を確認するためのアウトラインかな、要するに。
それは完成図としての設計図ではないっていう認識ですよね。
そうですね。
だからどこがないんだろうな。
例えばアウトライン使う派と使わない派があるという話が多々あるわけですけど、確認した結果アウトラインを使う派の人はほぼ本文を書かれているんですね。
徹底的なアウトラインを作り込む。
例えばセリフだけが書き込まれていない、情景描写がちゃんとあるような場面展開とか書かれているようなものを作った上で、それをベースに書くっていう方が結構多いんですね、アウトライン派って。
それもほとんど本文を書いているのと、バザール執筆法とほとんど変わらないわけですね。
だから結局、文章におけるアウトラインを設計図的に使えている人って多分ほとんどいなくて、特に作家的なクリエイション現場においては。
やっぱりそれは、庭そのものがっていうのと同じで、原稿そのものがアウトラインだっていうのとほとんど同じことが行われているわけで。
だからアウトラインイコール設計図っていう固定観念を1回捨てたほうがいい感じがしますね。
そうですね。だけどアウトラインっていうと、まず設計図だと捉える人が多いですよね。
それだからやっぱり何かを作るっていうもっとジェネラルな認識が設計図的だからでしょうね、きっと。
そうですね。だからフリーライティングって言うけれども、それって要するにとりあえず何か描いてみるっていうことなので、とりあえず石を置いてみるのと同じだと思うんですよね。
ちょうど今のクラッシャーさんの話で思い出しましたけど、ローマ法のヨハネ・パウロ2世の電気を描いた人がいまして、ものすごい分厚い。名前忘れちゃいましたけど。
その人がどうやってそれを描いたのかっていうインタビューで知ってるんですけど、私はアウトライン派だと。
アウトラインは極めて重要で、こんな複雑な仕事はアウトラインなしでは決してできない。
で、まず私はどっかの山奥中に籠って、徹底的にアウトラインを検討することから始めたと。
そして出来上がったのがこれだと。500ページあるなアウトラインが。
っていうぐらいのことなんだよね。
細部の表現が本の本文として成立するその精緻さになっていないだけで。
結局その書いてある、実質的には書いてあるわけですよね。
そうですね。
だけどアウトラインと呼んでいるわけですよね。
アウトラインでは、細部がないという意味ではアウトラインでは。
インではないという意味ではアウトラインではありますね。
そうですね。あとその細部の描写とか、終始的なレトリックみたいなところが精緻に組み立てられていないというだけであって、
何がどう書かれるかというのはほぼ完全に書いてあるんですよね。
そこまでいって初めて機能するアウトライン。
実際ほぼ書くからアウトラインが出来上がるっていう。
アウトライン派とアウトラインを使わない派
だから事前のアウトラインじゃなくて事後のアウトラインですね。
そうですね。
そこまでをアウトラインと言われると逆に、
例えば僕がやるような、本本書いてからアウトライン、そこからアウトライン作るんですよっていうのとやってることは実はそんなに変わってないんじゃないか。
変わらないと思います。それはもう変わらないと思います。
頭の中で動いてることはほぼ同じだと思いますね。
ような気がしますよね。
だから後追いの設計図というか、そういう感じ。
例えばさっき僕が執筆のアウトラインをお見せしましたが、
あれも要するに本文の構造というよりは、ここの場所にこれを書こうっていう履帽録でしかないわけですね。
で、本文はもうその時に書く。
で、やっぱり書いていると変わることがあるから、全然無視することも普通にあるという意味では、やっぱり設計図じゃないですね。
設計図って英語で何て言うかわからないですけど、
設計図がなければいけないのという気持ちと、設計図の通りにしなければならないという気持ちが、
クリエイティブという行為にはあんまり向いていない。
もし啓蒙することがあるとしたらそこでしょうね。設計図なしで作るという。
もちろん、例えばそういう石職人たちさんも、石を切る時に線を引いたりはしないわけですね。
それも石そのものに直接書くから、あるすると石そのものが設計図と言うわけですけど、
設計図がいらんっていう話をすると、何のディレクションもなくやればいいっていう風に捉えられたら、これはまた違うわけなんですね。
だからディレクションはあるけど、固定的ではないっていう感じ。
動的ディレクションっていうものがあればいいっていう、ある種の両方を取るわけですけど、
そういう感覚で取り組む。
あとは完成するものがエッセイ集やったらそのままでいいし、ちょこっと並べ替えるだけでもいいし、
論考の場合はもちろん論立てが重要だから、作ったアウトラインからもう一回再検討みたいなことは必要でしょうけど、
だからその2話本が突きつけてくるのって、
制作における設計図は何かっていう問題だと僕は思ったんですけど、
設計図とアウトラインの関係
設計図が必要な生産工程ってももちろんあるわけですけど、
現代社会はそういう作るばっかりに身を囲まれてて、それ以外のものってなかなか触れる機会がないっていうのと、
個人で文章を書く場合ってほぼそうじゃないものなはずで、
フリーライティングもそうですし、日記とかエッセイとか、文具にエッセイを書くような場合って、
まあいらないですね、その事前のアウトライン通りに、その通りに作るアウトラインを作る意義って多分ほとんど当たりをつけるぐらいかな、それぐらいであって。
だから設計図は必要ないですね。
だからアウトライナーでやるか付箋でやるか、ポストイットでやるかみたいな感じの方がいい。
特にアナログでポストイットでやった方が多分一番動く感っていうのが伝わると思うんですけど。
確か誰やったかな、一輝さんやったかな、小学生とかの作文指導でカードか付箋を使いましょうみたいなことを書いてあったみたいなことを読んだんですけど、
だからその感覚が若い頃から身についてると文章を書くっていう行為の付き合いが多分変わってくるでしょうね。
変わってくるでしょうね。それがこっちの意図というか思うように変わるかどうかはちょっとわからないんですよね。
でも原稿用紙とボールペン渡されてっていうよりは遥かにいいかな。
何で原稿、紙でもいいと思うんですよね。何で原稿用紙なのかって。
昨日お風呂の中ですごい考えたんです。何でお風呂の中でそんなことを思ったのかわからないんですけど。
だって原稿用紙って印刷物になる原稿を、その分量を測りやすくするためにあるプロの道具じゃないですか、いわば原稿用紙って。
だから作文用紙じゃないんですよね、原稿用紙なんですよね。
何で作文に原稿用紙を使うのかっていうのが、多分それ調べれば多分わかると思うんですけど。
不思議なんですよね。何で普通の紙を使わないのかと。
まあ確かに小学校何年生ぐらいだったら原稿用紙に800字ぐらいの作文を書かせるみたいな意味で、文字数を把握しやすくするっていう意味はあるのかもしれないですけど。
それにしても原稿用紙って書きづらいですよね。
そうですね。また僕世代ぐらいは原稿用紙に対して憧れみたいな、作家道具みたいなものに対して憧れがある反面、だからこそ書きづらいっていうのももちろんあるわけですが。
だからやっぱりちょっとそういう変な言い方ですけど、作家性、権威性みたいなものに対する教員側というか、文部科学省側の何かがあるのかもしれないですけど。
文章を書くっていうことがやっぱりまだ自己表現というか、作家性みたいなものと強く紐づいているじゃないですかね。そういうのを感じられてしまいますけどね。やっぱり原稿用紙使うってなると。
そうですね。だから例えば原稿用紙じゃなくて普通の紙で、カードとまで付箋とまではいかなくてもバインダー式になっていて、入れ替えができると。
バインダーのようにページを組み替えることもできるし、必要があれば、例えばページの半分でハサミか何かで切っちゃって、切った半分だけ前に持ってくるとか。そういうことができるだけでもずいぶん違うような気がするし、あとそういうことをしてもいいっていう。
一息で完璧なものを書き切らなくてもいいっていうことを示せると思うんですよね。先生がそういう見本を見せれば。
確かに。
切って、先生書いちゃったけどちょっと失敗しちゃったっていうか、後ろに書いたことを前に持ってきたほうがいい作文になるよねって言って、ハサミでジョキジョキって切って繋ぎ替えちゃった。ほらこのほうが良くなったって言われたときの、原稿用紙で一発で書けって言われるにもずっと気が楽になるような気がするんですよね。
だからそういう意味でやっぱりクリエイトの現場っていうのに遭遇しないというか、その話を聞いて思ったんですけど、学校の先生で版書するわけですけど、版書ってもう出来上がったものを当人がノートに書いてきたものをここに移すわけですよね、あれって先生は。
アドリブで書いてるわけじゃなくて、完全な構造があるものを転写してるだけで、しかも生徒もその転写された黒板をノートに転写するわけじゃない。
だからどこにもクリエイトが発生してないんですね。ある種の作られたものをそのまま移しているっていうだけ。で、学校の先生、国語の先生が文章を作文する過程っていうのを見せてくれないわけじゃないですか。
そういう意味でだから、唯一そういう感じられるのは、漫画とかでよく出てきますけど、数学の先生が黒板に式を書いてるときに途中で間違いに気づくっていう、あれリアルですよね。
リアルだし、それすごい大事ですよね、たぶん。 そういう定性可能性という言葉を最近よく使ってますけど、アズマさんもあれで。そういうのに開かれているっていうものがリアルに見せられるか、見るときが機会があるかどうかっていうことの違いが、僕たちが何かを作るっていうものの原風景を作ってしまっているというか。
常に完璧なものしか、完成品しか見てないと、固定的なものとして捉えがちなので、作るっていうことが日常生活から遠くなっていくっていうことが多分起きてるんですけども。だから作るの現場っていうのに触れられるということって貴重ですし、面白いですよね。
そうですね。だから例えば昔よく、今はわかんないですけど、昔よく先生が学級通信みたいなものを書いてくれる先生っていたんですよね。ちょっと先生のエッセイ的なものが週に一回ガリバンズリみたいなのを見させられたやつが書いてあって、
その下に、5年3組ニュースみたいなのが下にあって、なんとかくんが作家でなんとかみたいな、そういうものを配ってくれる先生がいたりしたんですけど、あの文章をどういうふうに先生は書いていたのかって見せてくれたら。
そうですね。
わかんないですけど、もしかしたら頭から。
もちろんね、もちろんあると思うんですけど。
でもあれ結構ね、たぶん100字、1000字くらいあったと思うんで、あれを本当にガリバンに一発で一息で書けていたことはないんじゃないかと思うんですよね。
何かしらの下書きをしてると思うし。
別の紙に下書きしてたとすれば、切り刻んだりはしないにしても、書いたのを一行線引っ張って消して吹き出しで、ここにこれが入るみたいなことをおそらくやってたんじゃないかと思うんですよね。
でも確かにそういうプロセスを見たことはなかったですよね。
プロセス話と庭作りのエピソード
やっぱりプロセスっていうのが、取得するのが良いことないしはかっこいいことみたいな、ある種の権威づけにもつながるみたいなところがありますし。
逆に日本カルチャーなのかどうかは知れますけど、やっぱり天才が圧倒的にやるっていうプロセス話は大好きですよね、僕たちは。
そうですね。
頭から一回も書き直すことなく書き上げましたみたいな話は大好物なんですけど、それは外れ値というか例外的なものであって、
リアルなメイクの現場っていうのって、本当に庭作りで行われてるような、庭作りで面白かったのが、ある程度岩を置いた後に依頼主であるオシオさんがやってきて、
あの石の形、背中見えてるのちょっと悪くないですかっていうことを言われたら、その石の置き方が変わることになって、それによってそれまで置かれていた石の配置がずっとずっとずれていくっていうようなエピソードがあるんですけど。
まあこういうことってありますよね、普通。
ありました。
だからやっぱりガッチリ決めてそれを動かさないっていうことって、ある種のその製作の中にある対応性っていうのを問わせてしまうことになるわけで。
製作の現場ってだいたいそんな風に、さっきも言ったように偶然性とか外部性に常に開かれてて、だから人間が仕事をするっていうことに意義があるんじゃないかなとは思いますけども。
いや本当そうですよね。
で、結局製作物がそうであるならば、結局それをどんどんその考えを広げていくと、結局人生もそうなんじゃないかっていうことになるのがリビジョンだったわけですよね。
実際それはそうですね。製作物の観点からそういう考え方に至るのか、生き方の観点から製作物の観点につながっていくのか、その発端と終点どっちが先かはわからないですけど。
まあでもそういうことですよね。リアルに考えたらそうならざるを得ないというかね。
まあそんな感じかな。
まあだからこのアウトラインをどう、だからそう、例えばそのロギング仕事術に引きつけて言えば、そのアウトラインっていうのはある時点の自分がこの本はこうになるだろうと思ったログでしかないっていうことなんですね。
だからそういう設計図、未来の成果を約束するものではないっていう捉え方になって、だからいくつもアウトラインのバージョンができますからね。さっきも見せましたけど。
アウトラインと呼ばれるものでもパターンが3つぐらい変化していく過程があって、全然違ったりするんですけど。
書く前にそのような変化が起こるということは、書いた後にもそのような変化が起こるということで。
だからそういう変化可能性っていうものが、日本のどこかの時点で失われたのか、それともいわゆる工業社会でそうなっていくのかわからないですけども。
だからどうでしょうね。デジタル以前の時代にどのぐらい定性というか、そういうことが意識されていたのか。
書く方法の例とデジタルツールのメリット
でもやっぱりカードっていうものがあるんだから、何とかその時可能だったテクノロジーの範囲でそれをやろうとしてたわけですよね。
そうですね。特にある種プロセスに敏感な人ほど、そういうのを開発しようとしてたはずですね、きっと。
そうですよね。あとそれこそ思考のエンジンとかに書いてありますけど、タイプライターで打った後で紙をカットしてノリで繋ぎ替えることを、
モトカット&ペーストといったみたいなことで、だから英語圏って言っていいのかな、欧米っていうのがちょっと分からないですけど、では少なくともあったわけですよね。
ただそれが19世紀にはむしろそういう近代的なツリー構造を作り上げるためにそれが行われていたみたいな話があるんですけど、
それとは別に切り刻んで切断して並び替えるみたいなことっていうのが行われてたわけですけど、日本だとどうなのかですよね。
やっぱり先駆的なのは梅沢の小座寝法でしょうね。あれは現代なら付箋を使ってやることですけど、あの時代から要素を並び替えるということを、
事前に並び替えて検討するということを実践されてましたけど、それより前のノウハウは僕はもう、
多分江戸時代の執筆者がどうしてたか全く分かりませんが、小座寝法も梅沢はワープロに言及してたんで、だいぶデジタル記憶が入ってきたときの話ですからね。
小座寝法。でも知的生産の技術のときはまだ60年代なので。
でもああいうことがわれわれの研究者の中で行われているみたいな言い方だったでしたっけね、小座寝法って。
誰かがやったらみんなでこういう方法を共通して使ってたみたいな。他の人が小座寝法をやってたかどうかは別ですけども、一定の技法としては認知はされてたんでしょうね。
それ以前、でも日本って巻紙に書いてたわけですか。
そうそう、巻紙に書いてたんですね。
だから、ああいう一枚一枚になった紙というものになった時点ですでに、ものすごい編集可能性が上がってるんですよね、実は。
確かにそうですね。
あれ巻物、あれって何メートルもある、5メートル目で間違えたらどうするんでしょうね。
一からやり直すか。
逆に言うと、例えば社協するっていうような場合は、もともとある製品本を書き写すわけですから、間違える間違いは集中力の問題で、おそらく間違えたらあかんと思ってるから間違えないと思うんですけど、
詩とかを書き殺す場合は、それもどうしようもないでしょうね。
でもあれですよね、紙を綴った書物もあったわけだから、別に巻紙とは掲げられないのか。
こんなところで教養の無さが。
例えば江戸はわからないんですけど、明治の書き手とかがどうしたのかは、一応、謎根漱石の執筆みたいなのは調べようと思ったら調べられるでしょうね、きっと。
そうですね。原稿用紙に書いてたことは間違いないですよね。
どのぐらい、どんなアウトライン派だったのかどうかとか、締め切りにどれぐらい遅れたのかとか、そういう話から立ち上がってくるものはあるでしょうけど。
小説家の書く方法、あとはうめさんの場合は学者の書く方法という感じで。
最終的に僕が興味があるのは市民の書く方法だから、参考にはなるでしょうけども。
もっと才能によらないものになってほしいなと思いますが。
いや、もうそうですよ。それが一番ですよね。
そうですね。だから、どちらかというと僕は文章が苦手ではないので。
先ほど言ったセンジのあれだったら、多分頭から出てくることはできる派なので。
もちろんちょいちょい書き直しはしますけど、事前に項目を検討しなくても書ける派なんですけど。
でも多分、どっちかというとレアな方でもっと苦労する人の方が多いでしょうから。
そういう人がどう書くのかって書いていきたいのかっていうのに、ノウハウ論としては興味がありますね。
そうですね。平均的にはどのぐらい頭から一息で書けるものでしょうね。何文字ぐらい書けるんでしょうね。
僕は400字書くのは結構きついですよ。
1ツイートはどうですか?140字。
1ツイート、要するに1、2行で済むようなものは大丈夫だと思いますけど、
割にツイートいっぱい、140字いっぱい使うものは、実は相当編集してることがありますね。
でもまあそうか。もう意識はしてないけど、どのぐらい編集してるだろうな。行を入れ替えることはしないかな。
言い回しを何回も書き直すことはありますけど、特にSNSの場合は。
構造的な編集はほぼ。
でもそう言ったところで、例えば2000字の記事を頭から書きますけど、見出しは絶対書き終えてから書くので、やっぱりデジタル的ですね。そこは。
見出しを後から付けるってことですね。
付けるとか挿入するので部分的に。なので、頭からじゃなくてアナログ的に書いてるようで、やっぱりデジタル機器の恩恵は十全に受けてますね。
でも書いた後で見出しを付けるっていうのは結構実はデジタルですよね。
うん、デジタルだと思います。あらかじめ見出しの場所を空けといてやったら原稿用紙でもできますけど、書いた後に空行挿入して見出しを入れることは、さっき言った切り張り機能がないとできないので。
デジタルが開いた訂正可能性っていうのは間違いなく恩恵があって、でも局の反対側にいくらでも編集できてしまうがゆえに書けないということもあって、だからデジタルツールはこの2つの間をどう落ち着けるかっていうところが多分命題ですね、これは。
そうですね。だから逆にデジタルになってすごく書き手の諦める力が必要になっちゃったってところがありますよね。
それはあると思います。だからパソコンやったら書けへんけどiPhoneやったら書けるっていう書き手もちらほら見かけますね。だから編集できてしまうからなんでしょうね。編集しやすいから書けないっていうことだと思います。さっきの話で言うと。
iPhoneの場合はもう狭い画面に書くしかないから、その前後の文脈も終えるところが非常に限定的なので、さっき言った連載方式に近いことになるわけですね。もう画面に収まるところだけで考えるっていうことができるようになったってそういう有限化の形もある。
だからそういう形で何かしら限定を持っていかないと編集ができるメリットが増えすぎて書けなくなるっていうところがある。だからその意味で原稿用紙もメリットはあったはずで、有限化とかいうことでメリットはあったはずですけど、苦手な人ができないという一番の問題を抱えてしまうので。
手書きの良さっていうのはもちろんある反面、文章を作り上げていくという過程ではやっぱりデジタルに長所の方が多い感じはしますね。
おだしょー そうですね。だからそれで思い出しましたけど、この間ノートのほうで紹介した30年ぐらい前の本がありましたですね。山名一郎さんという方の。今でも山名さんってライターとして活動されてると思うんですけど、このMacユーザーのための地のコンピューター活用術という本が。
おだしょー 名前がカッチョイイですね。 山名 一郎 見出しもカッコイイというかカッチョイイカッチョイイですね。割にちょっと時代の、この時代の空気感があふれる言葉の使い方をしてるんですけど。
おだしょー ここの中にアウトライナーを使うところが結構出てくるんですけど、やっぱりその使い方っていうのがあんまり昨今のアウトライナーについての言及の中では出てこない使い方なんですよね。
おだしょー まあ詳しくは記事を見ていただくといいんですけれども。あれごめんなさい、有料記事なのか。
山名 一応リンクを貼っておきましょう。
おだしょー いろいろあるんですけど、最大の僕が昔読んでいた衝撃だったのは、みっちり詳細なアウトラインを作った後で、それを膨らませて文章化するんじゃなくて、それを脇に置いて見ながらゼロから1から書き起こす。
おだしょー それがすごく何かの本質をついてる感じがするんですよね。詳細なアウトラインを作るんだけれども、アウトラインに縛られない。でもアウトラインを横目で見ながら書いてるっていう。
おだしょー この辺の塩梅っていうのがすごくリアルというか、本当に書くことに使ってるんだなっていう印象を当時受けまして、あんまりこういうこと言ってる人いないなと思ったんですよね。
おだしょー そうですね。
おだしょー それをものすごく影響を受けて発展、ある意味では発展させたのが、自分が書いちゃったのが、書くためのアウトラインプロセッシングと言っても過言ではないぐらいなんですけれども。
おだしょー なるほど。
おだしょー 何て言うんでしょうね。詳細なアウトラインを作ったら普通はそれをコピーして、それを膨らませて文章化していくと思うんですけど、そうじゃない。画面の脇に置いて見ながら書くっていう。
おだしょー それはなぜそうしているのかっていう、トーニーの説明とかはあったんですかね。
おだしょー 一応、書きながら思いついちゃうこともあるし、筆が運んでいってくれるようなところがあると。アウトラインを作ったことによって、それを抑えつけちゃうことはしたくないっていうことなんでしょうね。
おだしょー でも、あまりにも脱線することを避けるために、本当はどういうつもりだったのかっていうのが常に見られるようにアウトラインを脇に置いてあるっていうことだと思うんですけど、すごくそれはよくわかりますね。
おだしょー だからじゃあ、最初からアウトライン作らないで書けばいいんじゃないのと思われるかもしれないんですけど、たぶんそこで書かれている、新たに書き起こされた文章っていうのは、そのアウトラインがないと書かれなかった文章ですよね。
おだしょー でも、それは極めてリアルだと思いますね。
アウトラインの役割とホームポジション
おだしょー それはだから明らかに設計図じゃないわけですけど、設計図じゃないとしたら、メタパーとして当てる言葉があるとしたら何でしょうね。アウトラインの役割として。
おだしょー ロギング仕事術に出てきた用語を使わせていただければですね、ホームポジション。
おだしょー なるほど。
おだしょー 文章のホームポジションみたいな。
おだしょー なるほど。脱線しても一旦そこに帰ってくれば、本線に戻ってくれると。
おだしょー と言ってその本線通りに、最初にこう書くつもりだったことに縛られはしてないんだけれども、脱線しようと思えばできるんだけれども、ふと終わりに帰ってあれ、本当はどうだったんだっけっていうのを、すぐに確認できるためにアウトラインがあるっていうことなんでしょうね。
おだしょー それを紙のアウトラインじゃなくてアウトライナーでそれをやってるっていうところがすごいんですよね。
おだしょー まあそうですよね。普通に考えたらコピペしますけどね。でもまあおそらくですけど、例えばアウトライナーを使って文章、まあ僕がもう典型的におっしゃった方法になってるわけですから、アウトライン作って、でもそれは横目で見て書くっていうことをやってるわけですけど、多くの場合そこになんか落ち着いていく気がしますね。
おだしょー 多分苦し紛れにそうなっちゃってる人って結構実はいると思うんですけど、その時に、これじゃあもうアウトライナー使っても意味ないからやめようって思うと思うんですよね。
おだしょー でも多分決してそうではないんじゃないかと。
おだしょー そうですよね。Mac専用かな今のところ。でもストーンは使ってんねんけど、文章を書くときはストーンやけど、それを後で大きくまとめるときはなんかワードとかにコピペしてますって貼り付けてますって言ったって、まあそれがリアルやろうなと思ったんですよね。
おだしょー 結局、ツールに対する役割っていうのがあって、デジタルツールは非常に万能感があって何でもできてしまうけども、やっぱり実践したときに何かその能的な無理が出てくる。これは違うんだよなーっていうところが出てきて、それに対してアレンジメントをするという。
おだしょー だからやっぱりノウハウって理想に至る道じゃないんですよね、これは。なんとかするクリークの作みたいな感じなんですよね、ここは。
おだしょー なんかこう、どこで限界にというか、例えばあるノウハウを本で読んで実行してみたところで、どこがうまくいかなくなるかっていうのが人によって違うんですよね。
おだしょー それぞれがうまくいかなかったところを、なんとなく回避するような方法を作り出していくっていう。でも、その元のノウハウが無意味だったわけではないっていう。
おだしょー だから結局アウトラインの役割と一緒ですね、その場合でいうと。本筋は示すけど、いつでも脱線可能であるという。というか、脱線せざるを得ないというか、その人の特性があるとき脱線せざるを得ない。
おだしょー でもまあ、やっぱり脱線が悪いことでもないし、かといって本線を提示することが悪いことでもないという距離感。だからやっぱりホームポジションと言うかどうかは別にして、なんかそういう役割を担うものっていうのがありますね。理想像。
アウトラインとアレンジ性
おだしょー ある意味で理想像でしかないもの。現実にそのままならないけど、こうなったらいいよねと方向性を示してくれるものとしてのアウトラインとか、完成されたノウハウとかっていうのがあって。だからおそらくそのGDDのメソッドそのものも、たぶんアレンはその通り100%あの通り実行してるわけではおそらくないと思うんですけど。
おだしょー そういう理念とかイディアとしてのノウハウと、そうじゃないものとの付き合い方っていうかな。だから受け取るこっちが、あれはその理想でしかない。現実ではないっていう風に受け取って、それをアレンジしていくということを純粋に肯定するというか。
おだしょー そう思えれば、だから例えばアウトラインの捉え方とかもたぶん同時に変わってくるんじゃないですかね。きっと。
おだしょー そうでしょうね。
おだしょー 行為、思考と行為が変わってくるっていう感じかな。
おだしょー 少なくとも例えばGDDが書いてある通りにできないから、俺はダメだっていうのも違うし、GDDはダメだっていうのも違うし。
おだしょー そうじゃない第三のルートが、少なくとも現代日本ではあまり示されてない。どちらかの否定になってしまって終わっているっていうことが案外に多いですね。
おだしょー だから例えばGDDのこの辺がちょっと足りてないですよねっていう言説を出すと、あたかもGDDそのものがダメだという否定されているように捉えられてしまうことがあって、結局何が価値かゲームになってしまっている。
おだしょー そうじゃない第三の道っていうものに至れればいいかなという。理念としてGDDはこうやけど実践としてはこうなっちゃうよねっていうのは別にGDDを否定しているわけではないんですけど、でもそう聞こえてしまうところがあって。
おだしょー なんかその辺が変わっていけばいいし、でもライフワークって本来そういうアレンジ性だったと僕は思ってたんですけど。
おだしょー いやそうですね、アレンジ性そのもののことですよね多分。
おだしょー どっかから理念主義的になっていって、そうなると宗教戦争になっていくみたいな感じなんですが。
おだしょー その意味ではロギング信号統従図に書かれたような方法。結構最初からアレンジ性未知でいる感じですね。
おだしょー 根源たるライフワークという感じは僕は認識としては持ってますけど、あれが本当にカスタマイズしてくださいという。
おだしょー でもやっぱりノウハウ者はこういうこと言わないなと思うんですよ。個人に合わせて作り変えてくださいっていうことってあんまり言わない。
おだしょー この方法であなたは成功しますという。そういうメッセージを受けるにしても、そうやって結局その呼んでる人を画一的な存在として認識しているということですから、
AさんもBさんもCさんも変わりませんよねって言ってるっていうことですから僕がすると。
少なくともその点に関してはちょっと反逆したいなという思いはあって、ああいう本を書いてるわけですけども。
おだしょー アレンジ可能性。全てのクリエイティブはアレンジだとも多分言えるんで、だからアレンジ可能性ってことはクリエイティビティってことなんですけど、
そういうことに人を導くというか引っ張り込もうとしますね。だから僕の著作は全体的に。
おだしょー よくも悪くも個人的でアレっていうことを言ってるっていう感じなんですけど。
おだしょー いやでもまあ大事なことですよそれは。
おだしょー 大事なことだとは思ってますけどね。でもまあ求めてない人もいるんやろうなと思いますけどねおそらくは。
アレンジ性とライフワーク
おだしょー そうですね。
おだしょー まあそんなのかな。
おだしょー だいぶ書き方の詳細に終わっちゃいましたね。
おだしょー 2人の最近のどんなログを残してるかっていう話が。
おだしょー まあそれは次回に。
おだしょー しませんでしたね。
おだしょー 次回に行こうということで。
おだしょー まだハッシュタグで質問とかも来てないんで、もし来たらそれに合わせて2人のログ事情とかもできたらいいかなというところですかね。
おだしょー 前回お知らせしましたが、11月17日かなに次の本が出ます。
おだしょー ちゃんとリンクを貼っておこう。前回リンクを貼らなかったので。
おだしょー タイトルも一応仮ですけど決まっておりまして。
思考を耕すノートの作り方ということで結構デカめのタイトルを捨てておりますが、個人的には面白いノートの本になっていると思います。
おだしょー 全然具体的なノートの話出てこないじゃないかという批評を受けたので、じゃあもうそれだけで一冊書こうじゃないかということで、だいぶマニアックなノートの話をしておりますね。
おだしょー たくさん何か連絡ございますでしょうかね。
おだしょー 特にはありません。大丈夫です。
おだしょー さっき言った昔のMac本とかを見たければ、たくさんのノートの連載マガジンを読んでいただければ、おそらくたくさんが紹介しない限り知ることはなかったという本がたくさん紹介されておるので、よければチェックしてみてください。
おだしょー 昔の本が古いとか、こういう分野に関しては古いとは限らないというのがちょっと。
おだしょー 面白いですね。
おだしょー 印象を持っておりますので。
おだしょー というわけで今回はこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
おだしょー お疲れ様でした。