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うちあわせCast第百五十一回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
結構連続してるんで、あんまり飛び木のニュースはないのでございますが、新機能が続々と追加されているEvernoteで、タスク周りの機能が使いやすくなったということで、UIが変わったという感じなんですけど、使ってない人にはどうでもいい話ですが、
タスクっていうサイドバーにメニューが出て、それを押すとタスクの一覧とそのタスクが所属しているノートと、割り当てられている人の名前とか、期限とかっていうのが表示されるようになっております。
それぞれの属性で順番を並べ、相当順を変えることとかもできますし、そのタスクの画面から新しいタスクを追加することもできるようになったということで、
どんどん農場に迫るぐらいに多機能化しているっていうのと、あと開発してる人のツイートをちらっと見かけたんですが、ピン機能、ノートの相当順の中で基本的に順番を自由に入れ替えることはできないのだが、特定のノートをその相当順の一番上に固定するっていう機能がどうやら実装されるということらしく、
これまた小さいツボを押すようないい機能だなと個人的には思います。
ちなみに僕はその機能がなかったために、リマインダーという機能を使って、今の日付よりも未来の日付のリマインダーを指定しておくことで最上位に上位させるみたいな細かいハックをしてましたが、そういうのもなくなるということで。
どうなんですかね。ノートエディターって一番これ使いたいっていうのを上に置いておけるっていうのは、結構必須とまでは言わないですけど、あったら嬉しいなあの機能だと思うんですけどね。
かなり必須に近いんじゃないですかね。
アップノートはそれが標準でできますし、スクラップボックスも相当の順番とは別のピン機能というのがあって、これがあるだけで結構使い勝手が違うんで、ますます使いやすくなるかなというところです。
あとあれですよね、タスクにノートが充足してるよりもノートにタスクが充足してるほうが、この数回の話でもありましたけど、ずいぶんいいんじゃないかなという気はします。
そうですね。一応タスク、これまではなかったけど、タスクの設定にディスクリプション、説明を書く欄もウェーターみたいなことが書いてあったんで、より機能的に使えるんじゃないかなと。
今のところエヴァのノートはカレンダーとタスクとリマインダーが使えるノートツールということで、もろもろたくさんでございますが、そういう機能をすごくたくさん使って、今ハッピーという声はあんまり聞いてないんですが、これからなのかもしれません。
あと細かい話なんですけども、アンチネットツェッテルカステンの解釈というのかな、方法論が紹介されてました。僕が見つけてリンクを貼っておくんですけど、アンチネットというのがちょっと面白いなと思ったんですね。
アンチネットというのは、ANTIの頭文字を取ってアンチということと、ネットワークに対するアンチテーゼという意味の2つのダブルミニングになっているんですけども、頭文字の方から言うと、Aはアナログなんですね。物理的な、マテリアルな素材を使って行うこと。つまりアナログのカードを使おうということがまずA。
ナメリックアルファというのがNで、要するに番号を触れということですね。これもツェッテルカステンの基本的なスタンスで。
ツェッテルカステンのナンバーって分岐ができるようになってるんで、例えばAの1のBの3みたいな感じでカードの番号を書いたりするんですけど、著者が言うにはこれは一見階層構造に見えるけどそうではないのだと。
あくまで番地を割り振っているに過ぎないと。だから僕らの日本の住所みたいな感じですね。京都フニャララフニャララっていう。一応階層構造と取ることもできますけど、単一のアドレスを割り振っているだけだというふうに理解すればよろしかろうと。
一応TがツリーでIがインデックスなんですけど、インデックスはこれもまたツェッテルカステンがよくやってることなんで飛ばすんですけど、このTのツリーを取り上げてるのがこの人は偉いなと思うんですが、このアンチネットっていうツェッテルカステンのメソッドを紹介した人に言わせると、流動的なシステムを構築するべきではないと。
ということを述べられてるんですね。ルーマンは会話相手として、もう一人の分身としてカードシステムを使っていたと。そういう分身って動的で流動的なシステムだろうかと問いかけるわけですね。
これは最近、セカンドブレイン的な流流れで言うと、脳はネットワーク構造だからという話をするわけですね。でも、著者はそうではないと。
例えば、私たちが会話する相手というのは、リニアな物事を喋るわけですね。ある大きなトピックを元に議論を展開していくっていうことをする主体っていうのは、議論のツリー構造を持っているのだと。そこには地の秩序があるのだと。
だから、カードシステムっていうものを自分の会話相手として考える場合には、ちゃんとツリー構造を作ろうということを述べておりまして。このTの部分が、最近のデジタルテーテルカステムとの大きな違いというか。
意識されてないですけど、これはデジタルテーテルカステムのコアの部分であると思うんですけど。ツリーを作っていこう。ツリー上に議論とか情報の構造を作っていこうというところにこの精神があると。
もう一個Aアナログっていうところがどれぐらい本当らしいのかはわからないですが、物理的なものが持つ力というのは確かにあるだろうなということで。そう考えるとデジタルテーテルカステムは、もしかしたらテーテルカステムとは違うものなのかもしれないというのを読んでて思いました。
ちょっとこれ元をちゃんと見てないのでわからないんですが、これあれなんですかね。この人は、ツリーというのは老的で流動的なシステムに反するものだと考えてるってことですか。
言い訳ではないですね。僕は箱書ってメモしたんですけど、2つ対極的なものをまず見据えてまして、いわゆるデジタル的なものは動的で流動的、かつ定まった形がないものだと。逆に図書館とかの図書分類実行みたいなやつ、あれは固定的なシステムだと。
その間にあるものだと言ってあるんですね、彼は。
間にあるのが?
テーテルカステムのメソッドが目指していたものであろうということを述べられてる。
図書館の分類法っていうのは、客観的な分類なわけですね。誰でも使えるっていう。僕の言い方すると強い分類ということになるわけですけど。
その構築性があるのはいいけど、問題を指摘するのはいいけど、だからって、何のネットワークに配置したらいいかっていうとそうではない。むしろルーマンはルーマンにしかわからない秩序の構造をそこに作っていただろうと。
つまり、詩的な構造があっただろう。それは客観的に使える、決して変えてはいけないツリー構造じゃなくて、そのときそのときにルーマンが欲していた構造を作っていたんだろうというようなことで、中間的な見方をしているというところが一つポイントかもしれないですね。
これは僕は動的で流動的なツリーということなんじゃないですか。
そういう表現もできるでしょうし、ツリーという機構造というものが変化できないという定義を含んでいるんであれば、そうではないと思うでしょうし。
だから、ツリー構造、機構造っていうのはどう定義するかによりますけど、柔らかい機構造という新しい概念としてできるでしょうけど。
とりあえずカードだからツリーじゃないほうがいいみたいな、一つのトレンドに対してアンチを投げかけてるというのがこのポジションですね。
そう考えるとすごく納得感ありますね。
非常にこれは組み取っているなという感じで、多分Amazonのドットコムのほうでアンチネットセッテルカスティングを検索したら本が見つかるんですけど、Kindle版が出てないので、日本ではちょっと入手できないので読めてないんですけど、英語で書かれているらしいので、もし現状が読めたらいいなと思うんですけど。
僕がよくネットで見かけるセッテルカスティング解説に関する違和感をきれいに解消してくれるコンテンツにもなってますし、ウェブページでもまとめられるのでどっちでも読めるんですけども、
一回このカードに興味がある方はそれを読んでいただくと、ああそういうことかと納得されるんではないかなと思います。
ツリーとネットワークの対比でよく物事が見られるけれども、その中間に流動的なツリーがあるんじゃないかという。
そうですね。
だからその動的で流動的なシステムでないって言われちゃうとちょっと違うような気がするんですけど、要するに動的で流動的なツリーなんだと考えれば非常に納得感がある。
まあこれもともと読んでないですけど。
多めにそういう理解でいいと思います。
そういう形で、知能構造を恣意的につくっていく試みをしようという訴えかけで、これは非常にまっとうかなというところで。
最近のあれの中では読んでて面白かったタグイのキッチンでした。
アウトライナーを使った文脈編集
その話と結構つながると思うんですが、タイトルの文脈エディターとしてのアウトライナーって話で。
これも結構話がいろいろあちゃこちゃ飛ぶんですけども。
起点は野良鉄ハウスというブログに書かれていた文脈エディターとしてのアウトライナーという記事があって。
自分の使い方をアウトライナーを仮に名前をつけるとしたら文脈エディターだなという記事がありまして。
そこは記事が書かれていて、僕もそれなりに解釈した記事をまた別に表されて書いたんですけども。
ググったわ。ツイートを検索してみたところ、見たことを僕とタクさんが言及してたんですね。
アウトライナーって何て読んだらいいですか。これって何してるんですかねみたいな話をしたときに、
文脈っていうのが要素ってありますよねって話をしてたのを発掘したんですけど。
そのとき僕は、文脈を作ってはいないよねみたいなことをつぶやいてたんですね。
そのときは。
野良鉄さんの記事を読んだ後のRサイの記事は、これ文脈を作ってると言ってて。
コロッと変わってるように見えるんですけど、あんまりそうではないなという話を今回はしたいんですが。
どうですかね。タクさん、アウトライナーマスターのタクさんから見ただけの文脈エディターという解釈はどうでしょうかね。
非常に良い解釈。
良いというか、アウトライナーは何をエディットしているのかっていうことの答えになり得るものの一つだと思いますね。
そうですね。まさにこれだなというような感じが。
かなり昔のときは思わなかったんですけど、僕も記事を読んでて。
何が原因だったのかなっていうのをいろいろ思い出して。
このときの一連のツイートを見つけたんですけど、
僕の記憶の中では、倉下さんが文脈エディターって言ってた気がしたんですけど。
僕はその文脈エディターって言っても、その文脈を直接操作してないなということで、
WiZとかそういうのを言えて、ちょっとごまかしたというか。
ちょっとはっきり覚えてないけど、後で探しますが。
文脈そのものは操作してないよねということで、
文脈の上でとか、ONとかFORとか、そういうような前置詞をつけて表現するぐらいのことかなということで。
その時点の僕と現時点の僕で、文脈ってことの概念の理解が多分変わっているということだと思うんですけど。
記事を読んで、僕はRサイの記事を書きながらずっと考えてたんですよ。
文脈エディターってなぜ言えるのかみたいなことを、自分自身に説得するために書いてたんですけど。
特にその順番を入れ替えることっていうことが、文脈を作るというのは非常にわかりやすい話で。
で、一番わかりやすいのは、例えば、ア、イ、ウ、エ、オのレベルで開業をしていくと。
で、それを入れ替えて、文っていうものを生成すると。
で、その順番の入れ方がうまくいかないと、文っていうものが成り立たないわけですね。
それは意味が生成されないということなんですけど。
例えば文脈がないということなんですね。
綺麗な順番、ある日本語の文法の範囲内に沿った並び方をすると意味が生成すると。
で、これは文レベル、今のは単語からの文のレベルですけど、文から段落とか文章のレベルでも結局同じことが言えるんですね。
で、そういうつながりの中で意味とかメッセージとか表現みたいなのが生まれてくる。
で、アウトライナーはその要素を一列に並べて入れ替えることで、その並び方を変えたことで結果的に表現される、表出される文脈そのものを変えていくと。
で、僕の昔の理解では、そもそも文脈ってのはダイレクトに作れるものではないとずっと思ってたわけですね。
で、実際文脈ってのはダイレクトに作れないんですよ。
文脈エディターと項目の開閉
で、そこで思考を止めてたわけですけど、じゃあその文脈Aから文脈Bに変化するにはどうしたらいいかというと、並び方を変えるしかないんですね基本的には。
並び方を変えることが文脈を変えることだというそこの理解をどこかの時点で得て、その記事を読んだときにハッとしたと。
で、入れ替えることだけじゃなくて、その項目の開閉もアウトライナーの機能にあるなとは思ってたんで。
僕、記事書く前は、この開閉の項目はあくまで見方の問題やから、文脈には関係ないっていうことを書こうとしてたんですけど、記事を書いてるうちにそうじゃないかと思い立ったんですね。
で、下の項目を閉じると、例えば一段目にABCDという項目があって、ABCの中にそれぞれ本文みたいなのがあると。
で、開いてる時は開いた中で文章っていうのが展開されるけど、それを閉じるとAの項目の次にBの項目が表示されるようになる。
つまりこれは並びが変わっていると。
並びが変わる、つまり、項目の開閉は単に表示を変えてるだけじゃなくて、それを使ってる人の目に入る情報の並び方そのものが変わっている。
だから受け取るときの文脈が変わると。
僕らが階層を上がるというような表現をしてますが、結局並んでる情報の並びが変わるっていうことだな、基本的には。
はい、そういうことです。
だからどのレベルも、本文レベルでも階層レベルでも基本的に見える並びが変わっていると。
で、これがつまり文脈が変わることだというふうに統合的に初めて理解できて、これはそういうことなんだなと。
それを書きながら、僕は結構前にたくさんにアウトライナーって何ですかねって話をしたときに、そのときはリニアにするツールだとおっしゃられたんですね。
はい。
で、結局リニアにするツールっていうのは並びを作るツールと言い換えられると思うんですよ。
はい、その通りです。
並びを作り、並びを入れ替え、また並びを作るっていう、並びを操作するツールだと言うならば、これは結局文脈エディターっていうことと、コインの裏側の説明になっているし、非常に整合的だなと思って、自分でちょっと感想をしてたんですよ。
はいはいはい。その通りだと思いますね。
これを僕の中で大きな再確認を含めた、大きな統合がここで行われたのかなという感じがしてました。
そうですね。だから、階層を上がるってよく言っている。その階層って何かっていうと、文脈の階層なんですよ。
そうですね、たしかに。
細かいレベルの、目の前に見えている現レベルの階層で入れ替えるっていうこともできるし、その上の階層の文脈で見てまた入れ替えることもできる。そういうフラクタル構造になってるんですけれども。
単に文脈を切り替えて見られるだけではなく、まさに文脈をエディットしている。
だからその文章をエディットするだけじゃないんですよね。その文章もエディットできるし、その上の構成レベル、見出しレベルの構成もエディットできるし、そのさらに上の、要するにそのワークフローが一番わかりやすいんですけど、
ファイルのアウトライン、1ファイルのアウトラインだけ考えていると、たぶん一番上の階層はタイトルになっちゃうんですよ。その上はなくなっちゃうんですよね。
だけど、ワークフローAみたいに無限に上下に階層が繋がっているという、そういう概念の非常に純粋なアウトラインがあると、そのタイトルの上にも当然階層があるということがわかってくるんですよね。
この私の書いた本という意味の階層があるかもしれない。その上には私たちが書いた本があって、人類が書いた本があって。
だからいくらでも上に上がっていくことができる。その文脈を切り替えて、その切り替えた文脈の中でエディットができるっていうのが、文脈エディターといえるゆえになるんじゃないかと。
野良鉄さんが言ってたのと重なってるところもあるし、ちょっと違うところもあるかもしれないですけど。
リニアにするっていう話もあったし、よく項目を位置づけるっていう言い方をしてたんですけど。
これを何に位置づけるのかっていう。なかなか言葉にできないんですけど、これを文脈に位置づけるっていう。
文脈に位置づけて、文脈の成分にするみたいな、そういう感じですね。
だから上の文脈から下の文脈に落としてくることもできれば、下の文脈にあるものを上の文脈に位置づけ直すことによって、ガラッと意味が変わっちゃったりするということもあるし。
文脈という語を、それこそアウトライナーという文脈という語を使うというのは非常にひっくりくるというか、
コンテキストエディターとしてのアウトライナー
なんで今までそれを思いつかなかったんだろうっていうレベルで、ひっくりくるなと、野良鉄さんのあれを読んだときは思いました。
それ以前の状態では、文脈っていうのは文章の流れだけっていう非常に狭い、
あるいは逆に言うと辞書的、言葉どおりの文の脈みたいなことしか考えてなかったけど、
でも例えば、小レベルが並んでることも、第一章のタイトルと第二章のタイトルと第三章のタイトルが並んでるだけで、
文脈っていうのは生まれてくるんだというようなことを、どっかで直感して、より大きく捉えることができた。
コンテキストってことなんですけどね。
コンテキスト。コンテキストなんですよね。
カタカナのコンテキストと文脈って、なんとなくニュアンスが違って聞こえたりもしますけど。
でもコンテキストなんですよね。
テキストエディターじゃなくてコンテキストエディターといえば、非常に成語性があるというか、名前的にまとまりはあるんですが。
日本語で言うと文脈エディターと読んだほうが、よりしっくりくるかなという気はしますけどね。
まあそうですね。日本語の一般的な感覚だと文脈が一番。そうですね。
より身近な人は流れエディターなんですけど、流れっていうと、流れ全体が何か一つメッセージを持ってるという感じが薄れてくるんで、
あくまで並びを制御してるだけという感じですけど、
文脈って言うと、並びとともに並びが生み出す何かっていうことも含むので、ちょっと意味の法定さが違いますね。
あんたがそこでディスコースとか言ってみたくなっちゃったりするわけなんですけど、
でも意味としてはそういうリニアに並んで何が作られるのかっていうと、
嘘を言っちゃってもいいのかもしれないんですけど。
そうですね。
でもやっぱり文脈……
ディスコースはそもそももう通じないという感じですけどね。
どこか思想的に言い続けるとしたらそういう感じにはなるんでしょうけどね。
思考のエンジンに非常に対応する。時代背景もあって対応されるんですよね。
でもそのディスコースっていう感覚が、思想的な意味は別として、長いことを二、三十年分からなかった。感覚的に分からなくて。
それがその前に、だからアウトライナー何するのかっていうと、ネットワーク上のものをリニアにするツールだといったときにそのリニアにされて出来上がるものは何か。
それをディスコースだと考えればいいんだなって思ったんですよね。
そうですね。だからディスコースはそのリニアにする仕方を規定するものであり、並べられたものから生み出るものであるという感じがあって。
リニアにした結果出来上がるものですね。
結局その文脈と応する表現になりますね。そこはやっぱり。やっぱり流れやとちょっと弱いかな。
フローとかいろんなことが10年間経ったりしたんですけど。
流れそのものをいじりました。あるいはリニアにしました。間違いなくそうなんですけど。
で、結局そのリニアにした結果何なんだっていうことが、やっぱり捕まえきれないところがあったんですけど。
いやいや、これはリニアにすることで文脈が出るんだと。
変な話で言うと、タスクリストっていうのは1日の文脈を作るものを操作するんですね。
ダラクトを表現すればすべてのものが統合されるわけですよ、ここは。
素晴らしいですね。素晴らしい。
だからこれは見事な概念の発見だなということで。
しかも一回僕らがかすってさらすように捕まえられてなかったというところが。
いやでも面白いですね。同じ概念なのに他者発からさらされることで、
むしろ新しい発見につながるというところが面白いんですよね。
そうですね。たぶん野田達さんは以前ここで文脈エディターの話をしたときは、
たぶんおそらくそれは聞いてなくて、独自に文脈エディターっていう表現を思いつかれたんだと思うんで。
やっぱりなんかあるんですよね。
僕は野田達さんのアウトライナー理解に関しては非常にリスペクトがあるので。
やっぱりそういう結果的に同じ言葉が出てくるんだなというふうにも思いましたし。
そうですね。やっぱり、例えばさっきの話で言うと、
リスコースって言っちゃいたくなるみたいなのが、僕らサイトにはあるんじゃないですか。
だからそこは我慢する。
やっぱり第一発想として、たぶん文脈はあんまり選ばれない気がしますね。
僕らの発想傾向で、特に僕はカタカナをチョイスしたくなる傾向が強いので。
本院の読みすぎかもしれない。
そうかもしれないです。
なんか文脈っていう言葉はファーストステージには上がってこない感じがしますね。
でも当てはめてみると、やっぱり文脈が一番しっくりくるなというところが面白いところですね。
でも我々はGTDで散々コンテキストっていう言葉を使ってきたわけですよね。
僕は脱GTD的に、コンテキストリスト作らないでいこうという方向にも行ってたんで。
だから僕、ここの数年はあんまりそういうカテゴリーでのコンテキストっていう言葉をあんまり使ってなかったですけど、
最近飛行のエンジンをひたすら読んでるので、
どうしてもディスコードとか文脈とかコンテキストっていう言葉を大量に摂取してるんで。
その辺で僕の中である概念装置が変化していったところはあるでしょうね、きっと。
ああ、そういうのありますよね。
でもGTDのコンテキストも結局、初期のアレンさんの本で示されたコンテキストの例にみんな引っ張られちゃっているけれども、
逆に文脈だと思うと、もう一回命を吹き込めるようなところはあるかもしれないですね。
たぶんプロジェクトっていうのは文脈ですもんね、一つの。
このあるスタートから終わりまでの文脈っていうことですね。
だから、電話をかけてるときとか会社にいるときとか家にいるときっていうのがコンテキストだと、
もう本で習っちゃったからそう、GTDの語る上ではそう思ってますけど。
一日の中の文脈が何があり得るかって考えると、もしかしたらもう一回使えるコンテキストが思いつけるかもしれないですね。
そうですね、やっぱりカタカナのコンテキストはやっぱりちょっと特殊な感じがしますし、
やっぱり文脈っていう日本語特有の何かがあるんかな。
そもそもテキストという言葉との親近感って低いですからね、日本人は。
文の脈。文の脈絡。
脈絡っていうことなんですね。脈絡ということなんですけど、
文がつくことによって何か変相が起こるというか、不思議な感じですね。
そうですね。文脈って改めてちゃんとどういう意味なのかって調べたことがないですけど。
あ、文の脈絡って書いてありますね。
Aという文があって、Bという文があって、Cという文があって、
その流れを定義しているものと、その流れを読んで、
頭の人がそれを解釈するときの補助になるものというような感じで、
テキストの読解を補助するものなんですけど、文脈というのは。
例えば、そういう文脈でいえばっていうことを日本語ではよく言うわけですけども。
これはさっきの辞書的なものとはちょっと違うニファンスで、
ある繋がり、空間的・時間的関係性の中においてというような感じですね。連続性化。
これ辞書で今見ると、まず文における個々の語、または個々の文の間の論理的な関係、続き具合、文の脈絡、コンテクスト。
っていうのが一つあって、もう一個が筋道脈絡。
または事柄の背景や周辺の状況。
めちゃくちゃ意味広い。
だから今の広い方の意味ですよね。
そうだよね、間違いなく。
でも、これを今見たときに、アウトライナーで普段が使うものはほぼこの言葉に作られるんだなと思いましたね。
やっぱそういうことなんですよね。
だから、ある種の一般的な買い物リストっていうのも、買い物っていうコンテクストにおけるところに、
ある日の買い物におけるコンテクストっていうのを想定して、
アウトライナーと情報編集
そこに必要なものを書いていくという行為をしているわけですから。
それをより広い範囲で行うと、アウトライナーでやっているような情報整理みたいなことに繋がっていく。
だから、松岡誠吾さんではありませんが、僕らはもう日常的にコンテクストを編集しているわけですね、要するに。
ありとあらゆる力でコンセプトの編集が起きてて、それを補助するためのツールとしてのアウトライナーみたいなツール等々がある。
だから、よく自己啓発の文脈で出てくる。
あ、また文脈って言っちゃった。
啓発の話で出てくる、今ここに集中するみたいなね。
今ここって何かって言ったら、今自分が何の文脈にいるのか確認せよっていうことじゃないですか。
あーなるほどね。
そうか。
だから、文脈っていうのは非常に広いですよね。
そうですね。
で、情報は一人ではいられないという言い方がありますけど、基本的にはある流れ、塊の中で存在するものですから、
コンテキストを持たない情報というのは多分あり得ないと言えるんじゃないかな。
日常で運用される情報において、コンテキストレスっていうことは、たぶんないんじゃないですかね。
もしくはでも、例えばそれこそさっきの例で、
あの図書館の昔のカード、分類の昔あったカードが、カードボックスみたいなのあるじゃないですか、引き出しにカードがいっぱい入ってる。
あれは、そういう意味ではコンテキストレス、IEO順だったりジャンル別になってはいますけど、
あれはあくまでも分類上の都合でそういうふうに置かれている。
そこに借りる人が、それを使う人がコンテキストを見出すわけですよね。
たぶんその本を選んで借りて。
だから、図書館に入ってる本をストアされている情報はコンテキストレスと言えるのか。
それとも図書館というコンテキストと言われているのか。
コンテキストがあるし、時系列というのもコンテキストじゃないですか。
それはコンテキストの切り方によってたぶん違うんですよ。
そういうコンテキストってことですね。
そういうコンテキストがあるということだと思いますね。
だからまったくランダムに箱に収められているとかでない限りは、
ある意志というか意図を持って並べられる限り、その意図が結局コンテキストを生成すると言えると思いますし、
我々の日常生活は基本的に秩序化されているものなので、
基本的にはコンテキストの中にしか情報がないぐらいの勢いで言えるでしょうね。
今ちょっと哲学的なところに行きそうになっておくと。
例えば、アンチネットテテロカスティンで、さっきAはアナログだというような話をしましたけど、
アナログのものを、例えばアナログのカードを会場に書くじゃないですか。
こうしゃあなあかんかって言うと、直さない、しまうはどういう関西弁や。
しまうは通じます?直すが通じない?どっちやろ。
収納するという意味の関西弁はどっちやろ。しまうは関西弁か。直すが関西弁か。直すのほうが関西弁か。
直すのほうが関西弁かもしれない。
カードをどっかにしまう必要があるわけですね。物理的なものってそこにわーって散らばしているわけなんで。
カードの箱に自分が並べる時点で、もう絶対にそこにはコンテキストが生まれるわけですね。
そうですね。
例えば、この箱にこれは入れるし、この箱はこれには入れないみたいな選別が行われてるんで、
それはもうコンテキストを持ってしまうと。
で、それは自分の判断というコンテキストを絶対に生成させると。
デジタルの場合は基本的に日付順で並んでしまうんで、日付っていう時系列っていうコンテキストを持ちますけど、
僕の研究テーマっていうもののコンテキストとはあんまり関係ない並びになってしまうし、そうした方が楽ということはあるんですけど、
アナログにして物を扱うと、箱に入れるという動作があって、その箱に入れるという動作がコンテキストをより強く発生させるという点では、
もしかしたらアナログの強さっていうのがあるのかもしれないですね。
それを意識させるっていうこともあるでしょうし。
あるでしょうね。
例えば、ルーマンのカードボックスの写真を見たことがあるんですけど、
3×3とか3×5とか引き出しですね、一つの棚に9から12ぐらいの引き出しがついてて、
アナログ的な操作と文脈変化
そこにカードが入ってるわけですね。
僕が見たときはそのケースに見出しのシールみたいのは貼ってなかったですけど、
もしかしたらルーマンが実際行ってたときは貼ってたかもしれないですけど、
これってね、面白いなと思ったんですけど、
例えばあるカードが、ある組織運営についてのカードだったとするじゃないですか。
組織運営についてのカードってそのカードには書かないんですね、結局。
つまりタグをカードに書かないんですね、そういう場合は。
どうやって識別するかっていうと、どこの棚に入ってるかなんですね。
例えば組織論みたいなところに入ってたカードと、それとつながる一連のスレッドのカードがあるとして、
ルーマンの気が変わったら横の棚に入れ替えるだけでいいんですよね。
そうすると文脈が変わるんですね、そのカードが。
これはもちろん、アナログ、デジタルツールの場合はAVANOTEというとノートブックの移動がそれを出すわけですけど、
あれって結局そのノートが持っているメタ情報のうちの一つのノートブック、所属するノートブックが書き換わるわけですよ。
だからメタ情報が内側にあるんですね。
でもアナログの場合って入れてる箱っていうそのアウターがコンテキストを訂正するんですね。
だからそこの違いは結構僕は大きいなと想像しながら思ってました。
デジタルツールの場合、例えばノートにメタ情報が全部付加されてるわけじゃないですか。
でもアナログの場合、今の話そういうことですよね、要するに位置とか。
置かれている、保存されている箱そのものとか、場所を変えることでそのコンテキストのものが動いてしまうという、
外側による操作が可能というか、操作せざるを得ないという。
だからアナログツールの場合、一個一個カードにタグみたいなシールを貼る必要はなくて、
これについてはこの場所みたいなこと、場所によって規定できてしまうという。
それが操作性の高さとか、あるいはその柔らかさかな、きっと。柔らかさの大きさかな。
なんかちょっと関連するもので、完全にそれと同じじゃなくても、一緒に置いておくことで不安とした文脈が結構形成できるっていうところが多分違いじゃないかなっていうのをちょっと思いましたね。
そうですよね。だから共通のタグを付けるほどじゃないけど、もしかしてこれ関係あるかもしれないけど入れとこうみたいな。
置いておくだけで確かにそこには文脈が生まれるというところは、デジタル感覚にはないもの。やっぱりデジタルはもっと厳密に求めてくるところがあるので。
カードそのものじゃないものによって、箱というものによってコンテキストが作れているというところで、これ結局アウトライナーでも似たようなことですよね。
上の構造が、上の項目がその下位項目の文脈を規定しているわけですから、ちょっと入れ替えたら文脈って変わってしまうわけですよね。
結構面白いなと思うんですけど、例えば書籍Aっていうものがあって、書籍Bっていうものがあって、それぞれ大項目があるとするんですか。
例えば一般的には、例えば書籍Aの項目の下に第一章っていう項目を作るじゃないですか。
アウトライナーを使っている時って普通、書籍A第一章って書かないと思うんですよ、項目には。第一章って多分書くと思うんですよ。
で、それは例えばその第一章の項目をBの方に移動させたら、もうそれはBの一章になるわけですよね。
こういうふうに、例えばスクラップボックスはこういうやり方じゃなくて、むしろ書籍A第一章ってタイトルにつけるべきだと思うんです、それはね。
それは箱の外側っていうのを持ってないからね、基本的には。カードそのものが規定する。
でもアウトライナーは外側があるから、一見ありえないようなコンディションの移動が、そういう操作が可能っていうところが多分違いですね、これは。
だからこそ、階階層と上位階層を入れ替えるみたいなことができちゃうわけですよね。
同じ階層同士で入れ替えるだけじゃなく、例えばAという項目の下にAAという項目を階に作ったとしますと。
だけどアウトライナー上では、それはクイッとマウスで移動して、AAをAの上に持ってっちゃうことができるわけですね。
で、それが論理的に意味を持つか持たないかは関係なく動かしちゃうことができる。
できますね。
普通のデジタルツールで、例えばそれこそメタ情報として、このAAというのはAに従属するものだという情報を付加してしまったら、
もうそのAAをAの上に持っていくということはできない。大幅な書き換えが必要になる。
大幅な書き換えが必要ですね、それは。
だけどアウトライナー上ではちょっとした気まぐれ的にそういうことができてしまうと。
だから上位と下位を入れ替えるっていうことができるのは非常にアウトライナーの特徴なんですけど。
それは棚を変えるというのに近いアナログ的な操作なんですよね。
箱によって文脈が固定されるからこそ、置き場所を変えることで、箱そのものを変えることで文脈ががらりと変わり得るという、
固定性よりも変化性、流動性っていう側面が強く出る感じのツールですよね、そういう意味では。
だからこそさっきツリーと流動性が対立するように見えちゃうとちょっと違うのかなと思ったんですけど、
たぶんそういう意味じゃなかったんだと思うんですけど。
ツリー構造というものが、この界隈で使われるツリー構造というのは基本的には普遍なものであるという前提なので、
新しい概念として柔らかい木っていう言い方、柔らかいか弱いか変化し得るかキャッチーなものを選べばいいんですけども、
書き換え得るツリーというもので捉えて、そういうことが可能なツールというのはやっぱり他のツールで似たようなことができるとしてもやっぱり根本的な部分で違うというところは言えるでしょうね。
いやー、結構だから、アウトライナーって何ぞやっていうところにギュッと迫られた新定義みたいだなというのが、記事の感想でしたね。
3年ぐらい前に文脈エディターって言ってたけど、たぶん全然わかってなかったですよね。
わかってなかったです。そもそも文脈という言葉はわかってなかったですよね、そのときは。
いや僕もわかってなかったですね、全然。
アウトライナーのリズムと関連
理解が深まってよろしかろうという話と。
あとちょっと関連するんですが、千葉雅也さんの新刊の「戦争の哲学」という本が最近出まして。
勉強の哲学、現代思想に続く三大批判書の最後に位置するという本で。
勉強の哲学はすげーなーっていうことを思ったんですね。
でもそのすげーなーは、頑張ったらギリ届くぐらいのすげーなーやったんですけど。
戦争の哲学はこれ、どう頑張っても自分には届かないなーっていう感じのすげーなーやったんですけど。
戦争というのは捉え所のないものをどう捉えるかというところで、戦争はリズムであると大胆に言ってあるわけですね。
戦争ってのはリズムであると。
リズムっていうのは何かっていうと、並べることだと。
これもまたざっくりおっしゃってるわけですけど。
これも並べることって言うと、さっきの話にものすごく直結するなーという。
例えばアウトライナーとかリスト作りとかで何かを並べることそのものが、あるセンスに裏打ちされているものだと言われれば、
そりゃもうそうですよね、確か。言いようがない感じはしますね、あれは。
おとといぐらいに読み終わったんですけど、
さっき文脈エディターっていう言葉で、アウトライナーは何をエディットしているのかっていうのがもう一段わかった気がするっていう話をさっきなったんですけど、
センスの哲学を読んでると、アウトライナーで何をしようとしていたのかがわかったと言うとちょっと語弊がありますけど、
この本の要所要所で、自分が言葉にうまくできてなかったけれども、やりたい、できるかどうかは別として、
アウトライナーの上でやろうとして、例えば何か文章のアウトラインを編集するときに、何をやろうとしていたのかがちょっとわかった気がしたという感覚を要所要所で感じましたね。
リズム作りと文脈の操作
リズムを作るには、並べることからリズム作りが始まるので、まず並べなければならないんですけど、並べた後でそのリズムを作ると。
リズムを作るという言いようがない。僕は文章を音楽的に結構捉えるんで、リズムを作るという言い方でまさに確かなんですけど。
不思議なんですけど、例えば本の企画を考えるじゃないですか。
で、承諾を立てるじゃないですか。
その承諾を立ててるとき、人は何をしてるのかっていうのと、どんな知的操作によってその項目と並びが生まれてるのかっていうのは、論理的には説明できないと思うんですよ。
そうなんですよ。論理の構造と見出しの並べ方って違うじゃないですか。
違いますね。
何を基準に並べよう。
どっちの方がいいと思ったり、どっちの方じゃないと思ったりしてるのかっていうのは、あるんだけどわかんないんですよね。
わかんないですね、基本的には。
それが、そういうことが関係あるのか。
だから結局そのある種の感覚イコールセンスに裏打ちされたもので、それぞれの人のいわゆる経験から生成された何かによって、ある種の判断が行われてるということだと思いますし。
提出するものあるいは期待されてる効果っていうのが標準そこそこのものであれば、標準そこそこフォーマットに従って並べればいいわけですけど、
違った効果とか違った人に届ける場合は、多分その人固有のリズムに合わせて並び変えるのがよろしかろうというような多分メッセージが含まれてますし、
本書の並び自体がもうそういうものである。
こんな小立てで絶対立てられないっていうもの、小立てどころか内容のセレクトそのものも、
例えばセンスの哲学で小立てを作ってくれると言われて、こんな小立てにはまずならんというような、まさに固有性そのものが売られてるんですけど、
やっぱりそれは、やっぱりある規範から逸脱せざるを得ないというか、規範通りにしないことでできるようになるというのかな。
難しいんですけど、だから文章、例えば黙示案のリズムと感覚的に言うとその人の体内で鳴ってる音楽のリズムって基本的にこうするもので、
そうでないと多分書けないんですね、この滑りよくは書けなくて。
そこをどう見出していくかっていうところで、並べてみて、並び方を変えてみてっていうことをチェック、随時チェックしていくしかないっていうところかな。
だから文脈を確認していくっていうことかな、要するに。
その文脈にしても多分階層があって、単なるリズムとして捉えるっていうと、多分単純に目の前の文章のリズムだけを考えましょうと。
並びの重要性とセンスの哲学
でも実はその上の階層にも残っていくと、その上の階層には上の階層のリズムがありますよっていう。
だんだんそっちのほうに広げていくこともできるだろうし。
そうですね。まだ確実なリズムには階層性があるわけですけども、このセンスの哲学でも文章そのもののリズム感が、
なんて言うんですかね、どう言ったんかな、アップテンポというのかな。
その開業が多いっていう話を誰かされてましたけど、非常にスピーディーに展開していくっていうその本文のレベルと、
あと小立てで言うと、4章と5章の間に前半のまとめみたいなのがあって、ある種の急風がリズム的にはさんでいるということだと思うんですけど、
そこから転調ということではないですけど、ここからギュッと難しくなっていく感じもあって、
もっと大きな流れで冒頭に出てくる話が最後で回収されるみたいな大きなリズムもあって、
複数の流度というか階層というかレベルでのリズムがこの本そのもので体現されているという、
まあ、軽鬱な存在感を持った本であることは間違いないですね。
ちょっとこう、螺旋みたいに回りながら段々階層が上がっていくみたいな感じ。
で、最初の話に戻る、一番上の階層から戻るんですよね、最初の。
ある種綺麗な着地というか、ある種ストーリー的というか構造的なストーリーテリング的な感じの手法で書かれているんだとは思うんですけども、
ものものすごいなというのと、やっぱりその本の中で語られてたリズムの話と、
さっき言った文脈エディターって話が綺麗に合致するし、
これだけで文章書けそうだなというような感じがする理解の到達というところでしたね。
この一連の流れ、つまり文脈は面白かったですね、基本的に。
面白かったです。
ちょっと今全然時間が取れなくて、わりに少しずつ読んでいくんですよ、最初のほう。
3章、4章くらいまでは結構1日にちょっとずつじわじわ読んでたんですけど、
そのあとちょっと、わりに止まらなくなって一気に最後までいきましたね。
2章の途中ぐらいから。
わりに明け方まで読んじゃったみたいな。
わりにそういうことをしたなというのがあります。
僕も結構1日で、やっぱりリズムが重要だと思うんだよね。
通してガーッと読みましたが、通してガーッと読んだ分、まだこの本について言及できる感触を得てないんですけど、
やっぱり、どう言ってんかな。
一つ、何かを作ることに対して勇気を与えてくれる本というのはよく評価を見ますし、
それは確かにそうだなと思うんですよね。
例えば文章術でも、やっぱりある正しい書き方みたいなのを身につけて書きましょうみたいなことが、
直接ない人は厳害に語られていることが多いわけですよね。
それはその人そのものの書き方を肯定するのとは逆の書き方で、
そうなるとやっぱり間違ったら怖いってことになるわけじゃないですか。
そういうのとは、ある種逆の姿勢でクリエイティブを支持してくれているような内容だとは思います。
そこだけは現状を言えることかなという感じがありますね。
そうですね。なんて言ったらいいんでしょうね。
だから、ある種究極的にぶっちゃけ言うと、並べちゃえばいいんだよっていうことなんです。
アウトライナーと文脈の操作
この本の一つの極論は、並べさえすれば読み手が文脈っていうのをどうしたって汲み取ってしまうんだという。
そのやり方が正しいということじゃなくて、
意図しようがしまいな文脈っていうのは受け取られる形で生まれるんだというところから、
じゃあどう並べるのかっていうふうなことを考えましょうという理論になってて。
最大限の逸脱ですらいいんだというところを肯定してるところが、ラディカルな感じですね。
並べちゃえばいいんですよっていう話って、
僕がインタビューさせてもらったときに、
自分の中ではその話が出たところが一番肝だったというか、
話してても印象に残ってたんですよね。
こだわるみたいに並べちゃえばいいんですよ。
この本全体で、なんでそう言えるのかということが書かれてたという気がするんですよね。
感覚的にはなんとなくわかるけれども、
なんでそれでいいのかっていうのはやっぱりわからなかったわけですよね。
例えばアウトラインの中で書いていて、
ギリギリまでアウトラインの並びをこちょこちょいじるんですよね。
最後の最後に、例えばこの7段落ぐらいある中の、
最後から2番目の段落をこの4番目に移すみたいなことをなんでするのかっていう。
なんでそのほうがいいと思うんだろうっていう。
なんでただ並べるだけでいいんだと思っていつつ、
でもこれはこっちの下だよなとか思うのかっていう。
本当それわかんないんですよね。
だからわかんないからどこまでやればいい。
どこまでいったら終わるのかがわからないわけですよね、たぶん。
たしかに。
ちょっとまとめて聞きたいんですけど、
その理由というか、理由じゃないですけど、
そういう話が書いてあるという気がしますね。
そうですね。
極論、例えばどんなシーンに2つ並べても、
人はそこに意味を汲み取るというような話が映画で出てきますけども。
だから極端な2つ、特に全然関係ない2つの絵があったとしても、
人はそこに文脈を生成しますが、離れれば離れるほど、
受け取られ方っていうのは人それぞれっていうものに拡散していきますよね。
で、橋を持ったシーンと食事を、
例えばトマトを口に入れてるシーンが2枚並んでたら、
これはあの橋でトマトを取ったんだ。
解釈の余地が狭まりますよね、だから要するに。
だから明確な繋がりの場合、意味が固定的になっていて、
離れれば解釈が広がっていくと。
並びにこだわるというのは、自分のセンスを重視してるってことと、
より固定的な意味で、これを伝えたいという気持ちが強いっていうことの、
2つがありそうな気がしますけどもね。
そうですね。
いい面もあるし悪い面もある。
あると思いますね、両方ですね。
だからこれが正しいとか正しくないではなく、
そうすることで自分は何をしようとしていたのか、
何を意図していたのか、
その良くも悪くもということをちょっと考えられるようになるような気がします。
そうですね。
自分にはこうしか作れないっていうことと、
他にもやり方があるけど自分はこれを選んでるんだというのは
感覚的に違いがあるなと個人的には思ってて。
そういう意味で、ある種の方法について自覚的になる上で、
だからそもそもセンスっていうのは、
無自覚な状態から自覚な状態に移行することだというふうに
冒頭のあたりに出てきますけど、
まさにその自覚を促す本ですよね、きっとね。
そうですね。
また何度も読むと思いますけど。
どうなられたっていいって言われても、
そういうわけにはいかないという人間の心も当然あって。
やっぱり千葉さんの本を全体的に読んでいるものは、
少なくとも僕はネジを締めすぎてるなというのはずっと思いますね。
倉下さんが。
誤解なくこの意図を伝えようというもののために
すべての文章を調整するので、
たぶん確かにわかりやすいでしょうけど、
例えば書いた僕がこの文章からそんなことをイメージするなんて
思わなかったというような逸脱が
たぶんかなり起こりにくい文章になっているなとは思うんですけど、
千葉さんの文章と比べるとね。
それはよしやしはもちろんあるんですけど、
だから一つの自分の書き方がそういう特徴があるんだなっていうのは
常々思ってますね、この一連の本を読んでいると。
でもやっぱりおそらく千葉さんは、
意識してネジを緩めないと、
恐ろしいまでにネジを締めてしまう人なんじゃないかなと。
そうでしょうね。
だからたぶんそれをかなり意識されてるんだろうと思うし。
でも倉下さんの本を読んでると、
そうですね。私ごときが言うのは大変おこらないですけど、
破綻が少ないですよね。破綻がないなとは感じることはありますよね。
特に書籍の文章はそうでしょうね。
ブログとかベルバガーの場合はもうちょっとあれですけども。
たぶんね、僕の場合は千葉さんと逆なんですね、きっと。
脱線が多いので、基本的に普通に書くと、
そんなまとわらない文章になる恐怖心があって、
ちゃんと書こうとするとネジを締めがちになってしまうと。
僕の場合はちょっと緩める意識が逆側に必要で、
千葉さんの場合は締めすぎやから、
緩める側の意識が必要というようなことだと思いますね。
何にしても書き上げるために何が必要なのかっていう手当て、
サポートメソッドっていうのは人の特性によって違ってきますし、
場合によっては真逆のことをせなあかんということは
普通にあると思うんで。
そうですね。
そうですね。
書くこととか作ることについて考えさせられる本ですけど、
話を戻すと、アウトライナーって文脈を扱うツールだと思うことで、
何か例えば実際的な運用の仕方が変わるとか、
例えばこれからアウトライナーみたいなのを使う人に向けて、
何か説明の構成が変わるとかってあり得ますかね。
あり得ます。あり得ます。
今アウトライナーの中で操作しているのは、編集しているのは、
直接的には文章だったり、目次の構造だったりするんだけれども、
より大きく言うとこれは文脈なんだと。
自分の伝えたいことの文脈を操作しているんだと。
考えることで結構結果が変わるような気がしますよね。
文脈エディタとは
これもだから、人に説明するときにそれがどう変わるのかってのは難しいんですけど。
難しいですね。
でも自分は、よく回回想から上位回想にとかって言っているときに、
なんでそんなことをするのかっていうのを説明するのが難しいことがあるんですけど。
回想を上がるとか下がるとかっていうのも。
文脈をスイッチしてるんですよね。
掘りたたむ回想を変えるのは、目に入る文脈をスイッチしていることだし、
その項目を第4回想から第2回想に移動すれば、
位置づけられる文脈をスイッチしている。
文脈を変えれば並びも変わるし、
その項目自体にどういう言葉を入れるのが適切かも、
位置づけられた文脈によって変わるし。
そうですね。難しいな。
何に位置づけてるかっていうと、文脈の中に位置づけてるという言い方はできますよね。
これまではアウトライナーの説明において、
各種の項目と構造っていう2つのファクターがあったわけですけど、
そこに第3のファクターとして文脈っていうのが加わったと思うんですね。
項目と構造をつなぐものとしての文脈っていう言い方は成立しますかね。
それとも構造の後ろに文脈がある?
文脈が構造を生む、構造が文脈を。
例えば項目が新しく増えたとすると、
結果的にそれは構造が変わるというような直線的な言い方をしてたわけですけど、
項目が増えたことによって、文脈が変わったから構造を変えなければならないっていう間に入るんかなと。
違う。
ちょっと待ってくださいね。
項目が増えたから文脈が変わるというよりも、
項目が一つ増えましたと。
それで即文脈が変わったのか、それとも。
その文脈を変えるためにということか。
何かが変わった。
文脈と項目の相互関係
例えば文章を書いていて、明らかにこれは必要だなと思う項目が出てきて、
そこに新しい項目が自然に追加されたと。
追加されたというときに、いろんな変更があり得るわけですね。
見出し項目が1個増えたりとか、上位項目のタイトルが変わったりとかっていう構造的変化を引き起こしかねないわけじゃないですか。
そういう新規項目の追加というのは。
新規項目の追加は文脈に沿って項目が増えてるのか?
難しいぞこれは。
いろんなケースがあると思うんですけど、
例えば今作っているアウトラインのあるところを開いて読んでいったときに、
こういう文脈だなっていう感覚が形成されるじゃないですか。
これは今こういう文脈になっていると。
だとすると、ここに1項目追加した方がいいなみたいなことを考えて1項目追加するみたいなパターンがありますよね。
だからそのときは自分が汲み取った文脈に合わせて項目を増やすってことですね。
っていうのもあるし、いくつか項目を増やしましたと。
さらにもう一回読み返しているうちに、
上位階層の見出しに相当する上位階層。
こういうことをここで書いてるんだったら、この上位階層の見出しちょっと変えたほうがいいなと思って。
上位階層、1個上の階層にある見出しを変えますと。文言を変えますと。
パカッとそれを折りたたんで、その見出しレベルで眺めてみると、
ん?なんかちょっと思ってた文脈と今この文言を変えたことによって浮いちゃったなと。
だからこれが浮かないためにはどうするかというと、
もしかしたら場所を変えたほうがいいのかもしれないし、
場合は同じ階層の他の、同じレベルの見出しの文言をこれに合わせて変えたほうがいいかもしれない、みたいな思考が働くわけですよね。
その場合は逆に、項目を変えたことによって文脈に意識が行き、
もしかしたら文脈のほうを変えるために項目を移動するみたいなことも起こるかもしれないし、
だから文脈から項目が変わることもある、項目から文脈が変わることもあるんですよね。
でもどちらの場合でも、文脈の確認が1回経由されてますよね、その場合は。
そうですね。
やっぱり文脈を1回通すという。
これは適切かどうかって見るのは、つまりその文脈を確認してる。
そうですね。だからわかった、そうか。
例えばリスト作りとか、小立て作りで何が正しいのかって考えると混乱するわけですけど、
適切な文脈になってるかを考えると機能する。
そうですね。
何が正しいのか考えたら、正解はないんだよって言って。
そういうポストボダン的な混乱に行くわけですけど。
この並びで生み出す文脈は適切なのかと考えれば、非常に判断する軸が立ちますね。
そうですね。要するに正解を探してるんじゃなくて、文脈が適切かどうかを判断している。
例えばあるリストを見たときに自分が焦る気持ちを生み出す文脈なのか、
ゆっくり落ち着く文脈なのかっていう文脈的判断っていうのが行われるわけですから。
その文脈がなしに正しいタスクリフトかどうかという問いは成立しないわけですね。
なんかちょっと理解できたな。
そう考えると、要するに文脈には正解はないけれども適切さはあると。
文脈が発揮する機能と状況が求める機能みたいなののマッチはあるでしょうね、きっと。
状況が求める適切さもあれば、自分のそれこそセンスが求める適切さもあると。
リスト作りの正解っていうのは今までなかったわけですけど、
その文脈で機能しますかとか、求めてる文脈ですかっていう問いかけによって、
自分の今作ってるものが適切かどうか判断することができるようになります。
実際僕らそれをやってるはずですけど。
でも今まで言葉にできなかったですね、それは。
そうなんですよね。どうするのが正しいんですかって言われたときに、
それは場合によって違いますよね。
言うしかないですもん。
言うしか言えなかったんですけど。
どうするのが正しいんですか。
それは今必要とされている、もしくは求めている文脈に照らしてどうなんですか。
っていうことですね。
だから例えば、求めてるタスクリストの文脈が箇条書きだけで済むんであれば、
それはそれ一つの適切なタスクリストですし、
状況の記述が必要な文脈であればそれが必要になるっていうふうに、
より実践的に記述できますね。
つまりどっちも、それを今までだとそれはどっちも正解なんです。
どっちも正解なんですよって言ってたのが、ちょっと違う言い方ができる。
っていうことになるんですね。
項目と構造っていうのは、マテリアルっていうか素材そのものを表してるけど、
機能を表してないですね、結局。
それが使い手にとってどんなエフォートをもたらすのかというのがなかったんですけど、
文脈というと、結局文脈って実態がないというか、
知覚されるものでしかないわけじゃないですか、文脈っていうのは。
だから受け手によっての効果っていう意味が、やっぱり文脈と言い方をするとより強く出ますね。
そうですね。
まあでも非常に即物的な言い方をすれば、
例えばタスクリストというかタスクのアウトラインを作ってるときに、
今日は何があってもページで変えるんだ、という日のタスクリストの正解と、
今日は何が何でも今作っているレポートのこの部分を満足のいくものに仕上げる、
文脈の確認と意識
時間は問わないんだというときの正解は違うわけですよね。
つまりタスクリストが作られる文脈が違う。
違うからということですね。
どうなると、そのようなリスト作りを含めた情報整理というか情報運用においては、
まず文脈を確認しましょうということになりますね。
拭いとっていいんですかね。
どうか、でも意識されない、無自覚な文脈の認識と意識される文脈の認識の二通りがあったとしたら、
前者の無意識の文脈だけで作っていくことも、
文脈を気分と置き換えても別にいいんですが。
でもあらかじめはわからないこともあるから、並べてみて初めてわかることもあるもんな。
あらかじめ確認してもいいんでしょうけど、多分文脈は常に変化するわけですよね。
たしかに。
だから逆に項目に一つ手をつけるとか追加するとかチェックするとか、
そういうタイミングで文脈を意識する。
ああ、そうか。文脈を意識するか。
文脈を意識しながら、要するにタスクリストでも何でも、
今書き出してエディットしているものは文脈なんだと意識しながら作るってことですかね。
そうですね。随時随時文脈を確認するという意識は多分必要で。
さっき言ったもろもろのある文脈においてっていうのを、
ある目的においてと言い換えられるわけですけど、
決定的な違いはね、文脈っていうと変わっていいっていう流の差がある。
本来目的っていうのも別に変わっていいはずなんですけど、
日本語の目的の感覚はやっぱり変えてはいけないっていう、
身体感に結びついたイメージの固定っていうのがあるわけですけど、
文脈っていうと途端に変わっていいっていう感じがするんで、
目的というより文脈といったほうが柔らかさが出るなっていうのは聞いて思いましたね。
そうですよね。文脈って結局外部要因で決まったり変化したりすることもあれば、
自分が望んで作り出すものもあって、攻めに合うわけじゃないですか。
確かに確かに。
目的とか目標って言っちゃうと、
よし今日はこの目的に向かって頑張るぞって頑張っていたのに、
何度も何度も割り込まれて、結局何もできなかったっていうと挫折でしかないんですけど、
自分がこういうことを今日やりたい、こういうことを達成したいと思ってやっていたけれども、
割り込みが入ってきましたと。そこで要するに文脈が一旦断ち切られるわけですよね。
断ち切られて、割り込みに対応したほうがいいなと思って対応する。
その時点で文脈はもう変化してるわけですよね。
確かに。
それは挫折じゃなくて変更なんですよね。
そうですね。
だからやっぱり、絶対的固定的な正解がないっていうものを表す上で
文脈のほうがはるかに日本語的にはフィットするなんて、
柔らかい目標とか、あるいは弱い計画みたいな言い方を僕はちょっと考えたわけですけど、
やっぱりこの、頑張って作った感がある。
その言葉にはフィーリングが伴うわけですけど、
文脈って日常的には言葉なんでね、別に。
使いやすい感じはありますね。
もっといろいろ言えそうだ気がしますね。
文脈という言葉をキーにいろんなことが言えそうな気がします。
今、それこそ立派管理、ライフハック、自己嫌悪界隈でいろんな言われていることが、
改めて違う言い方で言い直せそうな気がしなくもないような。
そうですね。僕は、あずまさんの訂正可能性という概念が非常にキャッチーだなと思ったんですけど、
もっとシンプルに日常的な言葉で、
自分と目的と道具とか手法との関係性そのものが、
文脈という言葉を使い直すことで、
新たなビューが開けてくるみたいな感じがあるんかもしれませんね。
そう思いますね。
文脈をエディットすることができるという感覚は結構大切な気がしますね。
でも結局リビジョンもそういうことを言っていたわけですよね。
文脈をエディットできる。
文脈がエディット可能なものであるという認識は、
たぶん何かを意識的に作ったことがある人のほうが持ちやすいなという気はしますね。
なるほど。そうかもしれないですね。
そこがないと、文脈っていうのは与えられるもの、
規定されるものとして捉えられがちなのかもしれない。
その辺はちょっと、
僕の身の回りには何か尽くす人が多いんでちょっとわからないですが。
そうですね。
文脈って言う言葉がもし固く捉えられてるんやったら意味はないわけ。
目的と変わらないわけですが。
柔らかく引き受けてもらえるのであればこれ以上のないチョイスでしょうね。
そうですね。
逆に、自分の外によって規定される感覚が強いと、
押し流されるだけみたいな感覚になっちゃう可能性もあるんで。
外部の文脈もあれば、自分が作る文脈もあって、
自分が生きるというか生活するというか行動するっていうのは、
その攻めに合いをするわけですけど、
文脈をツールの中でエディットする意思
その攻めに合いを助けるために文脈をツールの中でエディットするわけですよね。
僕はアウトライナーが一番いいと思うけれども、
もちろん違うものを使ってもいいわけで。
いずれにしても、文脈をエディットしようとしている。
そういう意思を持って日常に立ち向かうというか日常に営むみたいな感覚が、
おそらくだから一番広い意味でライフハックと言われてたものの総称でしょうね、きっとね。
そうですね。
だからハックって文脈をちょっとブツッと切断するというか、
ショートカットするみたいな感覚もあるじゃないですか、ハックって言うと。
あるいはギュッと自分側に寄せ切るみたいなイメージもありますね、なんとなく。
そうですね。
エディットすると言うと、もうちょっと関係的なものに置き換わるというか。
エディットっていう言葉のイメージで言うと、
さっきの今日ぜひこれを達成したいと思っていたんだけど割り込みが入ってできなかったっていうときに、
割り込みが入って文脈が変わっちゃうんですけど、
文脈っていう言葉は使ってなくても、そういう話をしたときに、
でもそれじゃ永久に何もできませんよねって言われることがあるんですよね。
なるほど。
いやだから文脈をエディットするっていうのは、今日の文脈はそれで変わっちゃったけれども、
それをカバーするために明日どうしようかって、明日をエディットすることにもなるわけだし。
エディットすることの意味
確かにそういうこともできるわけだし。
もっと言っちゃうと、上の階層をエディットすることもできるわけですよね。
本当に、どれだけ努力しても毎日割り込みが入って、
全く一切自分の意思で何もできないということが15か月続いてますと。
毎日これですと。
どうしようもないし、これは本当に自分の根幹に関わるとダメだと。
もし思うのなら、だけどその階層にいたらもうそこから抜け出せないわけですけど。
一段上の階層をエディットすることによって、ものすごく単純な話。
じゃあどこか違う場所に移る、違う場所に行くということを考えたらどうなのかっていう、すごい単純な例ですけど。
そういう階層を変えてエディットするっていうこともできるわけですね。
エディットするっていうのはそういうことも含むわけですよね。
そうですね。文章のレベルでも本文のレベルと見出しのレベルとタイトルのレベルとのエディットがそれぞれあるわけですからね。
だから今いる階層だけではなくて、他の階層も含めてエディットすると。
だから文脈っていうのが階層的であるという認識があったら、
文脈エディットっていう語幹のイメージがかなり豊かになりそうですね、その場合。
そうかもしれないですね。
僕はアウトギーナのことを考えたから、すぐそう考えるんですけど。
でも文脈エディットすること自体は多分他のツールでもできるし、実際やってるはずなんですよね。
それは間違いなくそうですよね。
言葉を使わないだけでみんなやってるはずなんで。
ちなみにリンクによるネットワークの中での文脈っていうのはどう捉えたらいいんでしょうね。
2つあって、1つはカードの中の文章。これはもう文脈を形成しますね。
複数の文でなってるので。別に、例えばアルマはインデックスっていうのを作ってたわけですね。
それぞれのカードの番号とかが書かれたカード。番号しか書かれてないカード。
それは1つの並びを作ってるわけですね。それは議論のきっと並びなわけですけど。
そういうのも1つの文脈。
もっと言うと、何をカードにして何をカードにしないのかという選択そのものが文脈ですね、きっと。
あらゆる耳利きしたものをウェブクリックしましょうというかつてのエヴァノートはほぼ文脈がなかったわけですね、あれは。
あったとしても非常に弱かったのが、手書きでカードを書くというめんどくさいことをする以上、あるフィルターを超えてるはずなので。
だからそこに残ったものに意義があるという文脈的選択が行われてると言えるんで。
だから1本のどっしりした文脈があるというよりは小さい文脈が多数走ってるみたいなイメージがたぶん近いんじゃないかな、きっと。
それは例えばスクラップボックスとかでもそうなりますよね、そしたら。
文脈の生成とエディット
スクラップボックスはもう純ネットワークなので、
あんまり普通の使い方ではそういう文脈っていうのは基本的にカードの本文の中だけに生まれるものなので、
インデックス的なものをまずは別途作る。
ゴリゴさんが言うとトピックノートみたいなものを作ることで、そのカードを一つ上の視点から見たときの文脈みたいなのがおそらく生まれるでしょうし、
それもどっかの時点で必要になる。ある程度ページとかカードが増えてきた後に必要になっていくでしょうね、きっと。
でも例えばリンクされたカードが浮上してくることによって、そこに文脈を見出すみたいな効果はある。
ありますね。
ありますよね。そこは逆にアウトライナーではあれできないところだと思いますね。
だから例えば1万とかを超えるオーダーの情報の中からそれをどうにか操作したいっていうときにはやっぱりアウトライナーという、
あの表示形式ってかなりしんどいものがありますが、人間の知識ってだいたいつながっていますけど、やっぱりちっちゃいクラスターを多数形成しているのがよくある形なので、
だからある着想に関して似た着想、関連する着想ってせいぜい多くて50ぐらい。もっと実際は小さいですけど。
だから例えば僕6200のページ作ってますけど、1つのページで1000ページもリンクが上がってくるわけではないわけですよね、絶対に。
せいぜい10とかの近辺でリンクが上がってきて、それを読みながらこのカードとあのカードの関連性があるなっていうことを気がついたら、その関連性についてのカードをまた別に作ることで、
またちっちゃな文脈を作っていくっていうのが僕の日常的な使い方ですけど、最近はさっき言った大きなテーマで1つのページを作って、ただリンクだけが並んでいるようなコンテキストだけのページ、コンテンツを持たないコンテキストだけのページみたいなのも最近ちょこちょこ作ってますね。
基本的に僕の梅竿派なんですけど、ルーンフルマンの文脈に置くっていうこともやっぱ必要やなっていう。さっき言ったツリー構造するってことは文脈に置くっていうことに言い換えられますけど、文脈に置くってことも必要やなっていうのを最近感じてて、そういうのをちょこちょこ作るようにはしてますね。
だからその文脈のエディットっていう中で、位置づけるタイプのエディットは例えばスクラップボックスだとやりにくいけれども、逆に違う形の文脈の生成というのは自動的にできるわけじゃなく、
つながって出てきたものからユーザーが文脈を見出すみたいなことはできますよね。それは明らかにありますよね。
ありますね。だから一つのカードは一番小さく書けるように書いてるんで、大きな一つの流れに追っかれるというよりは細かい別のつながりがある。AというカードはBともちょっとつながってるし、Cともちょっとつながってるし、Dともちょっとつながってるっていう、断片的な文脈みたいなのがむちゃくちゃ多数あるっていうのをうまくキャッチするにはスクラップボックス的なものがいいでしょうけど。
で、やっぱりね、例えば6000ページスクラップボックスを作った結果として、例えば本に沿うとする議論が深まったかというと、別に深まってないですね。それは。
ツリー構造をその上で作ってこなかったからですね。さっき言うと、一人の人格がある自分の分析みたいなのはそこにはいないとまでは言われないですけど、ちょっと薄い感じなんで、やっぱりあるテーマで何か本内容をまとめていこうという意地があるんであれば、最終的な形を本にするかどうかは別として、
あるツリー、スレッド、流れっていうのをどこかに配置していかなあかんっていうことは、体験として思ってますね。
まあそれがでもやっぱりリニア変換なんじゃないですか。
ということだと思います。それがリニア変換ということであり、文脈の形成ということでありということ。だから別にカードツールでも作れるのは作れるんですけど、種ではないということですね。それは意図的に作らないと生まれないサブという感じがしますね。
そんな感じかな。これは今回は結構ディープなおしろい話になったと思いますが。
結構ディープだったと思いますよ。
この辺の話にご感想あれば、ハッシュタグ打ち合わせキャスト、ひらがなで打ち合わせアルファベットキャストまでいただければクラスターがチェックしたいと思います。
たくさん何かお知らせしたいこととかございますでしょうか。
大丈夫です。
はい。じゃあ今回はこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
お疲れ様でした。