おはようございます。STUDIO Kitschの水木裕蘭です。
ラジオキッチュ前回からの続きです。
さあ、前回まで古代史の部分が終わりましたね。
で、今回から中世に入っていくわけですが、
そろそろ歴史の話も飽きましたかね。
僕が歴史学だったら本当に聞いてられないでしょうね。
だから皆さん本当にすごいと思いますよ。ここまでついてきているのは。
歴史が好きな人だったら面白い内容だと思うんですけど。
まあどうでしょうかね。普通に体力がいるようなテーマだとは思いますが。
このポッドキャストもそうだし、他のポッドキャストもそうなんですけど、
ずっと聞いているのってすごい体力がいるじゃないですか。
運動とかスポーツの時の体力と同じなのかは分からないですけど、
分かろうとするのをずっとしなきゃいけないし、
ただただ話を聞いているというのも忍耐というか、
何というか体力的な面がすごく必要になってくるコンテンツだろうなと思っているんですけど。
本当にここまで聞いている皆さんはすごいと思います。
ぜひ今日の放送も最後まで聞いてみてください。
今回は前半はフラン公国とか、あとはキリスト教徒中世の話、
最後ビザンツ帝国の話をするんですけど、
ビザンツぐらいからですね、ルネサンス自体もそうだし、
ルネサンスとジェンダー、ルネサンスと女性美の話にも
だいぶ関わってくる内容の話をそのテーマを扱うので、
今回の最後の方かなにそれをやるので、ぜひ最後の方まで聞いてください。
最後の方のやつはこれまでのが分かってないと、
なんでそれやってるのかみたいなのがちょっと分からなかったりするので、
もし最後のパートとか今回は聞いて分からなかったら、
ちょっと巻き戻して前回のやつをサササッと聞いてくるとかでもいいので、
何か分からないことがあったら自分で調べたりとか、
適宜前回を振り返る、聞いてみるみたいなことをやって、
このエピソードを活用してくれると嬉しいです。
では早速本題に入っていきたいと思います。
前回まで古代ギリシャ、古代ローマ、その後キリスト教と古代という話をしました。
古代から中世に切り替わるこの転換点はローマ帝国の滅亡でした。
ローマ帝国っていうのは拡大しすぎて膨張しすぎたせいで、
全然統制が取れなくなったのとゲルマン人が入ってきた。
この2つのポイント、この要点のせいでローマ帝国っていうのは崩壊するという形に終わりました。
じゃあこのローマ帝国という統一権力が特に西ヨーロッパでなくなった時、
この後からゲルマン人の国がポツポツポツと立っていくんですけど、
このゲルマン人たちの国家を見ていくのが中世の始まりです。
前回何個かゲルマン人の国家を挙げたと思います。
フランクとか西ゴート、東ゴート、アングロサクソンとかね。
そういう話の中で、その中で一番成長した、ある意味成功した国としてフラン交国っていうのがありました。
このフラン交国が今後のヨーロッパの形成にすごい関わってくるので、
まずはここフラン交国から話を進めたいと思います。
フラン交国自体はですね、さっき説明したようにいわゆるゲルマン人の国家でローマの人たちとは全く無関係の国家です。
ゲルマン人が来て、だいたい今のフランスあたりに立てた国家です。
だいたいですね、覚えなくていいんですけど、4世紀の半ばぐらいにこのフランスあたりに定住したサリ族っていうゲルマン系のゲルマン人かつフランク人と言われるような、
ゲルマン系フランク人みたいな言い方もするんですけど、こういう人たちが立てた、いわゆるゲルマン人国家です。
何人か有名な王様がいるので、その王様たちを一個ずつ見ていきたいと思います。
まず一人目クロービスって王様ですね。クロービスはですね、メロビング朝期のフランク国王です。
何朝とかは、高校のテストとか大学受験の共通テストとか、一般次第の世界史とかには出てくるんですけど、
ポッドキャストレフェリーだと覚えなくていいですけど、一応説明しておきますね。メロビング朝フランク国の時代の国王です。
このクロービス何をしてすごい人って言われているのかというと、これはカトリックへの改修を行ったんですね。
もともとゲルマン人のところってキリスト教自体は広まっていたんですよ。
もちろんこのローマと手を組んだカトリックがキリスト教を広めていったみたいな話をしたんですけど、
ゲルマン人に広がっていたのはカトリックではないキリスト教だったんですよね。
アリウス派って言うんですけど、なのでゲルマン人の国っていうのはこのカトリック側と折りが合わない。
ただしそのもともとローマに住んでいた人たちってカトリックを信じているんですよ。
だから支配者層が別のキリスト教で、非支配者層、一般市民側がカトリックっていうちょっと宗派が違う、そこで食い違っちゃうような支配体制になっていたんですね。
これは統治においてはすごく問題ですよね。やりにくいという言い方が正しいと思いますけど。
なのでこのクロービスっていうのはフラン交国の国境をこのカトリックに変更します。
そうすることによってこのクロービスが支配するフラン交国国内には元ローマ市民が住んでいるわけですから、
いわゆるこれは統治戦略ですよね。
この統治者がゲルマン人だけど非統治者っていうのは旧ローマ市民っていう。
ここの構造をうまく利用するためのカトリックへの回収だったと。
そして次ですねピピン三世という王様ですね。かわいい名前ですねピピン三世。
この人何がすごいかって教皇に擦り寄るんですよ。
擦り寄るっていうかごまするっていうか、擦り寄りであってるかな。
教皇に領地をあげるんですよ。寄信するみたいな感じで教科書に書かれてると思うんですけど。
いわゆる教皇領みたいなものを作らせたのがピピン三世にやったことです。
ピピン三世自体そもそもフラン交国自体が戦争に強い国家なんですね。
なのでいろんな別の国と戦ってそこの国の領地を支配したり活用したりとかいろいろやってフラン交国が獲得した土地って結構あったんですけど、
そういう土地を教皇にあげるんです。プレゼントするんです。
そうすることによって教皇とお近づきになるというか、ある意味教皇に迎合するというか、
そういう形でどんどん教皇に近寄っていくんですね。教皇がそれまで領地を持っているみたいなことはなかったんですね。
教会には住んでいるんですけど国のような領地は持っていなかったんです。
なのでここでピピン三世が教皇に領地を寄信することによってここで教皇領というのが誕生します。
この教皇領っていうのは現在のバチカン四国の起源となっていますね。
直接の起源ではないんですけど、ある意味教皇が国を持っているとか領地を持っているっていうのはバチカンにも続いてくる流れですね。
神聖ローマとドイツみたいな関係ですよね。
次の王様がカールという王様です。
クロービスが国の宗教をカトリックに変えて、
ピピン三世によってカトリックの王様であるローマ教皇に近づくというカトリックによっていくような動きをした上で、
カールに関してはここで大きなターニングポイントを迎えます。
カールはですね、世紀800年にローマ教皇から皇帝号をもらいます。
皇帝号はつまり皇帝という名前ですね。
つまりカールはフランク王国の王様でありながらカール皇帝、カール大帝みたいな言い方をするんですけど、
このカール大帝という名前をもらったんですよ。
ヨーロッパにおける皇帝ってこれはローマ皇帝のことです。
つまりカールはローマ皇帝になります。
その西ヨーロッパにおいては、西ローマ帝国が滅亡して以来統一権力というのは存在しなかったんですよね。
ローマ皇帝も存在しなかったんですよ。
ですけどここで教皇がフランク王国の国王であるカールに対して皇帝号を授けるというのは、
いわゆるこのフランク王国が西ローマ帝国の後継国のようなニュアンスを与えたと。
そういうことなんですね。
だから教科書とかだとこれは西ローマ帝国の復活だみたいに書かれてるんですよ。
まさにその通りなんですよ。
つまりはカールがローマ皇帝になったっていうこの出来事の意義としてはまず西ローマ帝国の復活であるということですね。
そして意義をもう一つ挙げるとすれば、これは三文化の融合がここで完全に起こりました。
これまでの社会においては、古代のヨーロッパにおいてはローマ帝国がキリスト教を国教化することによって、
このキリスト教と古代ローマっていう二つの文化が合わさった、融合したみたいな話をしていたんですけど、
ここでフランク王国っていうゲルマン人の国である一つの国家がキリスト教の長である皇帝からローマ皇帝号を授かるっていう、
ゲルマン文化、ローマ文化、キリスト教っていうこの三つが融合するという形で新しい君主像もしくは新しい国家の形がここで生まれたということなんですね。
僕がこのシリーズの冒頭で話したようにルネサンス引いては西洋というものはゲルマン文化とキリスト教文化と古代ローマ文化、
この三つの相入れない文化が相まったものがヨーロッパなんだっていう話をしたんですけど、ここでやっとこの三文化が揃います。
まあ何というかすごい批判的な目でこれを見ると、この歴史ってすごく異質なことが起こっているんですよ。
なんというかそもそも教皇とローマ皇帝って別のものじゃないですか。
だってキリスト教とローマは違うわけですよね。カトリックとローマっていうのは。
なのにこのキリスト教の人である教皇がローマ皇帝っていう名前を授けれるっていうのは、この前古代においてキリスト教とローマが融合していなかったら発生しえなかったことなので、
冷静に見ると教皇がやってることはおかしなことなんですけど、お前は教皇じゃんってローマ皇帝じゃないじゃんみたいな話ではあるんですけど、
古代でこの二文化っていうのは融合して、すでに融合してあったものなので、こういうことが起こるんだよなと、それがゲルマン人の国家に授けられるということで、ここで三文化の融合が起こったよと、そういう話ですね。
で、このカールの退官の出来事、これをキリスト教側からどんな意義があるのかなっていうのを見てみると、このカトリック側の人間であるローマ教皇の庇護者がローマ皇帝からフランク国王に変わったということなんですね。
どういうことかっていうと、実はね、西ローマ帝国が滅亡した後、ローマ教皇っていうのはビザンツ帝国から保護を受けていたんですよ。
もともとは同じローマ帝国でしたから、そういうふうな形でも良かったんですけど、今回西ローマにちゃんと強い国フランク王国っていう良い国が現れたので、ローマ教皇はフランク王国に乗り換えたんですね。
そしてビザンツ側の保護家から外れるっていう出来事が実際は裏で起こっていたということですね。
この当時のフランク王国っていうのは、カロリング朝といわれる王朝の時期で、このカロリング朝のフランク王国、これはルネサンスにつながる重要な出来事が一つ起こっていて、それが前も言いましたね、カロリング朝ルネサンスです。
カロリング朝ルネサンスが起こったのはちょうどこの時期ですね。8世紀からだいたい9世紀、そのぐらいの時期です。これはフランク王国の首都アーヘンの宮廷で起こった文化復興運動と呼ばれていて、僕らが後々見ていく14世紀のルネサンス、いわゆる本物のルネサンスになぞらえてカロリングルネサンスっていうふうに呼ばれます。
これはゲルマン社会において衰退した古代文芸っていうのを復興して、さらに聖職者がラテン語を正確に読めるようにするっていう、そういうふうな狙いがありました。ローマ帝国における共通語っていうのはラテン語だったので。
なのでここにおいていわゆる古代文化を復興しようとするような運動がこの時期に起こっていました。有名なところでいうとイギリスの神学者アルクインとかがこのフランク王国に招かれていたりします。こういうちっちゃいルネサンスみたいのはここで起こっていたということですね。
そしてこの後のフランク王国なんですけど、3つに分裂しちゃうんですよね。これはカールの息子の死後ですね。カールの次の次の代においては王国はこれ3つに分かれます。9世紀半ばから9世紀末ぐらいにかけてフランクは3つに分裂します。
それは子供が3人いたからだっていうふうに言われてるんですけど、いわゆるこれ相続文化なんですよね。フランコ国というかゲルマン人自体が分割相続の文化があったので、子供が3人いれば王国は3つに分けますよと。それぞれに王様の位を与えて、西フランク、東フランク、中部フランクっていうこの3つに分かれていくんですね。
ちょっと分割相続の話をすると、分割相続とかあとは長子相続とか末子相続とかいろんな相続のやり方が歴史の中にはいろいろあるんですけど、この後のヨーロッパに関しては長子相続がメジャーになってくるので、なかなかここで分割相続っていう文化が残っているのはゲルマン人特有のものだなというふうに思えるんですね。
逆に長子相続は後からあれでいいんですけど、末子相続に関してはあんまり見ないような相続形式ではあるんですけど、いわゆる末子が相続するってやつですね。
ただ、どこだったっけな、アジアのモンゴルだったかな、とかで確か末子相続の文化があった気がするんですよ。
多分ここら辺の話は、カフチョウ戦の歴史とかそういうところに興味ある人の方が詳しいかもしれないですけど、ただ分割相続をしたっていうのはゲルマン人特有の文化だなというふうに思いますね。
3つに分かれたのが、西フランク、東フランク、中部フランクに分かれたんですね。
いわゆる東西と真ん中に分かれたんですよ。
西フランクっていうのはもうそのままフランスの大元になったし、東フランクっていうのはいわゆるドイツの元ですね。
この後シンセイローマっていうふうに言われたりするんですけど、この中部フランクっていうのは今のイタリアですよ。
この3つに国が分かれてるっていう原型を作ったのがちょうどこのフランク分裂の時期だったんですね。
だから本当にヨーロッパの原型を作ったといって過言ではないのではないですかね。
この中部フランクに関してなんですけど、イタリアの元になったやつですね。
中部フランクって王国すぐ滅亡しちゃうんですよ。カロリング系が断絶してね。
その後のイタリアって徐々に統一権力がなくなって、なんというか軍有格居の戦国時代に入っていくんですよ。
そのまま近世に入っていくんです。つまりはそのままルネサンスに突入するということですね。
これは少し生きてくるので覚えておいたほうがいいかなと思います。
フランク王国以降のキリスト教世界の作られ方について見ていきたいと思います。
さっき説明したようにカールの大観という出来事があって、そこでフランク王国とキリスト教、カトリック教会が密接に関係を持ち始めた。
だからその段階で古代ローマの時のような国家と教会が一体化する。ここが連携するというのがここでも発生しました。
このフランク王国が滅亡した後、分裂しちゃった後にも統一権力がない無秩序な時代が訪れたみたいな感じではあったんですけど、
この教会というネットワークが引いてあるおかげで、ある意味秩序形成の役割を持った装置としても機能しましたね、教会は。
大体10世紀末ぐらいになると小教区という本当に細かい網の目のようなものがヨーロッパ全域に張り巡らされるということが起きています。
このぐらいになってですね、教会組織というのが発達していきます。
ある意味、ヤクザみたいな組織化していくというわけですね。ヨーロッパ自体、特に西ヨーロッパですね。
自体が分裂したり、細分化していったりと、さっき言ったような統一権力のない時代に入ってくるので、そういったヨーロッパ社会をまとめ上げる唯一の統一組織みたいなものだったのが教会でした。
これは中世に発達を始めて、大体13世紀ぐらいになると高度に組織体系化された団体になっていくんですね。
面白い文化があって、祈りの鐘っていう文化がこの時発達したんですよ。
これはそれぞれの各地の教会で定期的に鐘が鳴らされるんですね。
これはキリスト教の時間の捉え方に合わせて、昼と夜が3時間ごとに区分されていて、その区分ごとに鐘が鳴って時間を知らせてくれるみたいな感じになるんですね。
前説明したように、教会っていうのは共同体の真ん中に置かれていったので、その共同体自体の時間を知らせていたのも、そこに住んでいる個人に対して時間を知らせるのも、この教会の祈りの鐘が働きを持つようになってくるんですね。
この祈りの鐘の何がすごいかっていうと、これいわゆる時間支配のことなんですよ。
例えばアジアで元豪が生まれましたよね。中国もそうだし日本もそうですね。元豪って何かってあれは時間支配なんですよ。
例えば中国皇帝とかって、もちろん皇帝が実家を握っているので、それによる実力の支配っていう面もあるんですけど、元豪を使って時間を支配するっていうことをやるんですね。
これはもちろん歴史を見ていくといろんなところでやっている、統治のため、コントロールのための重要な要素ではあるんですね。
だからアジアで元豪が生まれたみたいなのと同じように、ヨーロッパにおいてはキリスト教は祈りの鐘っていうのを使って時間を支配していくと。
そういうふうなことがこの時ちょうど起きていたということですね。
それではここからは皆さんお待たせしました、ビザンツ帝国の話をしていきたいと思います。
正確に言うと今まで見てきた西側世界、西ヨーロッパの世界とビザンツ帝国がどんな関わりをしていくのかっていうのをここでおさらいしておきましょう。
これまで東の話はしゃべっていなかったので、ここで整理をしていきたいと思います。
時代なんですけど、8世紀に戻します。
いわゆるピピン三世とかカールの大漢とか、あそこら辺の時代です、にちょっと話を戻します。
そもそももう一度名前について整理するんですけど、ビザンツ帝国っていうのは東ローマ帝国と同じ国のことを指しています。
東ローマ帝国っていうのは、いわゆるローマ帝国が東西に分裂した後の東側に残った国を東ローマと言っていましたね。
その東ローマに関してなんですけど、大体7世紀とか8世紀ぐらいより後になると、
もうローマ帝国の後継とは思えないような地産領土だったり文化だったりっていうふうに変わってきたので、
ここであえてビザンツ帝国っていうふうに名前を変えて、歴史の話の中では読んでいきます。
ただ、ローマ帝国が東西に分裂した後の東ローマのことを指しているんだというふうに思ってください。
じゃあこのローマ帝国の分裂後の東ローマ、つまりこのビザンツ帝国はどうなっていたかというと、
さっき領土が小さくなっていたっていう話をしたんですけど、いわゆるゲルマン人とか、あとはイスラム勢力ですよね。
そういう奴らの侵攻とか侵略によって、まず領土が小さくなっているというところ。
あと2つ目は内部氾濫が多発していました。
そのせいで国力も落ちているし、何というか本当にローマ帝国の後継なのかなっていうぐらい、いわゆる貧弱な国になっていたんですね。
ギリギリ存続はしてたんですよ。
そういうものに耐えながら、何とか地中海あたり、東地中海の周辺は支出しているみたいな状態です。
なんでここでビザンツ帝国の話をする必要があるのかというと、これ8世紀のビザンツ帝国においてレオ3世という皇帝がいたんですけど、
この皇帝によって偶像否定主義っていうのが始まるんですよ。
性画像破壊運動みたいに言われたんですけど、イコンをダメ、イコンを禁止しようっていう主義、運動がここで台頭してくるんですね。
この結果、西ヨーロッパとフナカになっていくんですよ。
ちょっとどういうことか説明しますね。
イコンっていうのは一つの宗教画のようなもので、ぜひ今手元に何か調べれるもの、スマホかパソコンかがあればちょっと調べてみてください。
非写実的な、リアルに描かれていない聖母子とかを描いた宗教画なんですね。
英語のアイコンの語源になったのはこのイコンです。
キリスト教において偶像崇拝って基本的に禁止なんですよ。
例えば日本の今の仏教とかで大仏を拝んだりするとかそういう文化、あれは偶像を拝んでいるという意味なので偶像崇拝ですね。
神を模したもの、宗教的な権威をまとったものを崇拝する。
これがダメですよっていうふうにキリスト教では言われていたんです。
けどカトリックはこのイコンをめちゃめちゃ使っていたんですよ。
なぜかというとこの識字率の低いヨーロッパにおいては何か文字とかを使ってこれを読んでくださいみたいな感じにするよりかは
イラストを使ってわかりやすく布教する。
そういう必要性があったんですね。
その結果これは偶像ではない。