2024-10-30 30:27

【2-3】キリスト教は如何にしてヨーロッパを作ったのか~キリスト教を迎えたローマ~【RADIO Kitsch ルネサンス女性美編】

話が進んで複雑になってきているので、最初の究極の問いを思い出して聴いてみてください!



【今回の内容】

ローマ帝国終焉/問い/古代から中世へ/キリスト教の誕生/ローマとキリスト教/教会の役割/キリスト教とゲルマン



【参考文献】

池上俊一『ヨーロッパ史入門 原型から近代への胎動』岩波ジュニア新書、2021年

袁歆「近代日本における「男性美」の実相 : 1910年代を中心に」『日本語・日本文化研究』第30巻、2020年、156-166頁

岡田温司『ルネサンスの美人論』人文書院、1997年

小宮友根「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」『WEB世界』〈https://websekai.iwanami.co.jp/posts/2828 〉(2024年9月21日閲覧)

中井義明ほか『教養のための西洋史入門』ミネルヴァ書房、2007年

森田義之「イタリア・ルネサンス美術におけるジェンダーとセクシュアリティ」『美術とジェンダー―非対称の視線』ブリュッケ、1997年

アレッサンドロ・ピッコロ―ミニ『ルネサンスの女性論1 女性の良き作法について』ありな書房、2000年

ジャック・ル=ゴフ『中世の身体』藤原書店、2006年

フィレンツオーラ『ルネサンスの女性論2 女性の美しさについて』ありな書房、2000年

「世界の歴史」編集員会編『新もういちど読む山川世界史』山川出版社、2017年

Web Gallery of Art「Fresco cycle in the Palazzo Venturi, Siena (1519-23)」〈https://www.wga.hu/html_m/b/beccafum/1/index.html 〉(2024年9月21日閲覧)



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サマリー

キリスト教の公認によってローマ帝国は変革を迎え、西ローマと東ローマに分裂し、古代から中世へと移行します。この変化により西ヨーロッパでは統一的な権力が失われ、ゲルマン民族による国家が乱立し、封建制や硝煙制が成立する時代が始まります。このエピソードでは、キリスト教の誕生からローマにおける拡大、そして最終的な国教化までの流れを追い、キリスト教がどのようにヨーロッパの文化に影響を与えたのかを探ります。特に、貧困層に対する救済の教えや、コンスタンティヌス帝による皇帝権力とキリスト教権威の一体化が重要なポイントとなります。キリスト教はローマ帝国の崩壊後もヨーロッパに影響を与え続け、コミュニティの中心として機能します。また、ゲルマン人がキリスト教化される過程において、教会が教育的役割を果たした様子も描かれています。

00:02
おはようございます、スタジオキッチュの水木裕蘭です。
前回撮ったのと、ちょっと間を空けて休憩中にですね、ご飯食べてきたんですよ。
で、ご飯食べた後に、前回の収録、ちゃんと撮れてるかなと確認してみたら、
なんか、前回ここで喋ってた人、めちゃめちゃ早口じゃありませんでした?
あー、誰ですか、あれ。ほんとに。
なんか、知らない、ラジオキッチュでは聞いたことのないぐらいの口の喋りで、
こう、周りで話してる早さの人がいて、
あの、オタク特有の早口が出てしまいました。前回、前々回とともに。
えー、誠に申し訳ございませんでした。
歴史オタク、ほんとに怖いですね。
てか、オタクは怖いですね。
こう、ポットキャラクターみたいな、
歴史オタク、ほんとに怖いですね。
てか、オタクは怖いですね。
こう、ポッドキャストであるということを忘れて、
ほんとに早口喋ってましたね。
あの、本当にすいません。
朝からあんなに口が回ったやつの話を聞かされて、
ほんとに、あの、ご収書様ですと言ったところでございますが、
今回からですね、もちろん歴史の話をするし、
僕が歴史オタクであることは変わらないんですけど、
なるべくゆっくり喋るよう努力しますので、
もし早口になっていたとしても、
また何かやってるなと言ったぐらいに、
思ってもらえればと思います。
ほんとに前回、前々回とともに、
申し訳ございませんでした。
ローマ帝国の変化
さあ、ということで中身に入っていこうかなと思います。
前回までやっていたことを軽くおさらいすると、
古代史を見ていきましたね。
まず古代ギリシャの歴史を見て、
その後古代ローマに入りました。
古代ローマは最初、王政から始まって、
共和政、帝政までいきました。
そしてその帝政がどんどん衰退していったよと、
なんかこうガバナンスが効かなくなっていったね、
みたいな話をしていきました。
そのローマの続きですね。
今後ローマ帝国はどのように変遷していくのでしょうか、
というところから入りたいと思います。
と言ってもですね、もうローマ帝国、
もうほぼほぼ終わりに近づいてきているところですね。
ということでですね、皆さんと一緒に
ローマ帝国の就活をしていこうと思います。
終わりの活動、就活ですね。
帝政ローマはですね、
前回まで見ていたようにですね、
コンスタンティヌス帝とかテオドシウス帝によって、
キリスト教を公認したり国教化したり、
そうして統治っていうものに力を入れて、
なんとかなんとかガバナンスが効くように
ローマ帝国を前の状態、
いわゆる最盛期のところ、
それぐらいまで戻そうと、
いろいろ頑張ってはいたんですが、
くしくもですね、その努力はなかなか実らずですね、
ローマ帝国を東西に分裂します。
もともと東西に分けて指定分治制をやっていたので、
ほら、東西に分けて西にマネージャーさんマネージャー、
東にマネージャーさんマネージャーを一人ずつ置いていく
っていうやつをやってましたけど、
ここで完全に東西に分けます。
そして首都をローマにする西ローマ帝国、
対して首都コンスタンティノープルを置く東ローマ帝国、
この西ローマと東ローマに分かれたんですね。
で、西ローマの方はこの分かれて
100年もしないうちに滅んでしまうんですよ。
ちなみにこの東西分裂が395年に起こっていて、
西ローマの方の滅亡は476年です。
だから本当に100年以内に西ローマは滅亡します。
対して東ローマ帝国はどうなったかというと、
こっちは長生きします。
東ローマ帝国はですね、
後にビザンス帝国っていう呼び方に変わってくるんですけど、
これからビザンス帝国というふうに呼ぶんですが、
このビザンス帝国は15世紀ぐらいまで存続します。
なので東ローマの方が長生きしたよということです。
こんな感じでですね、ローマ帝国っていうものは消滅しました。
東西に分かれるという形で統一権力はなくなったということですね。
東西ローマの分裂とその影響
ざっと振り返るということで、
ローマ帝国分裂の要因としては、
やっぱり前回からも再三言っているようにですね、
単純に国土が広すぎて統制が効いていなかったというのが、
これが一つ目ですね。
そして二つ目はゲルマン人の侵入。
これが大きな要因です。
ゲルマン人の侵入に関しては詳しくは言っていなかったんですが、
ローマっていうのはですね、
どっちかというと、
北はブリテンまであったよっていう話をしましたけど、
今のドイツとかポーランドあたりっていうのは、
ローマ帝国の敷地内ではなかったんですね。
分かりづらい説明をすると、
ドナウ川の南側はだいたいローマ帝国だったんです。
けどドナウ川より北、
ドナウ川以北にはゲルマン人と言われる、
いわゆるローマじゃない人たちが住んでいた。
いわゆる蛮族と言われた人たちですね。
ゲルマン人が住んでいて、
そういう人たちがローマに侵入してくる。
侵入してくるという言い方は適切かどうかわからないんですが、
もともとゲルマン人とローマの人たちの交流って、
国境のあたりではすごく盛んに行われていたので、
移住してくるといった、
引っ越してきているといった言い回しをしても、
あながち間違ってはないんじゃないかなと思います。
そんな感じでゲルマン人も入ってくることによって、
余計ガバナンス効かないですよね。
ここら辺のローマ帝国の滅亡に関する詳しい話は、
ローマ帝国水房史っていう、
エドワード・ギボンのすごく有名な歴書があるんですけど、
私は高校生の時にこれを読んだんですが、
詳しすぎて本当に面白かったですね。
こいつどれだけ調べたんだっていうぐらい、
エドワード・ギボンっていう人が書いた、
イギリスの歴史家が書いた歴書なんですけど、
本当に内容が詳しくて面白くて、
僕は好きだったんですが、
皆さんの好みに合うかどうかわからないですけど、
ここら辺の滅亡の話を詳しく知りたい方は、
エドワード・ギボンのローマ帝国水房史、和訳出てますんで、
それ見てみるといいんじゃないかなと思います。
だから簡単に言うと、
単純に国土が広すぎた。
で、ガバナンスが効かなかったっていうこと。
と、あとギルマン人の侵入。
この2つの要因のせいで、
ローマ帝国というのは当然に分裂してしまったんだと。
そういうお話ですね。
じゃあこのローマ帝国崩壊後の世界はどうなっていったか。
ヨーロッパはですね、
これによって古代から中世へと変わります。
だいたいこの古代と中世を分ける隔たりには、
このローマ帝国の滅亡とか、
このギルマン人大移動の話が境界になっています。
じゃあこのローマ帝国の崩壊が何を意味するのかというと、
これはこの西ヨーロッパ世界における統一権力の創出であると。
これはどっちかというと、
西ローマ帝国の滅亡の意味なんですけど、
西欧におけるそれまであった統一的な権力、
いわゆる絶対的な権力、
強い権力っていうのがなくなったと。
つまり権力の空白時代が発生するんです。
ここにギルマンの人たちが入ってくるんですね。
ギルマン人が入ってくる。
そしてギルマン民族による国家が乱立していくと。
そういう時代に入っていきます。
有名なところで言うと、
中世の国家形成と社会構造
フランク王国とか、
西ゴート王国、
東ゴート王国、
アングロサクソン七王国とか、
いろいろあります。
フランク王国はですね、
ギルマン国家、ギルマン人が作った国の中で一番成長した国。
このフランク王国だけが唯一残ることになりますね。
この後、西ローマ帝国が滅亡した後の、
いわゆる西ローマ帝国の後継国のような扱いをされてくるのが、
このフランク王国です。
西ゴート王国、東ゴート王国っていうのは、
これはもうすぐ滅亡しちゃうような、
いわゆるただ乱立しただけの国家って感じですね。
アングロサクソン七王国、
このアングロサクソンに関しては、
少しだけ国を建国した位置が特殊で、
これはブリテン島に建てられたもので、
今でいうとこのイギリスの祖先にあたるような国です。
有名な話でいうと、
アーサー王伝説とかいうのは、
このアングロサクソン七王国時代に生まれています。
アーサー王とかご存知ですよね。
いわゆるケルト系の神話とかね。
ああいうのの情勢とか、
イギリスの神話の話、
イギリス文化の話を、
何か本とか大学の授業とかで得ようとすると、
多分このアングロサクソン七王国とか、
アーサー王の話を聞くと思うんですけど、
これはこの時代のお話です。
そんなゲルマン人の国があったよという話。
社会的にはですね、
封建制とか、
硝煙制の成立がこの時代に起きます。
この時代というか、
この後の時代、つまり中世の時代に起きます。
硝煙制と封建制については、
後々詳しく説明をするんですが、
いわゆる完全に中世になったなと考えるのは、
この硝煙制と封建制の発達ですね。
この硝煙制というのは、
この硝煙と呼ばれる領主の、
変な言い方ですけど庭みたいな、
領主の領地の中に集落がある。
畑があって、民家があって、
お城があって、教会があって、
こんな感じの閉ざされた空間。
民衆はこの硝煙から出入りすることができない。
ただ民衆としては畑で農作物を作って、
税金を農主に払って、
週末とかには教会に行く、
みたいな生活をする、
すごい閉鎖的な空間が作られた。
これが各地でできていった。
これが硝煙制ですね。
対して封建制というのは、
領地とかそういう話ではなくてですね、
上司と部下の契約関係のことを、
封建制と言います。
封建的主従関係といった方がいいですね。
分かりやすい説明をすると、
日本史で言うと五本と奉公です。
要は上司の方に対して部下が奉公する。
有事の際は戦争に協力する。
その代わり領地をあげるよ、
官職をあげるよ、
みたいな取引が成立する。
しかもこれが上司と部下の一対一の関係で成立する。
というのが封建制です。
この封建がどこに成立するかっていうのは、
すごく決まっているものではないんですね。
だから騎士と領主の間とか、
国王と騎士の間とか、
違う役職同士で上司部下の概念が成立する。
封建的な関係を結ぶというような話になってきます。
なので中世における国っていうのは、
現在の国とは少し違っていて、
国王と封建的関係を結んでいる領主たちの土地を合わせて、
その国王の土地ですよみたいに、
歴史の教科書に書いてある地図とかだと表していくんですけど、
それって今の感覚とは違うじゃないですか。
詳しい説明は省きますけど、
国っていう概念はこの時代には存在しない。
さらに国境を引くなんてことはできない。
そういうような時代になってきます。
キリスト教の誕生と布教の拡大
何のこっちゃ言ってることはわかんないと思うんですけど、
それで大丈夫です。
封建制とか省遠制に関しては、
少し重要な部分があるので、
後々話していくので。
ちょっと気になるという方は、
ぜひネットで調べてみてください。
インターネットだけでも相当詳しいので、
ぜひ見てみてください。
さあここからはですね、
キリスト教と古代史ということで、
時間を少し巻き戻して、
キリスト教視点でこのヨーロッパ古代の歴史を、
もう一度見ていきたいと思います。
キリスト教に関してはルネサンスに直接関わってくる部分なので、
ちょっと丁寧にこのキリスト教は、
普通の通史と分けて説明をしていきたいと思います。
少し話の根幹に関わってくる部分になるので、
どういうところが重要なのかなって考えながら聞いてもらえると、
ちょっと楽しいんじゃないかなと思います。
ではまずキリスト教の誕生からですね、
キリスト教の生まれたところ、
これはオリエントです。
シリアあたりですね、今のところ。
さらにユダヤ教から分派した宗教ですね。
なので聖書が同じだったりしますね。
じゃあこのオリエントで生まれたキリスト教が、
どうしてこのヨーロッパの宗教になっていくのか。
まず第一に言われたのがイエスの弟子たち、
いわゆる使徒ですね。
使徒たちの布教活動における、
その貢献が非常にでかいですね。
例えば有名なところで言うと、
西暦50年代にはパウロの布教活動ありましたね。
パウロ有名ですよね、色んなところに出てきますね。
こういった人たちの布教活動があって、
その後多くの地域に広まっていきます。
もちろんヨーロッパとかローマに入ってくるのは、
もちろんそうなんですけど、
キリスト教の教会ってもともとアフリカとか中東あたり、
アラビアのあたりですね、にもあったので、
結構いわゆる地中海沿岸あたり、
その周辺地域には多く広がっていったといった、
そんな感じです。
現状残っているのはヨーロッパぐらいかなといった感じですね。
じゃあローマにおいてキリスト教はどのように拡大していったのか、
これについてなんですけど、
まずキリスト教とローマって折りが合わないんですよ。
ローマ文化とキリスト教って、
相入れないすごく矛盾する文化なんですよね。
まずローマ文化においては、
ローマ神話ってあるですよね。
日本で言うとこの神トンみたいなやつですね。
ローマ神話って多神教なんですよ。
対してキリスト教は一神教なんですよ。
まずここで神はないじゃないですか。
どっちも一神教ならその神が同一種っていう風にやれば、
なんとなく順応するのは楽なんですけど、
まずローマが多神教的、
日本ほどではないけどいろんな神様がいましたよね。
それこそさっきから言っているヴィーナスとか、
あれもローマの神様ですね。
あとは皇帝崇拝の文化があるんですよ、ローマには。
皇帝にいわゆる神権のようなものが付与されているんですね。
神的な権利です。
なので皇帝のことを拝んだりする、
それを崇拝したりする、
いわば信仰に近い形で皇帝に対して接するんですが、
ローマの人たちは。
キリスト教っていうのは一神教です。
さっきから言っているように。
なので崇拝していいのは神だけなんですよ。
けどね、さっき言ったようにローマと絶対折り合いがつくわけないじゃないですか。
なのでローマにおいては入ってきたとしても一度大迫害にあったり、
大迫害とはいかないまでもちょっとした細かい迫害とか、
そういうのにはちょくちょくあっているんですよ。
それこそさっきの指定分地制を開始したディオクレティアムステとかは
キリスト教を迫害しています。
こういったキリスト教徒にとっては不遇な状況が続いたので、
キリスト教徒ってなんか迫害があったりしたりすると、
地下の礼拝所を作ってそこで集会して礼拝をし続けたんです。
カタコンベって言われたりするんですけど、
こんなの覚えなくていいですよ。
そういう地下礼拝所を作って、
なんとか生き延びようとして、
生存していったっていうのがローマにおけるキリスト教なんですよ。
そこからどんどん広がっていくんですが、
キリスト教自体が広まった理由としては、
そもそもキリスト教はまず最初は貧困層を中心に広がっていきました。
だいたい紀元後1世紀ぐらいのローマっていうのは、
ローマにおける迫害と存続
富裕層とかに権力と富が集中していたんですね。
だから貧富の格差がまず激しいし、
上と下の下の人たちって本当に貧しかったんですよ。
なので仮想市民って何か救いが欲しい、
生きる希望が欲しいってなった時に、
救いを与えてくれるのはキリスト教だけだったんですよ。
このキリスト教の祈るという行い、
これをすることによって救いに至れるっていう教えはですね、
特に仮想市民に対して希望を与えたということですね。
いつ死ぬかわからない世界です。
本当に文字通りその世界です。
その中で救済を与えてくれるっていうのはキリスト教だけだったと。
言い換えると唯一の生きる意味だったとも言えると思います。
精神の崩壊っていうのを阻止するものだった。
そういう装置、機能になっていたのがキリスト教だったんです。
だからこそ普及していった、広がっていったんだということですね。
最初は迫害にあっていたんですけど、
さっき前回の話にも出てきたように、
一度公認されるんですよね。
なんでかというと、
大体3世紀以来になると、
仮想市民だけじゃなくて上層市民もですね、
熱心にキリスト教を信仰するようになりました。
313年、コンスタンティヌス帝によってキリスト教の公認を受けます。
つまりこれは正式にローマ帝国内でキリスト教を信仰してもよいですよというふうになったんです。
このコンスタンティヌス帝さらにちょっといろいろやってまして、
やらかしとまでは言わないですけども、
コンスタンティヌス帝がやったのは皇帝権力とキリスト教を一体化したんですよ。
それまで皇帝崇拝ってあったじゃないですか。
あの皇帝崇拝とキリスト教の一神教文化が相入れなかったんですよね。
けどキリスト教の神的な権威というものと、
ローマの皇帝の権威っていうのをガッチャン一緒くたにしたんですよ。
言い換えると皇帝権力をキリスト教化したというふうに言えます。
つまり皇帝は神である。
この神っていうのはいわゆるキリスト教の文明における神と同じだ。
そういうふうになっていきます。
ここで大事なのは、初回のところで説明したように、
西洋文化っていうのはキリスト教と古代ローマ文化とゲルマン文化、
この3つが合わさったものなんだと。
これがルデンサンスに響いてくるんだというふうな話をしたんですが、
ここでまず起こったのがキリスト教とローマ文化。
これが融合しましたよね。
このコンスタンティヌス帝による皇帝権力とキリスト教権威の一体化によって。
ここでキリスト教とローマ文化が融合します。
2つ揃った、あと1つのピースが残っている、こんな状態になりますね。
さあそしてローマの末期ですね。
教会っていうのが国家統治の道具になっていくわけです。
詳しく説明しますね。
380年、テオドシウス帝によってキリスト教が国教化されます。
その後、キリスト教以外の宗教は異教であるとされ、
その異教の信仰というのが禁止されます。
つまりはですね、帝国っていうのが教会に尽くす代わりに、
国教化とキリスト教の普遍性
教会っていうのはこの帝国統治のための下部になったんだと。
そういうことですね。
ちょっとコラム的な話になりますけど、
キリスト教が普遍宗教になれた理由っていうのはここにあると思います。
普遍宗教っていうのはいわゆる三大宗教ですね。
仏教、キリスト教、イスラム教。
この3つの宗教を普遍宗教とか世界宗教って言ったりするんですけど、
いわゆる大きな宗教ってことですね。
なぜキリスト教が普遍宗教になれたかっていうのは、
今説明した背景がすごくでかいです。
それはローマ帝国っていう普遍帝国と一体化できたからなんだと。
その結果ヨーロッパに残っていって、
大きな宗教になっていったということですね。
というのもヨーロッパに残ると言ったんですけど、
キリスト教に関してはこの西ローマ帝国が滅亡しても残り続けたんですよ。
東ローマに残っているのはもちろんとして、
西ローマ帝国っていうのがなくなれば、
キリスト教のカトリックの方ですね。
カトリックローマにありますけど、
このローマカトリック教会っていうのは被害者を失っているわけですよ。
キリスト教を拡大できたのは、
ローマ帝国の力を借りれたのがでかいっていう話を前回しましたが、
このローマ帝国がなくなったとしても、
キリスト教っていうのは各地に教会が残っていたし、
それは帝国が滅亡しても変わらないことなので、
キリスト教だけがネットワークを維持できたんですね。
ヨーロッパ全体において。
なのでキリスト教は普遍宗教になれたんだと。
そういうお話がよくいろんなところで解説されるかなと思います。
聞いたことある人もいるかもしれませんね。
さあここからは、
ローマ帝国滅亡後以降のキリスト教の動きについて見ていきたいと思います。
いろいろ話すことはあるんですが、
今回は司教の役割、司教という存在について見ていきましょうか。
司教は司祖ドルニ宗教の教で司教ですね。
この司教が何をしたのか、どういう役割になったのか。
司教というか教会と言い換えても話が通じるんですけど、
教会というと、皆さん教会というと建物のことを思い浮かべますね。
金がカンコンになって、
あのことではなくて教会というと組織のことを表したりするんですね。
なので今回は教会という言葉、紛らわしい言葉を使わずに、
司教という言葉で説明をしてみたいと思います。
このローマカトリック教会、これからはカトリックのことを説明します。
ローマ分裂のところで説明したんですけど、
ローマが東西に分裂します。
分裂した時にですね、教会も分かれたんですよ。
西はカトリック、東はコンスタンティノープル。
これどっちにも教会、大きな教会があるんですけど、
コンスタンティノープルの方はもう東ローマ帝国、
言い換えるとビザンス帝国の中で、
ぬくぬく育っていたので全然大丈夫だったんですけど、
この西ローマ帝国っていう統一権力を失った中で
活動しなければならなかった。
そんなカトリックの話を中心に見ていくと思ってください。
東の教会に関してはまた後で詳しく言うので、
これから全部カトリックの話をしてるんだなという風に思ってください。
じゃあこのキリスト教をさらに広めていく中で、
ローマ帝国以後の世界でどういう風に
キリスト教とローマ帝国の影響
布教活動をしていくのかと、そういった話をしていきます。
とはいえですね、今から喋るのはローマ帝国がまだあった時のことも喋ります。
グラデーションでだんだんなくなっていくみたいな感じで思ってください。
古代末期のローマ帝国から説明をさせてください。
古代末期のローマ帝国自体はすごく大きな領土を持っていたんですけど、
じゃあ高度に都市化した街があるか地域があるかって言われたら、
それはすごく限られた一部分だけが都市化していて、
それ以外ってすごい農村地帯というか、
はっきりと田舎に近いような状態だったんですよ。
都市化しているのはライン川の沿岸だったり、
あとイタリア半島ですね。
あそこは発達していたんですけど、
それ以外は本当にザ田舎というような感じです。
キリスト教はどこに司教を置いたか、
いわば教会を置いたか、
それは農村とかの共同体の中心に教会を置いていきます。
これは1個の街を作るのに1個交番を置いていくみたいな感覚で、
街作りゲームとかをするときによくやったりしますよね。
あの感覚に近くてですね、それが一番効率がいいということで、
結果的にキリスト教の司教というのは、
農村とかのコミュニティの中心に置かれていくんだと。
そういうふうにキリスト教も司教もというネットワークをどんどん拡大して、
それをヨーロッパ中に広げていったんですね。
こういうことをやっているからこそ、
このフレームワーク自体、この教会のネットワークというものは、
ローマ帝国が滅亡した後にも残っていました。
なので教会というのはすごく特殊な存在で、
これはローマ文化とキリスト教の融合が終わった後の話だからこそ、
得意な存在なんですけど、
ちょっとオシャレな言い方をすると、
古代ローマというのは教会に残り続けたんです。
ローマ帝国が滅亡した後でもね。
教会っていうのだけが唯一古代ローマを保存できたんですね。
保管できたんですよ。
だからこそ教会っていうのは古代ローマを存続させたんですよ。
つまり教会のネットワーク、
ヨーロッパに張り巡らされたこの司教もっていうのは、
ローマ帝国の遺産であるともいうふうに言えるんです。
統一権力がなくなった世界の中で、
教会だけが古代ローマを保持したんだと。
そういう意味です。
ゲルマン人のキリスト教化
で、こういう世界に作られたヨーロッパっていうのが、
中世世界の荘園制とかいう社会に繋がっていきます。
これはまた後で説明します。
で、これなんで詳しく説明しているかっていうと、
この教会はいわゆる伝統的な古代文化っていうのを保管していたからこそ、
ある意味教育者的な立ち位置をしていくんですよ。
西ヨーロッパにおいて、西ローマ帝国が滅亡した後、
統一権力がなくなった後、ゲルマン人による国家が建てられます。
で、ゲルマン人による国家、確かにゲルマン人っていうのは戦いに強いですよ。
戦闘民族、サイヤ人みたいなもんなので、
強いんだけれども、いわゆる統治の教養とか、
伝統的なものみたいなものに対する知識とか見識は一切ないんですね。
ポッと出てきた野蛮な人たちみたいな感じなので、
だからこそゲルマン人が統治するエリアの中には必ず教会が何個かあるんですよ。
その教会たちっていうのは、以前の古代のローマ帝国の文化を引き継いでいる人たちなので、
そういう人たちに指示を仰いでいく。
言い換えると、教会っていうのがゲルマン人君主に意見をしたり、
あとは教育したり、そういうことをやっていきます。
これ時にはですね、軍事面とか防衛面のアドバイスも教会がしていきます。
そしてさらにはですね、この文脈の続きで、
このローマが崩壊した後、統一権力による学校制度っていうのが消滅した後でも、
教会っていうのが学校を建てていったんです。
それは司教を養成するための学校です。
宗教職能者ですね。
なので次回の次回ぐらいに説明するんですけど、
このヨーロッパにおける学校制度っていうのは教会に由来していると言われていますね。
つまりはこのローマの伝統を引き継ぐとともにですね、
各共同体のコミュニティの中での教育者としての側面を併せ持った。
まあいわゆるただの宗教的なものではなくってね、そういうお話ですね。
これがいわゆる司教っていう存在はこういうもんですよ。
教会っていうのはこういうものだというふうに思ってください。
これからはキリスト教とゲルマンについて話すんですが、
本当に軽くいきますね。
さっきも言ったようにですね、ゲルマン人がたくさん住んでいるところに教会が建てられていきます。
ゲルマン人っていうのがキリスト教化されていくんですけど、
完全にキリスト教っていうのにゲルマン人が乗り入れたというか移り変わった。
もともとゲルマン人にはゲルマン人特有の神話とか信仰とかっていうのがあったんですけど、
そこから完全にキリスト教に転換したというわけではないんですよ。
ゲルマン神話って言われるのがゲルマン人が信じていた信仰とか民間宗教に近いんですけど、
神道みたいなものだと思ってください。
このゲルマン神話の神っていうのがキリスト教の神とか聖人に置き換えられていったんですね。
要はゲルマン神話におけるこの神はキリスト教におけるこの人、この人、この人みたいなのにどんどんすげ書いていくんですよ。
そういうふうにキリスト教に転換していくんです。
なのでゲルマン神話における重要な神殿とか聖遺物って言われるものの上に教会が建設されるんですね。
そういうのを取り壊してその上に教会を建設すると。
こういうやり方が流行っていったんです。
だから前も言いましたけど日本の神仏集合とはすごく似ているところがあるなといったところですね。
ということでローマの終わりからそしてキリスト教と古代史について見ていきました。
キリスト教自体ローマもそうなんですけどキリスト教は次のルネサンスに直接関わってくる内容ではあるので
いい感じにざっとどういうふうに変遷してきたのかなっていうのがわかったんじゃないかなと思います。
ということで今回は以上ですかね。
次回の配信をお楽しみに。
30:27

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