2019-12-25 08:53

#12 カール大帝

今回は、西暦800年に戴冠し西ヨーロッパ世界を確立したカール大帝についてです。ローマ古典文化とゲルマン文化とキリスト教が融合した西ヨーロッパ中心世界とは、といった観点から大学受験向きの内容でお送りいたします。 
<受験キーワード> 
カール大帝(シャルルマーニュ)、ピピン、レオ3世、レオン3世、ローマカトリック教会、ギリシア正教会、コンスタンティノープル教会、イェルサレム、アレクサンドリア、アンティオキア、元首政、オクタウィアヌス、アウグストゥス、テトラルキア、専制君主政、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス、テオドシウス、ゲルマン人、ランゴバルド人、ザクセン人、スラブ人、アヴァール人、伯、巡察使、中央集権化
<制作>
出演:オルタ・百合城 
プロデューサー:富山真明 
制作:株式会社PitPa

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こんにちは、オルタです。
こんにちは、ユリシロです。
早速なんですが、800年という年代、中世ヨーロッパを語るにあたってすごい大事な年なんですけど、どんなことがあったかわかりますか?
800年?何でしょう?ちょっとよくわかんないですね。
800年というのは、カール大帝がカトリック教皇のレオ3世から退官されて、その日ヨーロッパ中世世界が成立したという年なんですよ。
テオドシエスによって東西分裂したじゃないですか。
その後476年、ギルマン人のオドアケルによって西ローマ帝国が滅ぼされてから、ずっと西ローマ帝国ってなかったんですけど、800年にやっと西ローマ帝国が復活したという内容です。
正式には800年に、ギルマン人のフランク王国っていう王国のカール大帝、フランス語でシャルルマーニュって言うんですけど、彼がキリスト教のカトリック教皇レオ3世から西ローマ皇帝として退官されるのが800年の出来事です。
今回は結構地名とか民族とか出てきて、内容が難しいかもしれないんで、高校生向け、世界史やってる高校生向けになるかもしれないです。
カールの退官によって、中世ヨーロッパではローマ古典文化とギルマン人の文化とキリスト教が融合して、西ヨーロンパ中世世界っていうのが誕生するんですよ。
形式的には西ローマ帝国の復活であったんですけど、実質的には古典古代文化とギルマン人とキリスト教の3要素が同化した新しい国家の誕生っていうのを実質的には意味するんですよね。
ではローマがなんで分裂したかっていう話になるんですけど、そもそもローマっていうのはディオクリティアヌステの時に帝国を東と西に分けて、聖帝と副帝2人が統治するっていう四帝統治制、これはラテン語でテトラルキアって言います。
その後彼は政治体制は原始性、いわゆるプリンキパテスから先制原始性ドミナテスっていうのに変化します。
ちなみにその原始性っていうのはアウグステスが始めるんですけど、彼はその第二回三島政治のオクタヴィアヌスが名前を変えてアウグステスっていう名前に変えたんですよ。
自らプリンキペプスって称して、せかしでもやったと思うんですけど、簡単に説明すると原始性っていうのは多数の養殖を自分で検認して実質一人で独裁を行うみたいな感じで、
先制君主制っていうのはディオクリティアヌス帝が軍人皇帝時代をもう一回集結させようとして、
皇帝をドミナテスっていうのに呼ばせて無理矢理、自らを進化化して皇帝崇拝を強制させるっていう、だからこっちもいわゆる独裁みたいな感じなんですよね。
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ディオクリティアヌス帝の後コンスタンティヌス帝が在院につくんですよ。彼はキリスト教を教科するじゃないですか、その後使徒をコンスタンティノープに移すんですよ。
後にこれがそのビザンツ帝国、東ローマ帝国の都になるんですけど。
今のイスタンブールですね。
彼が在院について375年の時にゲルマンジーの大移動っていうのが始まるんですよ。
それによってローマは混乱して帝国の分裂を防ぐことができなくなっちゃうんですよ。
その結果テオドシウス帝というのが帝国を東と西に2分してコンスタンティノープルを使徒とする東ローマとローマを使徒とする西ローマへ分けます。
東ローマは1453年オスマン帝国に滅ぼされて、西ローマは476年にゲルマンジーのオドアキルによって滅ぼされます。
東ローマが滅ぼされる1453年というのはイギリスとフランスの百年戦争が終結する年と同じなので、
ニュースに出やすいかもしれないので覚えておいた方がいいですね。
476年オドアキルによって滅ぼされてから西ローマ帝国が存在していないんですけど、
しかし800年のカールの退還によって西ローマが復活するんですね。
なぜカールが西ローマ皇帝として退還されたのかという話なんですけど、
313年コンスタンティヌス帝がミラノ直例でキリスト教を国教化するんですよ。
だから今までキリスト教は容認されていなかったんですけど、容認したんですね。
国教化されてから各地で強い影響力を持ってたんですよ。
ローマが衰退してもゴホンザンと呼ばれる、
いわゆるローマとコンスタンティノープルとイエルサレムとアレクサンドリアとアンティオキアなんですけど、
この5つの教会が力を持っていたんですよ。
7世紀にローマとコンスタンティノープル以外のイエルサレム、アレクサンドリア、アンティオキアは
イスラム勢力によって占領されてしまうんですね。
アレクサンドリアはエジプトにあるやつですよね。
すごい海に近いところで紛らわしいんですよ。
地図問題でよく出るので。
生き残ったローマとコンスタンティノープルの2つの教会は宗教をめぐって争うんですよ。
だからどっちが最高位の権威かっていうのをめぐって争うんですね。
西ローマは滅亡したから全然信仰してくれる人がいないんで、ゲルマン人へ布教しようとしたんですね。
宗教って製造があった方が信仰しやすいんで、製造を使ってゲルマン人へ布教してたんですけど。
言葉も通じないからってことですよね。
なんですけど726年にビザンツ皇帝レオン3世が製造禁止令を出すんですね。
確かイスラム教に対抗して。
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イスラムは偽造崇拝禁止してたんで、自分たちも偽造崇拝禁止してイスラムに追いつこうみたいな。
なんで対抗したんでしょうね。
対抗して製造禁止令を出したんですけど。
西ローマ帝国っていうのは製造で布教してたんで、それがないともう布教できないんですよ、効率的にっていう。
だからこれで東西教会の対立がさらに危機化してたんですよ。
ローマ教会は庇護者を求めるんですよ、後ろ盾。
コンスターティノープル教会はビザンツ帝国があったんで後ろ盾があったんですけど、
ローマカトリック教会がなかったんで、
その時に出てくるのがフランク王国です。
さっきカールが王だったフランク王国なんですけど。
まず756年カールマルテルのこのピピンがラベンナ地方、イタリアのラベンナ地方を教皇に棄身するんですよ。
それが今の教皇領になるんですよね。
今の教皇領になって。
今じゃないですね。
ピピンの棄身って言うんですけど。
カールマルテルっていうのは732年ウマイア朝とテウルポアテウカの戦いっていうので戦うんで、
これも西でやすいんで覚えておいた方がいいですね。
そのイタリアのラベンナ地方を教皇に献上するんですけど、
それによってローマ教会とフランク王国の関係が強くなって、
ピピンが死するとピピンの子供のカール大帝、シャルルマーニュがフランス王になって、
彼はすごい頭良かったんで、ザクセン人、ランゴバルト人、スラブ人、アバール人などを征服するんですよ。
西だとスペインで、東だとドイツまで領地を拡大して、
地方に博というのを置いて、それを監視する巡察士というのを置いて統治します。
これは中央集権化を目指してたんですよね。
中央集権化すると、どんな国でも中央集権化した方がまとまるというか落ち着くんで。
これと対照的に神聖ローマ帝国は分裂していったんで。
こうしたカールの活躍によりフランク王国は西ヨーロッパの大国となって、ローマ教皇に認められたことによって退官されます。
こうした流れでカール大帝は西ローマ皇帝として退官されて西ローマが復活するという経緯に至ります。
なるほど。
これでカールの退官の説明を終わりにします。ありがとうございました。
ありがとうございました。
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