天才数学者のアリシアは、精神科病院 ステラ・マリスに入院し、精神科医との対話を重ねる。
やがて、原発開発に携わった父をはじめとした家族のこと、 そして兄ボビーのことが語られる。
前作、通り過ぎ行く者に続く、マッカーシー最後の2部作、 完結編、ステラ・マリスを紹介します。
どうも皆さんこんにちは、文学ラジオ空飛び猫たちです。
この番組は、いろんな人に読んでもらいたい、 いろんな人と語りたい文学作品を紹介しようコンセプトに、
文学と猫が好きな2人が緩くトークするポッドキャストです。 パーソナリティは、私ダイチとミエの2人でお送りします。
文学のプロではない2人ですが、お互いに好きな作品を時には熱く、時には愉快に、 それぞれの視点で紹介していく番組です。
今回紹介するのは、コーマック・マッカーシーのステラ・マリスです。 黒原俊幸さん役で、早川諸坊から2024年に出版された本になります。
はい、前回に引き続きコーマック・マッカーシーの最後の2部作の、 完結編の方ですね、ご紹介しようと思っておりますが、
コーマック・マッカーシーで我々ちょっと年を越しているはずなので、 まずは明けましておめでとうございますと、ちょっと言わせていただきたいなと思います。
そうですね、明けましておめでとうございます。
ちょっと収録自体は年内撮ってるんで。
クリスマスにね、撮ってるんですけど。
年内最後の収録になってまして、こちらの方はですね、新年に配信されるはずなので、 今年も皆様何卒よろしくお願いいたします。
お願いします。
そのうちまたちょっとね、今年の抱負とかやるかもしれないんですが、
まずはもう今回ですね、このコーマック・マッカーシーの紹介に収録していきたいと思うので、 ちょっと紹介させていただきたいと思ってます。
で、今回のコーマック・マッカーシーのステラマリスなんですけれども、 先週というか前回配信してます、通り過ぎゆくものをセットというか、
2部作になっているので、ぜひそちらから聞いていただいて。
で、本を読む時も、ステラマリスの方が260ページぐらいで、 560ページの通り過ぎゆくものより薄いんですね。
なんで、もしかしたらステラマリスの方が読めるんじゃないかと思って、 ステラマリスから手を出す方いらっしゃるかもしれないんですけれども、
完全にこれですね、ちょっと後で話しますけど、通り過ぎゆくものを読まないと結構ですね、 わからないとまではやらないと思うんですけど、
ちょっと順番はもう確実に通り過ぎゆくものからステラマリスかなと思っているので、 ここはちょっと薄いからといってですね、ステラマリス先に読まない方がいいかなと思いますので、
最初に忠告しておくのと、あとやっぱり前回の放送聞いてくださいというところはちょっと言わせていただけたらなと思います。
そうですよね。でも僕は通り過ぎゆくものを読んだ後、やっぱりステラマリス読むと主人公ですね、アリシアとかボビーとかに対しての印象がやっぱり塗り替えられましたね。
なるほど。
やっぱりこの完結編を読むとまた違った一面というか、印象が抱くことができて、そういう意味ではちょっとこれが完結編なのかっていう、
なんかそういうちょっと読むとしみじみとこの2部作についてなんか見ることができたので、やっぱり順番はそうですよね。最後にステラマリスの方がいいんだろうなと思いますね。
そんなわけで、ぜひ通り過ぎゆくものを読んだらステラマリスも読んでいただけたらなと思います。
著者のコーマークマッカーシについても先週お話ししますので、あわせてそちら聞いていただければなと思います。
2023年にお亡くなりになって、最後に書いていた作品がこの2作ということなので、今回ちょっと2024と2025年をまたいで紹介させていただいております。
では版元ホームページからですね、あらわら筋など引用させていただきます。
通り過ぎゆくものの裏面を描く異色の対話編。
1972年、二十歳の数学者アリシアは自ら望んで精神科病棟へ入院した。
医師に問われるまま彼女は語り始める。
数学と死に魅せられた自身の人生。原爆の開発チームにいた父、創生した母、そして災害の兄ボビー。
静かな対話から個々の魂の痛みが浮かび上がるということで、1972年なので時代設定的には前作通り過ぎゆくものから8年前の設定となっていまして、前作の裏面的な作品という位置づけになっていますね。
そうですね。
前作は兄弟、ボビーとアリシアのお兄さんですね。
ボビーの方が主人公の物語だったんですけども、今作では妹のアリシアの方が主人公というか語り手になっている作品になります。
だいぶ印象がここでは違いますよね。アリシアのね。
そうですね。前作ではアリシアはキッドという幻覚で見えている人物じゃないかと思われるキッドとの会話が中心だったんですけども、今作ではそういった幻覚状態ではないアリシアの会話ですね。
そこがあってですね。ちょっと作品の特徴に移っていきたいと思うんですけども、かなりこの小説が変わっていてですね。
普通の小説ではなくてちょっと戯曲みたいになっています。
というので、アリシアと精神科医ですね。精神科病棟に入院してるんで、そこの医者さんとの会話形式で小説が成り立っています。会話しかないっていうですね。
これも役者と書きでも説明されていたんですけど、こんまくまかしが戯曲みたいな小説というのも書いていてですね。ちょっとそことつながるような今回のこの作風というので、本当台本を読んでいるかのような小説でもあるという。
二部作の最後がまさかこのスタイルかっていうのはね、かなり意外でしたね。
一切字の分ないもんね。
会話だけでもね。
最初から最後まで会話だけですしね。これはこの作品の大きな特徴かなと思います。
もう一つがですね、このアリシアがとんでもない天才象徴であるという点ですね。すごいんですよね。なかなか他にはない頭脳を持っている女性で、
14歳とかで大学院に進学してトップクラスの研究者になって、あまりにもこの世の中の真理みたいなものが見えてしまうがためにちょっとですね、思い悩むところがあったりとか、これには手を出していけないとかですね。
ちょっと数学の道を諦めから引退したりとかですね、いろいろあったんですけども、数学や物理、哲学、宇宙とか、それ以外にも音楽の分野とかでもあらゆる分野でもトップクラスの頭脳を持っていて、
なのでこの精神科医の人との会話の中では本当に様々な学問的な内容というのが展開されますし、歴史上の数学者、不完全性定理で知られるゲーテルはこの作品の中でよく言及されていましたし、
とかですね、もう本当にいろいろなこの学者の名前が出てきます。そんなですね、もう理系の話のオンパレードになってくるというのもですね、この作品の特徴ですね。
このアリシアがすごい天才少女であるというのと、それに伴って理系的な内容、理系的な会話内容になってくるというところが特徴的になります。
なのでね、ちょっと読んでもなかなかこの内容がわからないところがありまして、例えばですけど、この精神科医の人がですね、この話の中で問うわけですね。
数学的な話をしていて、アリシアとこの精神科医の人が、精神科医の人が現代数学のほとんどを支えている一つの原則みたいなものってあるんだろうかと、アリシアに問いかけるんですけど、
アリシアがですね、それはうーんと、まいるなと言いつつですね、その問いに答えるんですね。私たちは答えを知らないというだけのこと。
コモホロジーやカントールの連続体の深いところのような事柄は推測されない諸世界の風味に汚されている。私たちにはその全領域が好感の影響を受けない大数学の足跡が見える。
行列理論はその起源の床の上にハッチング線の影を落としているけど、そこに刻印された影に行列理論はもう合わせようとしなくなっている。
ホモロジー大数学は現代数学のかなりの部分を形作るようになった。でも最終的には計算理論の世界がさり飲み込んでしまうでしょうね。
というセリフがあったりしてですね、もう何のことやらっていう感じなんですけども、こんな難しい話が結構ですね、たくさん入ってるっていうのが特徴ではありますね。
とはいえ、そこが理解できなくても話自体は読んでいけるかなと思います。
あと特徴のところでは、前作では通り過ぎゆくものでは語られてこなかった、このアリシアのつまりボビーのお父さんとかお母さんのこと。
お父さんは原爆の開発チームにいたんですけど、そこでの様子とかも結構語られていたりしますし、お母さんですね、お母さんに対しての言及とかもあったりするというので、
その辺はですね、ちょっと通り過ぎゆくものを読んだ後読むとですね、よりこの家族のこととかつかんでいけるのかなという、そんなステラはあんまりないようになってますね。
この精神回が基本的には質問していく形で進行するので、それに対してアリシアが回答していくっていう流れなんで、いろんなことがあったんだなっていうのは分かってくるのと、
あと個人的にはこのアリシアが結構有名というか、すごい話すなっていう印象で、カウンセリングみたいなもんだから、
医師が聞き出していって話していくっていうのは形としてはもちろん、だからたくさん話すのは当たり前なのかもしれないんですけれども、
なんかその通り過ぎゆくものからの印象のアリシアからすると、めちゃくちゃ話すなっていう印象でしたね。
そうですね。アリシアって心理学とか、医学かな、精神科に対してのたぶん見識もすごくあってですね、
精神科医の質問とか、意図とか、その質問本当に意味あるのとかですね、そういうの全部分かっていて、たまに変な質問が来るとですね、
なんでそんなことを聞くのとか、それどういう意味とかですね、その辺の突っ込んだりするところもあって、この辺のやりとりも面白いところですけども。
そうですね。中でこの通り過ぎゆくものの8年前という設定ではあるんですけど、
なぜ前日単なの、時系列では前なのに通り過ぎゆくものの方が何ていうか前作になってるかっていうのは、
やっぱり通り過ぎゆくものの中ではちょっと見えてこなかった部分っていうのを補完しつつ、またこのマッカーシーの中のまた違う厳しさみたいなのを見せてくる作品だなっていうので、
ちょっとこの補完し合ってるのと、あと多面的な面っていうか、そういうのがちょっとあるのかなっていうのはちょっと感じてますね。
確かに。ここからですね、この作品のストーリーの紹介していきたいと思います。
舞台は1972年、アメリカのウィスコンシン州にある精神病院、ステラマリスになります。
そこの入院患者であるアリシア・ウェスタン、主人公のアリシアですね、と精神科医、高円という男性の面談、会話がこの小説を成り立たせています。
アリシアは通り過ぎゆくものの主人公、ボビーの妹になって、この時は20歳になります。
あとステラマリス読んでて思ったのはこのボビーがですね、当時イタリアのカーレースで事故にあって脳死状態なんですけども、
このステラマリスだけ読んでると、なんかボビーがもう本当に死んでしまったかのような描かれ方をしていて、
この辺は何でしょうね、ちょっとミスリードさせようとして書いてるのか、
それともその当時、この時代1972年当時は本当にボビーが死んだものとして思われていて、
その後トイリス読物の1980年ではボビーは普通に元気にしてたんで、
その後復活、無事に回復したのかっていうことだと思うんですけども、
ボビーこれはどういうことなんだって思うような描かれ方をしてるなと思いましたね。
そうですね、私はちょっと何となくその辺に自殺の理由があるんじゃないかなとは、
アリシアのねと思って読んだけれども、これでもそうだよね、これ2作品とも、
実際にトイリス読物ではアリシアは死んでしまっているので、
お互い兄の死だったり妹の死の悲しみを抱えて生きてるっていう状況だよね。
そうですね、とはいえトイリス読物の時にボビーがそんなに重大な事故に遭っていたなんてっていう、
それちょっと教えてくれてもよかったのになって思いますね。
どっかに体に金属が入ってるんだっけ、事故に遭ったせいでね、補強かなっていう描写はあったけれどもね、
脳死まではちょっと。 脳死まではね、そこまで描かれてなかったと思うので。
世界観が違いすぎてちょっと、世界観っていうかボビーの状況がちょっと違いすぎてね、ちょっとびっくりはしますよね。
そうですね、でもアリシアね、やっぱりトイリス読物の時にアリシアは主にキッドと会話していて、
結構その会話内容は死裏滅裂なものが多かったんですけど、
この死裏滅裂の中のアリシアの会話は何か至ってちゃんと思考がされていて、
そういう点ではこの通り過ぎゆくものとこの死裏滅裂に出てくるアリシアは同じ人物とは思えないような見方が変わるところはありましたね。
ああ、そうだよね。
で、14歳の時のね、過去の話をする時もあるんですけど、
14歳の時とか20歳とかの時にそこまで大人びいている人がいるんだっていう、ちょっとね、現実にこんな人いるんだろうかって思うような人ではあるんですけど、
まあそのくらい、何でしょうね、ちょっと現実離れしているような、なんかすごいもう子供なんですけど、もう大人というか、大人というか何でしょうね、もう全てを知ってるかのような人物であると。
そうだ知識量もすごいし、なんかすごい量の本を読んでたしね、本当かどうかわかんないけど。
で、1万冊読んでるっていう。
1日4,5冊読んだって。
4,5冊読んで。
本当かなっていう。
で、14歳でね、運転免許とか偽装して、アメリカ中旅したりとか、で、そうやって年齢差しをしてバーでバイトしたりとか。
うんうん。
何でしょうね、ただ頭がいいだけじゃなくて、なんか何でもできてしまうんですよね。
うん、ね。
うん。だからバイオリンもね、世界で10番目を目指してたとか。
ああ。
腕前だったとか。
うんうんうん。
だからこれ僕が、自分がですね、もし小説を書こうって思った時に、こんなアリシアみたいな人物。
ああ、うん。
書くのって、一番難しいんじゃないかって思うような。
うんうんうん、確かに。
そんな人物でしたね。
私、うーん、なぜちょっと小まくまかしがこのステラマリスを書いたんだろうっていうのは、取りすぎゆくものだけで完結させず、このアリシアを深掘っていったのかっていうのは、なんか意味がある感じがするよね。
ああ、そうですね。
まあ、数学とか物理学とか、哲学、まあ言語もね、話出てくるしね。
うん。
その辺りに関して、多分、ちょっと思っていることも載せたかったんだろうなとは思ったけど。
うん。
そうですね。小まくまかし作品だと、ブラッドメリティアンに、あのハンジというですね、これも現実離れして、もうすごい白色の人物がいるんですけども、その人も本当にもう世の中の全て何でも知ってるんじゃないかと思わせる人物で、
一方で、善とか悪とか、なんかそういうものがごちゃ混ぜになってるような、なんか人間の倫理とか、人間の物差しでは測れないような人物で、結構ね、なんかアリシアもそういう存在なのかなと。
なんか人間の物差しでは測れないけど、でも世界の、なんかね、物事というか世界のルールというか、なんかそういうものには精通していて。
うんうん。
だからこそ、この人間社会の中ではかなり浮いた存在になっているみたいな存在ですね。
で、前作通り過ぎ行くものの中では、キッドっていうのは実際に出てきて、アリシアと会話をするってシーンが、まあ多いんですけど、
ステラマリスの方では、キッドは話にはめちゃめちゃ出てくるけれども、実際には現れないと。
なんかアリシア視点でもなく、公園視点でもなく、ただその会話が繰り広げられているというだけだからだと思うんだけども、やっぱり幻覚だったのかなって思うところだけれども、
でもキッドの話はね、すごくすることになっていて、まあどういう存在だったのかとか。
アリシアとしては、自分が知っていること以外のことも知っている存在みたいな感覚もあったから、自分が生み出したものなのかどうかみたいなところもわからない。
キッドがこのアリシアという人物が抱えているもう一つの側面なのか、それともアリシアとは別のまた独立した存在なのか、
そこもどっちとも捉えることができるような描かれ方をしていると思いましたし、
あと精神科医の人もこのキッドはかなり最初危険視していたと思うんですよね。
キッドが見えてしまうと、キッドとの会話っていうのが進むと、ちょっと自殺になっていくんじゃないかっていう。
ただ一方で考えられることとして、キッドの存在が自殺をそそのかす存在なのか、
でも見方によっては自殺を食い止める存在に見えとして捉えることもできるかもしれないというので。
これもですね、というので結局キッドとは一体何なんだろう。謎は残るというか、ちょっと自分の中ではわからないままでしたけど。
それも答えはなくってとこですよね。
モヤモヤが残るような作品なのかなって思いますね。
そうですね。でもそれが口幕ばっかりのお茶事なんでしょうね。
そうですよね。このステラマリスは結構通り過ぎゆくものよりかは、やっぱり数学的な話、理系的な話はよりふんだんに出ていたなと。
思いますね。何か会話の節々でも、例えば知性について言及しているところがあって、
この精神科医がね、この会話の中で知性っていう言葉を出したらそれにね、ちょっと関連するような回答で、
アリシアはそうしてまた言うけど、知性について語るとき、人は数について語っている。
数学的思考をしない人はそう聞くとすぐ迷いを潜めるけど、知性の本質は計算と計算の性質なの。
言葉を使う知性はそれなりの場所にしか連れて行ってくれない。そこには壁が立ち塞がるけど、数字を理解しない人には壁を見ることすらできない。
っていう風に言ってて、結構この知性を計算と計算という数字で表せるもので、壁っていうのが実は目の前にあるけども、
壁が見えるのも数字を理解している人にしか壁は見えないと。逆に数字を理解していない人は壁があることすらわからないっていうですね。
これもなかなか深いというか、理系じゃない、ちょっと数字に弱い人からするとですね、僕とか読んでるとね、ちょっと痛って思うような文章でしたけど。
理系的な感覚とまで言っちゃうとあれだけど、数学と物理学の違いとかね。
数学には限界がないじゃなくて、物理は現実世界のものだからそれに合わせたものがあるけれども、数学に関しては理論とか計算だから、
そういう現実的な制限はないような話とかしていて、だから数学が好きなんだみたいな話とかね、あったけれども、
その辺りとかもね、アリシアの知性というか、すごくね。
ただの会話をしているだけなのにそういう話がポンポン出てくるっていうか、これは結構面白いところで。
これはそうだね。演劇とかで見せたら混乱すると思う、俺。
あ、そうですね。
文章だからギリギリついていけるけどみたいな。
文章を読んでるからね、確かにこれが言葉として聞くだけだったらもうちんぷんかんぷんかなって思いますね。
そうですね。
そうですよね。そうやってですね、数学とはとか、あと結構ね、この原発の話とかもお父さんに触れているところとかもあって、
気になるところいっぱいあるんですけども、やっぱりこのアリシアの会話の中で結構面白かったなと思ったのが、
最後の方で言語について話しているところがあって、それは人類にとって言語とはっていう話で、
それがですね、人類の脳は何百年もの間、言語なしでかなりうまくやってた。
ただ言語の到来は寄生生物の侵入にも似ていると。脳の一番使われていない領域を勝手に使われてしまったからだと。
文法選挙のね、去りやすい部分っていうのが言語が入ってきたことで占領されてしまったと。
人類が生き延びるためにはですね、結構そのシステムですね、呼吸するとか、酸素を取り入れるとか、瞬きするとか、
そういうなんていうのかな、無意識のうちにしているような、生物として維持するために必要なシステムっていうのが人類にいるんですけど、
そういうシステムっていうのがあるんですけど、そういう生物として必要な能力の歴史っていうのはどれも同じだけど、
この言語能力の歴史だけは違うと。言語能力の歴史というかですね、
このプロセスみたいなところ、人類にインストールされているプロセスみたいなところはちょっと違っているっていうところで。
というのでですね、この言語についての所感みたいなところですね、このアリシアが思う、そこがですね、結構ツラツラと書かれているところがあって、
ここはですね、単純になんか興味みたいなところがすごく湧くようなことが書かれていて面白かったなというので、
本筋ではないかなと思うんですけども、なんかもっと本筋ってお父さんの話とかお兄さんの話とかもあったりするんですけども、
なんかやたら印象に残ったりするんですよね。
この言語の話は私もだいぶ印象に残ってますね。
生物の侵入、生から生まれたものじゃない言語、面白いよね。
考え方が面白かったな、言語というものに対して捉え方が。
ちょっと言語はね、わりと分かりやすい部分だったからあれだけど、数学の知識とかある人が読んだらめちゃめちゃ面白いのかもしれないですね。
たしかにたしかに、そこが気になりますね。数学とか物理とかクラシックとか。
言語はこれはだいぶイメージしやすい話で入ってきたから、かなとはちょっと思いますね。
じゃあ最後にですね、通り過ぎゆくものとステラマリス、合わせて読み終えた感想をちょっと話していきたいなと思ってるんですけど、
今までにないタイプの二部作だったかなとは思いながらも、何かしらこういうの読んだことある気はしていて、
このバーンと大きな作品があって、それに対するちょっと補足的に読めるような作品があるみたいのは何となくありそうだなと思うんですけど、
なんかこうまくまっかしがやるとこうなるのかっていう感じはちょっとあって。
なんか通り過ぎゆくものとステラマリスっていうのがあって、やっぱりこう二つ読むからこそ見えてきたものっていうのは絶対あると思うんだけど、
なんか今回先週も含めてずっと言ってるけど答えがないじゃん、やっぱり。
他の作品もそうだったけど答えがないわけで、そこに対して自分でこれ見つけなきゃいけないのか、それともそもそも答えなんてないのかっていうのは、
なんかこうまくまっかしの作品っぽいなっていうのはすごくちょっと思った。
こういう補完してるものを読むと、やっぱりどうしても答えを期待してたなって読み終えた時に思ってしまった自分がいたんだけれども、
そこはやっぱりないという。現実もそうだしね、答えがあるものの方が少ないし、答えのないまま生きてくんだなっていう感覚もちょっと持てた。
特に通り過ぎ行くもののラストとかね、ちょっとその辺りを感じながら。
ステラマリスのラストはちょっと深まって終わっていったなっていう感じがするし、
ちょっとこの後予感させるような終わり方でもあったからってとこはあるけどね。
いや、でもやっぱりこのこうまくまっかしの世界観が好きで、何でしょうね。
なんかこうまくまっかしのその世界に住みたいかっていうと、全然そうではないんですけど、
そこはねやっぱりちょっとかなり厳しくて、生きていくには。
でも実はこうまくまっかしが小説に書いてるみたいに、自分はそんな世界は嫌だなと思ってても、でも世界はそうなのかもしれないなというので、
読んでの感想の前に、自分がどう生きていくべきかみたいなスタンスというか、
そういうのって結構考えてしまうものなんですけども、今回のこの入作読んでいてちょっと思ったのが、
自分がどういうスタンスで生きるかというよりかは、この世界がどういう世界なのかっていうこの世界のスタンスですね。
そっちを理解する方が大事なんじゃないかなと。
こういう世界だからその中で生きていくにはこういうことを注意しないといけないとか、こういうことを守らないといけないとかっていうですね。
そういったことを結構小まくまっかしは書いてるんじゃないかなと。特に通り過ぎるものではそう思いますし。
というので、なんか結構このまっかわしい作品を読んで、これは他の作品もまっかわしい作品を読んでもそうなんですけども、
やっぱりこの世界への捉え方をちょっと見直したり、なんかそういう世界に身を置いてる自分でもあるんだっていうのを意識すると、
なんかね、この自分のスタンスみたいなところもその世界に合わせて見直してしまうようなんですね。
なんかそんなちょっと気持ちが引き締まるようなところがあって、というのがこの二部作読んでちょっと自分の中で思ったところですね。
で、やっぱりこれは二部作読んでも謎は深まるばかりというか、なんかステラン・ワリス読んで、もう一度通り過ぎゆくものをちょっと読みたいなところですね。
特に最初の通り過ぎゆくものの最初のアリシアのパートとか読むとですね、やっぱり最初の頃はよくわからないものを読んだんですけど、
二週目に入るとだいぶ話が入ってくるようになったので、これは通り過ぎゆくもの、ステラン・ワリスを一回読んだだけではなかなかわからないなと。
もう一回また読みたいなと思いましたね。
ちょっとこれは確かに一回読んだだけじゃなかなか理解できない部分多いかもしれないね、この二作はね。
そうですね。
面白いしテンポもいいから、なんかねサクサク進んでしまうところもあるんだけれども、もう一回読んでみると確かにちょっと全然違う角度でいろんなものが見えてくるかもしれないですね。
なんかね、通り過ぎゆくものとか会話がすごい面白かったんですけど、ボビーといろんな人物とすごい長い会話が多いんですけど、すごく面白かったんですけど、なんか内容を忘れてしまっているところとか。
確かに。
ちょっと振り返りたいですね。
そうですね。
じゃあちょっとそんなところにしておきますか。
どうでしょう、感想いいか、もう。
もうそうですね、読み上げた感想も。