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2025-08-19 32:12

#95(興味のある方のみ)在宅看取りの体験談

サマリー

このエピソードでは、在宅で看取りを経験した方が、末期癌で亡くなった父との思い出や介護の過程について語っています。特に、パーキンソン病と大腸癌を抱える父との生活や家族とのふれあいを通じて、終末期における親子の絆が深まる様子が伝わります。在宅看取りの体験が語られ、家族の様子や医療ケアの重要性が強調されます。特に、痛みの緩和や父親の最後の瞬間を見守る葛藤と成長が描かれています。

父の病歴と末期癌
はい、みなさまこんにちは、さらば”ラバウル”カンパニーです。
はい、ちょっとですね、今回はいろいろ最近楽しいこともあるんですけれども、
昨日ですね、とある方のレビューを聞いて、その方のお母様がちょっと末期眼というお話を聞いたんですよね。
私、あんまりちゃんとコメントとかもこれまでしたこともないので、
少しそういう中でコメントするのは失礼だなというふうに思って、
ただですね、もしその方が聞いてくださるのであれば、
その方向けにちょっと私が直近で経験した末期眼、大腸眼で亡くなった父と、
その父を見取った私と母の話をですね、撮れたらなと思ったんですよ。
で、なんて言うんでしょうか、ちょっと今お昼休みなんですけど、
ちょっと突き動かされるように今撮ってまして、
ですので、ちょっとこの話は楽しく聞ける話では多分全くないので、
本当に在宅見取りとかに興味のある方とか、
またその末期眼の方を見送らなければいけない方とか、
そういった方に聞いてもらえればと思います。
すいません、ちょっとね、楽しい話ではないです。
でですね、ちょっとすいません、重くなりますので、
まずあくまでこれは一例です。
私と父の一例ですね。
で、父はですね、
昨年の6月に多開しましたが、
そのちょうど1年前ぐらいにですね、
2つの病気を発症しました。
1つはパーキンソン病ですね。
パーキンソン病というのは、
頭でですね、脳の病気なんですけれども、
ドーパミン、これをね受け取る場所、
ドーパミンを受容体、受け取る場所ですね。
ここがだんだん機能が衰えることで、
体のししですね、手足とかが動かしづらくなる病気ですね。
で、父が5年ほど前からですね、
亡くなる4、5年ほど前から、
ズボンが履きづらいとかですね、
手先が震えるっていう話は聞いてたんですよ。
で、父がいろんな病院に行ったんですけれども、
なかなかその処方される薬とかで良くならなくて、
ついに自分で脳神経血管に行って、
やっとパーキンソン病だということがわかったんですね。
その頃にはちょっと症状も進んでいて、
歩き方も少しタドタドしかったりとかですね、
お酒を飲むとですね、家で転ぶようになったりしたんですよ。
いつかな、3年前の正月とかに転んでですね、
僕持ち上げたんですけど、
そんな感じでちょっとね、体の動き悪くなってたんですよね。
それでも自分で肺弁とかはできてたんですけど、
僕東京にいてね、母から電話が来て、
父さんが救急車で病院に行きました。
救急車だったと思いますけど、
それは弁が詰まったということで、
弁が詰まってお腹がとっても痛くなって、病院に行ったと。
診察してもらったら腸閉塞になってたんですよね。
その腸にですね、何かが詰まっていると。
それを調べてみたら、がん細胞だった。
ちょっとリンパ転移も認められるということで、ステージ3の大腸がん。
リンパ転移があるとステージ3ですね。
ということだったんですよね。
それがなくなる1、もうちょっと前かな。
2年前ぐらいかな。
わかんないです。ごめんね。
時系列がわかんなくなっちゃったんですけど。
もうちょっと前かな。2、3年前。
切除してね、リンパもある程度取りましたということだったんですけれども、
父はですね、抗がん剤治療はしたくないという話だったんですよね。
私もですね、その気持ちは本当によくわかって、
抗がん剤治療によってですね、寿命は伸びても、
人生の健康な時間っていうのは短くなる可能性もありますから、
抗がん剤治療の副作用でね。
なのでQOLを考えるとしない方が良いのかなと。
あとしたところでですね、父の病状からすると、
5年の平均余命が25%から30%に5%伸びるだけですので、
それで1年間の抗がん剤治療をするのは何か変だなと。
というのは父も私も思って、母も思ったらしくて、
そういうことになりました。
在宅看取りの開始
抗がん剤治療はしないでね。
父はね、その取り除いた後は半分ぐらい。
大腸を取り除くと、肛門に近いところにするとストーマになりますが、
父の場合は、もうちょっと上の方といいますか、
肛門から遠い方だったので、その必要はなかったんですよね。
先生からも差し支えのない範囲で、
いつも通り暮らしてくださいと言われて、
お酒とか飲んでも大丈夫ですと言われて、
父は1年ぐらいは楽しく過ごしてたんですけれども、
ある時、1、2回検診行った時は全くがんなくなりましたとは言われたんですけど、
やっぱりね、2、3年するとリンパの点がありますねという話になって、再発ですね。
やっぱりがんってそんな風に進みますから、
ぬか喜びしちゃいけないんですけどね。
父もそういうのは分かってた感じではありますけど、
やっぱりちょっと落ち込んでましたね。
ただですね、やっぱり合わせてパーキンソン病も進んでましたので、
なんか私の心の中ではパーキンソン病で死ねないっていうのはね、
これよく知られた話で、
90歳になってもパーキンソン病でも、
手足が本当に震えたままでも死ねなくてずっと、
死ねなくてって言い方ひどいですけど、
病院でね、パーキンソン病専用のとこに入院されてる方っていっぱいいるんですよ。
父は死ねないっていうことを喜んでいた一方で、
終わりが来ない苦しさもあるってのは多分あったと思うし、
私自身はどっちかというとそっちの方が辛いんじゃないかなと思ってたので、
この癌っていうのは幸運でもあって不幸でもあった。
どっちかというと私は終わりのある病気が終わりのない病気と合わせてきて、
カウンターを当ててんのかな、よくわかんないですけど、
よかったなと思ったんですよね。
再発ですかね。
病院をね、いろんな入院して、
父は免疫療法とかね、そういうのもちょっと興味を持ったらしいんですけども、
結局ね、それをするにはちょっと病気が早かったかもしれないですね。
病院もお気に入りの病院あったんですけど、そこにずっといることはできなくて、
なんか病院を何個か入院したりして、
ただやっぱりその転移は進んでね、
入院してる父に会いに行ったんですよね。
なんかね、病室が暗くて、
で、父もちょっと寂しそうでね、
でね、まあちょっとそこにいるのは父は嫌だなと言って、
僕もこんなとこで父が死ぬのは嫌だなと思って、
なんか父兼ねてからその在宅の見取りに興味があるっていう話だったんで、
まあそれをやってみたいということで、
で、まあ人を見取るって結構やっぱ大変じゃないですか、
それはその見取らなくても想像がつくというか、
ただね私、運がいいのか悪いのか、
仕事ね、起業してた会社を畳んでた時期で就職活動中だったので、
時間ならたっぷりあったんでね、
見取ってあげたいなと思って、
で、1ヶ月間ね、
まあ1ヶ月予定したわけじゃないですけど、
まあ結果1ヶ月間その父を家で見取ることになりました。
でね、僕の家って父が建築士で設計した家で、
光がよく入ってくる家なんですよね。
で、まあ病棟に比べると光が入ってきて、
ちょっとね元気になるというか、
そんな感じで、
まあ5月の末かな、
そうですね。
で、父もやっぱ嬉しかったのかな、
そんな感じでちょっと元気も出て、
で、パーキンソンの症状もありましたので、
たぶんガンて亡くなる方の1ヶ月前の人ってもうちょっと元気だと思うんですけど、
父はもうちょっとね、ベッドで横になってるのがあれだったんですけど、
帰ってきた時はね、
ちょっと生活をやり直すというか車椅子で移動できるようになりたいっていう風に話してたんですけどね。
ただやっぱりガンってご飯が食べられなくなるので、
まあ必然的にエネルギーが減っていくんですよね。
だから父は異動とかそういう点滴もしなかったので、
まあ体のエネルギーが弱くなっていくので、
ちょっとね車椅子にも座れる状態ではなかったですね。
で、ベッドをね、
ケアマネージャーさんという方借りて、
それをね、とにかく光の入るリビングで置いて、
で、5月末ですね。
はい、まああの、
気候的には本当に素晴らしかったですね。
晴れの日が続いて。
そんな中でね、
で、帰ってきたばかりの父って、
まあ結構気持ちもすさんでたんですよね。
だけどまあ、母と僕ですか。
看護師さんから母と僕に代わって、
なんかね、口の中も結構血まめとかすごかったんですけどね。
それをなんかこうマイスマッサージっていうのがあって、
説明しますと、その在宅医療のプロの、
プロの病院を探して、
そこにまあそのお医者さん1人と看護師さんが数名いるんですよね。
で、その在宅医療の先生がね、素晴らしくて、
まあその、お互いに過度な治療はしない。
その医療はしないし、
天敵もいないし、
お互いに過度な治療はしない。その医療はしないし、
天敵も本当に必要な天敵しかしないし、
植物人間になるのは嫌だっていうのはね、
父もそうだし、私たちもそう思ってたし、
それをね、本当に尊重してくれて、
ただ、やっぱり肺にね、転移が進んでたので、
酸素吸入はね、したほうがいいっていうことで、
酸素吸入液をね、つけて、
やっぱりね、酸素吸入液つけると病人ゼンとしてくるんでね、
父も最初は嫌だなとは言ってたんですけど、
家族との時間
やっぱり呼吸が楽なんでしょうね。
酸素吸入液。
2リッター毎分ですね、鼻につけて。
それもね、まちゅう分みたいなのを鼻に置く感じでね。
始まりましたね、みとりの生活が。
でもね、父がまともに食べれたのって、
帰ってきた時のホタテですかね。
ホタテを醤油で一口二口食べて横になるって言ってね。
そっからはね、やっぱり咀嚼、
あんま食べることはしなかったんですけど。
父の病状を聞いてね、
父って4人兄弟で、お兄さんが2人。
お兄さんと弟か。
ちょっとね、2人目のお兄さんはとあることで亡くなっちゃってるんですけど、
一番上のお兄さんは秋田で農家されてて、
一番下のお兄さんは茨城に住まいで。
僕ちっちゃい頃、2人にはお世話になってるから連絡してね。
そしたら飛んできてくれることになって、
1週間後ぐらいかな。
本当にね、父嬉しそうで。
10年ぶりぐらいですかね。
父、養子齢。秋田の農家なんですけど。
父、養子齢。
自分のおばとね、札幌に出てきたんですよ。
5歳ぐらいの時ね。
おばは20歳ぐらいだったのかな。
父はちょっとね、性格が効かないというかね。
家族から見てもちょっと寒酌持ちでね。
お兄さんとか見てもやっぱりみんな性格いいんだよな。
だからちょっとね、そういうのもあって。
もしかしたら、ちょっと。
もちろんのけ者扱いってことはないんだけど。
養子にね、祖母と来て。
逆に言うと、祖母がすごくて。
祖母は下宿とかやって。
父に初任級ぐらいの仕送りをね、東京に。
父が帰っている時は送ったりしてたぐらい。
経済的には困らなかったんですよね、父も。
ただ、養子に出されたってことは、
父にとっては本当に重かったんですよね。
まあでも、それで兄弟ね。
札幌に来てくれて。
兄弟のね、お兄さんも本当にびっくりしてましたね。
でね、まあそういう。
そこに、例えば僕のね、幼馴染の子なの子とかが。
僕のお父さんがすごいかわいがってたんでね。
新しい旦那さん連れてね。
新婚保養屋ですよ。
結婚して2週間ぐらいでね、会いに来てくれて。
父本当に喜んでたな。
まあそんな感じでね。
亡くなる直前でも、体が動かなくても、
人生って楽しいんですよね。
いいこともいっぱいあります。
だから、最後まで楽しんでほしいですよね。
はい、すいませんね。
で、まあ、食べれなくなると、水分補給はするんですよ。
で、父は暑かったみたいですね。
部屋が暑いわけじゃなくて、がんの副作用で暑いんですよね。
ひたすらね、氷枕を交換してほしいって言うんですね。
行けば氷枕を交換ですね。
アマソンで2、3個買ってね、交換して。
で、父はね、怒鳴ると元気になるんですよ。
やっぱね、もともと結構怒りっぽいんですけど、
パーキンソン病ってのもあって、喜びがあんまり受け取れない状態であるんですけど、
怒ると元気になるんでね。
死ぬギリギリまでね、お母さんと喧嘩とかして。
なんか僕の方がね、地盤じゃないですけど、
看取りの体験
航空マッサージ?アイスマッサージって言うんですけど、
冷やしたスポンジに水つけてね、口の中マッサージしてあげるんですよ。
そうしないと結構口の中がカピカピになっちゃって、
ばい菌がわいたりするんだよね。
なんかそれがうまいとかね。
あと、足のマッサージですか。
シシが動かせないんでね。
それを手で持って動かしてあげるんですよね。
そういうのもうまいって言われて。
なんで俺みたいにできないんだっていうね。
お母さんに怒ったりして、お母さんも怒ってましたけどね。
食べれなくなった人の命のバロメーターっていうのはね、
それ尿なんですよね。
なんだっけあれ。
おしっこをドレンっていうので排尿できるようにするんですよね。
その尿の量って、毎日同じ時間に捨てることで、
その尿の量が400ミリですか300ミリですか分かるんですけど、
500ミリ1日出てればまだ大丈夫なんですけどね。
それが200ミリとかになると結構危ない状態なんですよね。
父も尿の量気にしてね、あれしてたりするんですけど。
だんだんね、巻きがに近づくと経民っていうのが増えてきて、
寝てる時間が増えるんですよね。
そうなりつつもね、父の好きな音楽かけてね。
桑田圭介とかビートルズとかね。
1時間くらいかけるとやっぱ飽きたっていうね、変えたりして。
桑田圭介とかビートルズとかクラシックとかジャズとかね。
あとね、覚えてるのがずっと同じベッドで寝てるから、
天井に埃があるって言って、確かに埃あるんですよね。
それを取ってあげたりね。
僕も結構ね、しんどくなってきたんですよね。
夜中ね、叫んだりするんですよ。辛くて痛くて。
痛いっていうかね、痰とかが絡んじゃうんですよね。
そうそう思い出した。痰をね、うまく出したいんですよ。
そのためにワーって言ったりして、痰を吐き出すんですけどね。
そのためにね、夜中父がワーって叫ぶのを聞いて目覚めたりとかして、
寝れなくなっちゃってね。
母と12時間交代みたいな感じで。
でもね、そういう叫ぶのも減って、
そうですね、父がだんだん静かになっていくんですよね。
ただ、やっぱり痛いって言うようになってね。
これ、頭痛とかって言いますけどね。
先生からね、先生はね、1週間に1回来てくれたかな。
毎日看護師さんが来てくれて、体のケアとかね。
私たち看護する人のケア、家族のケアもしてくれるんですよね。
本当にありがたかったですよね。
その方々も、ちょっと余談ですけど、病院で亡くなる方をたくさん見て、
家族の葛藤
やっぱりこの死に方は違うっていうふうに思って、
在宅医療、看護師さんになられてるんですよね。
だから、病院の看護師さんも悪気があって、
父をほったらかしにしたりするわけじゃなくて、パンクしてるんですよね、病院が。
でもやっぱりそういう在宅医療の方っていうのは、
そういう現場でね、を知りながらやってるんで、
本当にプロ中のプロなんですよね。
本当に見取ることに慣れてるというか。
でも、母も僕もそんな見取り慣れてないんでね。
いろいろアドバイスもらって、
頑張りすぎちゃダメだよとか、
本当にもう大変だったら病院に父を入院させて、
最後見取ってもいいんだよとか教えてくれて。
父が通ってた千葉工業大学、息子さんが通ってるっていうお母さんとかもいたりして、
父本当に喜んでましたね。
だからね、死ぬ直前まで出会いってあるんですよね。
仮に体が動かなくても。
そうなんだなっていうふうに思いました。
父楽しみでね、その看護師さんが来るの。
最後その頭痛がね、ひどくなってきたら、
この在庫を使ってくださいっていうことで、
モルヒネですね。
っていうのをお医者さんにもらって、
冷蔵庫に入れといてくださいと。
普通の人が使うと良くないですから、依存者になっちゃいますから、
薬の量も管理されるんですよね。
その使った分は絶対に日時とか記録して置いておいてくださいって言われて、
それをね、持ってたんですけどね。
やっぱり父がつらい痛いって、
亡くなる1週間前から言うようになったんで、
父にね、そういうのもあるよと。
私の良くない癖ですよ、聞きかじってあれでね。
最後の頭痛を取り除くモルヒネっていうのは、
逆に思考もスッキリさせるし、
痛みを除くだけでね、
依存とかにはならないわけですよね。
依存になるにしては寿命が短すぎるんでね、
そういうのもあると思うんですけど。
家に行ったんですけどね、
モルヒネは嫌だって言うんですよ。
嫌ですよね。
でもね、僕なんかいろいろ考えて、やっぱりやってみようって言って、
ものは試しだとか言ってね。
罪悪入れてね。
結構やっぱり楽になったみたいですね。
ちょっと喋ったりして。
最後何喋ったかな?
どう思い出せないですね。
だね。
それで、
そういう罪悪を使ってね、
1日2日くらいかな、
お医者さんに来てね、
血圧が低いって言うんですよね。
最後が近いって言うんですよね。
24時間くらいですよね。
24時間くらいです。
で、父もずっと寝てたんですよ。
結構ね、スーピースーピーってね、
気持ちよさそうに寝てて。
穏やかな時間でしたね。
次の日もね、朝スーピーって寝てて。
何にもすることがない感じ。
母も私も、それまで父が、
なんかね、父に、
コールのなんか、
ダンスコールみたいなのをアマゾンで買って渡したら、
めちゃくちゃ呼ぶんですよね。
ピンって押したら、なんかね、
母の元で音楽が鳴るみたいな。
もうね、めちゃくちゃ叩き起こすんですよ。
1、2時間に1回。
口マッサージしろとかね、
枕替えろとか、
なんか言ってきて。
でもね、僕も母もほんと、
あと1週間長かったらもう入院させてるかもしれないですけど、
そんな忙しかった、
父が起きないんでね、
亡くなって。
なんか静かにね、
母となんか話し合うんですよ。
そしたらあれから電話が家にかかってきて、
母が電話して、
で、なんか、
たぶん姉に病状を説明して、
僕もちょっと仕事しようと思って、
6月に入社してた。
仕事してたら、
5分くらいですね。
で、俺なんか飲み物取りに行ったら、
父の2Pが止まってて、
胸が動いてないって気づいたんですよね。
で、母に、
お父さん呼吸止まったって言って、
なんか病院の2みたいなつけてないですからね。
お父さん呼吸止まってるわって言って、
で、お母さんがあらって言って、
お母さんね、
いやぁ、亡くなっちゃったのかいって言ってね。
でもね、
お母さんはもう涙出ないんですよね。
あれはね、
どうなったんだろう、
達成感ありましたね。
達成感だと思うし、
目の前で人の命が亡くなっていくのって、
なんかああいうふうに目の当たりにしたことって、
最後の瞬間とその後
僕も母も多分ないんで、びっくり。
こうやって死ぬんだっていうのとか、
それが一種、
看護の終わりも意味したので、
開放感もあったし、
悲しみはなかったですね、あんまり。
もうね、やり切ったら、
父もやり切ってるし、
母もやり切ってるし、
僕もやり切った。
そんな感じで、
ライフイベントだったんですかね。
そんな感じでしたね。
そして死んで1年ぐらい経ちますけどね。
やっぱり1年ぐらい経たないと元気にならないっすね。
なんかね、なんか元気が出ないっていう感じでしたね。
父を探し続けてるっていうかね。
どこ行ったんだろうってずっと思ってましたけど。
ちょっとね、
もうちょっとその方を勇気づける録音にしたかったのに。
ダメですね。
なんでこうなっちゃったの。
すいません。
そんな感じでね。
あります。
そんな感じですけど、
1回ね、この収録終わろうと思います。
ちょっとね、なんか公開の仕方考えなきゃいけないな。
はい、ありがとうございました。
32:12

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