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はい、おはようございます。本日の放送は2023年の3月2日、木曜日です。
本日は第368回目のお話となりまーす。
このチャンネルは福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになった音をダラダラ話をしていくという番組です。
そんな親父の一言をお聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。
悪意はなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願い致します。
プロデューサーっていう仕事はあんまりですね、仕事の割にですね、話題になることって少ないですね。
映画やテレビ番組、ドラマ、アニメなどのね、制作などを立案し、
制作活動の予算調達や管理、スタッフの人事、制作全体を総括するお仕事ですよね。
ディレクター、監督にですね、広範囲な管理指揮権を有していて、制作物のね、商用的な製品についての責任を持つ方です。
スタッフの人事ってことを言いましょうね。要するに監督も選ぶってことなんですよ。
宮崎駿監督がね、すごいなーって言いますけどね、その宮崎監督にね、監督をさせた人ってことはね、あんまり話題にならないですよね。
その方がですね、福島県生まれなんです。 遠藤茂雄さんって方なんですよね。福島県生まれでね、日本のアニメーションのプロデューサーの方なんです。
いつも思うんですけどね、何々生まれ、何々育ち、何々出身っていう言葉ですよね。
福島県生まれってことですけどね、単に母親がね、里側でね、福島県で生んだだけかもしれませんしね、
高校までね、育ったのかもしれませんしね、ここら辺ね、ぜひとも知りたいなと思ってるんですけどね。
詳しい経歴とかね、ちょっと不明なんです。 1973年に日本アニメーションに入社するんですね。
生まれたのがね、1949年ってことですからね、お元気にした現在74歳の人たちになります。
2004年からですね、アニメの制作のスタッフのところにね、名前が出ることはないんですよね。
もうすでにアニメーションの一線をね、支持しておいたんでしょうかね。 ちょっとそれもね、知りたいなというところですね。
遠藤さんはね、制作のところを経てまして、1978年の未来少年コナンで初めてプロデューサーとなるんですね。
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というわけで宮崎駿監督にね、初めて監督をさせた人物なんですよ。
福島県生まれの方がね、宮崎監督を決めたっていうのはね、なんかすんの嬉しいですね。
自分が大好きな未来少年コナンをね、福島県出身者がプロデューサーをやったと、それもすんの嬉しいですね。
未来少年コナンというとですね、映画が2つあるんですよね。 1つはですね、1979年にね、最初に作られた映画です。
未来少年コナンというタイトルなんですかね。 その監督のところにですね、宮崎駿監督の名前がないんですね。
その代わりですね、総監督としまして、実写映画のね、海底出会い戦争だとかね、吸血鬼ゴケミドルとかのね、佐藤はじめさんの名前があるんですよ。
この作品ですとね、テレビのシリーズの中の前半部分をね、ギュギュッと集めたらね、そして映画にしたものなんですね。
どうしてこんな作品が作られたのかね、ちょっとね、謎の映画なんですよね。 宮崎駿監督はね、これは自分の作品じゃないとね、自分の名前を消してしまうんですね。
エンドウプロデューサーもね、この作品では名前が消してあるんですよ。 もう1本の映画の方はですね、1984年に作られたですね、未来少年コナン特別編
巨大ギガントの復活なんですね。
こちらの方でですね、エンドウさんはちゃんとプロデューサーをしています。 そして宮崎駿監督もちゃんと自分の名前を載せてるんですね。
実を言いますとね、このギガントの復活、この映画が公開された日はですね、宮崎駿監督のね、風の谷のナウシカのね、公開日だったんですね。
というわけで、宮崎駿監督はね、作品のね、援護射撃のつもりなのか、あるいはですね、あやかろうとしたのかね、ちょっと不明なんですよね。
ちゃんと宮崎駿監督の名前で公開されています。 宮崎駿監督はね、こちらの方の編集はね、全然タッチしてないんですけどね。
実を言いますとね、この当時は2つの映画を同時に上映するというのが普通だったんですね。
というので、このギガントの復活のですね、超人ロックがですね、同時上映だったんですよ。 というので超人ロックをね、もう大体的に盛り上げようという機運があったんですね。
かつて一緒に未来少年コナンを作ったですね、遠藤忍がプロデュースのね、超人ロック。 これを盛り上げるためにですね、それなら一緒に作ったコナンをね、使ってもいいよ、というつもりなのかもしれませんね。
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ここら辺ですね、お二人の話を聞かないとね、わかんないところなんですかね。 非常に気になっています。
この未来少年コナンをですね、テレビシーズね、こちらのプロデュースした翌年にはですね、1979年ですが、高畑勲監督にですね、赤毛のアンをね、監督させるんですね。
これも初監督なんですよ。 というわけでね、後にジブリを作る二人ね、それに初監督をさせたんですよね。
これもすごいですよね。 ジブリのお二人のね、プロデューサーというとね、鈴木敏夫さんがいますけどね。
そのずっと前からですからね。 遠藤忍さんはね、いかにも日本アニメーションらしいですね、作品のプロデューサーをしていくんですね。
赤毛のアンはね、厚生賞・児童福祉文化賞を受賞しています。 そしてあと、愛の学校恒例物語は厚生賞・児童福祉文化奨励賞。
瞳の中の少年・十五少年漂流記はアメリカのペアレントチョイス賞・ビデオ賞を受賞しているんですね。
賞を取ってませんけどね、不思議の国のアリスとかね、青い海のエルヒーとかね、小甲子セリーとかね、ピーターパンの冒険とかね、とても印象深いです。
そういったね、いかにも日本アニメーションらしい作品を作る一方ですね。 新しい作品もいろいろチャレンジするんですね。
例えばツリキチサンペイですよね。 それあとボス子アドベンチャー。
そしてびっくりしたのは乱獄少年パパ君ですよね。 それあとドキドキ伝説魔法陣グルグル
などなどですね。こういったものをですね、プロデュースしていくんですね。
そんな中のプロデュース一つがですね、1990年に作ったちびまる子ちゃんです。
ちびまる子ちゃんの一期なんですよね。 ちびまる子ちゃんは一旦途中で終わっちゃうんですね。その途中までのですね、
1990年の1月から1992年にかけて放送された分のところをプロデュースしたんですね。 このアニメがスタートしたときですね、こんなに続くとは思わなかったですよね。
少女漫画でもね、さくらもも子さんってそんなに有名じゃなかったですよね。 どちらかというとですね、
岡田アーミンさんのね、お父さん心配症の方がですね、人気だったような気がするんですね。 それが今じゃですね、サザエさんドラえもんアンパンマンって感じの国民的なアニメーションとなってますよね。
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ちびまる子ちゃんの一期もね、中央児童福祉審議会のね、特別推薦を受けてます。 日本アニメーションもね、世界名作でできる人とかね、ちびまる子ちゃんとかね、
そういうのを制作してね、すごい会社だなぁというイメージを持っていましたよね。 ふと気づくとですね、今だね、ちびまる子ちゃんね、そればっかりになっててね、他にこれっていうのがなくなってきてるんですね。
遠藤さんは現在ですね、どうされてるんでしょうね。引退されてるんでしょうかね。 というわけですね、宮崎駿監督、高畑勲監督の初監督をさせたっていうね。
ちびまる子ちゃんを生み出した一人にですね、福島県生まれのね、プロデューサーがいるってことね。 ぜひとも知ってほしいと思います。
どなたかですね、遠藤志賀さんの詳しい話とかね、インタビューしていけないでしょうかね。 福島県生まれっていうけどね、福島県との繋がり、どんなふうな繋がりなのか知りたいなぁと思っております。
はい、それではまた次回よろしく、ぷん吉さんお宝の発信をお付き合いくださいね。 本日もお聞き下さいまして誠にありがとうございました。