2024-11-06 20:58

#13 感情を溜めずに味わい合う - モンテッソーリネイチャーを終えて -

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みみとも第13回は先日開催したモンテッソーリネイチャーについて。
参加してくださったみなさんからのご感想をいくつか取り上げながら、それを起点に私たちが感じることを話します。
解決するとは限らないけれど、感情を出したり味わうことって意味はあるのか?

 

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サマリー

モンテッソーリのイベントを通じて、感情を味わい合うことの重要性が語られます。特に、大人同士の対話や子どもとの関わりにおいて、単なる観察ではなく、感情を共有することが有意義であると強調されています。ポッドキャストでは、感情を溜めずに味わい合うことの大切さが語られ、モンテッソーリネイチャーの体験を通じて考察されます。参加者は感情を表現する場の必要性と、その重要性について理解を深めています。

モンテッソーリイベントの振り返り
おはようございます。
おはようございます。
久しぶりに話しますね。
久しぶりだね。
そんなこんなの間に季節も変わって、もう秋真っ盛りの感じだね。
11月になってしまいました。
ちょうどね、軽井沢、紅葉とかも。
そうだね。
美しい季節で。
今、目の前は薪ストーブを焚きながら、そんな環境の中で話していますけれども、
今日はどんな話をしようかね。
今日はやっぱり、2週間くらい前かな。
我が家と、目の前の森のスペースを使って、
モンテッソーリのイベントをやったので、
そのイベント自分たちにとってもどうだったかな、みたいな話とか、感想とか。
振り返りつつ、そんな話ができるといいかなって思うけど、どうかな。
いいね。
ちょうど季節の変わり目というね、森の豊かさを使いながらやったイベントだったから、
そこで何を感じたかとか、そんなことを一回話せるといいかもね。
そうね。
でもちょうど森も紅葉が始まりかけみたいな時で、気持ちがよかったよね。
ちょうどね、天気もちょうどよくてね、森に入っていく活動をしたけど、それも心地よくできたし。
みんな、子どもも大人も両方楽しんでくれたと思うんだけど、
後で参加してくださった方から、直接声をかけてもらったりとかね、アンケートもらったりとか、
どんな場だったかっていうフィードバックをいくつかもらったんだけど、
結構最後にした大人の同士で対話をする時間があったんだけど、
その場もみなさんにとって結構良かったみたいで、それは嬉しかった。
そうだね。もっと話したかったみたいなね。そういう声ももらってたもんね。
今、そのアンケートをちょっと記憶を呼び起こしながらいるけど、
大人同士でね、子どものこととか、普段の生活のこととかね、そんなことを話したけど、
みんなで話しながら、そこにモンテッソーリとしてはこういう風に考えたりするよね、みたいな話を我々が乗せながら、
いろんな対話をしたりとか、関係性のコーチングみたいな観点からするとこういう考え方するかもね、みたいな話をしながら、
ざっくばらんにいろんなことを話したけれども、すごく印象的な言葉をアンケートでもらったなと思っていて、
子どもと接する中で、子どものことを例えば、今何を考えているのかなとか、どういうことに興味があるのかなっていう、
一種の観察って言えばいいのかな、そういったことをしようと思ったことがあったけれども、
けいちゃんかな、どっちが出したワードかわからないけれど、
子どもが感じていることを一緒に感情とか気持ちを味わう、みたいなことっていいよね、みたいなワードがたぶんどこかで出てきていて、
感情を味わう重要性
観察するってことはしていたかもしれないけど、一緒に気持ちとか感情を味わうって、
そういうのいいな、それって子どもにとっても大人にとってもいいな、みたいなことを書いてくれていて、
本当にそうだなってちょっと思ったんだよね。
味わう話の前にさ、先に私がたぶん代弁する話をしていて、子どもが例えば感情が高ぶっちゃっている、
例えば泣いているのか、大声を出しているのかわからないんだけど、高ぶりを感じたときにどうしていいのかっていう話、
エピソードがあって、
例えばそれを自分なりにこういう気持ちなのかなって解釈して、こういう気持ちなんだねって、
例えば代弁してあげるみたいな話とかになったときに、
代弁だとちょっとその子どもを、
的確にその感情を表現できているかこっちもわからないじゃない。
外から見てそう感じて、そうかなって代弁しているだけだから。
みたいな話があって、
たぶんそこのフィット感がないときに、
子どももちょっと違うんだよな、それって感じたときに、
その感情がまだ折り合いがつけられないじゃない?
そこからその味わう話に展開していったと思うんだけど、
そこに一緒に感じにいくっていうか、
外から見てあなたはこういう気持ちなんですねって代弁してあげるんじゃなくて、
もっと前のめりに自分が一緒に味わいにいくみたいな感じにすると、
確かに子どもの反応が違うかもみたいな話とかも出てきて、
結構一緒にその感情を味わうみたいなのは印象的だったね。
そうだね。
今その話を聞きながらね、やっぱりいろんなコミュニケーションがあるけれども、
一緒に味わえるといいよねっていうのを、
実はその場だけじゃなくて、いろんな組織とか、
いろんな人との場を思い出しながらそんなことを思ったな。
対話自体はできるんだけど、一緒に味わうっていうのはまた全然違う質感で、
それやっぱりしたいなって今思ったな。
何か起きた時に、
例えばさっきの子どもが目の前で感情が高ぶっているという事象が起きた時に、
そこを何とかしようとする大人の思考みたいなのが働いて、
そうすると多分その中にどっぷり行くっていうよりは、
ちょっと客観的な立場からこの状況を何とかしようという方向に思考がいくんだけども、
でもその目の前で起きている、現れてくるその感情自体を扱うというか、
一緒に感じるというか、そこに向き合う時間みたいなのって結構、
意識的にやらないと取れないなって私も思ってて、
やっぱりすごい思考的になっちゃう。
その話を今のと繋げて戻していくと、
あの場だからそういう話ができたね、みたいな話ももらってたじゃない。
場の力とコミュニケーション
あの場って結構、5組〜6組ぐらいのお父さんお母さんがいたけど、
その場をみんながやっぱり味わってたっていう感じがあって、
これもその場での話かな。
普段夫婦だけの時って、この味わう感じの対話にはならなくて、
どっちがいいのか白黒つける感じになるとか、
あるいは対話の結論というかプロセスが割とパターン化しているから、
あえて話さないとか、そういうことも出てたけど、
あの場だから話せたねとか、いろんな人がいる分逆に話せたね、
みたいなこともあったなと思っていて、
それは何だろうね、場の力っていうか、
さっきのけいちゃんの話と合わせると、
ある意味、意図した場をデザインしているわけだけど、
そういうことがやっぱり、持ちうる力ってあるよね。
あるよね。
本当に関係性のコーチングでは、そういう複数人のことをシステムって言ったりするけど、
あの時に来てくれて、あの場のシステムを作ってくれた、
たぶんみなさんのおかげで、そういう場になったんだと思うんだけど、
でも確かに、私たちもあると思うんだけどね、
たぶんこういう話をした時に、この二人の間だったらこういう展開になっていく、
でこう着地するだろうな、みたいなパターンみたいなものがたぶんあって、
それはたぶんどこのご家庭にもきっとあるんだろうなと思うんだけど、
だから二人の中で閉じて会話するとそのパターンに陥るんだけど、
そうやって複数の人たちがいて、もちろん自分たち以外の声とかもその場には出てきて、
っていう中で、自分たちが普段だったら、こういうふうに着地しそうだからまあいいかって、
心の中に置いている声が、たとえばポロッと出せちゃったりとかね、
そういうのはやっぱり場が持つ力だなっていう感じはするよね。
あの場を通したから伝わった、伝えられたことがある、みたいなフィードバックもらったもんね。
パートナーに対して、普段はそういう話はしないんだけど、
あの場で出た話、他の人が言った話を通して言いたかったことが伝わった、みたいな、そういうのもあったね。
そういうさ、今少し印象的なフィードバックの話を今してきたけど、
それを経てけいちゃんはどう感じる?
自分も含めてだと思うんだけど、やっぱり人間って、
ふっとこう自分の中に何かの考えとか思いとか感情とか浮かんでいることってあると思うんだけど、
それを、もちろん出せるものもあると思うんだけど、
自分の中に、いろんな理由でね、出さずに自分の中に留めておくっていうことってあるんだろうなって思うのね。
多分私もゆうくんに言わずに留めていることがあるかもしれないんだけど。
ありそうですね。
だから私も含めて多分あるだろうなって思うんだけど、
一見その生々しい想いとか感情を出さないでいると、
感情の解放と味わい
表面上は平和に、平穏にいろんなことをやり過ごせるっていうか、
それがその、ある意味大人の処世術的なというか、
そうなったらお互いにぶつからずにいけるよねみたいな立ち振る舞いができるわけだけど、
でも残るんだよね。自分の中には留めているわけだから。
だからなんかこう、それが安心して出せて、
安心して取り扱えてっていう場があるのって、すごいいいなって思った。
どういうふうにさ、いいの?
どういうふうにいいの?
溜まっていかない?
多分それを、「本当は自分はこういうことが気になっているのに」とか、
「こういうことを自分は大事にしたいと思っているのに」と思っていることを、
留めておく。
例えばそれが一個だけじゃなくて、いくつかあるくなったときに、
それが全部自分の中に留まっている状態って、すごいモヤモヤしない?
そういう質感よねって今聞いてて、
溜まっていくとかさ、積もっていくとかさ、淀んでいくとかさ、
そういう感じに、自分から出ていかないとなっていくってことだよね、きっとね。
割と同じことを感じながら聞いてた。
でね、何で質問したかみたいなところでいくと、
やっぱりそうかって答えを聞いても同じだなって思いつつ、
それを出すことってすごくいいことだなと、
溜まらないって意味でいいことだなって思ったんだけど、
出したから解決するかっていうのはまた別の話だと思っていて、
でもその場が必要だなって思うって、どういう風にいいんだろうなっていうことが気になったんだよね。
それでいくと、やっぱり溜まるとか積もるとか淀むのは、
人の感覚としては辛いことなんだな、みたいなことをちょっと今思った。
結局それが明示的に解決するわけではないけれども、
溜まらなくなるってことが多分大事なんだろうな。
そうね。どうなんだろう。
味わうことの意義
解決できないこともあるかもしれないけど、それでも出す意味ね。
そこが戻ってって味わうってそういうことなのかなって気がしたんだよね。
味わうとか、さっきの子どもの話に戻っていくと、
子どもの感情を味わったから解決するっていう話とはちょっと違うと思うわけよ。
ああ、そうだね、確かに。
話がずれてったらごめんなんだけど、
これを言ったらぶつかるだろう、相手は違う意見なはずだからっていうのがあるとするじゃない。
相手は白と言ってます、こっち黒と言ってます、みたいな話でさ。
そういうのを出すと、ぶつかるから出すのやめとこみたいな判断をする時って、
自分が黒っていう主張だから、黒っていうふうに持っていきたい、
そういうふうに着地したいっていうのがあるんだと思うんだけど、
それってすごい思考の話じゃん。
分かる分かる。
考えてることでしょ頭で。
なんだけどその味わうっていう話でさ、思うのは、
結局自分が黒にしたいっていうふうに思っている背景には何かがあるわけで、
何かの感情とか願いとかがあるから黒って言ってる。
だけど相手も白って言ってるんだったらその白にはやっぱり背景があって、
何かの願いとか感情みたいなことがあるから白っていう主張してるっていうだけだから、
やっぱりその白黒でお話しましょうっていうことよりは、
その裏側にある願いとか感情みたいなものを知るとか、
知ってちょっと味わってみるとか、
何かそういうのが大事な気がした。
味わってみるともしかすると現実的な世界の中で、
こういう考え方でやろっかみたいなのがちょっと形を変えたりとか、
っていうことが起こるのかもしれないなって思って、
そういう意味でも味わって知ろうとするというかね、
何かそういうことって大事なような気がしたな。
今思いついたからちょっとずれたかもしれないけど、出してみたんだけど。
イメージしてたのはちょっと実は違って、
今の話はすごいわかるの。
今の話わかると同時に、
今の話ってやっぱりこちらが相手のことを知ろうっていう種類の行為だと思う。
というふうに捉えたんだけど、
味わうはちょっと違うんじゃないかなって思った。
知ろうとしてるわけじゃなくて、
一緒に味わった結果知ることもあるみたいな。
そういう感じのイメージなんだよね。
解決を目的としなくてもいいっていう。
それこそ一緒にご飯食べようか。
全然違う感覚とか、
違う立場とか、
違うカルチャーとかかもしれないけど、
一緒にご飯を味わう。
それはいいなと思って。
結果何かを知るかもしれないし知らないかもしれないけど、
味わったなっていう感じはそこにある。
なんかそんなことを思ったかな。
なるほど。そういう感じなのかもしれないな。
そういう意味では、一緒に味わいたいなって思う。色んな人と。
だからこれからもああいう場でお互いに味わい合うみたいなことができるといいよね。
そんなことを思いました。
というわけで今日はこんな感じで終わっていきたいと思います。
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