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はい、いかがお過ごしですか?ポシビリティです。 うーん、コバッチャンすごいわ。
はい、本題の前にお知らせです。この番組は、昨日より今日、今日より明日をちょっとだけ良くする、そんな情報シェアを行っております。
はい、コバッチャンのね、コバッチャンのねって言って、いきなり冒頭からなんだよですけど、
詳しくは、概要欄に、この今日のお話の元になった、コバッチャンさんの配信は収録されたものを概要欄に貼っております。
どんなお話だったかというとね、ご本人もおっしゃってましたけど、ちょっと抽象的な話みたいにね、おっしゃってましたが、
えーと、僕がその配信から受けた、その、まあ、答え、僕の答えです。あくまで僕の答えです。
えーと、まあ、すごく極端な言い方しますけど、みんな好きにやれよ!
っていう、はい?って感じでね。
補足します。あのー、時代の流れって色々あって、で、どんどん変化していって、で、今特になんか変化が激しくなってるなっていう風に感じている方も多いんじゃないかなって思います。
そんな中で、その昔に比べて、今って、まあ、個人の自由度が結構増していると思うんですよね。
昔ほどあれやっちゃダメが減ってきているようなね、そんな気がします。で、これってその、
まあ、約束ごとがありますよね。 まあ、地域の約束ごともあれば、まあ、国のね、法律もあれば、
拘束みたいな学校のね、まあ、そういったルールもあったり、まあ、いろんなとこにね、いろんなルールがありますよと。
で、これってもともと、もともと僕が思う、 なんでルールがあるかっていうと、人がね、
生きやすくなるための、 まあ、手段
だと思うんですよ。 まあ、もしかするとちょっと
勘ぐると、一部の人が生きやすくなるためのルールであることもあるんだけど、 まあまあ、でもそうじてルールって、みんながある程度気持ちよく過ごしていけるように
作られているはず なんですよね。
で、僕はこういうルールを作る専門家ではないので、もうあくまでね、個人的意見ですけど、皆さんが多分、
まあ、こう、裸で感じるところでですね、 だんだんだんだん窮屈になってきてるよねっていうところも一部あるんじゃないかなって思うんですよ。
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で、それは何かっていうと、ルールが決まって詳細まで整えば整うほど、 まあ、要はその枠の中で生きていかないといけなくなるっていうことなんですよね。
で、ルール自体の良いところは、その逸脱した、誰かにね、本当に迷惑がかかってしまうような、 そういった行動をある程度規制することができたりとか。
そういうところって、そのルールの一つの効果だと思うんですけど、 逆に枠を飛び出さないようにしている分、それだけその枠の中での範囲内でしか
行動ができなくなるっていう、そういうものと常に一体なんですよね。
そう。で、ちょっと昔の
例え話としていいかどうかわかんないんですけど、 そうだな、ちょっと言葉古いんですけど、製造者責任みたいなことで、
ある製品、商品を作って、それによって使った人が何か怪我しちゃったとかね、 そういうことになった時に、時にそのものを作った製造元が訴えられちゃったりしますよね。
で、これはある程度その法律の範囲の中で、そういう対処になるわけですけど、 これ、まあね、3,40年ぐらい遡ると、どうだったかっていうと、ある製品を使っていて怪我しました。
何が起きてたかというとね、お前本当グズいよねっていう、グズいっていう表現良くないかな。 お前本当あの、なんていうの、ポンコツだなみたいな。
これどういうことかっていうと、作ったメーカーさんの製品を使っている、お前がポンコツなんだって言われてたんですよね。
で、これはその、いわゆるその人に責任があるよっていう考え方が、まあ30年40年前ぐらいは、割と、まあまあ世の中に、
まあ広まっていた暗黙の了解、 なんですよね。
で、僕が、アメリカがまあいわゆる訴訟の先進じゃないですか。 何かあれば訴えるみたいなね。
で、日本にその文化がいつから入ってきたかっていうことは、僕はエビデンスは今持ってないんですけど、
あのずいぶん昔ですよ。それこそ多分30年とか前かな。 えっと、マクドナルドのコーヒーを飲んで火傷した人がマックを訴えるっていうね。
そういう話を聞いた時に、まあ衝撃だったんですよ当時は。 いや、火傷したお前がグズいんやろってちょっと思ったんですけど。
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でも当時アメリカっていうのは、そのコーヒーが熱すぎるから俺は火傷した。 私は火傷した。どうしてくれるんだ。マックっていうことなんですよね。
で、今この話がどれだけ、 まあ日本の中でね、それはマック訴えないとっていう人たちがいるのか、
僕は知りませんし、まあ僕はどっちって言ったら、やっぱりいつまで経っても、いやいやお前が気をつけろよっていう、僕はですよ。
僕のポジションはそこなんですけど、今は昔に比べると、それはマックに言った方がいいねっていう人がなんか増えてはきてるのかなっていう感じはするんですよ。
で、それっていうのはある程度消費者を守るその仕組みではもちろんあるんですよね。 だけどこれっていうのは一人の消費者であるときは製造責任を問えるけども、もしかすると
逆にものづくりをしている側、あるいはそれを提供している側も逆の、 いわゆる訴えを受ける可能性もあるんですよね。
常に100%消費者だけで言い続けるかっていうと、まあそういうことでもないので、広くざっくり言うとお互い様っていう場面が出てくるんですよ。
これって権利を主張し続けて、もちろん訴えることは、そのまあ仕組みの中のね、 法律上とか決まったルールの中ではもちろん正当な手段なんですよ。
間違いなくね、権利として認められている以上は。 だけど、
そこの部分の考えが、その法律あるいはルールにのっとって考えすぎることによって 幸せになっているのかみたいなね。
そういう感じがちょっとしたんですよ。 これはもういろんな考えがあるので、あくまで本当に僕の思いなんですよ。
で、結局製造責任って厳しく問いますよね。 こういう製品作るからこうなったでしょうって言うわけですけど、こういう何だろうな考え方って
自分のね、例えば損失を受けたとこだけに適用されるならば、 まあ小さい範囲で済むのかなって思うんですけど、
あの時にね、全く損失もこむってない人たちが他者の製造責任を攻撃していることもあるんですよ。
でこれって、まあなんていうのかな、攻撃マインドがその脳の中とか、あるいは心のありようの中に 増えてしまっているんじゃないかなって思ってるんですね。
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で、ともすれば何か常にその不満に苛まれていてですね、 世の中のけしからんを探し続けているような人も僕の周りにはいるんですよ。
で、なんですかね、まあその人を見た時に僕がどう感じるかっていうと、 まあやっぱりちょっとかわいそうだなっていうに正直思うんですね。
で、やっぱりそういう人たち、そういう人の周りからはどんどんやっぱり人が離れていくんですよ。
そう、陰口言われちゃったりとかね、いうこともやっぱりあります。 なんであんなにあの人いつもあんなんだろうね、みたいなふうに言われて、ちょっと遠ざけられちゃったりするわけですよ。
で、それって本当にその人が望んだ生き方なのかなとかって、 まあ人の生き方にね、どうこういうのもそれも変な話なんですけど、もっと幸せに生きていく方法っていっぱいあると思うんだけどって思うんですよ。
で、逆に幸せそうな人の特徴にガラッと切り替えて見てみると、どういう要素を持っているかっていうと、寛容だったりするんですよね。
例えば人の失敗とかにすごく寛容で、誰だってそれ間違うからさ、やり直せばいいじゃんって、何だったら助けてやるよって、俺ができることはないって、そういう人って人がやっぱり集まってきてますよね。
で、いつも誰かを想い、誰かのためにとかね、そういう思いで生きている人って、すごく毎日がなんか幸せそうに見える。あくまで見えるですよ。
でもすごくいろんないい空気の中にね、囲まれていて、なんか幸せそうだなって思う。
で、それって寛容さみたいなとこがあって、少し言葉を変えると、許すことがいっぱい多いんだろうなって思うんですよ。人の失敗もそう、自分の過ちもそう。
で、許したからといってそれをいいと言ってるわけじゃなくて、是正するっていうことに注目しているのかなって、もっと良くするためにどうすればいいかっていうことに力をかけて、
また新しいチャレンジとかね、やり直しをしているような、そんな感じだなって思ったんですよ。
なので、幸せにとか気楽にとか、ストレス少なく生きていきたいなって思ったら、一つはですよ、
自分以外の何か起きている現象に対して、やっぱり許せるかどうかっていうことだと思うんですよ。
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これ本当に難しい話なんですけど、僕自身どうかっていうと、許せることがすごく増えてきたなって思ってます。
いろんなことあるけど、いろんなことで許せることが増えてきたなって思うし、わざわざ許せないことを探すっていう作業を極力やめたっていうのもあります。
今まではわざわざ許せないことを探しはしなかったものの、なんとなく無自覚で生きていると耳に入ってきてしまう話とか、
目に入ってくるニュースとかね、そういうものを意図的に僕は最近遠ざけるようにしてきたんですよね。
例えばリアルな現象で言うと、うちの会社、職場にいると、もう悪口大好物みたいな人いるわけですよ。
その人は口開いたらなんかそんなこと言ってる人なんですけど、僕にとっては体に害のある情報だと思っていて、
誰も幸せにならないんですよね。おそらくその人が心の中にある自分で処理しきれないものを吐き出しているっていう状態だと思うんですけど、
近くにいるとやっぱりその影響を少なからず受けたりするわけですよ。僕何をするかっていうと、もうその場から、
職場から出ていくんですね。僕は外で仕事をしても全然いいので、もうオンラインで外から自分のパソコンを動かしたりとか、そんなことも今時代がいい時代ですから、できることもあると。
あとはどうしても今業務中で離れられないっていう状況においてはこっそり耳栓をしたりとかね、入ってこないように、その悪口が聞こえないように耳栓しちゃうとかね。
あとはテレビなんかでも、やっぱり凶悪な犯罪とか、いろんな事件とかってよく出てくると思うんですよね。こういうの出てたら僕すぐ消すか変えるかやっぱりしちゃいます。
それを見たところで何かプラスになるのって、世の中でそういうことが起きてるっていうことを知ることは大事かもしれないけど、その人がなんでそういうことをしたんだろう、許せないみたいなことをやるほど、
時間はないっていうことなんですよね。そのネガティブな情報に加担したところで誰かを幸せにするって言って、ちょっとそれを考えづらくって、
であればその気分が悪くなるかもしれない。あるいはそのなぜそんなことが起こったのかっていう原因追求に時間を割いていても、多分誰一人幸せにならないかもしれない。
ってなった時にはもっと有効な時間に使う。誰か一人をもしかすると笑顔にするかもしれないし、誰かが喜んでくれることをその時間でできるかもしれないし、将来人を何か助けるために今僕ができることを、その時間を作れるかもしれないっていう、
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その今ある時間を何に向けるかっていうことを、自分だけでなくて何かが良くなっていくためにその時間を作るっていうことに注目すると、そのネガティブな情報なんか見ている暇なんて1秒たりともないっていう、こういった結論になるんですよね。
で、こういう生活しているとどういうことが起こるかっていうと、2つあって、1つは気分がとても常に軽い状態が維持され続けるっていうことなんですよ。
で、これ例えばその凶悪なニュースとかね、あのそういうゴシップとかね、なんかそんなことばっかりを追っかけている人から出てくる言葉って、やっぱり結構なんていうかな、周囲を不快にしているなっていうね僕思っていて、それは詰まるとこうそういう情報を頭、心、体の中にいっぱい詰め込んでいるわけですよ。
で、詰め込んだものが出てきているっていうことなので、あの人の話なんか聞いているとしんどいわっていう人になっちゃうよね、普通にね。じゃあそういう情報を遠ざけて、例えば好ましい、誰かが幸せになる、楽しい、嬉しいとかね、面白いとか、そういう情報ばっかりを見たり聞いたり、触れたりしている人から出る言葉、あるいは行動、そして思考などなど、全てがやっぱりそういう好ましい、
状況のものを発信するようになるんですよね。で、僕はどっちがいいってこれ好みの問題なので、僕はもう圧倒的に後者が当然良くて、なのでそういう自分でいられるために目に入る、耳に届く、そして心の中で受け取る、そして思考する、みたいな全てのことに対してできるだけ気分が悪くならないようなものを意図的に選択しているっていうことなんですよね。
ただ、全てそれを遠ざけるっていうことがいいかっていうと、やっぱり現実の問題解決をするにおいて、そこを受け止めないといけない、直視しないといけないっていう場面は当然あるので、その場合はその限りじゃないよねっていうことです。問題解決はね、やっぱりしてあげた方がいい場合が多いので、そういう場合はね、あの無理にポジティブなことに切り替えるというよりは、やっぱり原因追求とかね、状況によっては当然必要だと思います。
ということで、めちゃめちゃ長尺でこれね、聞いてる人いるのかっていうぐらい長く喋っちゃいましたけど、結論から言うと、いろんなことを寛容に受け止めたり許したり、あるいは許せないことからちょっと自分をね、距離を置いた方が幸せなんじゃないですかっていうね、そんな話でございます。
はい、ということで、この長い長い話が良かったなという方は、いいねボタン、くたびれる、こんな長尺のやつちょっとどうなんすか、どうなんすかっていうね、そういう方はコメント、レター、またよろしくお願いいたします。
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はい、ということで、今日は長い長いお話お付き合いいただいて本当にありがとうございます。
はい、それではこの後も素敵なお時間お過ごしくださいね。
お相手はポシビリティでした。
それではポシポシポシュー。