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2024-04-02 30:28

第4回発達障害体験談 小学生編 小4で鬱病 小5で会食恐怖症

野球少年団でのトラウマ 嫌いな教師 不登校時代の苦悩から笑える話まで #不登校 #発達障害児



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第4回目、ポンスダチの発達障害を語ったろ 始まりました。ポッドキャスターのポンスダチです。
前回は幼稚園時代の頃どんな子供だったか話しましたが、いろいろ気づかされました。 あまり重々しい内容にならないようにしたのですが、やはり発達障害の子供の時代を振り返ると悲惨というか、
ただ本人は、幼稚園時代はそこまで社会生活に困難を感じているという感じではないのが、やはり物心つく以前と前の、以前と後の違いなのだと思います。
今日は、小学生時代の話をしようと思います。 小学生時代は、小学生時代もなかなか悲惨というか、でも発達障害の小学生時代について何かヒントを得てもらえればと思いますので、
今日もよろしくお願いします。
さあ、ということで小学生時代ですが、まず学校の先生ですね。どんな関わりをしていたかですが、最近小学生時代の先生どんな人たちがいたか思い出していたことがあるのですが、意外にも思い出せない先生が何人もいました。
中高と違い、他の学年の先生でも関わることが中学・高校と比べて多いので覚えているだろうと思ったのですが、自分の同じ学年の他のクラスの3人さえも忘れていました。
1・2年の時は自分のクラスともう一クラスは思い出せますが、もう一クラスが思い出せないのと、3・4年の頃ももう一クラス、自分のクラスともう一クラスは思い出せるのですが、もう一クラスが思い出せません。
5・6年はさすがに全員思い出せます。
学校行事で、例えば運動会、学営会とかで、他の先生とも深く接しているはずなのですが、思い出せませんでした。
1年の頃の先生で、一つはっきり覚えている出来事があり、友人の友達にナリちゃんと呼んでいる子がいて、その3人はナリが苗字につくのでナリちゃんと呼ぶ子供がいて、児童がいて、
先生がそれを以前起こったことがあったのですが、教室にいるときにその友人の兄のナリちゃんがいて、同時よく遊んでもらっていたので嬉しくなり、
先生に向かってナリちゃんいたよと言ったら、ナリちゃんというのをやめなさいと言われて、何ともその正しい事実を伝えられず、もどかしい思いをしたのを記憶しています。
その先生とは親が信仰があり、転勤した先でも地方に転勤わけあってしたのですが、そこによく遊びに、あ、よくじゃなく、以前何度か遊びに行ったことがあります。
ちなみにその時は親が自分の信仰宗教に関与していて、何とも迷惑だっただろうなと、後から振り返ったことがあります。
その時、自分はその先生の子供と一緒に遊んだのですが、自分は小さい子と遊ぶのが苦手というか、ほぼ皆無に等しいので、非常に緊張したのを覚えています。
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幼稚園時代は、程度な知的障害がある人をイメージしてもらえれば、大体どんな風に生活していたかわかると言いましたが、それぐらい行事や友達たちとの遊び、本当にひどい有様だったのですが、
小学校に入ったからは、特に不自由なく生活していた時期が1年の頃はあったと記憶していて、これが何とも不思議なところです。
友達は、クラスの子はわかりませんが、先生のことは本当に気に入っていました。
2年の頃も、そこまで問題はないというか、3年になったからですね、野球を始めました。
なぜ当時始めたのか、今でも不思議です。
1年か2年の頃から書道を始めて、毎週木曜に行っていたのですが、そこでも周りのことを馴染めず、あと周りは盲室もやっていない一番高室だけで、なぜかそれを引き目に感じていたのも記憶しています。
編集時をやっていたのですが、全く字は綺麗にならなく、中学校の時は、語教科全ての先生から字が汚いと言われました。
ある先生からは、毛虫みたいな字だなと言われました。
その上手い下手というのは、訓練ではどうにもならないようですね。
本当に小学校の時、野球を始めたのに、やろうと思い決断したのは、なんでなのか不思議な思い、親に野球をなぜさせたと聞いたこともあります。
というのも父親が柔らかいボールで自分にキャッチボールを教えて、何か野球をするように促していた時期があったのではないかと推測しているからです。
野球に興味を持っていたことがあったとしても、なぜ野球を始めたのか、本当に不思議です。
3年の頃は毎日練習があるわけではないので、割と楽しく生きていました。
4年になり、監督が変わり、それからは一切野球の練習が楽しいと思った記憶はありません。
4年の頃にはうつ病になりました。野球が主な原因です。
だいぶオブラートに済んでいますが、本当にこの野球の監督はちょっと狂っていたかもしれません。
性格的にもだいぶ問題はありそうです。
野球初年の監督はみんな厳しい人、厳しいというのは普通だと思うのですが、その中でもかなり群を抜いて厳しかったのではないかと思います。
身体的に苦しさもそうですが、精神的にかなり追いやるタイプの先生です。
このように意欲的に練習に行っていたその周りの部員たちが一体どんな性格をしていたのだろうかと思います。
厳しくされて快感になるならまだまあわかるというか一定数いるだろうなと思いますが、
先生に厳しくされて、しかも小学生なのに全く練習に行きたくないといった感じではなく、
意欲的にそれに乗っかってやっているという感じです。
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もちろん今の論理展開を聞く限り、全く練習に行きたくないと思っているかどうかはわからないというのも名付けますが、
とにかく異常なくらい奴隷根性があったり変わっている子たちだなと思います。
自分も奴隷根性は非常についたと思いますね。
野球時代のことはいろいろ自分なりに考えて気づくことがあるのですが、
なぜ4年間続けられたかと考えた時は、
他の今までやってきた集団行動と違い、ひたすら先生の言うことに従い、
特に自分では何も考えなくていい、言い換えると自由がないというのが自分にあっていたのだと思います。
例えば子供会だったり宗教の集まりだったり、周りの子と遊ぶというのは全くできません。
それが野球少年団ではひたすら先生に従って練習をするというのが自分にある意味ではあっていたとは思いませんが、
続けられた理由の一つであるのは間違いません。
毎日練習はありました。
土日は練習試合と公式試合。
本当に精神的にも追い込まれ、4年の時にはほぼ不登校の状態でした。
練習は全く行きたくないというか辛いというか、
自分の場合、部員とは一切仲が良くありません。
非常にバカにされました。
ただそれは小学生ならどこにでもあること、発達障害以外の人でもあることだと思います。
それから自分の場合は発達障害者としても中断の中で辛い思いをするわけです。
こんなことがありました。
久しぶりに学校に行くと朝、先生のとこにみんなで行くと部員が言うのです。
みんなで廊下で先生を待っていると先生が歩いてきました。
職員室に向かうとき自分を見て、具合良くなったようだなと言ってきました。
はいと言いました。
職員室に入る直前になぜかまた自分の方を振り返り、やっぱり元気なさそうだなと言ってきました。
自分は特に理由何も考えず、はいともちろん言いました。
深い意味はありません。
そしたら周りにいた部員の人がクスクス笑い始めて、後でみんなにバカにされました。
最初元気になったなと言われてはいと言ったのに、やっぱり元気なさそうだなと言ったときに、
みんなに元気なさそうにはいと言ったからだと言います。
これは先生が仕向けたのではないかと思っています。
何より全員でわざわざなぜ自分が学校に久しぶりに行ったあのタイミングで先生のとこに行ったのか、
確率論ときにもそうですし、やはり先生の行動はわざととしか思いません。
あの後職員室に行ってみんなに笑われました。
先生あれわざとですよねと言ってあればよかったと思っています。
ただ小学生の当時の自分はそんなことができるはずはありません。
非常に惨めな思いだけさせられました。
その先生には天然ボケじゃないのかと言われたことがあります。
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父親がコーチをしていたので、天然ボケかもしれません父親に聞いていますと、
そういうひどいことを言われたという事実を伝えるというように伝えると先生に向かって言えばよかったと思っています。
ちなみにその時は他の学年との練習だったのですが、
もう夜遅く審判が何も動かなかったのでボールだと判断して、
しかしストライクと言っていたのにボールだと判断して心霊してしまったという事がありました。
これは暗いのが何よりの原因だと思います。
それなのに天然ボケと言ってきて非常にそれが悔しいです。
犯人の先生の話に戻りますが、3,4年の時の先生はひとつ嫌な思い出があります。
帰りの会で隣の子と話していると先生が前から出てきて、
盛り上げようとするなと言い、自分のランドセルを叩きました。
隣の子はまったく怒られませんでした。
自分一人に目が開けてです。
自分が推論するからにやはりその友達が普段から明るいので、
自分が特にいい気になっていると思ったのでしょう。
ということは、うるさくしているというよりも
いい気になっていることに対する怒りをぶつけていたと言っていいのではないでしょうか。
職権乱用ですね。
教師だから怒っているという風に見せかけるというか、
自分でもそう思い込んで、しかしただ感情をぶつけているというだけのことです。
近所のスーパーでその先生に出会った時に、
なんか冷たくされたような記憶もあり、なんかそれも嫌な思い出ですね。
5、6年の時の先生は非常に生徒に嫌われていたのですが、
自分はあまり嫌な先生だという思いではありませんか。
家庭訪問に来た時に、自分は野球の練習の前にユニフォームを着ていて、
話し声が聞こえたのですが、細いのが今一番抱えている悩みですねと言っていました。
その先生は育毛剤を生徒から誕生日に渡されたことがあったり、
コンプレックスがあったようなのですが、
当時は児童にも自分のコンプレックスを自覚させるためにそういうことを言ったのだと
ひどく思っていましたが、今考えてみるとそれは考えすぎかもしれません。
次に勉強はどうだったかですが、
特に小学生の時に不自由になることはなかったと思います。
なかったと思っています。
野球を辞め、真剣済みを始めてからは、
みるみる成績が伸び、最後の通知書で
全教科よくできましたが、大分、ほとんどついていました。
父親が教育委員会だったので、
何か最後の最後、よく回れたくてそうしたのかもしれませんが、
ただ、割と真剣済みを始めてから点数が伸びたと記憶しています。
家で勉強はあまりする子供ではありませんでした。
漢字が苦手だったのか、よく漢字を勉強していたのは覚えています。
やはり野球で精一杯になったのでしょう。
今考えてみると、教育大の付属の中学校が唯一受験先、
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そして公立高校以外では受験先で一つ、
自分の学区ではあるのですが、
もちろん遠くに行けば知り手もあると思いますが、
自分は受験をするという発想にはなりませんでした。
ただ受験をしてもよかったのかなと今では思っています。
それぐらい中学校はなかなか動物園に入れられたような感じでした。
公立の中学校だから仕方がありませんね。
算数は割と低学年の時から得意だったと思います。
ただ中学校に行ってからと比べ、
特に教科ごとの開きというのはなく、
全部標準的にできていた感じだったと思います。
今考えてみると、地方の公立中学校なので、
受験をするという雰囲気ではないのですか、全体的に。
それでも塾に通い勉強している人は割といたので、
今考えてみると自分が高校で、高校は進学校に進めたのは、
その点ではなかなか奇跡的だったと思います。
ちなみに自分の親友も小学校の時から塾に通っていました。
野球の話に戻ります。
自分は最初はサードを守っていて、
割と守備はできていたというか認められていました。
しかし総類がかなり苦手でした。
バッタが打ったと同時に、その時のアウトのカウントだったり、
いろいろな守備の動きを見て、判断して進類するのか戻るのか
というのを判断するのが自分にはできませんでした。
ほぼできませんでした。
あと試合に出てミスをしてしまう恐怖心があまりにも強く、
特に試合で活躍したいなんて思いもありません。
なるべく試合には出たくない。
だから試合でなるべく類に出ないようにするという悪循環がありました。
バントが得意で、それは即任的だと認められていました。
あと守備もサードからライトに打ったのですが
その時も割と認められていました。
できることは多少はできるといった感じですね。
ただ身体能力は自分は低いのではないかと思っています。
子供時代を歩き始めるのもだいぶ統計的に言うと
相当100人に1人もしくは500人に1人ぐらいの遅さを歩き始めたり
そういった運動系の発達はだいぶ遅かったと思います。
野球でよく焼肉をするのですが
会食恐怖症がある自分にとっては
そんなの嫌で嫌でしょうがありません。
自分の嫌いな人たちと一緒に座って食事を
ブルーシートの上でするというのが本当に嫌でした。
1年に1回キャンプを張って学校の後ろで
お泊まり会をするというのもあったんですが
それももちろん嫌でした。
近くの公民館でみんなで餅つきをしたり
お泊まり会をするというのも
本当に気持ちが重々しく
ずっと吐きそうな感じでいました。
たぶん野球の親の人たちのことも
嫌いというか苦手意識があったのだと思います。
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ただ1人転校してきて途中から参加した部員と
少し楽しく一緒にいれたという感じですね。
自分と違う学年の監督
自分はその会に参加していたんですが
自分の監督はその会には参加していなく
なんとも社交的でないというか
その先生は参加しているのに
監督は参加していないという
その事実がなんとも嫌ですね。
その先生も別に来たくて来ているわけではないけれども
そういう会を大事にしようという思いがあって来ているわけです。
4年の時に不登校だったので
5年の冬、4年の冬ぐらいに
練習を久しぶりに行った時に
全く環境が変わっているというか
自分はやったことない練習をしていたり
本当にそれで辛い思いをした記憶があります。
不登校時代の話ですが
毎朝自分で体温計を
摩擦で体温が上がったと見せるために
親に嘘ついて育てていました。
本当に行きたくなくて行きたくなくて
考えたげく嘘をしていたのでしょう。
なんとか親に行かなくても
小学校に行かなくても良いと言ってもらえないか。
ただ本当に体調は悪かったです。
精神的なところから来るものだと思いますが。
小学校生時代は身体的にもあまり強くなかったですね。
精神的にも弱かったです。
5、6年になってからもなんとか
雨が降って土日の練習試合なくなってくれと
神様に頼んでいました。
それでももちろん雨が降ってくれるようになるわけではありません。
次の日、朝起きて晴れていると本当に気持ちが沈みます。
ある年、親戚とキャンプ場に行って
非常に楽しくしたのですが
帰りの車で
ああそういえば練習がこの後あるんだと思い
もうサザエ山消防軍というのか
それの本当に酷いやつですね。
それになったのを記憶しています。
土日はその嫌いな奴らとずっと
午前午後試合あるときなんかは一緒にいなきゃいけないのです。
本当にストレスでストレスが溜まっていました。
小学生時代親戚とはどうだったか
どんな風に関わっていたかというと
ある年キャンプに親戚と行くことになったときに
いとこになかなか最近話しかけてくれないんだよね
あるいは不愛想なんだよねというようなことを
母親に言ってきたと聞きました。
やはり自閉的な傾向が目立つようになったのでしょう。
それで自分でもなんとかしようと思い
キャンプ場に行ったときに変な帽子かぶってるねと言いました。
今考えてみると
なんとか普通にしようとした結果
本当にわけのわからない変な発言になっていたと思います。
先ほど語強化は勉強は普通に
割と標準的にできたと言いましたが
国数国語算数理科社会以外の強化は
本当に苦手というか嫌でした。
家庭科なんかも自分でミシンを紡いでいかなきゃいけない
これは幼稚園時代と変わりませんね。
18:00
手が不器用だったり
集団で何かグループでやっていかなきゃいけない
そういった理科の実験なんかも
小中高一貫して変わらず嫌でした。
移動教室はとにかく嫌でした。
ひたすら先生の授業を聞いていることは嫌ではありません。
合唱なんかも嫌ではありません。音楽も嫌でしたね。
笛なんかは全くなんともない人にはなんともないんだろうけど
遅れを取ってしまうことの恐怖心だったり
すごかったですねそれは。
受講の時間は割とできていたというか
自分を表現したいという欲が強すぎて
小学校6年生の時に
次の日教室に飾るということになり
親たちが学校に来るので
先生もそれは見たらまずいと思ったのか
何人かふざけてるように思った人たちが
もう一回作品を作るように怒られたことがあります。
ただそれぐらい割と個性を出してでも
作品を作ろうとしていたと思います。
ちなみにその画用紙を先生に取りに行った時に
受講は単人とは違う先生が
評価単人だと思いますが
何もいいと思うけどなーって言っていました。
単人に先生がそう言ってるんだからいいんではないですかと
言えばよかったと後悔しています。
少しドラマですね。
体育の時間は割と好きだったのではないかと思います。
野球を始めてからは割と動くのは苦手ではありませんでした。
高飛びだったり飛び箱だったり
自分が怪我をするんじゃないかというようなものは
これも小中高一貫して苦手でした。
あと水泳も苦手でした。
スキーはできました。苦手なものと得意なものとの差が激しかったです。
ただ身体能力は
先ほども言った通り苦手だと
周りよりだいぶないと思っているので
なかなかできるものもあったというのはどういうことかは
理解し難いですがスキーなんかは
よく小学生時代父親と一緒に行っていたり
野球の部員と一緒に行っていたり
中高の体育の時間でもお前そんなスキーできるのかと
男子にも女子にも言われ
嬉しかったのを記憶しています。
ただ中学で転校した野球の部員に
リフトでバカにされたのを記憶しています。
もちろん他にもバカにしてくる部員はいましたが
弱いものにストレスをぶつけているという
感じがして
そのトラウマは特にトラウマですね。
一緒にスキーに行っていた部員は
自分より多分スキーができていなかったと思っていたのでしょう。
その劣等感を
何か言動で表してきたというか
嫌なことを言ってきたこともあったかもしれません。
部員の人たちですね。
野球でベンチにいる人たちのことは非常に見下して
自分が何かで人より劣等感を持っていることがあると
別に相手が優越感を持っているというような
態度を見せることがなかったとしても
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勝手に被害者意識というか
自分で劣等感を持って
その相手を見下してきているという
想定をして
そのことを散々に指定してくる。
自分より野球で劣等感を持っている人たちのことを
見下しているのは人として悪いとも
何とも思っていない。
ただ一人自分が高校生の時に
マラソンの練習をしていると応援してくれた
クラスで一緒だった部員がいて
5、6年の時ですね。
そういったところもあったと記憶しています。
野球時代のことは
ありそうなのでまた話したいと思います。
同級生とはどうだったかという話になりますが
幼稚園時代と変わらず
本当に近所のことも遊びたくありませんでした。
ある近所の子の家によく行っていたのですが
本当にいつも泣いていました。
行かなければいけないのになぜか
やっぱり断れなかったのでしょう。
時計を何度も見てもう帰る時間にならないかなと思っていました。
こんなに辛く当たってきているんだから
わざわざ遊びに行かなくてもいいとか
そういったふうに物事を捉えることは当然
特に自分にとっては苦手なことだったと思います。
まだ小学校1、2年の時です。
友達何人もで雪遊びをしていたが
自分は一人で外でいて
その親になぜかその時ミニカーを持っていて
それを渡して帰ったのを記憶しています。
本当に友達と遊ぶのが嫌で
友達何人かで家に来たが
自分は嫌で別のとこに行って
あまりにも遊んでいつも断っているので
その友達だけ親は家に入れて
そういうことがありました。
野球の部員が遊びに来て自衛隊のように
細っと下に外から見えないように隠れたことがあったのですが
後には分かったのですが
気づいていたようです。
あれは少し嫌な思いをさせてしまったなと思っています。
親友とは野球
親友も野球をやっていたのですが
野球が終わった9月頃からよく街に自転車で遊びに行って
それは楽しかったと記憶しています。
信仰宗教に親が毎週水曜日通っていて
自分は一人っ子なので家に置いておくのが心配だったのか
近所にいるその信仰宗教に入っている親の子供に
兄弟と一緒に遊ばせてもらって行ったことがあったのですが
その兄弟は2人で別に遊んでいてもよかったと思います。
けれどしょうがなく自分に付き合って遊んでくれていました。
今思うと申し訳ないことをしていたんだろうなと思います。
ちなみにその同級生の子は
全く自分は当時は嫌いではなかったですが
その後本当に嫌でした。
中学生時代ですね。
その友達もある時
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リフトでその友達が嫌われていると
噂で聞いたことがあり
なかなか人間関係では困っていたようです。
その兄は自分はすごい良い印象を持っていました。
なかなか好き嫌いが激しい
激しかったです当時は。
何か相性みたいなものがあるんですね。
その親友は本当に今考えてみると
何が良くて自分と仲良く接していたのか
何か優しくしてあげたのかなとも思いますが
自分なんかと仲良く遊んでくれていたなと覚えています。
その親友とは後に
同じ高校に通うことになります。
小学生時代家ではどのように過ごしていたかという話ですが
これは発達障害ならではのすごい変な遊びをしていました。
野球がやはり好きで
ボールペンとビー玉をひたすらボールとパッドに見立てて
自分の空想で遊ぶという
積み木を使ってラグビーなのか
何かのスポーツをそれもビー玉を使って
見立ててやっているという
本当に不思議な小学生時代だったと思います。
アニメと漫画は一切触れることがありませんでした。
ゲームはプレイステーション1をやっていましたね。
小学校2年くらいで買ったんじゃないかな。
この前自分はどんなゲームをやっていたのか気になって
中古に売り出した時に
商品名を書いていたようなので
それを見せてもらったのですが
野球のゲームが3つ、小学生時代やっていただけで
全部で3つかそれくらいありました。
よくこんなにいくつも買ったものだと思います。
これは幼稚園時代とも同じですが
周りの子と同じものを買って楽しみを共有しようなんて思いはありません。
本当に何か変わったゲームを買っていた感じです。
一番好きだったゲームは鬼武者3というゲームですね。
次に三国無双。
やっぱりスーパーファミコンの時のソフトの
スーパーマリオブラザーズが一番
心に強く残っている、思い出として残っているゲームですね。
家ではテレビを見たり
特に野球をやって疲れているというのもあり
何かハマって遊んでいるという感じでもありません。
あとはレゴですね。1,2年の頃スターウォーズであったり
洋風なお城
日本のお城もあったり
これもこの前ネットでどんなのを買っていたのか
調べたのですが誕生日であったりクリスマスであったり
いくつも買ってもらっていたようで
いくつものシリーズも買っていたことが分かりました。
これも自分の空想の世界に入って人形をひたすら
動かして遊んでいるような感じですね。
特に作るのが好きだという感じではありません。
自分の世界に入るのが楽しい感じです。
これに関してひとつトラウマがあって
親の友達が家に来たときに自分が作って
いくつも飾っているのを見てこれをもう一度壊して
遊び直したりしないのかと言われたことがあります。
先ほど宗教に通っている
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一緒に遊びをさせてくれていたという親ですね。
この親にはガリ弁だと言われたり
そこまでひどい人ではなく
ひどい親切にもしてもらったのですが
ひどいところを持った
なかなか黒い部分のある人に感じてしまいます。
はい、エンディングです。
ということで小学生時代のことを話しましたが
なかなか長くなりました。
幼稚園時代と同じで悲惨なというか
暗い内容になってしまいました。
トラウマもいくつもありますね。
野球をやっていた嫌な思い出が多いですね。
会食教書があるので
給食は本当に辛かったです。
5、6年の時は吐きそうでした。
初作と演芸が苦手だという話はありますが
そういったことも相まって精神的な辛さもあり
いつも口の中に入れて
飲み込むことができず
いつも吐きそうになりながら食べていました。
給食の時間は他の学年で一緒に給食ホールで
同じ班の人と運動会のために
練習をしなければいけないのですが
それもやはり集団行動です。
練習が嫌というより教室で集まらされて
毎週その人たちと会うのが嫌でした。
クラスの子と一緒に毎日学校で会うのとはまた違う
何か嫌なものがあったんですね。
みんなと一緒に何かやらされるという
何かそれが嫌だったんですよ。
いつもセリフの少ない役を選んでいました。
なぜかというと覚えれないことはないのですが
覚えるのが苦手というよりも
忘れたらどうしようという恐怖心で
いつも一言しかない役を選んで
なのにもかかわらず
本番まで何度も反復して忘れないようにしていました。
一言短い分なので忘れるはずがないのに
本番までの何ヶ月か
反復して反するのです。
それも変な子供ですね。
衣装が面白かったのか
小6の時に出た瞬間会場がワッと鳴り
やはり気を照らすのが好きな自分です。
もうそれまでの練習で先生に言われたことなんて全部忘れてしまいます。
いかに面白くセリフを言うか考えて
全く違うように言ってしまいました。
今考えると恥ずかしいです。
ゴミ処理場に行く場所も変わっていて
ゴミ処理場です。
小学校の時に社会科研学で行ったゴミ処理場が
一番興奮しました。
その日一日交通信号の管理をするような所にも行ったのですが
そういったものとか
他にもなんとなく記憶していますが
全部とにかく楽しかったです。
ただゴミ処理場が一番興奮しました。
窓からゴミが燃やされている感じというか
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臭いもただ臭いだけなのに
とにかくゴミ処理場に行った時は
興奮していました。
他にもいろいろ旅行で行ったり
修学旅行でいろいろ行ったりしているのですが
そのゴミ処理場が一番地に沸き踊る場所でしたね。
まだまだ話が足りないので
今後また話していこうと思います。
ありがとうございました。
30:28

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