幼少期の孤独感
倉木凪です。 正直ね今回、肝となる部分の
話の大枠というか忘れてしまって、少しずつ思い出しきりながら話していく形になると思うんですけど
早速で話していきたいんですけどね 倉木は小さい頃
本当の小さい頃はね 一人っ子なんで
一人でいる時間が長くてですね それがまあ集団の中で放り込まれ
そうするとねその反動なのか
周りに 合わせるっていう
感覚しかなくてそのバランスが取れなくてですね 全部自動的・労働的で
これは誰もそうだと思うけど周りと 仲良くしていく特に日本人はそうですね
でも根本的にはねアメリカ人も同じだと思うんですよ ただ根本的には同じなんだけど
まあこれはこの後話しますかそれで 幼稚園の時も小学校の時もそんな感じ
ただねある時から 自我が芽生え始めたのか
異常なまでに負けず嫌いになって そっからはね人と生きてるって感覚は
一切ないしまあそっから まあ変わらなかったのか臨床心理師さんからは
人に対する感覚がないって言われたんだけど
理由がねよくわかんないんだけどなんか 受けたテストで人に気遣いすぎてると
だからそういう意味ではね
いつからか
まあ 周りのことは気にしなくなったというよりも気遣いすぎになったんですねだからね
人間関係が異別である上になおかつ 主体的であるのはいいんだけど割と孤立していく
感じの流れが出てきましたね小学生 中学あたりからかな
自己意識の芽生え
それまでは 周りについていく感じで周りと仲良く
しなければいけない 周りに合わせなきゃいけないという感じ
とはいえまあだいぶ個性的なこともあったけど だからね人に笑われたり
けなされたり まあ人と違うからそういうことが多いわけですよ
それはいけないことだと思ってたんだけど そのコンプレックスがなくなった瞬間があるんですね
別に人と違ってていいじゃないかと それからはね
逆に人と同じだと思われたくないし 人と違うということを言われて何ら傷つかなくなったし
これは中学生の時からですね でそれからは人についていくっていう感覚よりは人の前を行きたいっていう
感覚だから 週記のセミナーでもね
とにかく目立ちたいから 声援もしましたしステージの上に立ってね
してましたし 部長をしたりもその典型例ですね
それまではとにかく周りに合わせるので精一杯ついていくので精一杯って 感じだったところからちょっと別人になってしまったんだけど
でも人間って特に日本人はこうやって 見放しとであろうとなかろうと周りについていく
これが人間らしさなんですよね 動物みんなそうかもしれない
人間らしさっていう点でいくと まぁでも動物みんなそうかな
群れの中で
生きていく もっとね何百年も前だったら
本当に自我なんてなかっただろうし 仲間を含めて自分っていうかね
言い方変だけど だから絶対に群れて生活してたわけですよ
周りとちょっと違うことをしてようとか 見ようとか個性を出そうなんていう発想は
これ人間らしさなんてホモサピエンスしかこんなことは思わないですよ
ペキンゲンジンだったりアンネルダルンジンだって猿だって 思わないはずなんですね
でもそんなのは
表面的なところであって
1日のほとんどの時間は いずれも話しましたが
周りに合わせてる でもね自分の意思に合わせてるっていうよりも
無意識に合わせてるような感覚だと思うんですよ これはクラキが小学生時代が育ったから分かるんですよ
だから出る杭になろうなんていう発想すらなんないし
とにかく周りについていってる感じだと思うんですね ついててるというか
みんなは横並びだと思うけど クラキは後ろからついててるって感じでしたけど
様子を見てるって感じでしたね だからね常に そういう感覚は常にありましたね
周りを人間関係者として 真似るっていうのかなついててる感じ様子を
常に見て だから主体性なんか一切ないですよ これがね周りを見るどころか
もう自分で突っ走って 行く人生にある時からなってしまったんですね13歳あたりから
これはね単純にそういう 野の仕組みだと思います 自我がね
人間関係とアメリカ人の感覚
ありすぎなんだと思います こういう人は中にはいますから
歴史上に名を残した人なんてみんなそうですよ 周りと同じことやってたらそんな歴史上に名前を残すわけがないじゃないですか
もとっぴなことであったり それこそ変なことであったり
の連続がそうやって歴史に名前を残す結果になってますから
だから歴史上の人物って相当
自我の強い人たちだと思いますね
お周り だからねクラキーのね
あのあれ だからね
高2高3から老人中にかけて
全く常識なんかねもう気にしない感じでした どういうことかっていうと
例えば朝ね家族に会ったら この人は
家族に似た他の人かもしれないなんて疑わないじゃないですか まあそうやって常識
をもう 常識だと意識することもなんか当たり前に生きてるわけですよ
でも実際はわかんないわけじゃないですか まあこういった時は本当に
常識なんかね 全く
常識に流されるような感じじゃなくて まあこういう人たちなんですよねでもすごい気づらいですよ
ある程度常識に流されなきゃいけないんですよ 例えばね街中出て
この中には犯罪者なんているなんて思わないじゃないですか まあそうやって思うのが常識だからなんですよ
自分のねセンター式の操作を定数を操作されるなんて思わないじゃないですか そんな風に思うのが常識じゃないからなんですよ
あ、そういえば 前回のエピソードで
言いました 近所に迷惑かけられている場合
それは例えでそうやって言ったんだけど 近所の迷惑 行為を
どう受けて止められたらいいかわかんないんですよね
これだって
まあ人と生きてる感覚がないからだと思うんですよ 根本的に脳の作りが違うんですね人とは
脳の まあ
だからこれも前回いろいろ話したけども感覚的なことなのかもしれないですね
まあ人と生きてるんだ影響を与えてるんだってことが 無自覚にわかってる人は
無意識にわかってる人は こんな悩みなんか出ないだろうし
まあ人に迷惑くらうことも
まああるよねってなるのかな まあやっぱり理屈じゃないと思うんですよね
まあそこがわかんないんですよ だからさっきの話ですけど
アメリカ人は やっぱりね人と違うことするファッションなんかもそうだけど
最近オーディション番組見てるとね ボタンの押し方もね
人の手を持って押したり 頭で押したり
足で押したり
まあしかもルールも平気で破るんですね まあそういう人たちですから
だから
そういう意味じゃ違うんだけど ただもっと根本的なところで言うと結局アメリカ人も
コード見てもわかるんですよ結局 人と違うことをしようとして
また人と違うことをした結果がもう みんなだいたい似てるっていうね
根本的には同じことだと思うんですよ 結局人と同じように
して生きるのが 哺乳類であり人間であり
だと思うんですよね
さっき話しました 生物について考えなきゃいけないって言ったけど
クラキはいつも言ってる通り 一つの個体に見えるけども
あの この手足口鼻こういうのがあるのが
一つの個体だと思ってるかもしれないっていうのが これは単なる自我であって自分なんて存在しなくて
まあ一個一個の個体が離れてるから 便宜上一人二人というで名前もつけてね
でもね体がつながってる 人間だっているわけだし
腕がない人間だっているわけだし
定義できるようなもんじゃないんですよ これが一個の
一つの個体だとか だから自分なんてものは存在しなくて
だとすると
だから人と関わること っていう感覚
自体が 自我によるものだったら言ったらおかしいけど
自我があるからそういった感覚もあるというのか
そもそも人と関わってるものにも これだから自分じゃないんですからね
こうやって自分というものがあり
でこうやって周りとも関わってるというのは 単なる人の
人間ならではの考え方で捉え方でしかないですから
そういう意味ではクラッキーは逆に間違ってないのかなとも思うし
人間的な感覚を持ち合わせてなくてもね
生物としては別に間違ってないのかなとは思うんですけど
これもこれもこれも一つの
生き方というか一つの種類の生物というか それでいいのかなとも思うんですけど
それでは したっけ