諸行無常の考察
今回はまた諸行無常の話なんですが、ぶったかいって諸行無常ですね。
何度かお話ししてるんですが、
あまり、これってどうなの?変わってないんじゃないの?みたいな思って、
あると思うんですよ。最近聞いていたのが、この諸行無常という言葉が、
2500年ここまで、都大寺語り継がれてきたのも、変わってないんじゃないかなと思いますし、
諸行無常じゃなくて、偽音症じゃない、偏の声、諸行無常の響きある、
さら長寿の花の色、長寿に乗ってありますけど、あれなんかだってね、ずっと都大寺、ここまで続いてきてるわけでしょ?
あ、違う。やそうですよね。
で、最近思ったのが、前から考えてたから、東大と、東大の偏差値と京大の偏差値は変わるけれども、
東大が京大より偏差値が高いことって、まあ変わんないでしょ。
そんなことあったら、前代未聞ですよね。
いや、必死に考えてみました。でも諸行無常なんだよなと。
変わらないものはないから、変わってないように見えてるけれども、
でも東大が京大より難しいのは、変わんないよなーと思っていたんですよ。
で、砕き台の結論が出たので話したいんですが、
まずですね、一つ目は、東大と京大に対して、
もうこれ、ずっと長らくの疑問だけども、
それに対するクラギの感覚は変わっている。そのことを考えてるだけだ。
まあこれじゃあトンチを聞かせるだけの話だし。
ということで、昨日ね、ある結論が出たんだけど、
確かに変わんないかもしれない。でも、
この変わんないために、ものすごい多くの尽力があるわけですよ。
本来なら、その年によって変わっててもいいはずだけど、
なぜ変わんないかっていうとね、いろんなもの変わりますよ、世の中ね。
なぜかっていうと、それは、東大生、受験生の努力の賜物だろうし、
学者だったり教育、それから運営の人とか、いろんな人が努力してるっていうのも変化ですから。
黙ってては偏差値を抜かれますからね。
この変化させないという事象を作るために、ものすごく、実は相当な変化がある。
変化と努力の関係
っていうのは一つ言えるなと思ったんですよね。
だから変化してないように見えるだけで変化はしてるというか。
義温生者の金の子も同じことですよね。
でも逆に、年を重ねれば老いていく。これは諸行無常とは関係ないです。
生物学的性質です。100年後はどうなってるか分かんないし。
整形したら顔なんて若返るわけだし。
クローンを作って体の一部をそっちに変えてとか、
あとは体が機械化するなんて時代も来るかもしれないし、
そう言ってる学者さんも存在しますし。
とにかく変化の程度だと思うんですね。それは人間の尺度の話だから。
それより人間、変化してないように見えても変化してるって事が大事。
だから灯台が影響であり難しいってのも。
そうやって変わんないって捉えてる時点でそれは自分の自我なんだと。
煩悩だと捉えるべきだと思うんだけど。
これ煩悩だと言われてもね、誰が見てもこの事実変わんないですよね。
でもいつか分かるかもしんない。
っていう考えだと今は変わってないことになる。
全てのものは常に変化してるっていう教えですから。
だからいつかは人間老いるしいつかは死ぬしっておかしいんですよ。
いや死ぬまで生きてるだろうと思うし。
ブッダが生きてるのは常に変化してるって事だから。
死んだらその時になって初めてこの教えを思い浮かべればいいってそういう教えじゃないですから。
あと自分の部屋のストーブなんかもね、途中壊れたりしたけどほとんど20年間変わらず動いてた。
まあこれは多少変化してるのはなんとなく分かりますよ。
人間の目からしてみたらどう捉えても変化しないようなものってやっぱり存在してしまうんだけど、
そこがやっぱりね、自我の怖さなんですね。
医者が、社会的地位が高いこと。
これも変わんないけれども、例えば銅像とかね、見た目そんな変わんないですよね。
ここで化学的なことで言うと変化してるんだけど、この場合逆にそんなのどうでもいいですよね。
だから変化してるだろって言われたところで、よく分かんないし。
でもやっぱり原子レベルで言うと常に変化してるわけですよ。
あとはね、見た目に変化してないとしても、あと表彰ですよね、さっきで言う灯台のその話。
変化してないとしても、うった言うところでは変化してるんだろうな。
例えば銅像なんかは、学校の銅像だとしたら、その生徒からしてみたらすごい思い入れがあるかもしれないけど、
他校の人からしてみたらただの、ほぼほぼ物でしかないと。
で、カエルが見たら、また見え方も違うと。
物事って関係性でできてますからね。
でもそれで変化してるって言われても、へりくつに感じちゃうかもしれないけど。
いやそれもね、へりくつとかじゃなくて変化してないように見えるだけで。
この自分だってそうですよ。
見る人によっては自分の息子だし、見る人によっては自分の兄弟だし。
まあそれはただの捉え方の変化だろう。
その人自身変化してるわけじゃないだろうかともかもしれないけど。
そもそもその人自身なんてものはないんですから、本性なんてものは。
あと一部分が変化して、だから変化してるでしょ。
そういう理屈をこねる人もいるんだけど。
全てのものは変化してるわけだから。
全て変化してるわけだし、他の部分の変化が分からなくて一部分の変化でしてるから変化でしょっていうのもおかしな根拠なわけですよ。
そういう人の教えはそんなに変化してないようでも、マクロの視点では変化してます。ほんの少しは変化してますとかそういう教えじゃないんですよね。
そういう程度の順位をつけられるようなものではないんですよ。
雪の降り方と変化の捉え方
全てのものはただ変化してる。それだけですからブッダが言ってるのは。
ただ単なる小さな変化だとしたらつまらないし人間にとってどうでもいいだろうし、だとしたら全てのものは変化してるとは言えないわけじゃないですか。
だからよく人間も細胞が入れかかるから変化してるとかそうやって説明する人いるんだけど、この変化ってものを人から人にこういう変化してますよなんて簡単に伝えられるようなものじゃないんですね。
ブッダが言ってるのはもっと抽象的な意味なのかな変化っていうのはね。
っていう捉え方だとでもそれじゃあ意味がなくなってしまうし分かりにくすぎて。
あと北海道ね必ず冬に雪が降る。
降らない年があったり降る年があったりなんて絶対ないですね。絶対降りますから少しは。
っていう事実は変わんないんじゃないかと思いますよね。
ここでね降る量は違うだろうだろうそういうことはあんまり意味ないんですよね。
だからまあ何をもって全てというか、でもね何をもってとかじゃないんですね。
それ言い出したらもう変化しないものが存在してしまうから。
雪が降ってない年も実はあんのかなまあそれは無理があるでしょう。その捉え方は。
雪が降ってる年がないからいつも降ってるからそこは変化しないだろうっていう捉え方が単なる人間的な捉え方かもしれないし。
それではしたっけ。