運の良さと悪さの考察
まず、昨日の話をちょっとしてみたいんだけど、
今日、もうね、真冬でマイナス15度までになるって言うから、
二間ストップつけておこうと思ったんだけど、ただ布団の中で結構暖かくなって、
洋館呼んでもね、来ないからね、
これはちょっと不安だけど、自分のストップも消すついでに、
ちょっと起きて大声で呼ぼうと思って、両方消したんですよ、したらね、
いやー寒かったんですよね、寝てる間。
で、またいつもつけて、またこういうマイナス15度まで落ちるっていうのに、
それで消しちゃってるわけですよ、こんな運の悪いことないなと。
でもいろんな状況が重なって、やめを得なくこういうことになってしまったわけですよ。
と思って、運悪いなと思ってたんだけど、これで体切れたおかげで、
トイレに行きたくなってね、トウモロコシが帰ってくる、
もうちょっと遅かったら帰ってきたじゃないですか、帰ってくる前にトイレに行けたんですよ。
そもそもが最初ね、昨日夕食珍しく結構遅くなって、
だから二階のストーブをね、本当はもっと早くに消してたかもしれないなと思ったんですよね。
で、さっき言ったように羊羹呼んでもこないしね、ずるずるつけちゃって。
と思ってたけど、二階のストーブはね、もしこれついてなかったら結構だいぶ違うんだよね、それで。
だとしたら逆に寒すぎたかもしれないんですよね。
でね、まあこうやって、結局運が良かったのかそれぞれの出来事が、自分で把握できるようなものじゃないし、
で、結局ね、朝ね、ものすごい下痢してましたね。
もうこうなってくると何が何だか分かんないじゃないですか。
で、人間ばんじさようがあんまってね、あれ。
よく言われるのがね、まあ良いことがあっても気を引き締めなさいと、
悪いことがあってもどうなるか分かんないよみたいに世間としては間違って捉えてるけど、
今の話ね、全然そんな意味じゃないって分かりますかね。
まあこんなこと細かに物音を捉えたり普通しないと思うけど、
よく吟味して見てみるとね、
ああこの時これすごい意味を感じてた、あるいは成功した、あるいは運が良かったと思っていても、
実はその後の問題の引き金になってたり、
あるいは特にそれがなくても同じだったとか、あるいは、
まあそうですね、まあそういうこともままあるわけですよ。
昨日の暖房だとかに関してはね、本当にそんな感じでしたね。
うまくいかなかった、運悪いと思ってても、
でも逆にその後のいい結果を導いたり、
でもそれがいい結果だと思ったら、案外そうでもなかったり。
でも人間って価値観ってものがあるから、どうしてもこれは良かった悪かったって捉えるわけですよね。
でもね、人間文字を最後の教えからわかる通りね、
それは人間がそうやってね、価値観で良かった悪かったって判断してるだけで、
物事にね、良いも悪いもないんですよ。
要するにね、物事に意味なんかないんですよ。
価値判断の難しさ
そういう教えだと思うんですよね。
だってね、うまくいったと思ったらそれがうまくいかない、元々のある原因となり、
で、うまくいってないのかと思ったら実際は、ことがいい方向に進んだと。
で、そう思っちゃったら実際は悪かったと。
こんなことで、だからいちいちそうやって人間がね、価値観で判断してるだけであって、
全然、人知でそんな把握できるようなものではないんですよ。
というか、人知では把握できないというか、物事に意味なんてそもそもないって、そういうことですよね、これね。
くらきは人生でね、そういうこと何度も経験してきたんで、あまり良い経験じゃないと思うんだよな、でも。
うーん。
まあ、あと性格的に分かってしまったんだろうね、もう。
ああ、物事に意味なんかないのにな、と。
自分で単なる価値判断してるだけであって、その時そうやって良く見えたり悪く見えたりするだけであって、
もっと長いスパンで考えてみたら、全然そんなことなかったり。
あくまでも自分の価値観の中で言い悪いって言ってるだけで。
でもじゃあね、価値観で判断しなくなると、それは人間ね、とても生きれたもんじゃないですよ。
何したってだって、良いわけでも悪いわけでもないってなったら、それはとても生きれないですよね。
だってね、何か選択肢が二つあったらね、自分の価値観によってそれをどっちか選ぶなきゃいけないわけですよ。
で別に適当でもいいやって選べばいいんじゃないかと、サイコロ振って選べばいいんじゃないかと、あるいはコインを投げて決めればいいんじゃないかっていう風にすると、
まあ多分普通には生活できなくなりますからね。
それではしたっけ。