承認欲求の誤解
倉木 凪です。
今回は承認欲求を満たすってことを世界の人が勘違いしている人が多いんじゃないかと思って話していきたいんですけど
これ2週間くらい前に朝にちょっと直感が当たられて、ふと降りてきたような感じで
こんなことを思ったんですけど
しばらく話していなかったんですけど、今回は出していきたいと思います。
どう勘違いしているかというと
これも承認欲求を満たすものだと以前は思っていたし、でもある時
例えば、音楽で承認欲求を満たすなんてのは
別にその人が作った音楽を聴いているだけであって
その人の人となりなんかわかんないし
承認欲求、そんなんじゃ満たせないだろうと思ったし
クラキがアフリゲットやってる時なんかは
最初は発達障害について書いてて
それはそれでね
承認欲求を満たせるのかというと、人となりのことを書いてるようだし
でもね、結局発達障害の特性を書いてるだけで
別に自分のことを書いてるのかっていうと
どんなのかってちょっと考えたこともあるんですよ
これはポッドキャストを撮り始めてからもそうですね
聴く人は発達障害について知りたいだけだろうし
別にそれでいいんだけど
うつ病について知りたいだけだし
それでもいいんですけど
それで承認欲求を満たす行為なのかって言うとそれは
そう捉えるのはちゃんとおかしいことなんじゃないかとは思ったこともあるんですよ
最初はなんかアメリカのあるあるとか色々話してて
それもね自分の興味あるのことだし
っていう意味ではいいかなと思ったんだけど
それもちゃんとおかしいということに気づいて
アメリカのことを発言してるだけだしね
そうですねアメリカの雑学をね
単にひきらかして何になるんだと思ったわけですよ
この承認欲求ってことの葛藤の話を聞いて
承認欲求についてちょっと考えてもらえれば嬉しいんですけど
でもあったち生涯っていうフィルターを通してじゃないと
こんなただの庶民の話聞くわけないし
っていう葛藤もあったりしたわけですね
そのフィルター自体どうなんだっていう話ですね
だから結局
もっと大きな葛藤があったのは
即時の話なんかもそうだけど
それよりも宗教に姿勢としての自分ですよね
これも自分のことではあるけど
より発達障害っていうフィルター以上に
宗教のこと話してもなっていう
自己表現としての音楽
自分が生えてた宗教の異物さをいくら話したところで
それは宗教について話してるだけだろう
っていう思いもあるし
宗教に姿勢の苦労の話でもあるんだけど
これ発達障害についても同じことですね
何病についても話そうかどうかっていう悩みがありましたね
こんな風にっていうのもあるんだけど
何だったっけね話戻りますけど
そうやって音楽家は音楽を通して表現する
なんていうのはおかしいだろうという思いもあって
でも最近はね
それも自分を表現する手段なんだと
例えばアイドルファンがアイドルのブログを書く
っていうのは一番理想的なのは
自分がどれだけアイドルを好きかっていうことを知ってもらう
っていうのが理想的だろうけど
それでなくても誰を教えてるのか理解してもらう
自分のアイドルへの思い
曲を聴いての感想を知ってもらう
でもそこまででなくてもね
単に自分が書き記したものを読んでもらう
それこそ単に事実を知ってもらう
あるがままに書くそれだけでも承認欲求を満たす行為だし
とにかく承認欲求を満たせれれば
どういう表現の仕方であろうと
それは承認欲求を満たせるものなんだと思ってたんですよ
でもやっぱりSNSで
どういう芸能人がこういうことがあったとか
単にトレンドについて言及する自分の感想を書く
っていうんじゃ自分ってものを知ってもらうって意味ではない
というかそもそも承認欲求の意味合いが
世間の人とちょっと違ってる
あるいは単なる言葉の問題じゃなくて
どうやったら承認欲求を満たせられるかってこと自体が
人と違うのかもしれないですけど
クラキンの中ではね
自分の人となりを知ってもらって
ことの承認欲求を満たすって行為なんですよ
と言っときながらもしクラキンがアーティストだとしたら
いい音楽を出して
それで認められるのは嬉しいけど
負けず嫌いな部分のその快感なんですよ
承認欲求を満たすってことではないんですね
だから相当自分についてだけの研究でないと
SNSで承認欲求を満たそうとしたら満たせないと思うんですね
これは誰にとってもそうだと思うんですよ
それではしたっけ