1. ポイエティークRADIO
  2. 第三十七回 観測者から実践者..

平和島のブローティガン、わかしょ文庫さんをゲストに迎えてのおしゃべり。前編です。

書くものと体との距離/二冊の『ランバダ』について/作る側にまわる意味/書き手としてのペンネームとの折り合い/内なる「読書家」のプレッシャー

00:04
こんにちは、ポイエティークラジオです。お相手は、私、柿内正午と、本日はゲストでこの方です。
はい、本日ゲストに呼んでいただきました、自称平和島のブローティガン、わかしょ文庫です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。自称の平和島のブローティガンがメインなんですね。
ツイッターだと、もう一つインディーズ作文化っていう。
あ、そうですね。
書かれていたので、どっちがメインなんだろうと思って。
真面目な方がインディーズ作文化で、人の字幕を集めたいときは平和島のブローティガンを使っています。
なるほど、じゃあ今日はもう字幕を集めていくということですね、ぴったりですね。
ツイッターのプロフィールでインディーズ作文化って書かれているのを見て、すげえいいなと思いながら、
ふと下を見ると平和島のブローティガンとして名高いみたいなことも書かれて、そっちも最高だなとか思いながら、
自分だったら何なんだろうなーみたいなことを考えながら、
いや、この二つがすげえかっこいいなと思いながら見てました。
地名プラスなんとかの組み合わせは、地名を入れることでマイルドになるので、
生まれ変わりとかってやっちゃうとちょっと厳しいんですけど、
地名プラス有名人にすると、一応冗談だと受け取ってもらいやすくなるので、
いろんな地域にどんな人がいるのか名乗っていただけると、私は楽しいなと思ってます。
あれすごいいいですよね。
それこそ、倉前とかも一時期、日本のブルックリンみたいな打ち出し方でいろんなタウン市とかに乗ってて、
絶対違うだろうって思いながらも、なんとなくそこを目指してるんだなーみたいなのがあるみたいなところで。
だいぶ雰囲気違う感じしますけどね。
そう、だいぶ違うんだけどなーって。
倉前はかなり限定的な気がしちゃいますけど。
そう、本当にそんなにしかも家賃も安くないだろうし、何を持ってみたいなところなんですけど、
こういうちょっとしたアホらしさと、なんとなく掲げているものはわかるみたいなところとの関係がすごいいいなと思います。
毎回このポエティックラジオでゲストをお呼びするときは、
ゲストのことはあまり真面目に紹介せずに、ググってねっていうところで、
03:03
早速話をしたいことを話していこうっていうのがスタンスなんですけど、
今回僕は和歌書文庫さんと多分こうしてお話しするのがほぼ初めてだと思うんですけど、
そうですね、はい。
今一番悩んでるのが、和歌書文庫さんとは、呼び方として和歌書文庫さんで、合ってますか?
はい、合ってます。
和歌書文庫さんでないと、フルで。
完璧です。でも和歌書さんでも文庫さんでも、なくても全然なんでも大丈夫です。
なるほど、わかりました。
じゃあ和歌書文庫さんがここまで口なじみが良くなってきたので、このままいきたいと思います。
はい。
で、今回、一応どうして今回お話ししたいと思ったかっていうところをお話しすると、
もともとランバダという作文集を2冊出されていて、それを読んで面白いなと思いながら、
ありがとうございます。
いつかどこかでお話ができたらなみたいなことを思ってたんですけど、
それこそランバダの緩末の方とかに友達が欲しいぞみたいなこと書かれていたりとか、
ちょっとどこに書かれていたか忘れちゃったんですけど、合同詩に憧れがあるみたいな。
書きました。
書かれてたじゃないですか。
そういうのを見ながら、それこそいいな、一回おしゃべりしてみたいなとか、
何かこう、それこそ合同詩みたいなものいいですよねみたいな話ができたらいいなみたいなことをぼんやり思ってたんですけど、
何分人見知りなもので、それこそ文振りで、せっかくお会いしてもだいたい手渡しの際に
ありがとうございますぐらいしか僕は特にお話ができず、なかなかしゃべる機会がないなと思いながら、
いただいたあるフォートおいしく食べて満足するみたいな。
よかったです。お渡した甲斐がありました。
あれはすごい嬉しかったっていう形で、あんまりこうなんていうのかな、
僕もこう何かこう物を書いたりとかいろいろしながら友達できたらいいなとか思うんですけど、
いざ、文振りだったり何かしらの会場で話すぞってなると特に何も話せないみたいなことが多く、
それこそツイッター上で友田さんとか巻き込みながらジョナーさんとか行きましょうよとか声掛けをしながらも、
なかなかこう状況も状況だったのも、ぐずぐずと時が過ぎっていうところで、
この前っていうところで一旦しょぼくれてたんですけど、
先週かな、チャーハンと冷たいコーヒーさんと一緒にラジオを始められて、
06:01
それを聞きながら、チャーハンと冷たいコーヒーさんも同じく桓松の友達になりたいっていうところで、
真に受けて一緒にラジオを始めたんだみたいな話をされてたときに、
あれは真に受けていいやつだったんだっていうところで勇気づけられて、
勇気づけられて、ちょっとじゃあお話したいなっていうところで、
声掛けをさせていただいたっていうのが。
ありがとうございます。
だから本当に、でもあれなんですね、ちょっとこう、
和書文庫さんもツイッターで書かれてましたけど、
文章だと後から遂行できたりとか、書きながらすぐにこう、
なんていうのかな、異物になっていくじゃないですか、自分にとって。
なりますね。
すごいそれこそ後からどんだけでも体裁整えられるんですけど、
おしゃべりってすごいそのコントロールがなかなか効かないから、
普通にこうなんていうのかな、それこそだから文振りであったりとか、
何もない場所でおしゃべりするのってすごい僕は苦手というか、
速さに追いつけないんですけど、
だからこそ、なんか友達になりたいですみたいなことを言いながら、
じゃあおしゃべりしましょうよって言って、いざその人を目の前にすると、
多分何もしゃべること思いつかなくて、ひたすらコーヒー3杯ぐらいただ飲み続ける。
分かります。
ことになっちゃうんですけど、
このポッドキャストやっててよかったなって思うのは、
こういうラジオの場だと、なんかこうしゃべんなきゃ、
しゃべる場だしなっていう大義名分も得られるし、
もっと言ってしまえばなんていうのかな、
普通のリアルの場で会って雑談する時って、
なんかバカ話から入らないといけないみたいな、
なんていうのかな、お作法というか、
おしゃべりのお作法みたいなのあるじゃないですか、
元気の話とか、
そうそう、あれすごいめんどくさいから、
いきなりそれこそこう、
なんていうのかな、エッセイと言わずに作文っていう風に、
自分の作品というか文章を定義しているのって、
なんでなんですかとか、
なんかそういうところから一気に入ってても、
まあいいかっていうことを自分に許せるからっていうところが、
結構こう、いいところだなっていうふうに思っていて、
っていう、ここまでが言ってしまえば、
転機の話パートなんですけど、
なるほど。
実際今ってその、
茶飯と冷たいコーヒーさんとやってるあの茶飯文庫は、
まとめて何個か取られてるんですか?
もうすでに2回3回目ぐらい。
2回目まで取っていて、
で、一応また、
そうですね、たぶん2個ずつとか、
3個ずつとか取っていく予定ではいます。
09:01
うんうん、なるほど。
あれそう、なんか1回目の、今だと第1回目だけが、
そうですね。
あれを聞いて、15分って尺すごいちょうどいいなって思いながら、
自分でやってるとなんかなんだかんだで長くなってるじゃん。
平均40分とかで、
友田さんの回とか1時間半とかだったから、
やっぱり15分って隙間に聞けるから、
聞く側としてはすごい優しいんだよなと思いながら。
柿内さんのポエティックラジオを聞いていると、
結構45分とか1時間があっという間に過ぎてしまうのと、
あと結構こう、
まったく途切れないから、
本当にそれはすごいなと思って、
私だったらたぶんできないと思うので、
いやいや。
すごいなと思って、はい、いつも聞いてました。
ありがとう、聞いてくださってるっていうので、
すごい嬉しいです。
ありがとうございます。
毎回でも、それこそ僕は、
元々ラジオも結構好きだったので、
より一層その沈黙があるのが、
良くないだろうだったりとか、
あとは単純に編集がめんどくさいから、
なるべくそのまま出したいっていうので、
とにかく喋っちゃうんですよね。
なるほど。
今日ももしかしたら油断すると、
僕がずっと間を潰すためだけに喋って、
みたいにならないようにしないとなって。
私も割り込みで。
いや、もうガンガン割り込んできてください。
ありがとうございます。
すごくここをお尋ねしたかったっていう話があるんですけど、
いきなり入っちゃって。
もうどんどん入っちゃいましょう、本題に。
柿内さんって以前演劇をされていたっていうのを、
プルーストを読む生活だったりで、
書いていらっしゃったと思うんですけど、
文章を書くときと演劇をするときとか、
ラジオを撮るときって、
全く自分の体の在り方が違うんじゃないかなと思ってて、
特に私は文章を書いているときに、
自分の体への意識みたいなものが本当に全くなくて、
それが良くて文章を書いてるんだなっていうことに、
ちょっと最近気づいたのは、
なるほど。
私にとって何かを表明したりするときに、
12:02
自分の体っていうものがとにかく邪魔で、
ラジオを撮っているときも、
書いてるときは書いてることだけ出せるけど、
話しているときは、話している言葉の意味以上に、
自分の話し方とか、声の音量とか高さで、
私が伝えたいと思っている情報以上のことを伝えてしまうなと思って、
そこがちょっと難しくて戸惑っていて、
そのバランスといったら変なんですけど、
演劇をやっているときにセリフとして伝えていた情報と、
書くときの表現で、ここは違うなって思ったり、
ここはでも生きてるなって思ったりすることとかってありますか?
面白いですね。なんだろう。
僕でも演劇をやっていたっていうのが、
演じ手としてではなくて、どちらかというと、
脚本と演出をやってたんですよ。
なので、実は僕にとって文章、今書いてるような文章と、
演劇やってた頃に書いていたものっていうところで言うと、
演劇をやっていたときの方が自分の体みたいなものから、
解放されてるというか、遠くても住んでたというか、
それこそそのよその人たちが、
その言葉を読んでくれるから、
自分からどんどん書いたものが遠ざかっていくっていうところが、
気楽というか、ちょっとの面白さだなみたいなところで書いていた部分があるので、
そのときの書いてたお芝居を見に来てくれた友達とかに言われて嬉しかったのが、
そこのどのセリフを取っても、別にそれが性別に入れ替えても、
あんまり違和感がないようなセリフばっかり書くよねって言われたことで、
結構それが自分としてはしっくりくるというか、
確かにどんな年齢のどんな性別の人がこのセリフを読んでも、
別に芝居としては成り立つなみたいなものを、
わりと意識しているにせよ無意識にせよ書いていたなみたいなところがあって、
そういう意味ではなるべくどんな体に入れても、
もしくはどんな体を介して発せられても、
違和感のない言葉っていうのを書いていたっていうのは、
たぶん演劇をやっていた時の文字の書き方で、
今やっているような日記の文章っていうのは、
どうしても自分が書いているっていうところを隠せないので、
15:07
ちょっとずつその頃はその体なんてないよっていうところで遠ざけていた言葉を、
なるべくもう1回じゃあ自分の体というのを介したものにするには、
どういうふうに書けばいいんだろうかみたいなところで、
結構その日記の文字の書き方とかも僕は結構悪文だと思うんですけど、
その一文がやたら長かったりとか、
最近ツイッターで話題になってたようなところで言うと、
ということとか、
ああ、
というのを全部やるので僕は。
あの編集者からすれば、
お願いしたをしたくなるような文章ばっかり書いてるんですけど、
それはやっぱり自分の体を通した時に出てくる言葉っていうのは、
このぐらいノイズがあるぞっていうのを、
なるべくちゃんと出さないとなみたいなところが、
働いている気がしていて、
なのでもしかしたら若者文庫さんの書き方と逆方向に向かっているというか、
どんどん体臭くなるように書いていくみたいな方向に進んでいきたいな、
みたいなところがあるかもしれないなと思いました。
確かに日記って、
そのあくまでも自分の、
書きなりさんの日記の場合は結構、
試作の部分が思ったこととか、
思ったことが多いので、いわゆる時系列で、
起きたことを書いていくような日記とは、
またちょっと違うものなのかなと思うんですけど、
でもそれでもやっぱり日にちが、日付があって、
自分はこういうことがあって、こういう本を読んで、
こういうことを思ったっていうことを書いているっていう意味では、
自分の体の再認識みたいなところでもあるかもしれないですよね。
日記っていうのはそもそもそういうものかもしれないですよね。
そうですね、なんかそれこそ天気悪いとすごい調子悪いんですけど、
なんか雨の日の日記ってすごいめちゃくちゃ抽象的なこと書いてた。
誰かの悪口書いてるかしかないんですよ。
だから、明らかに自分が気圧の変化とか、
寒暖差みたいなものにどれだけ影響を受けて、
その日何かを考えてるかみたいなことが、
だいぶ方向づけられてるなみたいなのを感じるので、
結構なんで、自分で読み返すとこの日は雨だったんだろうなと。
じゃあ、象徴の記憶がなくなっても、
このプルーストを読む生活を読めばその期間の天気が。
わかるんじゃない。
わかる。
何言ってるんだろうなってよくわかんなくなってるときは、
だいたいこう、なんか天気が悪いときとか。
18:05
それこそその、何だろう。
馬鹿庶文庫さんも、
これはなんか自分の感想だったのか人の感想だったのかすらあやふやなんですけど、
最初に何か文章をいくつか読んだときの印象だと、
わかんなかったんですよね。
どんな人が書いてるかというか、
それこそ男の人が書いてると思ってたみたいなことを、
たぶん僕じゃないんですけど、誰かが言ってるのを見た気が。
そうですね、意見でいただいたことが。
みたいなところがあって、
身体性じゃないですけど、
自分の体みたいなものから遠いものでもありそう、
特にウロン気候がなんかその感覚が良いような気がしたんですけど、
身体からの距離みたいなものを遠ざけていくような書き方っていうのをされている感じっていうのは、
確かに読んでいても感じるところではあって。
その印象って割とウロン気候には強かったんですけど、
僕の順番としてはウロン気候を読んで、
ランバダのボリューム2読んで、
その後にランバダの1巻目を読むみたいな順番でだったので、
それこそだんだん身体との距離が縮まっていくような読み方をしたのかもしれないなと思っていて、
多分ランバダから読み始めたら文字は文字として独立してるみたいな印象を、
そんなに受けなかったかもしれないなっていう風に思っていて。
何話そうとしたんだっけ。
ランバダとかを読んでいただいた人に、男性だと思っていたって言われたことがあったことについてなんですけど、
その時はツイッターではしれっとしてしまったんですけど、
内心、私はしめしめと。
おー、なるほど。
っていうのも、たまにいまだに書かれている小説でも、
女言葉を話す女性が出てくると、結構びっくりしてしまうんですよね、私は。
っていうのがあったりとか、
あとは、やっぱり女性はこういうものが好き、こういう風に考える、こういう言葉を使うっていうのが、
変化球みたいなものとして存在しているなって違和感がずっとあって、
21:08
そこをいつも、私はそこは別に選ばないなっていうのを思いながら暮らしていて、
それで書くものにもそうなっていったのかなとは思うんですけど、
ただ書くときに、こういう風に書くと女性だと思われるから、
女性だと思われないようにこういう風に書こうとか思っていることは決してなくて、
私の中に蓄積されている言葉のデータベースみたいなものから自然に出していくと、
特に女性的ではないような部分が出てくるのかなと思っていて、
という感じなんですよね。すみません、ちょっとよくまとまらないんですが。
いや、でも、分かりますって言うほど分からないですけど、
それこそ、僕も男女二言論じゃないですけど、性別で諸々切って分けていく論法自体に、
あまりイケてなさを感じはするんですけど、
それでも、文章の中から透けて見えるどっちの性別っぽさみたいなのって、
それこそ体との距離がどれだけ近いか遠いかみたいなところで、
無意識に判断というかバイアスがかかっちゃう部分ってあるだろうなっていうのを感じていて、
僕はそれこそ、もともとどちらかというと、自分の身体の状況だったりコンディションによって、
自分というものが思った以上に変動しうるみたいなところに鈍感でいられるせいだったからこそ、
いやいや、案外天気一つでブレまくりますみたいな方向に意識的に寄せていってる、
行かないと行く必要があったんだなみたいなことを感じていて、
結構だから、なんだろうな、そういうブレというか、みたいなものがあった上での書き方みたいなところに寄せていったんですけど、
それこそランバダーを読んでいて思うのは、意外と書き手側の生身っていうのがあんまり見当たらなくて、
24:00
わりと一昔前の男性作家にありがちな、特権的な、まなざし側にいるというか、
そうですね。
みたいなところが多分男性作家っぽさなんだろうなっていうのを思っていて、
ちょっとここから僕のランバダー語りになっちゃうかもしれないんですけど、
第1巻から読み直していくと、1巻ってわりとその、
なんていうのかな、多分前の文振りの時の感想でもちょっと僕お話ししたんですけど、
ある意味、自分語りじゃないですけど、
そういう自分の体だったり自意識のままならなさみたいなものを語るようなエッセイって、
あんまり面白いと思ったことがないんですけど、
ランバダーがなんでよかったかっていうところを見たときに、
実は自分のことあんまり語ってないというか、むしろ結構人のことばっかり見てんだよなっていうふうに改めて思って、
特に1巻はミネタとか先輩の犬のメロディーを飼っている先輩とか、
誰かのことを学ばしている自分みたいなところを設定して、
その学ばしている相手のことを相手に生身っぽさを託していくみたいな文章の書き方をされていて、
ファンメッセージじゃないですけど、
自分ではなくて相手の体に何かを託して、
その相手の生っぽさっていうものを自分であったり自分の文字を返して、
それこそ最後のVHSの話じゃないですけど、再生していくみたいな形で、
再生装置として書いている人がいるみたいな書き方をされている感じがしていて、
その時が一番多分目線だけがあって、書き手自体の生身があんまりないような文章というところで言うと、
結構このボリューム1の時の文章っていうのがかなり強く出ているのかなと思っていたんですけど、
多分それに対してボリューム2がテーマが進歩と調和じゃないですか。
割とそれも科学ってそれこそ観測者として何かの事象を分析するみたいなところで言うと、
割とその一環にあった頃の自分はマナザス側で何かの事象であったりっていうものを一度咀嚼して、
それをもう一度再生していくような立場にあるみたいなところに、
比較的にちょっとなっている文章なのかなっていう風に感じたんですけど、
その分観測者側で言うことにちょっと後ろめたさというか限界みたいなものを感じ出して、
27:04
自分でもやっていかないとダメだなみたいな方向にどんどん寄っていくような話になっているように読んでいて、
結構最初のダサイクルの話とかから、割と本を自分でわざわざ作って出してるだりとか、
こうやってわざわざ録音して出してる側からすると怖い話がされてるんですけど、
それでもなお良かったライブにはちゃんと良かったって言っておけば良かったとか、
本をちゃんと一回でも作っておく方がいいだろうと思ったみたいなところで、
意外とその観測者側から一歩ちょっと出てみようとする話みたいなところとして、
このボリューム2はあるのかなみたいな形で、
僕は今回1から2っていう形で順番に読み通したのがダメだと思ったんですけど、
結構身体というものからの遠ざかりっていうところから、
少しずつご自分が安全圏にいたところからちょっとずつ泥臭いところに降りてきているような感じを、
すごいランバダを1、2と読んでいったときに変化というか感じたので、
今のお話を踏まえてボリューム3ではどういうところから書かれるのかなっていうのがちょっと楽しみになりました。
ありがとうございます。
今もうすごくしっかり読んでくださったので、
一言一句聞き漏らすまいと思いながら、
ラジオ番組では多分入れなきゃいけないであろう合図字も全く入れずに必死になって聞いてたんですけど、
もう言葉、今いただいた言葉全部体に彫り付けたいぐらいの気持ちで聞いていたんですけど、
結構自分でも意識してなかったことをすごいおっしゃっていただいて、
その2で、1は見る側で、2はちょっとそこから観測者としての枠から出ていくっていうのは、
すごく言語化していただいて、そういうことだったんだっていうのはすごいはっきりと思って、
そうですね、ただ私が一番これが大きかったかなと思うのは、
30:06
分振りに最初出した時にここまで大事になると思ってなくて、
もう本当に思い出作りというか、
友達とかに手に取ってもらうために出して、
しかも自分でブース取ってなかったので、
友達のところに出させてもらって、
で、若書文庫っていうすごくふざけた名前を思いつきでつけちゃったら、
引っ込みのつかないところに来ちゃって、
っていうのがボリューム2だったので、
そこで、それまでは本当に一人でブツブツ言ってたような話から、
本当にこれを読んでくれる人がいるんだっていうのに変わっていったのが、
ボリューム2かなっていうのはちょっと思いますね。
やっぱり一人でいて、一人で文章を書いていたら、
それは例えば、中学生がノートに書く小説みたいな感じで、
世界の王様にもなれるじゃないですか、
王様みたいな気持ちがもしかしたらあったのかもしれないですけど、
実際に感想とかをもらって、
私もこの世界の中の一人なんだなって言ったらちょっと変ですけど、
でもわかります。
読んでくれる人がいて、
文学フリマっていう小さい空間の中にもすごくいろんな人がいて、
東京文フリになってしまうとすごく出展してる人も多いので、
小さい空間とはちょっと言いづらいですけど、
でも閉じた世界では、
そんなにすごく有名なものでもないけど、
そこにすごくいろんな人がいて、
そこにいる中の私っていうのは、
他者が出てきたときに自分の、
あ、私は北海道出身で東京に出てきてみたいな、
そういう差異というか、
あ、私ってこういう人なんだなみたいなのが出てくる中で、
そこでちょっと、もしかしたらそういう部分が、
そういう部分をちょっと、そういう属性とかを意識して書いたのかもしれないですね。
それこそあれですもんね、ランバダの一作目に入っている文章とかも、
ハテナ匿名ダイアリーに書かれてたものの再録だったりとか、
そうなんですよ。
ある意味だから匿名であったものが、ある意味和歌唱文庫という名前を得て、
懸命になった上で、その和歌唱文庫という名において書かれていったものが、
33:04
このボリューム2っていうような形なんですね。
そうですね。
そう、そんな気がします。
あとは、今のを聞いて思い出したんですけど、
ハテナ匿名ダイアリーって女性だってバレると、
結構攻撃的なコメントがつきやすい傾向にあるので、
そうですね。
男性っぽい文章はそこで得たのかもしれないですが、
なるほど。
それで、いいことなのか悪いことなのかは分からないですけど。
確かにそういう文化ありましたよね。
あります。今もあるかな。
今もそうですね。
はい、思いますね。
なるほど。
そうか、それは確かにある。
面白いですね。
それこそ、もともと今回お誘いしたときにも、
書いていく中で変わっていくものと変わらないものみたいな話できたら、
みたいなことをメッセージでやり取りしてたと思うんですけど、
はい。
それこそ、僕もこんなに大事になると思わずに、
なんか楽しそうだからっていう理由で、
文振りに本を作って出したんですけど、
それこそ、それ以降、新しくできる友達とかっていうのが、
自分の本名ではなくて書きない称号名義でのお友達だったり交流がどんどん増えて、
ある意味、たぶん実生活より豊かなものを書きない側が持ち出していたりとかっていうのがあるので、
だんだんとそれこそ、書くものにしても、
よりいい子ちゃんになっていくというか、
もともとプルースと読む生活を書いていた頃は、
誰も相手にしてねえだろっていう前提があったから、
減ってたんだなっていうのを、
だんだん感じてくるというか、
何て言うんでしょうか。
いや、はい。
ありますよね。
そうですよね。
なんか、自分はこの件についてはこう思ってるけど、
これを表明しちゃうと離れていく人いるな、みたいなのありますよね。
そうなんですよ。
過激なことが一切言えなくなるというか、
あとは、それこそ本当に、
もう言葉に出すのもはばかられるようなことは一切言えなくなってきて、
言葉にすることもはばかられることはどこからなんだろうみたいになっちゃって、
そうなんですよ。
見たことのない色のカビを見たとかも言えなくなっちゃって。
それはそうだけれど。
なるほど。
いや、でもそうなんですよ。
いや、何だろう。
なんか、それこそ、
36:01
誰も自分のことなんか相手にしてないというか、
自分の発言は大したことないっていう前提であれば、
何て言うのかな。
自分以外の周りの奴らのことばかだと思ってるっていう態度を隠さないでよかったところがあると思うんですよ。
何て言うのかな。
多分、それこそランバーダーの1のミネタの話とかもそうだと思うんですけど、
例えばミネタの話をするときに、
お前らは何もミネタのこと分かってないというようなことを言えるので、
自分のその発言がうぞうむぞうの1ファンの中の1人であるときは、
安心して言えるんですよ。
なんだけど、それが特権的な、
ミネタといえばこの人みたいになっちゃったときに、
同じことが言えるかっていうと、言えないじゃないですか。
みたいなのをすごい感じていて、
それこそ学生時代とかは、
本当に周りの自分以外の人間ばかだと思ってたので、
そういうようなことをそれこそそのとき書いてた。
ブログとかには結構書いてたんですけど、
今それやれないなというか、
むしろあのときばかにしてたり唾を吐いてた、
そのときの自分から見れば、
特権階級にいたかのような、
下っている人たちっていうのが、
別にそんなに、
大したところにいなかったというか、
自分もなんだかんだ少しは目立ってしまったなっていうところに、
入ってからだと、
とてもじゃないけど、
そういう人たちに対して石を投げることなんかできないな、
みたいなところに変化していったみたいなのはある気がしますね。
自分が弱っちっちゃい小型犬だっていう、
自己認識があったからこそキャンキャン吠えれてたんだな、みたいな。
そうですね。
下から殴る分にはいいだろうとかって思ってたことがあって、
それが結構ランバダの一番最初のときの、
ちょっと攻撃的なところはそこが出てるんですけど、
改めて別に、
そんな上とか下とかないし、
殴っちゃダメだよっていう。
そうなんです。殴っちゃダメなんですよね。
そうなんです。
下から殴っていいだろうって思ってるのだとしたら、
その下にいるっていうのは自分が作り出した幻だから、
まずそこに一人で向き合ったほうがいいんだよっていうのを思って、
すごく恥じったことがありました。
でもそういう気持ちにさせてくれたっていう意味では、文学不倫マンに出してよかったです。
いや、それはすごい。僕も文学不倫マンに出して、
その上とか下とかなかったなって、
39:02
その気になればすぐに、別にステージには立てちゃったっていうことに気づけただけでも、
すごい、これ以上無駄に人を殴らないで済んでよかったっていう気持ちに。
あとこれも思っていたのが、文章を書いて世の中に出していいのは、
特別な技術があって、本当に特別な体験をした人じゃないと世の中に出しちゃダメだから、
だから文学不倫マンって恐ろしいみたいなことを思っていたことがあったんですよね。
あんまり言っていいのかわかんないんですけど、
なのでちょっと文学不倫マンに自分が出す前は、会場に着くとちょっと具合が悪くなってたんですけど、
ただ最近思ったのは、文章の上手下手は人が感じるものですけど、
ジャンルにもよりますけど、上手の上は果てがないですけど、
でも最低限のルールさえ守っていれば、
最低限のルールを守っていて、それを求める人がいれば、
別にどんな文章であっても、それは存在していけないなんてことはないし、
誰が書いてもいいし、それを求める人がいるのであれば、いくらでも発表されるべきだし、
デマを煽動したりとか、特殊な思想だったりとかではダメですけど、
でもそれこそ、例えばブログのような文章とかも、
もう本当にいくらでも書かれた方がいいってことをちょっと思いまして、
そんなにプレッシャーに思うことなかったなっていうのはちょっと思いましたね。
自分が文章を書く上で、こんなの書いたって何にもならないし、書く意味なんてないんだとかって、
私は天才じゃないから書く必要なんてないんだとか思ってた時期もあったんですけど、
別に天才じゃなくても文章を書いて全然いいじゃんっていうのを最近思っているところです。
そうですね。文章のいいところはなんていうのかな。
文章もそうですし、おしゃべりもそうなんですけど、
だいたい意味は通るっていうのはすごいいいことだなというか、
結構僕は自分で書いているものだったり喋っていることに対して、
後から振り返るまで結構ヘッタクトだなみたいなこんなものっていうふうに思っているんですけど、
後から読み返した時に驚くのが、ちゃんと意味がわかることに驚くんです。
42:00
ちゃんとこいつ日本語喋ってるとか、ちゃんと文法的におかしくない順番で文字が置いてあるのすごいなとか、
そのレベルで自分に驚くんですけど、
なんていうのかな。
実はヘタな文章って限度があるんですよね。
読めちゃうから、何かしらは伝わるから、
それが望んだ通りの効果が得られるかどうかっていうところに考説は出てくるかもしれないけれども、
何かしら言葉として手をなしているみたいなところのレベルだけで言ったら、
割と多くの人に開かれているという意味で、
結構文字だったり声だったりっていうツールは、
すごい敷居がそんなに無駄に高くする必要ないんじゃないのというか、
むしろ多分、誰でもある意味ある程度まで扱えちゃうからこそ、
ちょっと権威っぽいところで、もっとこんなにちゃんと書かないとダメだみたいなプレッシャーみたいなものを付けないと選ぶれないみたいなところもあるのかなと、
ちょっと思ったりもしちゃうんですけど。
でもやっぱり、誰でもやれるんだったら誰でもやったほうが面白いですよね。
本当にそう思います。
それこそ、本当に最低限の部分って手におはきをつけるとか、
主語がねじれないとか、そういうのを何回も何回も繰り返し直していって、
形になってやったみたいなのがきっといいと思うんで。
初期費用もほぼゼロみたいなものですし、みんないっぱい書いたらいいなって私は思います。
読むのが間に合うかわかんないですけど、あんまり読むの早くなくて。
僕も全然読むの早くないから、あんまりたくさん買っても結局はなかなか読めなかったりするんですけど、そうなんですよね。
あと文章の場合はクオリティだけが判断基準じゃないじゃないですか、
めちゃくちゃ下手な文章でも読ませちゃうみたいなものっていくらでもあったりするので、
絶対に何か書いたらそれは誰か一人には必ずめちゃくちゃ刺さるんじゃないかみたいなところは割と楽観して、
みんな本を作ればいいのにっていうのは、
本を作れば人を殴らないようになるかもしれないみたいなところが結構おすすめしたいポイントかもしれないですね。
一番何も作る前が何も作ってなかった時が一番謙虚さからはほど遠かったかもしれません。
45:01
そうですね、自分で作るとやっぱりただのお客さんがいられなくなりますよね。
そうですね。
それはいいところだなって思いました。
それと、やっぱり書くようになって変わったこととしてなんですけど、
本屋さんの書店の方とか出版社の、その本に関わる世界の部分がちょっとだけ近づいたっていうのは、
私にとっては大きくて、っていうのも、やっぱり本もうちょっと買わなきゃなっていうのも思いまして、
そこは本当に何にも意識してない、自分のことしか考えない、ただ受け取るだけの本当に豪欲なお客さんだったんですけど、
私はもう本当に自分が読めればいいかなみたいな。
なんであの本の新役出ないのかなとか、なんですぐ絶版になっちゃうのかなみたいな風に思って、
結構わがままに、あそこの本屋さんは全然品揃え良くないしなとか、そんな本当にふざけたことを思ってたんですけど、
結構反省しましたね、それは。
それはありますね。
僕もなんか多分、それこそ文振りではあんまり思わなかったのけれども、屋根線かどこかでそういう出版社の方々が直接本を手売りするイベントみたいなのがあったときに、
初めてそこで、出版社って人間がやってんだって、バカみたいな話ですけど気づいて。
なんかこう、それこそAIとかがやってそうな気持ちになっちゃいますよね。
そうなんです。
葛飾だけの存在なのでは?みたいな。
そうなんですよ。法人っていうものに人格をやっぱり感じられないから、その下に本当に具体的な人間がちまちま仕事してるんだっていうことに、
初めてその時ようやく思い渡った感じがして、そこからやっぱりこう、一つの何かの複数人の仕事の成果物として本ってこの形をなしてるんだよなみたいなことには、
なんか意識的になってきたのは、しかもそれがどれだけめんどくさいことなのかみたいなのが、
自分で作ってみようって思ったときに改めて痛感するというか、
それこそ5字脱字に対してすごい厳しい目で見てたんですけど、
そりゃ間違えるよねみたいな気持ちにだんだんこう、自分で印刷していくとなっていったりとか。
なりますよね。
っていうのはすごいあるなというか、やっぱり自分の想像力って、飲食ぐらいだったらバイトとかでしたことあるからなんとなく想像力及ぶけど、
出版とか物流とかってなってくると、それが自分の普段の仕事にでもなってない限り、
48:07
そういうあらを探す消費者目線でしかなかなかこう物事見れなかったりもするので、
そうじゃなくて、全部人が仕事してんだよなみたいなのに気付けるっていうのは、
今さらかよっていう話でもあるんですけど、
自分で作ってみようと分かんなかったなっていうのはありますね。
私も結構5字とか見つけるとイエーイみたいな気持ちで、
やっぱり本って完璧なものだと思っちゃってたんだと思うんですよね。
それでひらがなとかちょっと違う文字入ってたりとか、
あとはページが折りたたまれて、ぐしゃってなった状態で印刷されてるのとか見つけると、
結構、それこそキョロちゃんの金のエンゼルみたいなのを見てたんですけど、
でも、そりゃあみなさん人間ですし、
あとは売るためだけのあまり内容が好みではない本があるじゃないですか、
ちょっとどういう言い方をしていいのか困っちゃいますけど、
ありますね。
それに対して結構嫌だったんですけど、
お金が回って人がいて欲しい人がいるんだなっていうのが見えてきて、
やっぱりこれは文学フリマに出てよかったなって思いました。
その時は。
単純な自分がただただこうあれって思えるような世界じゃないんだなっていうのは感じましたね。
そうなんですよね。
僕もそれこそ中学生ぐらいの頃からあんまり友達がいなかったので、
友達がいない中で周りの人たちに対して気に食わないことばっかりで、
こんなクソみたいな世界の中で唯一この正しい俺と同じぐらい正しいのが本だぐらいの気持ちでこじれた関係を読書と思っちゃってたので、
ようやくそこの呪いが解けてきたというか、
あ、違うわみたいな。
あの時クソみたいだと思ってた世界の中で、
その人たちが作ってるものの一つでしかないわ本はっていうふうに気づけた時に、
ようやく自分にとっての原理主義的な本に対する向き合いかなみたいなものが、
呪いが解けた感じがあって。
それこそ僕も最初文振りすごい苦手だったんですけど、
のぞじまん大会みたいだなと思って苦手だったんですけど。
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すごくぴったりな言葉だと思う。
今だと別にいいじゃんのぞじまん大会でも。
そうなんですよね。
それで子供たちがおじいちゃん出てるねって言って嬉しくなるっていうのは、
それだけですごい良いことじゃんっていうふうに思えるようになったって。
それは当時の自分からするとふざけんじゃねえって話かもしれないけど、
今からするとそのほうが良かったなっていう。
ちょっと話変わっちゃうかもしれないし、変わらないのかもしれないんですけど、
それこそ僕もなんとなく書きない称号っていう名前をつけて本出して、
それから気づいたらあんまりそういう滅多なこと言えない。
別に今はそんなに言いたいっていう気持ちがそもそもないからって思うんですけど、
言えなくなっちゃったなみたいなところから、
だんだんそれこそ普段の生活の中で書きない成分がどんどん増えていくというか、
書いてるほうの自分に寄せて生活してないかみたいなところが微妙になくはなくなってきて、
ちょっと怖いなみたいなところがあって、
ポッドキャスト始めたのもそれこそ声だと、
調子いいこと言ってても人のこと何か褒めてても、
こいつ本当褒めてないんだろうなみたいなのも含めて伝わっちゃうじゃないですか、その怖い色とか。
日記ではあれだけ成人君子みたいなこと書いてるけれども、
こいつ割と意地悪なやつだなだったりとか、
こいつ割と性格悪いなっていうのが伝わればいいなって思って、
ラジオ始めた部分があるような気がしていて、
これちょっと後付けなんで本当にそう思って始めたかどうかわからないんですけど、
どんどんどんどんある意味、
いい子ちゃんになろうとしていく自分に対して、
お前もっと嫌なやつだろっていうのを剥ぎ取っていくためにも、
声を使った何かをやってみようみたいなところでやってた部分があって、
だんだんだから書きない称号というペルソナになってしまっているものを、
なるべくそのペルソナではなくて、
一個の人格の方に引き戻していこうかなみたいな、
調整をしていくみたいなところが書いていって、
なんかすごいことになっちゃってみたいな中で、
自分の中での書きない称号という名前に対しての距離感の取り方みたいなところでも試行錯誤してるんですけど、
若翔文子さんの中でも、若翔文子という名前との日々の生活との間での折り合いの付け方というか、
思ったよりこの名前でいろいろ通るようになってしまったなみたいなところに対しての調整の仕方みたいなところとかって、
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何か思うところだったりやってることってありますか?
そうですね。
私はあんまりあれなんですけど、若翔文子としてやってるときは、
結構背伸びをして目を張ってまして、
あたかも古典全部読みましたみたいな顔をしてるんですけど、
実は全然そんなことなくってですね。
いいですね、そういう話ですね。
全然読んでないんですけど、なくって、
全然、詩とかも短歌とかも全然今まで読んだことなくて、今ちょっと急いで読んでるんですけど、
もしかして若翔文子として人として、若翔文子としてイメージされている若翔文子はきっと詩とか短歌とかもすごく読んでるって思われてたらどうしようって思ってすごくやるんですけど、
でもそういう意味での、より良い自分になろうっていうモチベーションには慣れてるので、
多分それはいいですね。
はい、いいんですけど、ただもうちょっと本当の自分はもっとぐーたらですね。
でもそれはすごい聞いて安心する話ですね。
本当ですか。
それこそ僕もなんだろうな、プルースト読む生活みたいなことやっちゃったせいで、
プルースト読んでるぐらいだからめちゃくちゃ外文に詳しいんだろうみたいな思われたらどうしようってすごい怖くて、
でも思ってました。
逆にプルーストぐらいしか読んでないんだけどみたいなところがあるので、
大学生時代の時とかもすごいなんか、それこそ名画座とかでかかってるいろんな映画に対して、
あああれねみたいな風に言ってから後から必死でググるみたいなことをずっとしてたんですけど、
最近なんか久しぶりにこの書きない称号としてやり始めてから久しぶりにそういう外文の、
あああれですねみたいなふりをしながら後で必死になって読み出すみたいなことをやっていて、
大学入学したてみたいと思って。
そんなことがあったんですね。
なんか私もすごく安心しました。
だからそれこそウロンキコを読んでいても、
多分僕らの中で読んだことあるのはダザエぐらいなんですよね。
本当ですか。
だからダザエの時だけウキウキして当店の打ち方まで含めて、
文体模写っぽいことやってるんだなみたいなことをツイッターとかで書いてたんですけど、
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それ以降のところで特に自分が語れる作品がないから、
必死にこれちょっとこういうのもちゃんと読んどかないといけないなとか思いながら、
必死にこう後から、今いつか読むリストの中に、
ウロンキコの中で取り上げられた本たちをリストアップしておいて、
今日まで読めたらよかったんですけど、結局何も読んでない。
それはすごく嬉しいですねっていうのも、
結構あの連載の本は結構行き当たりばったりで決めちゃったんですけど、
その時に結構読書家の皆さんから、
いや全部読んだことあるしって思われたらちょっと怖いなって思って、
あえて外した回とかもあったので、
一冊でも読んだことないやつがあれって思って、
決めちゃった部分がありましたんで、
でもどれも読んでほしい、いろんな人が読んでほしいなって思って書いた文章でもあるので、
読書リストに入れていただけるのはすごく嬉しいです。
よかった、なんかそうなんですよね。
自分の中にある架空の読書家みたいな人からのプレッシャーは、
いまだにどうしてもあるんですよね。
バカだと思われたらどうしようみたいな。
すごいわかる。
簡単にわかるとか言っていいのかわかんないですけど、
でも架空の読書家はいますよね。
そうなんです。
あ、そうだだからあれですよね、
ちょっと今すごいまた話脱線するんですけど、
マジだと安易にわかるって言ったら負けみたいなとこあるじゃないですか。
はい。
こういうおしゃべりだとわかるって、
わりと軽薄に言えるところも結構おしゃべりのいいところだなって。
そうですね。
なんかわかるって、なんかよいしょーとか、
なんかわっしょいみたいなところがありますね。
そうなんですよ。
なんか愛の手ぐらいの感じじゃないですか。
だからその程度でいいんだよなみたいなところが結構。
とはいえなんかこう自分の日記でもそうですよ、
架空文庫さんもわりとそのわからなさというか伝わらなさみたいなところについて、
結構こういろいろと書いてきているので、
なんとなくその気を使ってわかるって言わないようにしなきゃみたいな気持ちにはなっちゃうんですけど、
でもまあわりと口頭だとわかるって言うんだよなって。
それはそれであるなって。
全然出せんですけど。
口頭のわかるは結構無神経に。
そうなんですよ。
使っちゃいますね。
でもなんか、
はい。
どうぞどうぞ。
なんか人に、何か話してて人にわかるって言われても、
それはそこまで私は不快ではないかもしれないです。
和書位なので。
そうなんですよね。
あと、後からわかるって言ったけどあんまりわかんねえなみたいなことは、
それはそれであるかもしれないんですけど、
それはどっちかっていうと文字の範疇というか、
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何がわからなかったかとかは後から書くものであって、
別にその場でわかるっていうこと自体は、
なんか一つの和書位のバイブスだからいいやみたいなところがあるなって。
何の話でしたっけきっと。
心の中の読書家。
そうだ、心の中の読書家のプレッシャーはすごいっていう。
いまだにそのプレッシャーに追い立てられて本を読んでいるところがある気がしますね。
なんかバカだと思われたくないみたいな気持ちは、
いまだにまだ残ってるみたいな。
人のことをバカにしなくなった分、
自分がバカにされるのがより一層怖くなってるというか、
より一層周りの人が賢そうに見えてきたみたいなところが書いてる中で。
そうですね。
心の中の読書家が、
まだ日本語でしか読めないのかお前はとか。
思いますねそれ。
思います。
うちの心の中の読書家もそれよく言いますわ。
言語で読まないと意味ないんだよみたいなこと。
そうなんですよね。
言いがちですよね。
でも、全ての本を読んでる人はいないので、
どんどん心の中の読書家がどんどん最強になっていけばいくほど、
もしかしたら自分もたくさん本を読めてるってことになるのかもしれないですね。
そうですね、それを目指していきたいですね。
ちょっとウロンキコの話をさっきちらっとしかけてしなかったので、
もうちょっとだけすると、
ウロンキコはまだ今、何ていうのか、
本として出る時期とかまではまだ決まってないんでしたっけ。
そうですね、正確にこの日っていうのはまだ決まってないです。
なるほど。
今このウロンキコ自体は、
友田さん主催の代わりに読む人っていうレベルのホームページで、
今も多分全編読めるんですよね。
はい、そうです。
全12回が読めるんですけど、あれもすごい好きで、
ありがとうございます。
すごい良いですよね、何ていうのかな、
たてつけがまずめちゃくちゃうまいですよね。
気候文っていうものと読書っていうものとオーバーラップさせていくというか、
何かものを読みながら考えることと、
周りの風景が変わっていく中で考えることっていうのが
リンクしていくような書き方を毎回されていて、
それがレベルである代わりに読む人というタイトルと
すごいガッチしていくというか、
ちゃんと気候文であるものを読んでいると、
なぜか知らないけれども、その時テーマになっている本、
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何か代わりに読まれた気持ちになるみたいな気持ちのように、
一個一個がなっているところが、
ありがとうございます。
すごい良い連載だったなっていうふうに思って。
ありがとうございます。
僕はだから、自分が読んだことがあるものが出てきたのが
それだけだったからっていうのもあるんですけど、
川口子とニューヨークの話がすごい良いなって。
良かったです。
見ていて。
ありがとうございます。
一番でもグッと来たのは金沢文庫の書いて。
ありがとうございます。
ミスタードーナツに。
金沢文庫に行ったのにずっとミスタードーナツにいるっていう。
友田さんの100年の孤独を代わりに読むでは
ミスタードーナツが出てきたところから
また一個ドライバーがかかって文章が面白くなっていくんですけど、
やっぱり代わりに読む人においてミスドっていうのは
すごい気爆笑いなんじゃないかっていう。
そうかもしれないですね。
やっぱりミスタードーナツはすごく不思議な場所なので、
そこは仲良いですよね、時間によってはね。
そうですね。
やっぱり私はウロン気候でも書きましたけど、
ミスタードーナツに行くとコーヒーかカフェオレの飲み放題を頼んでしまって、
毎回カフェインを取りすぎておかしくなるっていうのがあるので。
かわり自由だとどうしても限界まで飲みたくなっちゃうんですよね。
そうですね。
もう体が悲鳴を上げるまで飲んじゃうので。
そう、あれはすごい良かったですね。
なんかそこの中でなんだろうな。
かなざわ文庫の回を読んで、わりとその和歌書文庫としての読み書いていくみたいなところに対しての、
なんか一歩踏み込んで、和歌書文庫という看板を背負っていくぞっていう決意表明みたいなところもあるのかなみたいな文章だったと思うんですけど、
結構なんだろう、あの文章が僕の中で、わりとその1個の先ほどの話で言うと観測者としての目だけだったところから、
それこそカフェイン飲みすぎて震える指紋も含めて和歌書文庫なんだっていうところに宣言をされたポイントだったんじゃないかなみたいなところで読んでたんですけど。
なるほど、でも言われてみるとそうかもしれません。
あの時は結構その、自分が一番こう、なんかどうにもならないなって思ってたことを、
どうしようもない出来事とかって、なんでそれが悲しいのかとか、全く言語化できないものだと思うんですけど、
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そこに初めてあの連載をきっかけに向き合いましてとか、そういうのがちょっとあるのかなと思います。
ちょっと詩小説っぽくもありますけど。
そうですね。
結構そのウロンキ公とランバダトだと、もともとそのフォーマットが決まってるかどうかってのもあるかもしれないんですけど、
わりと文章としての印象もちょっと違うかなというか、感じがしていて、
ご自分の中で結構書き方を意識的に変えたりとかされてたんですか。
あまり意識的に変えてるつもりはなかったんですけど、
ただもしかしたら、私ってその時読んでいるものの文章にかなり影響を受けてしまって、
自分で頭で考えている時の文章までその時読んでいる本の文体にかなり引きずられるので、
それがあったのかもしれないです。
さっきご指摘のあった川口子の文体模写は、あれはもう本当にやろうと思って遊びの気持ちでやったんですけど、
でもそれ以外のところでも結構引きずられてたりはするかなと思います。
そこが結構代わりに読まれている感の答えなのかもしれないですね。
その元の文章に影響を受けているっていうのを、その元の文章を知らなくてもなんとなく感じ取れるみたいなところから。
じゃあその私の癖がいい方向に行かれたと思うと嬉しいです。
いや面白いです。
いいですね。話したいです。
あ、でもあれか。時間がもうすでに1時間を超えて。
そうなんです。結構楽しくおしゃべりしてしまったのですが、お時間が。
お時間この後大丈夫ですか?でもあんまり長引くとあれかな。
あ、私は全然大丈夫です。
どうしようかな。もうちょっと喋りたいんですが、お付き合いいただいても大丈夫ですか?
あ、大丈夫です。
これどうしようかな。聞く側があれだな。
1回切ってもう30分ぐらい、2本目ぐらいの感じでやってもいいですか?
はい、ありがとうございます。大丈夫です。
じゃあちょっと1回ここでおしまいにします。
えっと、恋えてゆくラジオ、書き換えしょうごと。
自称平和島のブローティガン、和歌書文庫でした。
1:09:02
ありがとうございました。
ありがとうございました。
たぶんまた来週です。
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