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2020-08-24 52:52

第七回 健康から始まる雑談 ゲスト:奥さん

夏バテでぐったりした夫婦がお送りする取り止めもない話。柿内の他人の話の聴けなさが終始ある。よくない。

夏、無理/弱い体でのやっていきかた/健康って何?/薬や医療に対するスタンスのちがい/「アイデンティティ」って嫌いだな/社会通念との距離の取り方/そもそも社会ってあるの?/自分の内側に社会があるか


録音の日に柿内が読んでいた本たち
ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠/山田潤訳(筑摩書房)・ペトル・シュクラバーネク『健康禍』大脇幸志郎訳(生活の医療社)

00:04
ポイエティーク
ポイエティーク
こんにちは、ポイエティークRADIOです。私は、柿内正午です。
今日の引き続き、ゲストはこの方です。奥さんです。
よろしくお願いします。
お願いします。
現実、とても暑いですね。
そうですね。
嫌になっちゃう。
嫌になっちゃうな。
毎日、思っているんですけど。
最初、喋りますけど。
これ、さすがに声小さいかな。
わからない。
あの、なんだろう。
このポッドキャストも毎週月曜日に、今日付がる頃にアップしようというので、
だいたい毎週間のどこかで、一回はぐだぐだ喋ろうと思っているのと、
あとは、今は毎日は、厳密には毎日はやっていないけれども、日記を何かを読んで書くっていうのを、
今は、マルクスを読みながら書いているんですけど、
ちょっと暑さ、すごすぎて、
あと、なんか出かける機会が少なくなると、それだけでやる気がなくなっちゃって、
マルクス全然、2週間くらい読んでないし、日記も3日に1遍くらいにまとめて書くみたいになっちゃってるし、
どんどん洗えることがめんどくさくなっていく中、
一応、この週1のポッドキャストくらいはちゃんとやりたいなって、
かろうじて思っているんですけど、
プルースと読む生活っていうので、日記を毎日書いて、それを外に見せびらかすっていうことをやってみたときにすごい思ったのは、
毎日とか毎週とか目標を決めて、それに向けてやると何がいいことかっていうと、
クオリティがどうでもよくなるっていうところだと思っていて、
とにかく決められた締め切りに合わせて定期的に出していくっていうことの方が優先されていくから、
いやこれはまだ人様に見せれるとか聞かせできるクオリティじゃないなみたいなことを言ってられなくなるっていうのがある意味いいことだなと思いつつも、
普段自然を稼ぐためにやっている仕事ではそういうことばっかりなわけじゃないですか。
決められた計画の中でこの納期に間に合わせるためにクオリティであったり、
全体最適みたいなものは二の次みたいな仕事の仕方っていうのがどうしてもどっかしら出てきてしまうと思っていて、
でも仕事だとそれがすごい、いやもっとちゃんとクオリティ追求すればいいのになって思うんだけど、
自分で好き勝手やっているポッドキャストだったり日記だったりだとむしろクオリティなんてどうせ時間かけても大して変わらないんだから、
03:01
早速出しちゃえよっていうふうに開き直れちゃうっていうのは、
どっちが主体者かっていうか、会社の方が主体者であるのか、自分が勝手にやっていることなのかっていうことだけで、
立場の違いだけで言うことが真逆になったりするから面白いなみたいなことを思いつつ、
このポッドキャストは基本的にクオリティはしばらくはというか、そもそも喋りの素人なので、
書くこと以上に喋りについては素人なので、楽しくやればいいやっていうところで続けていければと思っています。
という初心評を最初にしたくて。
ちょうどこの前聞いてたスポティファイのポップライフザポッドキャストっていう、
たなそーと三原ゆうきさんっていう2人がやっている中でも、
ルッポ川崎っていう本家で磯部涼さんがゲストで来てて、磯部涼さんがすげえ言語落とすって話をずっとしてたの。
でもそれすごい良いことで、七尾たびとのインタビューでアルバムのリリースのタイミングで、
ドーンとインタビュー記事を載せようみたいな時に6ヶ月落としたと。
でも半年も落としちゃってるから、アルバムのリリースのタイミングでなんでもないんだ、そのタイミングで掲載されるみたいな。
しかも当初、ざっくり6ページくらいで全然収まらない7万字くらいのインタビューを上げてきたみたいな話が入ってて、
その話自体は特にビラにしきれない話なんだけど、とはいえ今どき何よりもクオリティを追求するみたいな仕事の仕方をするやつなかなかいねえからすげえなって思ったみたいな話にその場ではなってて、
その時にすごいなんかああそうかと思ってね、クオリティを追求かみたいな風に思いましたっていうので、
今日その話をしたいなって思ったんだけど、別にこの話は今後には何も関係なくて、
今日したい話としては、我々は前回友達もいなくて体も弱いから結婚したんだよっていう話を、
残配に言うとしたと思うんですけど、なんか暑くてだるくて仕方がないので、
その弱い体をどうメンテしてきたかとか、これからより一層どう上手い具合に元気よく過ごしていくかみたいなことを話せたらいいのかなと思っています。
06:03
はい。
奥さんは今元気ですか?
元気ではないかな。
今どういう具合に元気がない?
なんかしんなりしてる。
しんなりしてる。
なんかシャキッとしてない。
ああ。
メリハリがない。
メリハリがない。
あらゆる起伏がない。
それは体調そのものもあるけど、奥さん在宅勤務でずっと家にいて、毎日がずっと同じ景色みたいなこと?
うーん、なんかその、なんだ、タイムキープをするだけの気合がない。
日々がぬるっと始まりぬるっと終わっていくみたいな状況を打破する。
打破する元気ない。
打破したいとは思うの?そういうのって。
えー、なんか実行工程感は下がっていくかな。
なるほどね。
なんか普通に体に悪い、悪そう、というか気持ちに悪い。
うんうんうんうん。
その、なんだ、生活にメリハリがない感じが。
うん。
そうなんだよね。
だからあの、5週連続配信とかでさ、8時から配信が始まるから、7時にはご飯にしたいから、
もうこの1週間私が責任を持ってご飯作りますとかやってたときは、なんか割とこう、ちゃんと間に合うように。
そうね、張り合いがあったね。
昼から何作るか考えといてみたいな感じで張り合いがあったというか。
だからなんかその、舞台の配信もそうだし、
普通にだからあれだよね、楽しみにしてるテレビ番組をリアルタイムで見るとかも、
実はそういう効能があるのかもね、日々の時間割をちゃんとセットするためには。
何時までにこれやらなきゃみたいな。
うん。
なんかもう今年はさ、イレギュラーだからさ、夏がダメなのかさ、この状況がダメなのか、
切り分けが不可能じゃないですか。
そうだね。
なんか、最近の話をしてもダメじゃない?
最近の話をしてダメ。
うーん、なんか、
09:04
え、もうだってさ、4,5,6,7,8?
え、もう5ヶ月在宅勤務してる?
うん、ほぼ半年だね。
ほぼ半年引きこもり生活。
私はほとくと5日ぐらい平気で外に出かけたからね。
だから今のあれなんだよね、もともとお互いに体が弱いから、
割とその体調っていうものに対してすごいセンシティブにきちんとメンテをしていこうっていうのをさ、
僕はもともとなかったけど、それこそ奥さんに言われて、
なるほど、自分の体っていうのはちゃんとお世話すればこれぐらいは調子の悪さっていうのは軽減されるんだみたいなのがあったんだけどさ、
今二人とも割とそこぐずぐずになっているから、今その弱い体でなんとかうまくやっていくっていうことをしゃべれないんだね。
そうそうそうそう、なんか元気になってどうするの?みたいな気持ちがめっちゃある。
そもそも元気になる必要も感じられないし、そもそも元気になるための何か工夫も今は特にしていない。
なんかでも今までしてたメンテも、ぶっちゃけその床で転がってるよりは座布団敷いて座ればぐらいの話だと思ってて。
そう、なるほど。
なんかそんなすごいこう、アベレージがめっちゃ低いじゃないですか。
アベレージ20%を50%にしようよっていう話であってさ、その元気いっぱいになりたいよね。
そのためにはこれとこれとこれをやろうねみたいな、そういう意識の高い話は全くしていないというか。
要するに一言で言えば漢方を飲むようになった以上だからね。
そうなんだよ。あ、でもだからそれなんか割と面白いなと思って。
なんかその今だとあえんと漢方を毎日飲んで、ただでさえ低い体調をちょっとでも低みの中では高い方に置くみたいなことをやってるじゃない。
毎月それなりのお金をかけつつさ。
そうですね。
でもなんとなく奥さんと暮らし出すまではクッソ体調が悪いか、体調が悪いかっていうのしか世界はなかったから、
自分がその体調が悪くないっていうその発想自体がそもそもなかったし、
なんか体調が良くならないと意味がないと思ってたから、体調が悪くないって状態にするためにお金をかけたり手間をかけたりして自分をメンテする必要が全くわからなかった。
だけど奥さんにそれは一緒にいる私に対して失礼だよみたいな、なるべくベストな、ベストとは言わずにベターなコンディションにはなってくれよって言われて、
その漢方とか飲み出して、あ、調子が悪くないっていう状況はすごい良いんだっていうことに気づいたのが結構大きいなと思ってて。
12:07
なんかだからその良さを目指すんじゃなくて悪くなさを目指すぐらいでいいんだって。
しかもそれは割とたれき本願というか、薬飲んだりとか整える方法は割と自分がなんかすごい頑張らなきゃいけないわけじゃなくて、
割と何かしらのお金なり手間なり何でもいいから何か一つ取れば、時間と手間が両方かかるっていうよりは漢方の場合お金さえかけちゃえば別にあと寝る前に飲むだけとかだから、
寝る前に飲むだけが割と手間だったりもしれないかもしれないけど、
なんかそういう意外とできちゃうじゃんみたいなところで、そこの自信のつき方は個人的にすごく大きかったなって思ってて。
だからその奥さんの、僕はそもそもその薬が嫌いだったし、
あともっと言うと健康みたいなものに対しての不信感がすごかったから、
オカルトだと思ってるところあるよね。
健康はオカルトだとそれは今でも思ってるね。
割と奥さんが先生の言うことをちゃんと聞こうみたいなのとか、
お薬をちゃんと飲もうみたいな発想に対して、割と不信感は今でもある。
何か新しいことを始めようとする時さ、僕はとりあえずやってみようって言うじゃん。
そうかな。
奥さんは割とちゃんとそれはしっかりと調べてからの方がいいと思うって言うじゃん。
だからあの時すごいまどろこしいなと思うの。
だから調べてからだとめんどくさくなっちゃうから、
調べる前に一回やってみてから調べた方がいいじゃんって思うんだけど、
だからそれは新しいガジェットを買った時とかもそうでさ、
一回いじってみて分かんなかったら説明書で分かんないとこだけ見ればいいじゃんって僕は思うんだけど、
奥さんはちゃんと起動させる前に説明書を読みなさいって言うじゃん。
割とそこのスタンスの違いも結構大きいなって思ってるんだけど、
薬に関しては奥さんの言葉が正しかったなって言うところはすごい100%思ってる。
薬っていうか、自分の状態に対してのスタンスだよね。
かんぽっていう手段をとっているのは、
基本的にかんぽの考え方で言ったら、
薬より先に睡眠とご飯、食用上で、
それができないなら薬を出しましょうかっていう基本スタンスが前提にあって、
それこそ私は自分一人で言ってた時も、
寝れるんだったら寝るんでいいんですよって。
でもどうしても家帰るのが9時過ぎになっちゃうから、
15:04
睡眠時間が何時間になっちゃうのであれば、
じゃあ睡眠時間をお金で買いましょうかって言って出してもらってたかんぽとかあるので、
いい話だよね、それは。
ちょっと話が変わっちゃうかもしれないけど、
かんぽの好きなところって治すじゃなくて整えるんだわけじゃん。
だから足りてない睡眠時間とか足りてない食生活みたいなものを補うものとして、
体調を整えるものとしてお手伝いのために出しますよっていうスタンスじゃない。
だからそれが好きなんだなっていうのを今話してて。
お互いに仕事に行き詰まってくると、
自分はADHDの怪我があるとか多動っぽいとか、
椅子にじっと座ってられないみたいな話になるじゃない。
それになったときに、それに対して薬を使おうみたいな、
僕あんまりそういうのはないなと思って。
奥さんがこの前そういう話の流れについて、
こういう薬で解決するんだろうかって話を聞いたときに結構おおーって思って。
割とまだ何かしら自分にとってわからない世界で、
治すみたいな話が出てきた瞬間に、僕は何かオカルトを感じてしまうんだと思う。
いろいろあるけれども、
歓迎を目指すものというか、
そもそも治らないものに対して何とかしていくスタンスという話では、
ADHDのコンサータとか、
要は神経伝達物質の調整をいじる系のものと漢方は、
スタンスは遠くないのかなっていう。
全然やってるアプローチは違うけど、
そもそも西洋医学の発想は対処療法じゃん、基本的に。
ADHDとかも対処療法なんだけど、
対処療法をしていった結果、治っていくみたいなものを目指すのではなく、
とりあえず日常生活に支障が出ないように調整しましょうねみたいな話で、
18:02
私の場合はホルモンバランスの崩れて、めちゃめちゃ人生を振り回されてきてるから、
バカにできないなって思っていて、
一生でティースプーン一杯の女性ホルモンにこんなにめちゃめちゃにされなきゃいけないのかみたいなところで、
やっぱりメンタルに来るものを薬で治すっていうことの一点と点が繋がらないじゃない。
私は精神系の診断はついてないけど行ってないから、
やってることとしては想像ができない。
ドラッグ的なことしか思い浮かばないみたいな。
飲んでる間はとりあえず死にたくならないとかそういう発想しかできなくて、
いまいちこういう仕組みは調べればふーんって思うけど、
外科みたいな血が出てるから止めるみたいな話じゃないじゃん。
風が吹くとお気合が儲かるみたいな話だからあんまり繋がってなくて、
でも実際かんぽを飲み始めたらメンタル落ち着いたし、
体調も落ち着いたから本当になんか関係あるんだみたいな。
心身問題っていうの?心と体の問題みたいなのってそれこそ哲学の中でもすごい。
だから精神と身体というものは二言論的に語りうるものなのかみたいなのってずっと言われ続けてることだけれども、
割と精神というかメンタルみたいなものも一種の神経細胞の発火みたいなものであれば、
肉体というもののコンディションと連動してるに決まってんじゃんっていうのがさ、
かんぽとか飲んでるだけでもちょっとホテリとか頭痛みたいなものが減るだけでいい人間になるじゃん。
自分のキャパが、余裕ができるからさ、できた余裕とか元気でより一層誰かに気遣いができるとかさ、
そういうのは普通にある話じゃない?体がだるいときに他の人に親切にしようみたいなことは思えないんだよ実は。
思ったとしてもそれで行動できないからさ、結局何だろうな、割と優仏論者に近づいていくというか、
21:00
心の元気と体の元気はそもそもそれって二つに分けてるけど、ぶっちゃけ全部一個で体調ってものに集約できちゃうんだから、それでいいじゃんっていう。
だから最近の流行りの筋肉がすべてを解決して筋肉を裏切らないみたいな、そういう意味で一面的にはすごい正しいというか、
もっともなことだろうなっていうのは思うんだけど、多分メンタル系のカタカナ系の状態に対して僕が何となく危機感があるので、筋トレに対する危機感と同じだと思っていて、
筋トレもね、割と危ないなというか、信じられるのは己だけだっていうので、自分の体を整えて自分の精神を健やかに保とうみたいな。
その発想自体はすごい良いと思うんだけど、特に男性の今の筋トレブームって、割と単純に管理しやすい体というか、マネジメント可能な体を作ろうみたいな話でしかないじゃんって思っていて、
誰の都合でそれをやりたいんだっけっていう時に、実は個人の自立感みたいなものを取り戻そうというよりは、
割とより効率よくお金を稼げるような身体とメンタルのタフネスをメンテするための仕組みとして筋トレと精神科系のクリニックというものが両輪である感じがしちゃっていて、
そこで個人が一生懸命そこを強くさせないとやっていけない状況それ自体が嫌じゃないっていう方にどうしても話が引っ張られていっちゃうんだけど、
それがすごい違和感があって、というのもずっとこの29年間、体が弱くて嫌な奴として生きてきたから、
割とアイデンティティクライシスじゃないけど、自分が元気になっちゃったらとか、自分の精神において多動みたいなところがなくなってしまった場合、
それってまだ自分は自分と言えるんだろうかみたいなところが割と結構怖いんだと思うんだよ。
大学生になった時にお酒さえ初めて飲んだ時とかも結構怖かったの。酔っ払った時みんなすごいじゃん。酔っ払いってすごいじゃん。普段の感じと全然違うじゃん。
でもあれが本性云々とかも言うけどさ、自分にとってお酒飲む前に自分の本性みたいなのが、よくあんな醜い本性があるんだろうかみたいなところがまだ分からなかったからさ、
もし自分がああなっちゃったとしたら、それを何かしら自分の、実は抑圧されていた本来の自己みたいなものなのかって思ってゲーってなるし、
24:00
しかもそれがもし記憶に無かったとしたら、それこそできるとはいとみたいな感じで、そもそもの自己同一性が揺さぶられるみたいな気持ちになって、
最初にお酒飲んだ時すごい怖かったの。ここでこれまでの20年の人生で培ってきたアイデンティティーでもあっさりと崩壊するかもしれないみたいな気持ちがあって、
割とそれに近い怖さを感じる部分があって、
寒冬はそこで体の方にアプローチしますよっていう言い方だったから、多分割とすんなり飲めたんだよ。
それで体に引っ張られて確かに気持ちも元気になった時に、やっぱりそうなんだって思って、逆にこれで気持ちに直接アプローチする。
正確に言うと神経系だったりとか、体の中で分泌される何かしらの成分を活性化させることによってっていうのだから、
どっちにしても寒冬と同じで、何かしら体に働きかけていることに変わりはないんだけど、
すごいだからどんどん個人というものの頼りなさに揺さぶりをかけてくるなと思った。
でも体は器にさ、どっち先行かみたいな話あるじゃん。
人格というものが核としてあって、体が器なのか器が先なのかみたいな。
それで言うと私たちみたいな不転生そのデパートみたいな人間は圧倒的に器に左右されているから、
基本的にめちゃめちゃヒビだらけの器の中だからこそ人格の強固さを信じていないとやってられないみたいな状態で育ち、
ある程度育ってこの器メンテできるんじゃないってなったときに、
だからその器が脆いがために信じていた人格というものがもしかしてそんな必要はなかったのではないかとか、
体の弱さをカバーするためにめっちゃ頑張ってたんだなみたいなことに気づいたり、
あなたは解禁印象を取ったほうがいい側の人間だったじゃん。
私は全くそれが理解できないのね。
そもそも体調が悪いとか、自分は体が弱いみたいな自己認識そのものが結構なかったじゃん。
みんなこのぐらいだと思ってた。
こんなもんだと思ってる。
そうなんだよね。まず最初に俺は調子が良くないんだって気づくところからだったからね。
頭痛いかどうかすら分かってなかったよ。
27:03
分かってなかった。
今こんなに朝ごはん食べるとお腹痛いって言うけど、それは普通に腸が動いてるの?
それとも本当にお腹痛いの?って最近すごい確認して。
朝ごはん食べる習慣がそもそもなかったからね。
だからそこからじゃん、話が。
体が弱いとか体質だからしょうがない以前に、あなたは自分の体に対する解像度が低すぎるから、もう私の言うことを聞いてっていう話で。
まず頭が痛いと思ったら頭痛薬を飲んでって。
基本の機械だからね。
頭痛薬怖いのは分かるけど、とりあえず今できることは痛くなっちゃったら異国も早く何度かした方がいいんだから。
月に半日以上飲むとかじゃないんだったら。
飲めば楽になるんだったらこの程度の時間頭痛いって言ってる方がどうかしてるじゃんっていうところからスタートだったからね。
それはすごい分かる。
体の不調とか自分のパフォーマンスに影響が出る。
自分のしたいパフォーマンスに影響が出るものについては頭痛とか腹痛とかホテリーみたいなのとか不定周測に関しては直せるというかちょっとよくできた方がいいじゃんっていうのは分かる。
だけど多動灯火になってくるとさ、そもそも自分が困ってるかどうか微妙じゃん。
うーん、そうね。
それが人格と癒着しているというかさ。
筋トレからメンタルコントロールみたいなところに割とシームレスに繋がってるなっていうところに僕は怖さというか危うさを感じていて。
ひどく障害というものは誰にとって障害かって言ったら主体者から見て社会というものが障害になっているという方が意味の比重として大きいわけじゃん。
本人に何か障害があるというよりは本人と社会との間の関係性に何か障害がある。
日常生活が遅れるか遅れないかっていう線引きが一つの判断材料になるとしたらその日常生活を強いている社会そのものが養成している基準に達してないという意味で障害と言っているのかっていう話だよね。
なんかその正常と異常みたいな風に分けたときもさ、ある意味だからその正常の範囲がすげえ狭いというか、めっちゃ元気が良くて健やかな人以外の人に対してどんどんその許容値がその筋トレ商用文化の中では狭まっていっちゃうような感じがして、すごいそれが嫌だなって思っていて。
30:04
でもそれってさ、自分の筋肉をいじめてその狭い範囲に適合できる人間になりましょうとさ、あなたは体が弱いかどうかは知ったこっちゃないから解禁医師をとれるだけの根性を身につけろっていうのは同じ話じゃない?
同じレベルの冷俗だなって思っちゃう。
解禁医師なんじゃ今置いといていいよ。それだって僕は別にそのなんていうの、学校休むほどの体調の悪さではなかったんだもん。
いやだからそういうことじゃん。
どういうこと?
そこで耐えちゃうわけじゃん。
いや耐えるとかがなかったのそもそも。
耐えるみたいな話になってた。
解像度低いからさ。
いやでもそれはいいや。だからそれは昔の話じゃん。
あー。
だから別にその昔はそうだったかもしれないけど、その時は別に耐えてるとか意識はないわけで、耐えてるって意識がないことが危ういよって話はそうなんだけど、
だからその動向なのは分かるんだけど、今は別にそこはどうでもいいと思っていて、
だから自分の体が我慢してたんだって気づいた結果、筋トレみたいなこととか薬で精神を安定させるみたいなことに対して、
なんかちょっといわを覚えられるくらいに自分の体のコンディションだったりっていうのに解像度高くなったよって話だと思うから、
むしろそのなった結果、そこを全部を全部一つの正常とされているところに標準のところに合わせていこうみたいな形になっちゃうと、
それこそだから逆も先祖返りなわけじゃん。
自分の体の弱さに無自覚だった頃にその標準に合わせていくのとさ、
自分の体の弱さに自覚的になっておいてその狭い基準の中に無理矢理合わせていこうとすることはさ、
やってることは一緒だから、自覚のありなしはあんま関係ないんだけど、
自覚した結果結局同じようにそこに入っていっちゃうことに対して、
すごいどうすりゃいいんだろうなって思っていて、で、どうすりゃいいんだろうなって思ってる。
でもそこには入っていかないでしょ?
それが入っていかないだろうなと思ってたんだけど、
この前の多動みたいなものに対して薬で落ち着いたらみたいな話をしてたときに、
割とそれはどっちなんだろうなって思ったんだよ。
でもそれ…
私の話ね。
別にそれは社会のためではなく、
自分が思うように自分が想定しているパフォーマンスを自分が出せないことがフラストレーションになるから、
なんかそれこそ金で解決するんだったら殴ってみたいなみたいな話で。
33:01
ひと心地つく余裕、気持ちの余裕は金で買えばいいじゃんみたいなこと?
いや、なんかその…
基本的には病名がつけば治せるというか、
治す手立ちのない病気もあるけども、
少なくとも解像度が高くなるわけじゃん、診断がつくってことは。
で、診断がついて治療ができればマシになるわけじゃん。
っていう過程をさ、
一回その不定周数でやってるわけじゃん、漢方で。
もっと曖昧なもので。
もっと曖昧なものでマシになってQOLが上がったんだったら、
もっとピンポイントで病名がついたものに対して、
もっと効率的にマシになるんだったら試してみたいなっていう話。
自分の体で実験したいに近いのかな。
なるほど、ちょっとわかったけど。
で、自分にとって不都合な属性をさ、
ずっと大事に抱えてる必要ってないじゃん。
合理的に判断するとそうなんだけどね。
だからそれこそ20歳そこそこでさ、
俺はこういう人間なんだみたいなこと言われるとさ、
20年ちょっとしか生きてないくせに、
なんでそんなに自分はこう自分のことを強く規定しているの?
みたいな気持ちになるのと一緒で、
別に自分にとって不都合な自分というものは
どんどん切り捨ててしまえばいいと思っていて、
だってあなたと知り合った頃の私と今の私の人格って
かなり違うじゃないですか。
2年3年前の記憶ないからね。
だって私はすごい怖い人だと思われていてさ、
まず私ご飯屋さん入った時に挨拶とかできなかったから、
食べ終わって出てくる時にごちそうさまでしたって今言うけど、
本当に言えないかったから、
それはさ、言えない自分をさ、
特にいいところではないと思って
ないないすることが可能だったから、
できない部分もあるよ。
自分が好きになるものはダサいなみたいなものに対して、
じゃあダサくないもの好きになろうっていう風にはなれないから、
そこはさ、
そんな合理的にことは進まないんだよみたいなところがいっぱいあるよ。
そこはまた別で話したいね。
なんでダサいものと好きなものと一緒であることみたいなのはさ、
36:04
結構面白そうだなって思う。
アイデンティティって言葉が嫌いなんだけどな。
いやわかるよ、アイデンティティって言葉さ、
それこそ僕小学校の時の国語の時間の評論文ってだいたい全部アイデンティティなの。
いやもうそういう世代だからね。
でもアイデンティティは嘘じゃん。
さっきちょっとアイデンティティクライシスって言っちゃったけど、
どっちかというと自分っていうのはないというか、
周りの環境とか周りの人とか周りの状況との、
あとそれこそ体の調子みたいなものも含めての、
全部ひっくるめての全体感というか相性みたいなものによってできてくるものだと思うから、
そもそも自分由来みたいなものっていうのは一個もなくて、
全部その周りのもので構成されてるでしょみたいなのは思うんだけど、
なんだろうな、
それを思うからこそその周囲のその環境のわけわからん複雑さみたいなものを
ちょっとこう遮蔵しすぎて、
一個の診断名を名付けるみたいなのに、
なんかその診断って呪術じゃん。
呪術ね。
呪術ね、まじないね。
まじないだから何かその神名を与えることで倒せるみたいなのって、
死の概念を。
ゲド戦記の世界なわけ、FGOの世界なわけ。
その神名がわかった瞬間に相手の弱点とかもわかって倒せるみたいなのは確かに奥さんの言う通りなんだけど、
割とまじないの一挙出てないと思う。
観光の好きなところは不定修相っていう名前がちゃんとつききってないところに、
なんかよく理屈はわかんねーけどこれ投入するとなんかよくなるっぽいで、
実際よくなるっていうところに多分僕は結構しっくりきていて、
はっきりとそこにお前はこれだって言って、
それにお前の誠の名はみたいな感じでやっつけていくみたいな、
西洋医学に対して割とね、
僕はむしろそっちがオカルトじゃんって気持ちがやっぱり強いんだろうなって。
それで言ったら中医学の方がやっぱりオカルト言えばあれされがちだけど、
お前の名前は貴嬌だっていう感じだから。
でも貴嬌ってかなりざっくりしてんじゃん。
状態に対して反射としてこういう症状が出る傾向があるから、
カウンセリングの結果は貴嬌ですねっていう話になっていくから、
なんか推理に近いし。
推理に近いしあれもだから血液型診断レベルの流度しかないじゃん。
その流度しかないのがいいと思っていて。
だから別に血液型とかもさ、正直全部どうでもいいんだけどさ、
あれが重要なのでパターンが4つとかしかないってことが重要だと思っていて。
その4つのどれに当てはめたとしてもなんかしっくりきちゃうじゃん。
でもそれぐらいでいいんだと思うんだよね。
そのぐらいでいいと思うの、そのアイデンティティも。
もういい加減でいいと思う。
ちょっと待って。
全部繋げるのね。
39:00
全部いい加減でいいと思う。
だからそれこそ、あなたは伸びたタイプとかスネオタイプとかジャイアンタイプみたいな、
人間は全てその3つに整理できるぐらいのざっくりとした理解がいいと思っていて。
そこになんかね、はっきりとね、
エストステロンがあるとかね。
みたいな名前をつけていっちゃうと、なんかちょっと一気に信頼できなくなるなというか、
それ以外の要素の部分っていうのは人それぞれ全然違うと思うんだけど、
なんかその1個だけにそんなに万能な効果ってあるんだっけみたいなことを、
どうしても思っちゃうんだなっていうのがあった。
ちょっと話を戻すけど、
そもそもアイデンティティクライシスって話が出てきましたけど、
そこをもうちょっとちゃんと話すと、
自己同一性が保たれているってのはどういうことかっていうと、
できる能力と求められていることと、
あれなんだっけ。
できること、したいこと、することを求められていることが一致している状態が、
自己同一性が保たれている状態っていうのが定義なんですよ、そもそもの。
で、ここで変えられない、変えづらいことっていうのはできること、
その能力が向上していけばできるようになることも増えていくかもしれないけど、
できることとしたいことの、
違う。
え?
何を?
求められていることを変えるのが難しいよねっていう。
しちゃいけないことはさ、どこ行ってもしちゃいけないことだったりするわけじゃん。
だから部署を変えて、会社でできることとしたいことが一致しているのに、
ここじゃ俺の才能は芽吹かないぜって言って部署を変えてもらったらめっちゃ羽ばたくみたいなことは起こりうるけれども、
なんかその、そもそもアイデンティティクライシスといった時、
自己同一性の危機が保たれている状態が危機に陥ることをアイデンティティクライシスというので、
あなたが体が丈夫になることによってアイデンティティクライシスを起こすとしたら、
できることは増えてるじゃん。したいことも増えるじゃん。
あなたは体が弱い自分を求められていると思っているだけでは?
元気な俺というものを求められていないのではないかというだけの話じゃないのかなって。
いや多分ね、あんまり関係ないと思う、それは。
なんかあんまりそれピンとこないな。
どっちかというと、自分が体の調子が良いということを経験していないから、
だから果たして元気な自分というのは自分と言えるんだろうかって、
結構素朴な話だと思うんだよね。
できることの枠が広がることに対して、本当に?っていう。
42:07
その場合のできることっていうのが、個人の側の能力の話っていうウェイトが、
多分僕が想定しているところだとすごい少ないんだったんだよ。
自分一人が元気になったところで、特に何にも変わらないだろう。
さっきの奥さんの話というと、まとめられるものを変える方にどうしても多分僕は注目しちゃうんだと思う。
だから自分がしたいこととかできることっていうものを増やしていこうっていうよりも、
今したくもないしできもしないことを求めているこの環境自体がおかしいっていう方向に、
多分発想としてはすごいからこそ、
だから今自分がそこで事故というものを向上させていくみたいな発想よりも、
さっさと居心地のいい職場に移ろうとか、話の合う友達とだけ喋ろうとか、
そういう方向に行く方が健全だなぁみたいな気持ちが結構あると思っていて、
そこで自分ができることだったりやりたいことの方を調整していこうっていう、
多分その発想自体に割となんかね、
それは筋トレね。
えーって気持ちが強いんじゃないかなって思う。
大丈夫?噛み合ってる?
わかんない。これまとまらない。
まとまらないままずっと喋ってるね。
ちょっとじゃあまとめはまた今度にして、
今日はこんな感じで、
いろいろなこれから喋った方が良さそうなことをたくさん散らばしたというところで撮ってる。
大丈夫かな?
なんかこう、いろんなことを喋ったよっていうところで、
今後それこそが意味だからアイデンティティの話と、
結局アイデンティティの話になっちゃったのか?
アイデンティティの話は特にしたくないなぁ。
そうなんだよ。別にそこはそんなに興味ないじゃん。
興味ないのに言い出したから。
なんでそこをツッコむの?
まあいいや。だから。
だからなんだ?
僕は個人の能力よりも社会のせいにしたい。
個人の能力なんてものは社会のあり方次第で、
いくらでも変わっていくものなんだから、
みたいなところを、
いいけ、シャーシャーと言い続けていきたい派だなって思っています。
健康の話どこ行ったの?
だから健康の話っていうのは結局、
社会通念というものにおいて、
ここまでは正常だよって言われている部分っていうのを、
どう考えていくかっていう話に、
なんじゃないの?って。
その前提が共有されていない。
僕の中でそう思っていたの。
素朴に個人の能力を向上させていこうみたいなのも、
もちろんとてもいいことなんだけど、
45:00
そもそもそこで言われている向上というか、
良さって誰にとっての良さなの?みたいなところが、
多分僕はすごいピンとこないんだなって。
それは考えるまでもなく、
自分自身のためだけのものだね。私にとって。
外にデートに出て、3時間でブチギレるよりは、
6時間楽しく遊べる方がいいじゃんっていうレベルのことしか眼中にない。
自分のご機嫌を自分でとるための手段なの?
そうそうそうそう。
なんでその社会にの適合とか出てくるのかちょっと…
今すごいよくわかった。
そもそも僕も自分さえ良ければいいみたいなところはあるけれども、
一応そこの今の社会通念というか、
今行動となっている正しさみたいなものと、
自分の身勝手さをどう折り合いをいい感じにつけていこうかっていうのが、
多分割と発想の軌跡のところにあるんだけど、
割と社会的なんだよね。
そう。だって社会的じゃない人はね、
会議所取らないよ。マジで。
会議所の話はそこがずれるんだよ。
その話は全然別の話だから。
会議所取りたくて取ってたわけじゃないのは知ってるけど。
そういう話でもなくて、そもそも今回の健康運営の話と会議所の話は全然関係ない話だから、
そこはまた別んで話したいなって。
毎日学校に行かなきゃいけないっていう発想が。
いや、行かなきゃいけないと思ってなかったんだけど、
それ話すと、なんで会議所だったかっていうと、
そもそも僕はまず大事に毎日行くのが食いじゃなかったっていうのが大事にあるのね。
だからその体の調子とかとは別のところで学校の癒さというのがあった。
学校の癒さというのは何かというと、
今日ずっと話してたような、
社会一般における正しさというものに対して、
生徒の考えだったり、身体の振る舞いというものを
強制していく措置として学校というのがあるわけじゃないですか。
っていうのがまず大事になりますと。
で、それに対してエスケープするのも簡単だよと。
そこであなたたちが言っている正しさというものに馴染むつもりはありませんって言って、
学校自体そのものを否定すること自体もできなくはないんだけど、
自分としてはそれをするほど体が弱くなかったし、
その学校というものに対して、
表面上、下側みたいなことに対して大きく空間がなかったから、
むしろその内側にいながらにして、
お前らの言っているカリプラムでは、
俺のこの、その枠にはめられなさについては
変えられないよっていうことを証明するためには毎日がなきゃいけなかった。
48:03
毎日言って、ちゃんと毎日真面目な授業を出た上で、
そこで言われているようなくだらない社会通営に対して
常に中指を立てていられるかどうかっていうところが、
多分僕にとっての戦いだったの。青臭いけど。
だから割とそれは全然違う話なの。
本当にだから割と社会的なというか思想的なところで、
システムというものを否定する人というか、
システムの内部に馴染めないで苦しい思いをする人っていうのは、
なぜかみんな、それこそマルクスもそうだけど、
革命だみたいなことしか言わないわけ。
既存のシステムって破壊しない限り、
自分たちの気持ちよく過ごせる世界はないんだっていうことを言うけど、
嘘じゃねって思って。
割と隙だらけだじゃん、今のシステムみたいなところがあって。
そこである程度うまくやりながらも、
自分個人の気持ちよさだったり、
自由な感覚みたいなものを手放さないで済む方法って、
いくらでもあるはずって思って、
割と僕はそれを最初、学校に毎日行きながら、
学校に馴染まないっていうことをすることで、
ずっと練習してきたんだなって思う。
それはだから今ね、会社で働いていて、
もうやってることは一緒だと思っていて、
たかだか会社員になることだけで、
自分というのはそう簡単に変わらないじゃない、
みたいなところが多分あって。
だからこの理屈で言うとね、
本当だからそういう、
薬とかもどんどん飲んで、
そこで変わっていったとしても別に、
根っこの部分は変わらないからいいじゃんって理屈にも
なり得る気はするけど、
今はちょっとまだそこまでいかないんだよね、
っていう感じ。
だから多分全然違う話じゃんね、それ。
だいたいこういう話すると、
自分の社会そのままさ、びっくりする。
奥さんと話してると毎回、
自分はその社会通年というものに、
いかにそこからに、
距離を置いて生きていけるだろうかってことを
すごい真剣に考え続けてきたけれども、
一番の正解は、
それこそ全く考えないで、
ただ自分のことだけ考えてるっていうのが、
実は一番、
社会というものとの距離の取り方として、
健全というか、
自分が自分として生きていくためには、
健全なありがとなのかもしれないな、
みたいなことを、
奥さんと話すたびに思うね。
すごい私って、
人として問題が、
大人として問題があるのかなって思う。
半径2メートルのことしか考えられないし、
半径2メートルの中に社会はいない。
そうなの?
そもそも社会とは何なのかというか、
社会なんてないじゃんっていう話はあるんだけど。
またそれは別の話になってくるな。
でも全部同じ話なんだけど。
奥さんと話してて、
毎回面白いのは、
気づいたら、
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存在するかどうかもあやふやな、
抽象的な社会みたいなものに肯定して、
今の具体的な問題っていうものに対して、
僕はすごい盲目になってしまっているなというか、
すごい基本的なところを取りこぼしているな、
ということに気づけるというところが、
僕が奥さんに対して信頼している知性のあり方なんだろうなって思うし、
ちょっとあやふやなところでもあるんだろうなって。
毎回反省しては、
反省は特に生かされない。
反省とかじゃないからね。
それこそ、
よく親さんたちが言うように、
日々新聞とかをちゃんと読みましょうみたいなことで、
なんとかなる話ではないわけじゃん。
日々のニュースを見てれ見てないとかっていうこと以上に、
そもそもみんながあることにしている社会というフィクションを、
信じていないって話だからね。
信じていない。
何と相撲をとっているんだろうって思って。
僕の相撲自体が、
相手がいないんだっていうことを決めた時点で、
すごいアグレッシブな踊りだなって思って。
終わっちゃうんじゃないかっていう話だね。
ところかな。
そうだね。
最後の方だと盛り上がっちゃったね。
でもいい感じに、
最初の方でグダグダしているところを、
ちゃんと載せるかどうかと思って。
なんだかんだで、
いつもより長くなっちゃいましたね。
じゃあ、今日はこんな感じで。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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