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2020-08-31 35:36

第八回 ハマータウンの為政者ども

「ヤンキー」についての一人語り。

「おれたちとやつら」という世界観/メタがない、徹底的に具体的な環世界/リアリズムとしての現状肯定/時の為政者たちと『ソトコト』的な実践者たちとの共通項としての「ヤンキー 性」


このころ読んでいた本 ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠/山田潤訳(筑摩書房)・斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(角川書店)

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ポイエティーク
こんにちは、ポイエティークRADIOです。
普段だと月曜日の日付が変わる頃には、更新をしようと頑張っていたんですが、
気分が乗らなかったので、今、月曜日に喋ってそのまま出してということをしようと思っています。
2回は連続で、奥さんがゲストに入ってくれて、お喋りをしてという感じだったんですけど、
1回それをやっちゃうと、より一層この一人で喋るというやり方が、何やってんだろう感が増していくので、
やっぱり話し相手がいるというのは大事なことだったなというのを痛感しています。
今日、特に何について喋ろうかもあまり思いつかないままで来ちゃってるんですけど、
こういう時にそれでも無理やり喋っていくんだという気になれるのが、
勝手に締切を設定して毎週やっていくんだってすることの意味だなと思うので、
無理やり話を続けるとするならば、
あんまり最近Twitterを見てもしょうがないなという気持ちが強い中で、
自分のつぶやきというか、役体のない思いつきみたいなものは、
どちらかというと声ベースでベラベラやっていこうというのが一番大きな気分としてはあるんですけど、
たまにチラッとTwitterを見に行って、毎回毎回そこでげんなりして帰ってくるというのを繰り返していく中で、
の話なので、あんまり実際どういうような議論がなされているか詳しくないままに話していきますけど、
阿部さんがまた体調が優れないので辞めますねみたいなことで、
これまでいくらでも辞めどきあったはずなんですけど、
最終的にご自分の体調で辞めるという、最後の最後までらしいなというような幕引きを受けての、
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いろんな人がそれに対して総括じゃないですけど、
どうしようもなかった7年半、8年弱というのは一体何だったのかみたいなことを、
いろんな人が多分書いて、いろんな人がそれに対してリアクションしてということがなされているんだと思うんですけど、
何だったかな、しゃべりだしたらいいけど、詳細忘れちゃったんですけど、
阿部さんのすごかったところというか、得意なところっていうのは何かというと、
自分と異性者の倫理ではなくて、一生活者としての倫理において何か評価というものをしようとできてしまうような予想があったところに、
得意性があるんだみたいなことがちらっと書かれていたような、書かれていなかったような感じがあったんですけど、
一生活者として個人として考えていたときに、例えば体調が辛いから責任のあるポジションから退くようであるとか、
個人やそこにまつわる仲間うちのために他の他人であったりとか、自分のグループと外にあるような人たちに対して何かしらの不利益をこむる結果になったとしても、
まずは自分や身の回りの人たちの都合というのを最優先に考えて動くようであるとか、
一個人としての動きとしては、まっとうというか、一つそれはそうだよねという動き方というのではあるよなというのを、
出生という立場においてまで徹底していったというところがすごいところだなというのを思っていて、
何て言うのかな、それだけの、講師のバランスというかワークライフバランスの取り方という意味では、
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あれほど徹底してライフのほうを優先したままに公務に当たっていたからこそ、これだけ長続きできたんだろうなというようなところでは、
僕のようなサラリーマンとしては一言ではなさというか、こういうような形で仕事においても、
まずは自己保診だけを考えていれば、息を長く無理なく続けていけるよねというようなところに、
何て言うのかな、それってある意味僕のように、ほどほどのところで会社員をやり過ごしているような多くの人労働者層にとって、
一言ではないというか、割と自分も何だかんだそういうふうに日々をやりくりしているしなというふうに思いを引き出すような働き方をしていたんだよなというのをすごい感じて、
責任の追及であるとか、自分の身の回りにいない者たちに対する想像力の欠如というか、ことなかれで自分の身の回りにとって都合のいい現状さえ維持できれば、
あとは適当で大丈夫というような態度って、ある意味ではすごく真面目に一生懸命やっているごく少数の仕事人たちを除けば、
適当に遊ぶ金ほしさに労働に手を染めている層にとっては、割と馴染み深い働き方というか、
仕事への向き合い方だったんだろうなというのをすごい今は思っていて、
この話からどう繋げようかはっきりと、
あれ何かしらプランがあったんですかね、何の話をしていたんだっけな、
あ、そうだ、最近読んでいる本が基本的にヤンキーってなんだろうっていう本をずっと読んでいて、
ポール・ウィルスっていうイギリスの研究者の人が書いている、
ワーキングクラスの若者たちをフィールドワークで追っている、
ハマータウンでやろうと思っている、大変素晴らしい本があるんですけれども、
この本を中心に、
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いわゆるヤンキーと呼ばれている人たちというのは、
一体どういう人なんだろうかというようなことを考えれば考えるほど、
自分が学生時代までは割と、
すごく雑に二文法で語るとするならば、
オタク的な軸とヤンキー的な軸があるとして、
自分はかなりオタク寄りの方で生きてきたというのが、
自己認識としても、周りから見てもそうだっただろうな、
みたいなことを思っていたんですけれども、
たぶん就職活動あたりから、
そこに見かけ上であれ順応していって、
そのまま会社員をそこそこの年数、
こなしていってという中で、
いわゆる新労働史上における社会と呼ばれているところで、
社会人というヘンテコな言葉で表彰されるような立場に、
自分を置いてみていくと、
そこに置いて培われる感性であったり技術というものは、
かなりヤンキー的なものと神話性が高いものだなというのを感じていて、
それを明確に言語化できるようになったきっかけが、
このハマタウンの野郎どもという本だったなというのが、
自分の中ではあるんですけれども、
ハマタウンの野郎どもにおいて、
特化カリトになるような、
ハマタウンの野郎どもにおいて、
特化カリトになる問いというのが、
ハマタウンという架空の、
街の名前は伏せているんですけれども、
周りはかなり工場が多くて、
ある意味肉体労働であったり単純労働に工場で従事するような、
労働者たちが多いような地域で暮らす子どもたちというのが、
その中でやんちゃな子たち、
ヤンキーみたいな人たちというのが、
学校に対してある意味反体制的な、
偏力に対して反抗的な態度を見せて、
教師の言うことであったりとか、
学校におけるルールみたいなものを無視していきながら、
日々を過ごしているにもかかわらず、
彼らほどあっさりと工場においての肉体労働というところに、
順応していくような人たちもいないというところ。
それがなぜ、学校に対しては反抗を示すのに、
賃労働、しかも社会的に言えばどちらかというと、
下に見られがちな肉体労働であったり単純労働、
工場におけるそういった賃労働に従事していくということに対しては、
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あっさりとどちらかというと従順なほどに適用を見せてしまうというのは、
一体どういうことなんだろうというのが、このポール・ウィルスの
本の起点になる問いであって、
それについて諸々が書かれて、
毎回毎回その論語の鮮やかさというのは、
これは確かに名著ですわというところで、
読みながら何度も何度も書き写したいところが出てくるような本だったんですけど、
その中で一番、今の自分にとって割合を使いやすそうだなというところは、
ハマタウンの野郎ども、野郎どもというのが、
英語だとラッツなのかな、
今日の文脈で言うとヤンキーのような人たち、
学校で先生の言うことを全然聞かないような人たちのことなんですけど、
この野郎どもの行動における基本原則というのは、
俺たちとあいつらというその区分にあるんだというようなことを言っていて、
昔から斉藤玉樹という精神科の会員の人が語っているように、
ヤンキーにはメタというものがないんだというようなことをこの人は語っているんですけど、
それをすごい感じるというか、徹底的に野郎どもというのは具体の世界に生きていて、
メタ的な観点であるとか、抽象的な思考というものをあまり馴染みがないようなところで生きているというのが斉藤玉樹の主張なんですけど、
割とそれに近いような形で、
野郎どもというのは学校というものであったり、既存の権力構造というものに対して愛はあいつらと言って、
そのあいつらに対して決して屈しない俺たちというような形で事故というものを確立していくんだけれども、
この考え方というのはある意味ではその徹底的にリアリスティックな態度なんだけれども、
ここで言っている現実主義というのは、ある意味現状というものを変えられないものとして、
前提とした上での二項対立というところが彼らの考え方の核にある。
だから、あいつらと違う俺たちという枠組みの中で考えていくときには、
自分が反抗する対象とある先生と同じぐらい、
自分たちのことを最終的に雇って働かせる経営者の人たちというところであったりとか、
何かしらの賃労度に従事しない限り生活をしていくことができないという社会構造そのものに関しては、
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特に何も批判的な発想もないままに、まずあるものとして受け入れてしまう。
他のありうべき考え方みたいなものだったり可能性みたいなものというのは、
はなから考慮に値するものとしては考えられずに置かれている。
だからある意味で、野郎どもたち、ヤンキーたちにとって根強くあるものとして、
年功序列的な縦社会であったりとか、あとは男尊女子的なマチズモにあふれている、
核不調性みたいなものが内面化されているようなところというのがこの野郎どもたちの世界の特徴ではあるんですけれども、
この辺りの徹底的な個人主義とは違って、
奴らと区別した、奴らには馴染めない俺たちというような、俺たちの中で集団としてまとまって、
その集団の中では何かしらの序列をしっかりと作ることによって生きていくという、
これはどちらかというと、斉藤玉樹の世界が土曜の夜の夢ならという、
こっちの本は日本のヤンキーについて考察した本なんですけれども、
この中で書かれているように、
ヤンキーの文化というのは、自由主義ではあるけれども個人主義ではないんだというようなことを斉藤玉樹は書いていて、
自由主義と集団主義というものがなぜか説中されてしまったものとして、
そのヤンキー文化というのを特徴付けていて、
これはハマタウンの野郎どもにおける俺たちとあいつらという区別にすごく似ているんですけれども、
この両者に共通するところとして、
俺たち意識というのはある意味で、
僕にとってはヤンキー的なものを考えるときにすごくしっくりくる定義だなと思っていて、
俺にならないんですよね。
なんとなく僕なんかだと、学校に対して持っていた反抗心というものと、
今既存の新労働史上全般に対しての不信感というものは当然のようにあるんですけれども、
それがなぜ当然のようにあるかというと、
まず何よりも、どのような集団に対してよりも、
まず僕という個人が優先されないと嘘だろうというような、
徹底的な個人主義的な考え方というのは、
多分僕は根強く持っているんだなという気がしていて、
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だから浜田の野郎どもの中でも、実は学校の中で、
それぞれ個々人というのは階級や人種というものに全く規定されず、
かけがえのないものなんだという建前的な教えに対して、
それを内部に授与してきた、どちらかというといい子ちゃんたちの方が、
社会に出たときに扱いづらい労働者として、
わりと経営者からは煙たがられて、
むしろ奴らとあいつらという形で、自分のことを奴らとして認めてくれる、
個人主義においては、奴らと俺たちという区別すら無可するわけです。
毎回毎回が一対一の関係になってしまうので、
そこには奴らという特権階級のものがそもそも成り立たないのに対して、
奴らという形であれ、そこに自分よりも偉い人がいる、
自分よりは言うことを聞かなければいけない人がいるという構造を
暗黙なしに認めてくれる野郎どもの方が、
賃労働者としては非常に使い勝手がいい、
企業の使用者としてはそれ以上に使い勝手のいい人材はいない、
というようなことが指摘として書かれていて、
何かしらの体制に対して反抗して自由というものを寄与するのだけれども、
その自由というものは個人において獲得されるものではなくて、
何かしらのその集団の中において初めて成り立つものであるというところが、
ヤンキーの一つの洞察であり、限界であるんだというところが、
このハマタウンの野郎どもであったり、
斎藤玉樹の世界が土曜の夜の夢ならという本を読みながら、
どちらにも共通して書かれている内容なんですけど、
別にその、
何で今僕がこんなにヤンキーについてうだうだ考えているのかというと、
誰が言っていたのか忘れちゃったんですけど、
昔はホットロードが果たしていた役割というのを、
今は外言が果たしているんだというような雑誌論を誰かがツイッターに書いていて、
それはすごい僕としてはしっくりくるものだったんですけど、
俺たちとあいつらという対立において非常にその相性がいいのは、
ローカリティー、土着の文化というものに対する愛着というもの、
もしかしたら地元というもの、自分の沸騰しているもの、
レベゼンするという態度というのが、ヤンキーにおける美学においては非常に重要になってくる。
これは何で重要になってくるかというと、
ヤンキーは普遍を目指さないというか、
普遍を見通すメタな視線というのはあまりそこに意味を見出さないので、
常に自分の身の回りにある具体的な生活というものをどう成り立たせていくかというところに、
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それがいかに現状となっていくかというのが、
現実的にそれがいかに現状追認的なものであれども、
かなりプラグマティックに現実的にやり取りをしていくというところがヤンキーの在り方だとして。
一人で喋るの久しぶりで何話したかわからなくなっちゃったな。
ともかくそういう、
俺たち側の価値というものを何よりも優先していって、
それが特に普遍というものを持つ必要がないというのがある意味ヤンキー的感性だと思うんですけど、
震災以降のローカルへの関心であったりとか、
小倉飛楽なんかがそれをネオ豪族というような言い方をしていましたけど、
地方都市というものを新しく切り開いていこうとする若い人たちというのは、
ボーカル少なからそういったヤンキー的な感性に基づいて動いているだろうというような気がしていて、
割とだからさっき一番最初にオープニングで見切りはしゃいで話してあまりうまくいかなかった安倍さんの話とかもそうですけど、
この国の異性者がヤンキー的であるというのは安倍さんに始まったことではなく、
割と例面と続いてきていることですし、政治家としている人たちが、
俺たちという集団性の中で、その集団の中でさえ理解さえ考えていればいいというそのメンタリティがなくならない限り、
スケープ強盗としての滑舌の悪いおじさんがいなくなったところで特に何も変わらないだろうということをどうしても思ったんですけど、
それに一つ対抗し得るというか、そういったその異性者に対する不信感もあって、
自分たちの生活は自分たちで作っていくんだというようなことを言っている人たちというのはまた同じような形でヤンキー的な感性というのを持っているというところに結構難しさというか、
何かしらことをなすには割と何かしらのヤンキー性というものは不可欠なのかもしれないけれども、
その抽象的な考え方というものを、
まあ批評的なものというものを全く持たないままに徹底的に具体的であることというものの危うさというものを、
どうしてもその割と文字であったり抽象の方によりがちな僕なんかはすごい感じてしまって、
具体的なものだけで生きてはいけないなというような気持ちになってしまうというところが、
すごくあるなと思っていて。
その外言的なローカルにおいて活躍している人たちというのは、
大体みんな横島の白地に紺の横島みたいな服であったりとか、
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もしくは無人の白Tに黒縁眼鏡に黒ひげ、短髪みたいな、
みんながみんな同質化していく様とかもあれはまさしくヤンキー文化の最たるもので、
ヤンキー文化っていうのは基本的に1個の所属というものがどんどん繊維化していって、
どんどん持っていくっていう文化だと思うんですけど、
特効服とかも最初は多分ただ丈の長い学乱だったと思うんですけど、
そこに刺繍を1個入れてみたらそれがハマって、
だったらもっと目立つためにもっとたくさんビッシリとしよう、
何なら画数がなるべく多い方がいいという形で、
どんどん1個の方向づけられたものに対してどんどん過剰になっていくっていうのが、
ヤンキー文化の服飾における1つの現れ方だと思うんですけど、
今ローカルでイケてる感じに見えている、生きる勢いがありそうな人たちの服装っていうのは、
その方向づけられた先がシンプルっていう方向であったっていうだけであって、
メンタリティとしては基本的にデコトラや、紙めっちゃ盛るみたいな、
ああいうのと同じような森の文化であるということにあまり間違いがないだろうっていうようなことを思っています。
ちょっとまだこれ本当に考え始めたばっかりで、あんまりまだうまくはしゃべれないんですけど、
割とだからヤンキーの自閉性というか、
俺たちがまずいるんだっていうところ、
奴らというものと俺たちというものを所有の前提とした上で、
まずその俺たちとしてのサバイブっていうものをどう考えていくかっていうメンタリティっていうのは、
個人として考えていく分には確かに今一番可能性としては感じられそうなアプローチではあるのかもしれない。
それこそ外事的なやり方としては非常にいいのかもしれない。
っていうのはすごいそれこそなんだろうな。
西馬社の本を読んでいたりとか、
他の小倉ひらくや、下北沢のボーナストラック界隈なんかの人たちを見ていても、
なんとなくそこは全くやゆとかではなく可能性を感じるものではあるんですけど、
結構それって難しいところで、
一個の同じ事柄であったとしても、
その規模の大小によってその性質っていうのはどんどん変質してしまうと思うんですけど、
この外事的なメンタリティ、ヤンキー的なメンタリティっていうものを、
一刻の異性者であったりとか、
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もしくはかなり市場規模の大きい経営者っていうものに対してまで敷衍してはいけないというか、
個人事業主であったりとか、
中小のほんの十人規模ぐらいの会社の経営者に対して寄せる共感であったりとか、
その人たちの大変さを重んぱかるっていうことと、
大企業の社長さんや会長さんの責任感であったりとか、
その大変さを重んぱかるっていうこと、
さらにはその異性者たちの私的な部分っていうのを重んぱかるっていうこととは全然違う話だと思っていて、
自分の身の回りにある好きなお店の店主さんであるとか、
小さな会社の中で一緒に汗を流している経営者の人たちっていうものに対して、
何かしらの仲間意識であったりとか、共感であったりとか、
何かしら理解を示そうとする見ぶりっていうものはあってもいいと思いますし、
それが必ずしもどちらかというといいような効能があるであろうというのはすごい理解できるんですけど、
その規模において可能な共感であったりとか情状釈量みたいなものを、
あんまり大きい規模で顔も見えないような人たちに対して、
自分の振る舞いであったり自分の決定っていうものが影響を及ぼすようなポジションにいる人たちに対してまで拡張してしまう義理はあんまり我々にないんじゃねっていうのをすごい感じていて、
そのヤンキー的な感性っていうのがわりとオタク的であった人たち、
例えば僕のような人たちに対してもある程度受け入れられていくというか、
その実用性というか有効性みたいなものがある程度理解できるからこそ、
その俺たちの側にあんまりたくさんの人を入れ込んでいくっていうやり方は、
もうそれはそれで間違っているだろうなと。
とはいえそれを奴らとして自分とは関係のない世界にいる者としてただ対照化してしまうっていうのも、
それはそれでまた全然あんまりいけてないやり方だろうなっていうのも思うんですけど、
ちょっとそっちの話まで広げると収集がつかなくなりそうなので、
今日のところは俺たちの都合っていうものを優先していくと、
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それによってしょうがないく迷惑をかけてしまう相手というか、
泣かせてしまう母親やかつあげしてしまう同級生というのは仕方ないよねというか、
出てきてしまうよねみたいなところで共感を示すっていうのは限度があるだろうというか、
それこそ本当に安倍さんに対して、
こういう状況の中でさどかし大きなプレッシャーがあったことでしょうからみたいなことであったりとかっていうのを、
わざわざこっちが思いっぱくってやる必要って本当にあったんだっけっていうのは、
ちょっとわりと慎重になった方がいいだろうなというようなことを思うのと、
それと別でこの話をするなら、
たかだか一人の人間が一つの組織でさえコントロールできるはずがないのに、
政治の場において影響力をどれだけ構成できるんだっていうところは結構疑った方がいいと思っていて、
わりと滑舌の悪いおじさんがやってたことって、
そのままならない滑舌で一生懸命人が書いた文章を読むっていうことを一生懸命やるっていうのが彼の一番の仕事だったと思うので、
その一生懸命読んでた文章それ自体が全く評価できるものではないというか、
全く大したものではない、何なら外位にしかならないような文章だったりとか、
外位にしかならないような言葉ばかりであったっていうことの方が問題だと思っていて、
あの原稿を書いた人、あの原稿に対して構成を入れた人、あの原稿に対して語を出した人っていうところも含めて、
政治家一人個人が無能であること自体は別にありふれていることなのであんまり問題ではないんですけど、
組織それ自体としてみんながみんな無能という結果に落ち着いてしまうという状況がここまで状態化してしまうということ自体に恐怖を覚えたほうがいいなと思っていて、
なのであんまり個人に期待したり個人に対して安易にスキップコートにするということを避けつつ、
さらにはざっくりと権力構造というものをくくって我々と奴らというような二項対立に乗っていくのすらも回避しつつ、
じゃあどうやったらそれをやり切っていけるんだろうかということをちょっとこれから考えていきたいなというようなことを思っています。
一人で喋ると何だか大幻想語というか主語のでかい話になりがちですが、
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それもある意味では一人語りというのはオタク的な語りになりやすいというか簡単に世界系として世界に接続しやすいということかもしれないですね。
これは例えば奥さんであったり他の友達であったりと一緒に喋っていれば、
そこにある意味奥さんと僕とであったりとか友達と僕とという形で具体的な関係性の中での会話になるので、
あまり世界と接続する余地がちょっとその分だけ限定されるというか、
それこそヤンキー的な、俺たちの世界としての言語ゲームが始まっていくので、
それはそれで大事なことでありつつ、
たまにこうやって一人で喋ってみるのもいいなというふうに思うのは、
Twitterだと文字にしてしまうとこういう、何ていうのかな、
ただ思いつきで喋っている印象みたいなものがそのまま文字という形で外化されて、
文字というツールにおいて何かしらの普遍性をちょっとでも持ってしまうので、
何かしらそこに正解を書いたなみたいな気持ちになってしまいがちというか、
それで声にしている分にはむしろ最終的に誰かがちゃんと聞いてくれない限り、
どうにも成り立たないという心細さがある分、
自分が今喋っていることってどのくらい聞かれ得るに足るものなんだっけみたいなところを、
常に自分に対して自問し続けていないといけないというところが結構重要で、
だから何ていうのかな、
Twitterであったり日記に文字だけで書くよりは一人語りの世界形になりやすさみたいなものを回避できる、
余地があるのではないか、
そこに反省するきっかけというものが文字よりは声の方が大きいのではないかみたいなことを、
久しぶりにこうやって一人で喋っていて思い出しました。
本当はトラさんとヤンキーの親和性というか、
トラさんというのはヤンキー文化として語っていったらまた一つ面白いんじゃないかという話までしたかったんですけど、
今日は疲れちゃったのでここまでにします。
ボイエティックラジオ、柿内聡吾でした。
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