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2021-09-06 1:04:18

第六十二回 「二人のデカメロン」第七夜:アルフォートの切なさ──美と共同体への郷愁

「二人のデカメロン」もとうとう第七夜。アルフォートから『三島由紀夫vs東大全共闘』へ。

00:04
はい、こんにちは、ポイエティークRADIOです。お相手は、私、柿内正午と、本日も──
ここに来てグダグダって。本日も、二人のデカメロンということで、ゲストはこの方です。
どうもです。オムラジオン革命児、アオキです。
はい、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。ちょっと緊張しちゃったかもしれないです、またね。
そうですね、ちょっとここに来て。
ここに来て、緊張がぶり返したのかもしれない。
緊張がぶり返しちゃった。
ちょっとこれ、僕らの普段のお仕事のスケジュールだったりもあって、割と前倒しで録音しているので、
動画まだ8月の31日で、今から録音するのが第六夜、うそ、第七夜なんですけど。
うん、七夜っすね。
第六夜のオムラジは明日、僕らとしては明日公開っていうところで、公開されない限り聞き返さないので、
どんなこと話してたっけなっていうのをまた忘れて。
ね、忘れてしまいましたね。でも何だったかなーとか言って、なんか適当に。
どうだったかな、なんかもうちょっとお互いの好みの話をしようみたいな。
そうですね、話をチラッとしてたのかな。
そんな気持ちしますね。
そうですね。
なんかね、いいですか、この前オンリーディングさんでイベントしたじゃないですか、我々が。
はいはいはい。
あれがいつだったかちょっともう、それすらもつらかではないんだけど、去年の年末。
去年の12月だか、今年の年始だかどっちかですね。どっちだったかな。
全然覚えていないけど、まあいいけど。
その時になんかイベントでチラッと言ってたのが、なんかそのアルフォート。
はいはいはいはい。
アルフォートがもう世界で一番おいしいチョコレートだっていう。
話してましたね。
かきなえさんが言ってて、そのあたりの話を詳しく聞きたいなと。
そうですね。
思ってたんですよ。
なるほど。アルフォートはですね。
確かにアルフォート上手いっすわ。
いや上手いんですよ。
上手い。
アルフォート上手いんですけど、ちょうどそれのアルフォートについて昨日ですね、本当に自分としては結構今戸惑ってるんですけど、
アルフォート飽きちゃったかもしれないですね。
あらま。
なんかこれまでアルフォートが一番おいしいと思ってたんですよ。
何がおいしいかって、やっぱりチョコでもあるんだけど、
03:01
ビスケット生地が一緒に加わっていることによって、チョコの気持ちの時にもビスケットの気持ちの時にもちゃんとこうマッチするというか、いい感じに楽しめるものだなって。
小麦が欲しい時も油が欲しい時も砂糖が欲しい時も。
そうそう、なんかそういう。
よくわかる。
なんだろうね。
そういう、
減量レベルで。
そうですね。
減量レベルで何を欲しているかみたいな時に、割と幅広く対応してくれてた。
心があったなって思ってたんですけど、なんかちょっと人工甘味料感というか、なんかちょっとそれが急に気になってきちゃって。
あ、そう。
減量レベルで欲しいてるにもかかわらず、人工甘味料を今までは感じていなかったの?
いや、感じてはいたんですけど、なんか他のスナック菓子と比べるとそこまで気にならないからいいなって思ってたんですよ。
そうかな。
思ってたんですけど、なんかちょっと、
気になりだした?
急になんかあれって、なんかちょっとこの甘味きついなみたいな気持ちになってしまって、
結構この5年ぐらい自分の中で、それこそ本当にコーヒーにこだわる人並みに産地とかカカオのパーセンテージまでこだわっていろんなチョコレート食べてきた結果、
アルフォートが一番だって結論に達したにもかかわらず、
ちょっとやっぱりアルフォート、ちょっとあんまりバクバク食べるとしんどいなみたいな気持ちになってきて、
オンリーミングさんでは、あの時点ではもう心底アルフォートが一番だって思ってたんですけど、
ちょっとアルフォートではないかもしれないっていうような気持ちに。
アルフォートではない。
気持ちにちょっとなってきてしまったなっていうところで、ちょっと自分の変化に戸惑ってるっていう、ちょうど今そういうタイミングですね。
アルフォートではなくなったっていうことですか?
チョコではなくなったわけではなくて。
そうですね。チョコレート自体は今でも好きなんですけど、
なんかアルフォートって、アルフォートはアルフォートじゃないですか。
チョコだけどチョコにあらずというか、やっぱりあのビスケット部分も含めてのアルフォートなので、
僕がそのビスケット部分に嫌になってしまったのか、チョコレート部分に嫌になってしまったのか、もうちょっと吟味が必要だなと思ってるんですけど、
今までアルフォートは何と戦って勝ち上がってきたんですか?
なんだろうな、チョコパイですかね。
06:00
そうなの?ちょっと違くない?それ。
言うならば、これとだったら何か変えがきくかもみたいなものがない存在だったんですよね、アルフォートは。
特にアルフォートの上位互換じゃないけれども、もっと高級なアルフォートみたいなやつっていったときにあんまり思い浮かばないんですよ。
高級なチョコパイみたいなやつは結構思い浮かぶんですよ。
それこそケーキ屋さんのチョコレートケーキとかそういう方向に持っていけると思うんですけど、
どうもアルフォートはアルフォートしかないんですよ。
その世界というか、そういう次元になっているトップだと。
例えば、でもタケノコの里とか。
近いですね、確かに。タケノコの里だかキノコの里だか忘れてますけど。
タケノコの方はそうですね、確かにちょっと近いですね。
近いんですけどね。
あと何だろうね、有名どころでビスケットとか。
結構でもあるっちゃある。何だっけ、何だっけな。
なんかね、あるんですよ。
丸いやつですよね。
そうそう、丸いやつ真ん中にチョコがね。
はいはいはい。
でも確かにそれと比べるとチョコ分がアルフォートの方が多いんですよ。
そうなんですよ。
それはわかる、確かに。
そうか、僕の話をしていいですか。
僕はそういう意味で言うと、これ王道なのかもしれないけど、
僕キットカットがすごい好きなんですよ。
はいはいはい。
で、キットカットのやっぱり一番好きな、食べるシチュエーションで好きなのは、
冷やしてほしいですよ。
はいはいはい、わかりますよ。
冷蔵庫に入れておくと美味しいです。
冷蔵庫に入れておくと美味しいと。
で、プラスって言うかな、別バージョンみたいなもんで、
僕神戸に住んでたんですけど、神戸にね、ネスレのカフェがあるんですよ。
はいはいはい。
そこでね、その冷やしたキットカット売ってるんですよ。
あ、なるほど。
なんかそこがちょっとね、なんて言うかな、特別感が自分の中であって、
それも合わせて好きっていうか、
なるほど。
で、やっぱりパッケージ?
うんうん。
パッケージも僕は好きですね。
結構シンプルじゃないですか、キットカットって。
そうですね。
赤字に白かな?
うん。
たぶん。
そうですね、赤字に白で。
うん。
09:00
だから受験、受験になんかカクつけて、
はいはいはい、なんか受験シーズンありますね。
そういうのはやってほしくないですね。
でもいつ頃からなんですかね。
ああいうのでもやり始めたでしょ。
やり始めましたね。
そそくだわ、あれ。
いつぐらいからなんだろう。
僕が受験するときにもうやってたのかな。
10何年もやってるんでしょうね。
でもやってそう。
やってますよね。
なんかそのなんていうのかな、かつ丼食べて受験に勝つとか、
そういうのはいいけど、何が違うのか。
それもちょっと嫌ですけどね。
なんかその心意気が良しみたいな感じちょっと思うところはあって、
僕はかつ丼ぐらいに関しては。
かつ丼だとあれですもんね、
犬が持たれるからむしろコンディションとしては悪くなりますからね。
そうそうそう。
悪くなるぐらいのコンディションを引き受けて、
この人はある意味言うと眼をかけてるんだなっていうので納得するんだけど、
ちょっとなんかキットカットぐらいでっていうか、
ちょっとポッケに入るでしょ、キットカット。
それで受験会場に向かってみたいな、
そこまでも想像できちゃうからちょっと違うんだよなっていう。
しかもキットカットって英語じゃないですか。
そうですね。
英語に日本語かぶせてくるみたいなちょっとなんか違うんだよなっていうのもありつつも、
でもやっぱキットカットがなんでしょうね、
ウエハース系のものっていくつかあるけど、
やっぱキットカットはウエハース系ですね。
ウエハースがそうですね、コーティングされてますねチョコで。
だからチョコ分としては多分そんなに多くないんだけど、
なんでしょうね、なんか好きですよ。
うんうんうん。
うーん。
なるほど。
よかった。
そうですね。
アルフォートはちょっと飽きちゃったと。
うーん。
まあちょっと一回距離を取ってみる時期だなっていう感じがするので。
ずっと好きだったわけですね、何年も。
それこそ常備してあって家に、
個包装に1個1個大きめのやつが入ってるやつを。
だいたい毎日それを3個ぐらいずつ食べてたんですよ。
ほぼ毎日。
でもちょっと。
そういう人が飽きちゃったっていうのはよっぽどかもしれないですね。
そうですね。だから結構衝撃というか、なんか割とそれこそ。
それ不定収束じゃないですか。
不定収束なのかな。
これは不定収束でしょ。
そうかもしれないですね。
12:01
普段食べれるものがそんなに楽しくなくなってきてるっていう。
いやそうです。だって普段ずっと食べてたものがね。
そうですね。
だからそれこそその前回話してたようなその保守性みたいなものから言うと、
だいぶこうなんて言うんだろう。
望まない確信を今こう得てるというか、
がきてる感じがあるんですよね。
アルフォートさえあれば満足だったのに、
なんかそうじゃなくなってきてしまってるんだろうかっていう。
ちょっとこう怯えに近いものが。
昨日、昨日じゃない、前回第4夜、第5夜か第6夜だかで話した。
だかで言ってたアレですよ、ほら。
僕今現時点ではもうすっと寝れるけど、
眠れなくなったらどうしようみたいな。
そうですね。
そういうちょっと恐怖、恐怖心みたいなものと一緒で、
やっぱり忍び寄ってきてますね、アルフォート。
でもそういうのありますね。
好きだったものがあれ?みたいな。
ちょっと違うかな。
やっぱりそれは一番、
自分というものはそんなに信用できねえんだみたいな話をこれまでもずっとし続けてると思うんですけど、
割とどういうふうに変わっていくかわかんないんだよなって思ったときに、
やっぱり今自分が好きなものがそんなに好きじゃなくなっていくかもなみたいなところっていうのは、
割と恐ろしいところではあるんですよね。
恐ろしいですよ。
アルフォート一つとってもそうだし。
とってもね。
非常によくわかりますね。
ただ、やっぱりそういうものはゼロイチじゃないっていうか、
なんていうのかな。
好きなものが嫌いになったらもう一生嫌いかっていうとそうでもなくて。
そうですね。
このガラガラっていうのはうちの戸が開いたり閉まったりする音ですので。
そこの戸が開いたり閉まったりするのはちょっと見えてます。
端っこがちょっとこういう。
そうですね。
そんなことで、なんだっけな。
そうそう、だからこの前は保守的であるっていうこととか。
そうですね。
保守とアナキズムの話とかしたんですね。
そうですね、そうだそうだ思い出してきました。
アナキズムの話も。
で、なんかアナキズムに対してのモヤモヤを話しましたね。
明日聞き返すまでちゃんとまとまった話できてるけど、
15:02
すごい前回の回は一番心もとないですね。
わからないですね。
わからないですね。
わからないけど、ただまあ僕は、
しかもアナキズムに対してよく勉強もせずに喋ってる。
そうですね、2人ともよくわからないんだけどみたいなところで話してますね。
だけどまあ、なんかちらっとね、僕、家にあったアナキズムの本を最初の3ページだけ読んでて、
えっとね、この朝場道明さんのアナキズムという本を本当に最初のところを読んだら、
やっぱりまあ、
反政府、反権力や反権威を標榜する思想、個人自由を尊重する思想は他にいくつもある。
しかしそれがどこまでも徹底されることをあくまで要求する思想だ。
いわば自由の原理主義。
それがアナキズムだ。
いうことだそうで、ですね。
だからまあ、おおむね間違ってなかったんじゃないかなっていう気はしていて、
でまあ、僕のたぶん違和感というか、僕はあんまりアナキズムに対しては賛成って感じでもないし、
あんまりアナキズムという言葉も使わないかなっていう、なんか比喩的にもね、
使う人もいるけど、ちょっと自分には手に負えない言葉だなっていう感じはしているので、
ちょっと違うかなっていうところかなと思ってますね。
そうですね。
っていう話をなんかしたような気がしますね。
そうですね。僕はだから国家というものはそんなになくてもいいんじゃないかとは思ってますみたいな話を。
そうそうそうそう。
確かにしたような気がしますね。
そうそう。そんで、そうだ、そんで僕はやっぱりね、やっぱり結構保守的な人間だなとすげえ思ってきて最近。
だから国家とかやっぱり、国家っていう話を今日しましょうか。
そうですね。ちょうどいいから、1個ですね、メール来てて、
てかお便り来てて、ちょっとチャットでお送りしたんですけど、
一度僕の方から読みますね。
はい。
ラジオネーム奥さん小有名氏さんからのお便りです。
ちょっともうここの時点で親って感じなんですけど。
親っていうかもう。
毎週楽しく拝聴しています。毎回密度の濃い1時間で張り切ってたくさん話すなというのが素直な感想です。
デカメロの第1回だか2回目で、安易な共感とか褒めとか嬉しくないという発言がありましたが、
18:05
正直企画の目指しているカラカラになった最終夜にそれでも人前で話すというゴールを考えると、
折り返し地点を過ぎてなお、まだ褒め合いの息を出ないのではと意地悪な気持ちも湧いています。
みんな違ってみんな面白いというのも興味深いですが、
顔を合わせるのが気まずくならない程度の殴り合いを楽しみにしています。っていう。
奥さん気使ってくれてあれですね、顔を合わせるのが気まずくならない程度。
これ奥さんすげー気使ってくれてるじゃない。
ここに気遣いが。
ありがたいですね。
そういう意味ではね、前回とはちょっと違うところあるよねっていう話はしたかなっていうところですよね。
そうですね。だから別にそのなんだろうこの、なんていうのかな。
その意見の違いイコール殴り合いでは多分ないとも思うんですよね。
やっぱりどちらかというとその近しいところにあるものについて相入れない部分っていうのを
どう調整していくかなみたいなところが一番多分面白いところだと思っていて。
それこそトラさんの話をしてた時のなんかその悪の定義とかみたいなところで
そのこうすり合わせていくみたいなところにも割とその1個なんだろうな。
そのここで奥さんが言ってくれてる殴り合いに近いような何かがあったんじゃないのかなっていう気はしてるんですけど
とはいえちょっとそこら辺をそれこそ三島と全共闘張りにですね。やっていきたいなという。
確かにね。三島と全共闘張りっていうのも結局どうなんていう話もあるけどね。
そうですね。結構僕はアナキズムの話だったり、アナキズムに限らず反権威勢みたいなものの話で
割とその三島vs全共闘のなされてたような内容だったりっていうところとちょっとこう
なんていうのかな重なる部分もあるのかなみたいなことを思っていて
僕も青木さんも映画の方を見てなんか面白いなって思って
本の方もちょっとこう目を通してみたっていうところだと思うんですけど
なんかちょっとそこ、こうなんだろうな青木さんはどう読んだのかなみたいなところだったりも含めてちょっとお話できたらなって思うんですけど
確かに。
それこそ
どうぞどうぞ
どうぞ先に
この前の寅さんのやつ
21:00
はいはい
話で悪っていう言葉を僕だったら悪という言葉を使わないかなっていう
うんうんうん
で、かけないさんが月報のさん、月報って
代わりに読む人
そうそう代わりに読む人のさんで寅さんっていうのは悪なんだっていうことを言ってて
僕は悪じゃないんじゃないかなみたいな部分があったから言ってたんだけど
それうちのねマスクさんが聞いてて
いや同じこと言ってるよねって言ってて
つまり文化人類学的な悪
悪書とかその
なんていうかな文化人類学的な悪っていうやつよね
だからそれはあとはまあなんだろうな
悪党って言われるような
室町時代とか
五大五天皇っていうのはね
悪党を集めたわけですけど
悪党っていうのは
まあ
あの
悪党っていうのはその
なんていうかな
善悪の
倫理観ではないってことですよね
うんうんうん
そうですね
倫理観じゃなくてやっぱり社会の外部っていうことだから
全てはまさに悪
かけないさんの言う悪っていうのと
僕の言う自然っていうのは一緒のことだよねっていうのは
うちのマスクさんは言っていて
僕がまあなんで悪っていうのを使わないのかって言ったら
僕はその倫理観の悪っていう意味合いも込めて
かけないさんが使っているのかなっていう風に思ったので
僕はあんまりトラさんを見て
トラさんに対して倫理的な悪っていうのは
感じていなかったので
だから悪っていうのは使わないなっていう
ことだったんですけどね
なるほどなるほど
そうですね
社会というものの規範の外側にあるかないかみたいな
どちらかというとその社会的な
意味での善悪っていうものの価値判断と
倫理学的な善悪との価値判断ってとこは全然また
フェーズが違うと思うので
確かにそこで僕は社会というレイヤーの中での
話をしているんだなっていうのは思いますね
そうなんですよね
なんかその
割とそのこう
なんていうのかな
倫理的な善悪と社会的な善悪みたいなところって
割とこう
それこそ
普段ってごっちゃにして話している部分が
話されるようなシーンが多いような気がしていて
それによって起きる混乱ってすごい大きいんじゃないか
24:01
だからそれこそ社会的な
悪みたいなものは倫理的にも必ず悪なんだみたいな
実はそこで全然イコールではないはずなんだけど
そこで短絡されてしまう部分があったりとかっていう
ところで割と議論がすれ違うときってそこの
掛け違い大きいだろうなっていうふうに思っていて
僕個人としてはミシンマーバーサス東大全教党に関しても
かみ合ってない部分ってまさにその倫理と社会の話が
とちらがってるから起きちゃってることだなっていう感じが
すごいあって
かみ合ってそうでかみ合ってない議論のほうが
大半なんだよなみたいな感じで
読んでたんですけど
うんうんうん
そうです
ここの三島と全教党ね
そうですね
これの
そうですね
感想としては
僕は
なんていうかねやっぱり
三島
やっぱ三島の言葉しか入ってこなかったな
うんうん
っていうのがものすごくシンプルな感想で
なるほど
うん
逆に言うと三島の言葉が
まあかけないとどうかわかんないけど
入ってきたっていうこと自体が
どういうことなのかな
うん
っていうのは自分で考えたいなと思って
なるほど
一つは全教党の人たちが
なんていうのかなこれって
なんていうのかな
ディスクールっていうかディスクールじゃないのか
この
なんていうのかな
生産関係とか
はいはいはい
いわゆるその
マルクス主義の言葉でしか喋れてないわけでしょ
うんなるほどそうですね
うんまあ
例外がいるとすると
あの人なんて人でしたっけ
演劇
あくたですか
赤ん坊
そうそうそうそう
片組がしてる
あの人がちょっと例外
そうですね
まさにそうだと思います
ではあるけど基本的には
まあ
マルクス主義の
まあ用語っていうか
そのね世界の中で
まあもちろん
あの世界の中で
うん
ですね
あの世界を
まあ認識しているし
うん
変え
まあそういう世界
なんていうのかな
マルクス主義の
っていう
まあ言論
という武器を通じて
まあ本当に言論だけじゃなくて行動っていうのもあるんだけど
どうしたってやっぱり
その
27:00
やっぱり
なんていうのかな
イメージの中で
うん
彼らは戦っているっていう
ところちょっと
出ないかなっていうのがあって
その映像だと
あくたさんっていう名前が出てるんだけど
うん
だけど
この本の中だと全京都ABC
そうなんですよねうん
その後みたいになっちゃってますからね
そうで
全京都Cの人なんですよ多分ね
あそうですね
あのだから読めば
ちょっと違うなって分かるけど
うん
結局全京都って
うん
まあ固有名がないわけでしょ
そうですね
うん
だからそういう意味ではやっぱり
三島は固有名っていうところを持って
うん
つまりある種
それこそ有限性を持った中で
どうにか
社会を変えようであったり
自分の世界を表現しようとしているので
うん
やっぱり僕はそこに
あのシンパシーを
抱くっていうか
うん
その有限性
だから
これは僕はそんなこと思わないけど
日本という国があるから自分がいるんだっていう
うんうん
まあいわゆる民族派の
はい
まあいわゆるね
えっと
ナショナリストが
まあ言うようなことだと思うんですけど
そういうことを三島は言うわけですけど
うん
そこは全然思わないけど
ただ
ただもうちょっと時代の幅を取って
うん
ナショナリズム
ナショナリストってことを考えると
なんでナショナリストが生まれたのかっていうと
もともと封建的な社会で
うんうん
まあ日本だったら江戸幕府とか
まあ藩とか
そういう身分制の社会があって
うん
それをまあ打破するっていうか
うんうん
それを身分封建的な社会を打破するために
もっと大きな概念としてナショナルという
うんうん
国家国民国家っていうのを出してきて
だからそれこそ本当は自由って平等だったわけ
うん
ですよね
だから
そういう意味で言うとまあナショナリスト
そういう意味でのナショナリストっていうのは
自由と平等だったからなんだけど
自由と結びついてたっていうのが
うん
大元の話であって
そうですね
うん
そういう意味ではなんか今のナショナリストって
なんかすごい偏狂で
うん
あのなんかねえ大丈夫かよみたいな感じで
思われてしまいがちだけども
例えば三島がその天皇天皇って言ったときに
当時の天皇のことではなくて
うんうん
三島が偽装としてるその儒教的な伝統を持つ前の
天皇だみたいな話を
そうですね
してるわけじゃないですか
うん
だからそういう意味では僕もナショナリストっていうか
えーと
僕もある種の国家主義者なのかもしれないけど
うんうん
30:00
ただ今の国家主義者ではなくて
うん
そのさっき言ったようにその自由とか
まあ平等とかと結びついているような意味での国家
うん
ことなんだろうな
なるほど
と思ったっていう
うんうんうん
話ですね
でもその話はすごい分かってというかその
やっぱりここでのなんだろうな
三島と前教頭との間でやり取りしてた話って
それこそやっぱりその有限性っていうもの
のスタンスの違いみたいなところで起きてる議論が
やっぱりほぼ大半というか
それこそのこう
あの
アクターの言い分っていうのは
その演劇的な空間っていうものができてきて
その中で
あの
ある意味一種のユートピアみたいなものが実現できる
瞬間っていうものさえあれば
そこっていうのはもうそれは無時間的なものであって
あの
ある意味もう一つの革命の成功なんだみたいなことを
こう
言うわけでこれ実に演劇的な
発想というかその空間芸術の発想としては
めちゃくちゃスタンダードなものだなって思うんですけど
ある意味その持続しないものの中に無限を見るみたいな
態度っていうものに対して
三島ずっと
でもそれじゃあ持続しないじゃないかっていうことを延々と言い続けるわけですよね
やっぱりでもそれって何かっていうと
実際に一定の期間何か
その具体的にこう持続するものを作ろうとした
時には必ず何かしらの
有限性というものを引き受けないことには
何も具体的に実装はできないっていう
それも至極真っ当なことを言っているわけじゃないですか
これって非常にその
会社員の立場から
言うと夢見がちな
若手社員の
膨大なすごい夢のキラキラプロジェクトに対して
上司がそれそんなに予算ついてないでしょとか
記事それじゃ間に合わないでしょみたいなこと言われて
あの親父何もわかってねえみたいな
夢がねえんだよ夢がみたいな感じで
怒ってる若者みたいな
なんかすごいこうなんだろう
今のこの中堅になってきた僕の立場から
若手側の未熟さに対して
なんかこう褒めましく見てしまうみたいな
割とそういう議論になっている感じがあって
やっぱりどうしてもそこは
ある意味そのこうなんていうのかな
この今のこの社会の中で
ある程度大人としてやって
いっている自分としては
やっぱり三島の議論の立て方にしか
共感はできないですけど
でもやっぱり
とはいえそもそもこの社会自体が
そんなにいいもんなんだっけみたいなところから
問おうっていうのが全共闘側のやってる
ことだと思って
33:00
割と全京都の立ち位置自体も
割となんか不思議ですよね
あの東大の闘争の中で
多分こうセクトというか派閥って
分かれているわけじゃないですか
全京都の立ち位置がどういうところにあったのか
ちょっと微妙なんですけど
多分おそらくめちゃくちゃこうなんて
行動派というか
具体的に社会の変革みたいなものを
目指してたセクトではないんじゃないのかな
っていう感じを議論の中見てると思っていて
どちらかというとその表現集団みたいな感じが
アクターが特に突出してるから
と思うんですけど
それ以外の部分に関しても
割とそもそも三島が
あんだけ突っ込んでる
持続っていうものに対して何も関心を示さない限り
上場はしないじゃないですか革命自体が
すでに負けてる革命の感じがやっぱりしちゃうんですよ
その既存の権力っていうものの
あり方に対してその疑問であったりとか
そういうシステムでない何かを
垣間見せることさえできれば十分なんだって
いうようなことを割とこう
その各メンバーが言うんですけど
なんかそれが結構不思議で
当時の感じだとむしろそこの既存戦略ちゃんと
ひっくり返してやろう的な
あの
きっきさかんさが
あったんじゃないのかなみたいなところで
そもそもその有言と無言の話に終始するって
結構不思議だったんですけど
とはいえ割と三島の言うことしか分からない
気持ちはありつつもこの学生たちが
やろうとしてたことというか
意義申し立てをしたかったそもそも論のところから
議論しなきゃいけないんだみたいなところっていうの
の被害みたいなものも
分からなくはないなみたいな
僕は読んでました
僕も
ある種この状況っていうかな
この時代が最後だったのかもしれないし
ある種羨ましいなって思うのはやっぱり全京都の人たちがいて
それを受け止める三島っていう
人物がいて
両方ともいなかったら成り立たないっていう
話だと思うんですよね
そうですね
これも微妙なところで
結局全京都って僕も詳しくはないんだけど
元々
角丸派とか民生派とか
そういう
マルクス主義の
学生運動の
そういう活動家の中で
セクト化してしまったと
主張によってグループが分かれすぎてしまった
そんなグループ
36:01
分かれてる場合じゃなくて
革命をやろうよって言うんで横断的に
集まったっていうのが全京都
全学
共同
という感じなんですよね
僕そこの流れが全然知らなかったから
全学共同会議
全学共同会議
その意味では
マルクス主義の中では一番
横断的で
多分頭が柔らかい人たちなんじゃないですか
そうですね
まだしも
他の党派の中での
それこそ打ち牙じゃないけどみたいな
そういう枯れつさというか原理主義感はないですもんね
そうそうそういうもんなんでしょうね
でも結局全京都の中でも
打ち牙とかがもうちょっとしたら
3年後とかなってきたら
なってしまいます
1970年代
あさま産総3年かな
そこで一気に終焉迎える
そういう意味で
三島という
いわゆる日本の
イメージの中のスタンダード
をやろうとしたわけでしょ
あの人が
ギガ的にでは
そうですね
そこがなくなっちゃったから
俺がやるしかないんだって
やっぱりトラさんですよね三島がね
それをあえてやろうとしていた
というのが三島で
オルタナティブとして全京都というのがあった
メインとサブじゃないんだけど
スタンダードとオルタナティブっていうのが
どんどん消えていっていて
それをある種
象徴的に
なんでしょう
演劇チックというか
表現として
やったっていうのが
三島と東西全京都の
議論というか
対話というか
ですよね
すごい面白かったし
もう一個で言うと
確かに三島の言葉っていうのは僕が入ってきたし
そうかそうかって思ったし
全京都の言葉生産関係とか
いくつもあるわけ
言ってましたね
39:01
いろいろあるじゃないですか
でも結局その言葉が
なんて言ったらいいのかな
言葉が大きいというか
労働主体と労働対象の関係において
人間が人間的な発言をする際には
そうですね
めっちゃ応答したくなるんですよね
いつもの直訳みたいな感じの
でも僕は全京都の人たちが
こういう言葉で言いたいことを
やってるんだろうなって思いました自分で
そうですね
特に自然っていうところで言うと
自然とは何かっていう
最初の方でね
三島と全京都で
言いたいところだし面白いところで
自然って何なのかっていう
ことを言ってたりとか
物質って何なのかとかね
言ってたりするじゃないですか
そうですね
この辺がやっぱり面白いですよね
自然に変える戦いっていう
階級闘争っていうね
やっぱ面白いなっていう
僕はここだけの話じゃあれなんですけど
次に出す手作りのアジールっていう本があるんですけど
その本の中で書いてるんですよ
同じようなこと
同じようなことだと思うのが
僕ぐらいしかいない
戦うことが大事なんだっていう
ことを言ってて
そういう意味では闘争が大事っていうか
ただし相手を潰し合う闘争じゃなくて
さっき言ってた
奥さん的に言うと
顔を合わせるのは気まずくならない程度の
殴り合いっていうのが大事なんだっていうのを
言ってるんですよ
三島と東大全京都の戦いっていうのは
いいっすよね
アクターがいたっていうのがでかいですね
本当にアクターがでかいですね
アクターはマルクス全然読めてないんですけどね
関係ないでしょ
他の人たちが真面目にそれこそマルクスのことを
考えてる中全然関係なく演劇的な意味での
自然とか
無限みたいなことを考えちゃってるから
一番噛み合ってないのは
全京都とアクターだと思うんですよね
まさにトリックスター
中間的な人間っていうか
本当にそう思うな
特に映像作品の中では
アクターが結構
ヒューチャーされてるんで
42:01
面白い
全京都アクター三島っていう
アクターだけ小夢を持ってる
それこそアクターはあれですもんね
途中でだったら俺を殴りに来いよみたいなことを
一番に対する野人に対してなぜかアクターが
キレるっていう
あれちょっと胸熱い
あれがいいし
アクターっていう人が
いたからこそっていうのもあるし
やっぱ面白いですよね
本で見るとアクターが途中で帰っちゃうんですよね
帰っちゃいますね
僕の付箋の数がグッと減りますからね
前半にしか貼ってないなって思います
アクターは本当にあそこで帰るしかなかったんですよね
具体的な話ちょっと今手元にないから覚えてないですけど
確かそれこそ三島が
やっぱり自分っていうものが
日本っていうものがなくなったときに
お前は誰でもなくなっちゃうじゃないかみたいなことを
アクターが言ったときに三島がそれでいいんだって
それこそ有限性っていうのを引き受けたときにしか
三島由紀夫というアイデンティティはそもそもないんだって
それでいいじゃないかっていうことを言って
そこでアクターがもう話にならないって帰るっていうところ
でもすごいそれって
有限性っていうものに対して
あくまで逆らっていこうっていうアクターの基本姿勢と
三島側の
意識的に有限性っていうのを引き受けた上で
どうしていくかっていうところで
もう決定的に相入れない部分
そこだよねっていうことがはっきりしたタイミングだったと思うんですよ
確かにそこから先っても建設的な議論ないと思っていて
水かけ論じゃないけど
有限がいいのか無限がいいのかっていう話を
ただ不毛に水かけ論になるしかないタイミングだったんだな
みたいなところをすごい読んでいて
納得して
でももう一歩言うと
アクターっていう人って
結局動画の中にも
映画の中に出てきているでしょ
言ってるものとか変わってないよね
そうですね
僕的にはつまんないなと思った
そうなんですよ
すごいつまんないんですよ
アクターの議論のかけ方自体はすごい面白いんですけど
結局あれって言ってしまえば
国籍だったり
時間であったり空間であったりっていう
現実にある有限性っていうものを
無くしてみたときに
アクターの議論がなんで最強かっていうと
そもそも全ての根拠を取っ払ったときに
どんな議論ができるよって
45:01
何の根拠もねえんだぞって言われても
そもそも議論って成り立たないんですよ
そうなってくるとアクターみたいに自信満々に
目ギラギラさせて
こうだろって言えば勝ちみたいなところがどうしてもあって
やっぱりそこでそもそも議論の動きが
例えば体とか国とかっていうところで
有限性っていうのはまずはじめに
この机っていうものをちゃんと限定した上で
議論立てていこうじゃないかっていう立場に対して
ある意味それを茶化し続けるだけなので
やっぱりそこの有限性を引き受けた上で
何が語れるのかなっていうところに関しては
実はアクター以外の全共闘のメンバーが
アクター以外の全共闘のメンバーが
誠実な態度ではあったような
誠実誠実だし三島もやっぱ誠実
三島もすごいですよね
めちゃくちゃすごい
格が違いますわ
それは当たり前
始まる前から分かる
だけど
実名出しちゃあれだけど
宮台とは違うなっていうのは
めっちゃ思うっていうか
やっぱり三島も譲れないところはあるけど
でも確かになるみたいな
言うでしょ
そこが大人っていうか
これは本当にプロレス論でもあるんだけど
自分の力だけ
誇示して相手を徹底的に叩きのめしゃあいいか
相手の技を受ける
受けた上で
でもさって言って必殺技を繰り出す
三島はトラさんでもあり
トラさんあんまりプロレス的じゃないんだけど
トラさんでもあり
猪木的でもある
猪木のプロレス
相手の技を受け切った上でその上を行く
これはチャンピオンでしかできないし
三島はある種
言葉のチャンピオン
言葉のチャンピオンで言うとすごいダサいけど
格の違いはその辺で見たかな
論理的に
いかに一貫してるかっていうことではなくて
相手の論理を受けて
こっちが揺らぐんだけども
立て直して自分の論って言いたいことを
自分の言葉で伝える
それがやっぱ
すげーって
三島に対しては思った
そうですね
そう思ったし
さっきの話で悪太はつまんねーよなっていうのは
悪太は
48:01
自分の攻撃しかしないでしょ
相手の技を受けないから
そういう意味では
そう言われてみると
みたいなことを言えたらね
やっぱりもうちょっと
悪太って面白い人だったんじゃないですか
そうですね
知らんけど
難しいですよね
僕は三島そんなに好きじゃないんですよ
僕も好きじゃない
好きじゃないんですけど
この三島vs全京都を見てしまうと
やっぱりなんだかんだでこの人はチャーミングだったんだなっていうのはわかっちゃう
でもそのチャーミングだなって思わせることも
込みで自分の身内の取材犯を入れてたから
いう映像が残ってるじゃないですか
常にその有限性っていうものに対してかなり意識的であったし
その有限性をいかにして
ある意味
それこそ
ポピュリスト的に
広く魅力的に見せるかっていうところも
かなり自覚的だった人ではあるので
全京都側が何度も三島のことをデマゴーグだって
言いますけど
それはそれでかなり正しいと正しくて
三島はそれをかなり意識的にやってたんだなっていうところが
なんでしょうね
それはそれでわかった上で
それでもなお
この本だけを見てしまうと
大したやつだなって気持ちにさせられちゃうなっていうのが
結構複雑なところであるんですよね
本当に
本当に
寺山周二の
街中で
演劇やったりする
やりますね
普通に街頭演劇
街頭演劇だったな
とか
あとは
3年74年くらいかな
アントニオイノキがタイガージェットシーンに
新宿の伊勢丹前で
自分を襲わせるんですよ
それ誰にも言わずにやってるから
本当に襲われたと思う
警察呼ばれそうになったりとか
っていうのと一緒ですよね
三島が
何百人もいるわけでしょ
そうですね
それが
そこに時間が存在して
51:02
それが
有限的であって
持続的であるっていう
その辺が面白いっていうか
一瞬で
悪太の話で
時間の話で
悪太は
時間というものも
問題としないでいいんじゃないか
実は
演劇的な考え方としても
三島の方が優秀だった
という
前教頭との対話というもの自体を
演劇的な空間にしたってあげて
しかもそれを
持続的な本であったり
写真であったり
パッケージ化して
それこそ50年経った今
僕らが読めたり
鑑賞できてしまう形に
それが
三島側の演劇的な
性格みたいなものではあると思うんです
それに対して悪太が
そもそも
甘んじて映画に出ていいのかという問題もあると思うんです
悪太側としてはそもそも
そこで対話があったこと自体で満足して
そもそもそれをログに残すことに対しては
影響がないかみたいな
本当やね
本当やね
確かにね
本当ですね
難しいですね
わりと
僕としては
これまで読んできた本も含めて
そういうどちらかというと左翼的な論というか 全共党側が言っていることも
わからなくはないというか インパシーとしてはそちらにあるっていうのが前提としてありつつ
より対話に開かれていて より普段の生活観覧に近いので この対話だけを通じていくと三島の方にかなり部があるんだよな
っていうのに対して非常にこう 座りが悪い思いを
するんですよね でもなんかそもそもそこで座りが悪い思いをすること自体もちょっとその 党派性だったりっていうものに囚われ過ぎているんじゃないかというか
そもそも右とか左とかっていうことではなく なんかこう
54:00
そもそもの自分たちの 実感から考えていくとなった時
実はあんまりそのもうすでに 党派性みたいなものから議論を組み立てていくこと自体がだいぶナンセンスになってきてるんじゃ
ないのかなみたいな それこそ自分としての保守性みたいなものをある程度あるものと
あるものとして認めつつも その今よりもマシなあり方ってどんななんだっけみたいなものをある意味考えていくみたいな
ときって 割とこうお前はどっち側なんだみたいなのって決めきれない
ような
いい加減さじゃないですけどなんかこう どっちつかずな感じっていうものが
なんか
結構必要とされている態度なのかなみたいなことを 思ったりは
するんですよね
僕はそれをその内田先生 のあの
なんていうか言論から学んだところもあるので 原理的な話になっちゃうと
それは違うんじゃないって 原理じゃなくて程度問題なんだっていう話をするんですよ
そこがすごく僕は腑に落ちて ああそうだなっていう
そうですね そう例えば三島が最後に対話じゃなくて文章を寄せてると思うんですけど
その そこでね暴力について書いてて
で私は原則無前提に暴力を否定するものではない
だから暴力絶対反対というわけではないですね なぜならば無原則無限定
無前提の暴力否定はかえって暴力の性格をあまりにも普遍的にし 暴力の定義をあまりにも広げすぎるからである
そのことは暴力にえっと大は体制側のいわゆる効果権力の本質を なすところの軍隊の力も警察権力をも論理的に包含せざるを得ないし
また街で行われる役者の喧嘩に見られる暴力をも同次元のものとして包含せざるを得ない だからまあすごい抽象的になっちゃうよっていう
そうですねその原理主義ってすごい抽象的だよっていう話をしてて そういう意味では僕はその
内田先生の程度の話とかね 僕自身もそうだしやっぱりできるだけ具体的に考えたいし
そういう意味ではその前提が違えば
その同じ言葉が意味する内容も変わってくる
そういう意味では前提が違えば文脈も違うし 文脈が違えばその言葉の意味も変わるし
57:05
そういうとこですねそういうスタンス
そうですね
そうなんですよ
それが左なのか右なのかって言われたらわかんないですよね
そうなんですよ
そういう議論自体がだからね
そうなんですよ
実はだから三島のあり方もその原理的なナショナリストだったのかとか原理的な右翼だったのかっていうと
割となんか怪しい部分も今振り返ってみると
そういうような感じもあるなぁと
は思いますね
他の議論を全く追ってないのであんまりそこは
そうですね僕も全然三島って
だからここの題名が美と共同体と東大統領でしょ
あんまりそもそも美っていうものがよくわかんないしあんまり考えたこともないんですよね
なるほど
僕の価値観の中では美っていうのはすごく低い
低いっていうかな優先順位っていうか
そして低い感じはありますね
なるほど
まあ何を美と呼ぶかってまたねもしかしたら
そうですね多分その時代における美とかって結構なんだろう
それこそかなり重要そうな気がしますから
三島の美はちょっと違うなって思うけどね
いやてか三島の小説は何一つ面白くないですからね
またこんなこと言うと誰かにあれですけど
好きな人に言われるかもしれないですけど
それは好きな時
ダメなんだよな
いやダメですね
でもそう考えると僕ってプロレス好きじゃないですか
プロレスラーのような肉体をしてるわけでしょ三島って
そうですね
でももっと細かく言うと僕はああいう肉体のプロレスラーは好きじゃないんですけど
だから肉体美っていうのはあんまり好きじゃないし
そこでプロレスそこからプロレスを見てるわけじゃない
ところはあるんだろうなという
自己分析なんですけど
でもそれこそ三島のその端正な肉体美みたいなものを美とするっていうあり方っていうのは
それこそ何か一つお手本となるような相方があって
そこにどれだけ近づけていけるかっていう
それこそキリスト訓練的なものと美っていうのは
たぶんすごい結びついてるんだと思うんですけど
そう考えていくと割とナショナリスト的な
というか国粋的なあり方というか
1:00:01
国というもの天皇というものと自己を同一化
なるべくしていくように
自分というものにしていくんだっていうような考え方っていうのも
割と近いところにあると思っていて
やっぱり美のお手本とか正解ってのがあるんだっていう
発想がたぶん三島にはあって
そこに関しては僕は全然ピンとこねえんだよなっていう
ことなのかなっていうのは思いますね
有限性は信じられるのに
個人の固有性みたいなのを信じられなかったのは何でなんだろうなっていうのは
素朴に不思議にはなるというか
三島が?
そうです
逆に個人個人の差異というものを認めながらも
それを特に
有限性に引き戻せないというか
その固有の人たちも体持ってるよねみたいなところに
引き戻せないまま
抽象的な議論に終始してしまったのが
東大全教とかはなのかなみたいな
ちょっと
安易に図式的に整理していくとこういう感じなのかなっていう
気もしてきますね
ということでそうだよねっていう話になって
ちょっとまた奥さんには
そうですね
なかなか
なかなか対立点が生まれないんだよな
今のところそうなんだよね
そういう
でもそもそも対立するってなるとやっぱり何か極
両極に触れないといけないじゃないですか
お互いにそれこそまあ
なんか
塩梅じゃないっていうところで
そもそも原理的な人間じゃないからね
あるとしたらその塩梅じゃないんじゃないかっていうところで話ができるかもしれないですけどね
すんげえちっこいところだよね
たぶんちっこいところですね
でもちっこいところはね
ちっこい話なんだけどなんか言葉はでかいっていうかね
国家なのかみたいな
穴きすむ的な
そういうのはちょっとねありましたけど
ちっこいところがやっぱりすごい大事だと思う
やっぱりそのアクターがなんで面白くないかっていうと
69年の時点とあの映画が公開された2017年みたいな時代と言ってることが変わんないっていうところに
やっぱりそれは結局三島と同じじゃないですか
そのお手本となる何か方があって
その方に入ってしまえば何も変わらなくていいっていうようなところだと思うんですけど
重要なのはあんなに大好きだったアルフォートに飽きるかもしれないっていうことの方なんですよ
そうそうそう
だからやっぱり実は一番大事なのってそういうでかい話の前にアルフォートなんですよ
1:03:00
いやでもその時にいやそんなわけないと
アルフォート俺は好きなんだってなっちゃったら
もうそれは三島だからねっていう
三島だしアクターだしっていうことでしょ
その時に自分の肉体の方に耳を傾けて
いやちょっとこれアルフォート好きじゃないわって
アルフォートを一旦置いて自分は学びの旅に出るっていうのがいいんでしょうね
そこからアルフォートが好きじゃない自分をどうやっぱり受け入れるかっていう
そうですね
っていうことなんでしょうか
そうですね
ちょっと長くなっちゃったかな
じゃあ一旦このくらいにしましょう
そうですね
はいというわけで毎回突然終わりますが
ポエティックラジオお相手は私、垣根昌吾と
オムライスの革命児、青木でした
どうもありがとうございました
どうもでした
01:04:18

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