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はい、こんにちは、ポイエティークラジオです。お相手は、私、柿内正午と、本日はゲストでこの方です。
こんにちは、はじめまして。南森町三郎と申します。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
毎回、このゲストで呼ぶときは特に何も詳しい自己紹介とかはなしで始めるのが慣例ではあるんですけど、
僕自身もですね、南森町さんと今回2回目のおしゃべりということで、実際どんなことを、
どんなふうに本を読まれているのかな、みたいなところもあんまりわからないままでもあるので、
ちょっとだけいろいろ先に話を聞いてから本編に入れればと思うんですけど、
もともとは、このポイエティークラジオっていう名前にもなっているミシェルド・セルトの
日常的実践のポイエティークっていう本がちくま学芸文庫から復刊されるっていうところで、
僕が大はしゃぎしている中でですね、いろいろと反応いただいた一人でいらっしゃって、
ディスコードのサーバーも実はこのポイエティークって持ってるんですけど、
そこでちょっとやりとりをしながら、せっかくだからこの本についておしゃべりをしたいねっていうところで、
今日は2人での日常的実践のポイエティーク読書会みたいな側面もあるのかなっていうところで、
やっていけたらなと思っているんですけど、
僕が南森町さんと初めましてしたのが、あれはいつなんだろう、2年ぐらい前なのかな。
そうですね、2020年の1月だったと思います。
2020年の1月か、そうか、まだ去年か、なんか遠い昔の気がしちゃいますね。
そうですね。
渋谷でね、ボラーニョの2666っていう大変強そうな本があるんですけど、
その本をみんなでテーブルの真ん中に渦高く積みながらボラーニョについて語るっていう読書会があって、
そこで初めておしゃべりをさせていただいたっていうのが始まりなのかな。
そうですね。
僕自身は実はボラーニョの2666の読書会が人生で初めての読書会で、
そこで初めて行って、怖い思いするんじゃないかと思ってビクビクしながら行ったら楽しくてよかったなっていうふうに思って、
南森町さんはいろいろとボジェビシンでも読書会を主催されたりとか、
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今のこういう状況になってからもオンラインでもやられたりとかっていうのを何度もお見かけしていて、
僕は実は読書会って2666を4回しか知らないので、
普段の南森町さんが主催されている読書会がどんなふうに進んでいるのかなとか、
実はお前が2666を読んだあの回だけで読書会をわかった気になってたら全然違うんだぞみたいなところが、
もしあったらちょっとその辺も絡めて教えてほしいなと思うんですが。
そうですね、2666の読書会はまず多分ですね、人の多い方の読書会です。
比較的10名ぐらいでしたよね。
そうですね、そのぐらいいましたね。
基本的に分厚い本っていうのは読書会で好む人もいるんですけども、
結構その何でしょう、参加のハードルが高いのであまり選ばれなかったりするんで、
2666レベルで10名ぐらい来るっていうのはだいぶ賑やかな読書会です。
そうなんだ。
そうなんですよ。もっとなんか薄いのが多いです。
あと、みんな読んできている読書会って基本読んでくるんですけども、
分厚いのだったら読んでこない人いるんで。
なるほど。
そういう意味では賑やかで、かつ皆さん真摯な読者の読書会という、
すごい海外文学読みのあるべき姿みたいな読書会でしたね。
読まないでも参加できちゃうんですね、読書会って。
真ん中まで読んできましたみたいな人でもいますし、私は別にそれでもいいと思ってるんですけど、
最後まで読み切るために人の意見が欲しいっていう人もいると思うので。
なるほどなるほど。
そうか、面白いな。
その読書会、僕2666に関してはそれこそ、
この分厚い本を読み終わったもさたちと酒を飲み交わしたいみたいな理由が結構動機として多かったんですけど、
南森町さんはどういうお考えでその読書会を開催したり参加されたりしてるんですか。
開催は自分の読んでる本であるとか、楽しく読めそうな本っていうのを、
自分の考えだけで読んでしまうと、そこで閉じちゃうのかなというか、
つまらないなって思う時があって、
そういう時は人の意見であったり、人と読むってことを考えながら読むだけで何か変わるのかなっていうのが、
自分でやってる時がそれなんですね。
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なるほど、なるほど。
2666の時も単純にあんな分厚い読書会、あんな分厚い本の読書会ってほとんどないんですよね。
で、たまたま見かけて、参加したいなってことで参加したんですね。
なるほど。
2666でもあれですよね、南森町さん自体も読書会やられて、
やりましたね。
陣も出されてますよね、解説陣みたいな。
読んだ本みたいなの出しましたね。
そうですね。
出しました。
よかったです。
今日はこのままいくと2666の話ばっかりになっちゃう。
ダメです。
そうか、なるほどね。
そういった話も差し挟みつつになるとは思うんですけど、
今日は僕も日常的実践のポエティックっていう本を、
もともと図書館で借りて読んでいて、ずっと欲しかったんですけど、
Amazonで9万円とかして泣く泣く諦めてたのが、
待望の復刊っていうことで読み返していて、
自分にとってすごいいい本だなっていう思い出補正込みでいろいろあるんですけど、
実際でもこの本、ちゃんと読めてるかどうかっていうとかなり怪しいなっていうか、
この本を理解できたのかって言われると、
正直、理解したとかはちょっとわかんないなみたいなところがあって、
とはいえ、ある意味それがふわっとしているからこそ、
割と使えるテキストだなっていう気がしていて、
今のお話で言うと、僕自身が読んだものっていうのは、
この本を読んで得た感想っていうのは、
なんか結構いい加減な読解というか、
かなり偏った読解になっちゃってるだろうなっていう気がすごいしていて、
というかもう何なら間違った読み方しかできなかったなっていう気すらしていて、
いろんな人と、これはどういうふうに読んだらいいんだろうかというか、
ぶっちゃけ変な本だよねっていうことをちょっとお話できたらなっていう中で、
これから先もお話がいろんなところで広がっていけばいいんですが、
ひとまずは第一弾として、
できればと思ってすごい楽しみにしています。
どうしようかな。
どういうふうに進めていくのか。
普通の読書、この前の読書会でどういうふうに進めてたんだっけ。
章ごとに、まあいいやそういうのは。
話したいように話していきましょう。
そうですね、話したいように。
ざっくりとした感想として、
どういうふうに読んだよというか、
どんな本だったみたいなところが、
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南森真さんにとって日常的に進めていくってどんな本だったかなっていうところから聞いてみたいんですけど、
難しい本ですよねっていうのと、
何かに、
概ね使用者とか消費者とか言われている、
いわゆる普通の生きている人たちについて語っている本であるっていうのはわかるんですけども、
実際なんかどんどん地べたを張ってるはずの人たちから
どんどん浮いた話になってきて、
楽しい思想書というか哲学書というか、
何を読んだのかって言われると、
ちょっとふわふわしてわからないっていうのが一番の感想なんですよね。
そうですよね。
なんかちょっと安心しました。
結構僕の、もちろん出会いが2666だったからっていうのもあるんですけど、
わりと普段は海外文学というか小説を読みになることが多いですか?
こういう思想書というか、哲学書みたいなものというか。
多いです。
小説がやっぱり一番読んでる中で多いですね。
僕も雑食ではあるので、たぶん半々ぐらいなんですけど、
そんなに哲学書を真面目に読んできたわけではなくて、
それこそ学術書とか新書みたいなものから聞きかじって、
原点はその引用されてた部分の前後だけ読んで、
わかった気になるみたいないい加減なときなので、
ここでも参照されるビトゲンシュタインだったり、
風光だったり、プロデューだったりって、
実はほとんど読んだことがないなっていう。
そうです、私も読んだことないです。
っていうのもあって、特にこの本の前半部分、
最初の5章ぐらいとかって、
こういう名詞なんとなく知ってるなぐらいで読んでいくと、
論詞を終えたかどうかすら結構怪しい部分があるんですけど、
とはいえ数少ない哲学書を読んでみた感覚からすると、
この本の読みにくさって、
ふわっとしてるから読めないんですよね。
哲学書って基本的に割と愚直に足し算していくみたいな書き方を、
1×6は6ですみたいなことを、
いちいち1足す1足す1が3だから、
さらにそこに1足す1足す1を足せば6だろぐらいの、
すごいしつこい、ここまでは合ってる、ここまでは合ってるっていう、
自分の足元をめちゃくちゃ必要に点検しながら歩いてるみたいな本が多いので、
ある意味、知らない単語がたくさん出てきても、
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割と論詞自体終えるんですよね。
そうだよね、間違いないよね、みたいなことをさえ考えていけば、
なんとなく論詞を読んで、なんとなく納得した気になれたりはするんですけど、
正直実際のポエティックに関しては、読んでる途中で、
どこに今歩いてるかわかんなくなるんですよね。
そうですよね、それは同じ感じです。
そうですよね、だから、これは単純に知らない単語が、
知らないから理解できないとか、そういうレベルではなく、
本当にふわっとしてるんじゃないのかなっていうのを、
ちょっとあんまり素養がない中で言うのは大変勇気がいるんですけど、
なんかセルト自体結構ふわっとしてないっていうのは、
結構疑ってはいるんですよね、読んでいて。
そうですよね、私もそれだいぶ疑ってます。
やっぱりそうですよね。
すごい強引じゃないっていう時が結構あるので、
そうなんですよ。
ふうこうとブルデュー読んでなくて、
ただその、参考にこれを読み終わった後にブルデューを何冊か読んだ中で、
あれハビトスってそんなに、そんなに?っていう。
言ってることはわかるんですけど、
あまり厳密に解釈しないじゃないですか。
パノプティコンにしてもハビトスにしても、
主観的なものを客観的に判断するために、
一旦別皿に取り出してみたいな、
掘りをつけてるだけなんだみたいな指摘が何回も出てくるんですけど、
多分もうちょっと定義しようと思えばできるんだろうなって、
あえて止めてる感じはしましたね。
なるほど。
ちなみにブルデューのハビトスって僕ほとんど、
どういうことなのだっけっていうのがあんまり理解できてないんですけど、
読んでみた感じどういう概念というか道具としてブルデューは使ってそうでした?
読んだ本がハビトスを1から10まで説明する本じゃなくて、
資本主義のハビトスっていうブルデューがアルジェリアに行った時の研究を元に考えた、
自分の考えみたいな本なんですね。
その中ではハビトスってもうブラックボックスみたいに扱われちゃってて、
ざくっというとアルジェリアに資本主義が一気に入ってきた中で、
農村に住んでた人が都市に移動して、
農村で住んでたような前の資本主義的な社会では生きられなくなった中で、
一方的にただそういう人たちは資本主義に飲まれて底辺の労働者として働くのかというとそうじゃなくて、
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自分の中のハビトスというのは習慣とかそんな感じの意味で、
それを1回自分の中に取り入れた上で今の生きている資本主義社会と自分をミックスさせるような感じで、
自分の中で確保したものを作っているんだよ、みたいなことらしいんですよ、その本を読む中では。
なるほど。だからあれか、この日常的実践ポイントに出てくる話としては、
植民地で侵略者からの押し付けを付け入れているように見えて、
実は自分たちなりの体系の中に組み込んでいっているみたいな話と、
セルトは重ねていようとしているわけですね、そういう話を。
うん、と思いました。ただ結構セルトの、何て言うんでしょう、
ハビトスセルトが使用者側の、結構楽観的な書かれ方をしていると思っていて、
私が読んだ資本主義のハビトスの中では、
例えば農村で働かない人っていうのがあり得ないっていう社会で、
それはただ働かないっていうのが、金銭を得られないとか、
そういうことじゃなくて、働いてるって行動してないことが問題だっていう社会がある中で、
じゃあその都市に流れ着いちゃって、職を失った人が何をするかっていうと、
農村の社会みたいに働いているふりをするっていう。
なるほど、面白いですね。
あくまで、本当だったら必死に働くとか、
もう家でずっと生き育ちにしているとかなのに、
自分の生きてきた農村社会の倫理観をそこに一部当てはめているんだと。
家族の手前であるとか、親族の手前で働いているふりをすることで、
プライドを守っているというか、社会的な生き物として何とか維持できていると。
結構苦しい感じなんですよ。
なるほど。
台本でセルトってすごく強めに解釈する人なんだなと思いました。
そうですね。今の話は面白いですね。
お金のためとかそういう話で、
金融意識みたいなものがあるわけじゃなくて、
もともとその本主義的な村社会に既に勤勉たれているという観があって、
その規範を引きずって仕事してるふりだったりとか、
こういうテーマに出てくるところで言うと盗み仕事みたいなことを行いながら、
なんとなく面だけ整えようとするけれども、
それは別に本主義を内面化したからではなくて、
もとからあった村社会の勤勉たれっていう規範意識がそのまま残ってる。
要するにどちらにせよ自由ではないんだっていう話だったわけですね。
そうです。
なるほどなるほど。結構厳しい話ではありますね。
厳しいですよね。どっちも苦しいような。
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なるほど。でも面白いですね。
今ちょっとその話で思い出したのが、
渡辺拓哉さんっていう方が書いている、
ハンバーエっていう本があって、
これが人類学的なアプローチというか、
一番わかりやすいところは小川沙耶香さんとか、
その日暮らしの人類学とか書かれてるじゃないですか。
ああいうノリで、日本の釜ヶ崎で、
実際に日雇いの働きに出て、
2年ぐらい一緒にそこで働きながら、
その人たちが、
ハンバーに来ているような人たちの
労働倫理であったりとか、
それこそ日々のやっていき方みたいなものを、
ちょっとフィールドワーク的に研究している本なんですけど、
僕はこのハンバーエっていう本と、
日常的事前のポイエティックっていう本の2冊が、
結構自分が働き出してからすごい救いになった本で、
このハンバーエのほうが、
たぶん今の話だとブルーデンに近いと思うんですけど、
工場というか工事現場で怠けている人っていうものに対して、
すごい労働者が矛盾する態度を示していて、
わかりやすく怠けてる人に対しては、
あいつは本当に怠け者のクズだっていう形で厳しくするんですけど、
一生懸命働いてる人に対しても、
お前それ結局ボスにいい顔したいだけだろうみたいな感じで、
本当だったら上手に手抜いて、
やってる感だけ出すのが最高なんだみたいな感じで、
すごい全力投球する人もバカにするし、
怠けてるやつにはめちゃくちゃ厳しいし、
でも、手を抜けるところでは全力で手を抜くっていう、
その労働倫理ってどこから来てるんだみたいな話が結構されていて、
そこでのある意味、一つの結論としても今おっしゃっていただいたような、
割とそういう勤勉たれ的な規範意識が割と半端にもあって、
収入とかそういう話ではなくて、
単純に狭いそこの社会の中でのステータスというか、
自分の能力を講じするみたいなときに、
割とそこの、いかに上手に手を抜きながら、
怠け者ではないようにあるかみたいなのがあるんだみたいな話が書かれていて、
割とそこの分析の厳しさというか、
話と今のお話はちょっとつながりそうな気がして、
そこを読んでみたくなりました、無理というか。
そうですね、それはハンバーエの話は、
ハンバーの労働者として参加したタイミングで、
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その場の労働者としてふさわしい振る舞いをある程度要求されているというような感じなんですか?
そうですね、なんていうのかな、
ハンバー労働者というものが怠け者であるとか、
勤勉であるっていう、どっちかに振るっていうのはすごい、
外からの雑なれっている針でしかなくって、
実際のところ、使用者から求められている勤勉さをある程度犠牲しながらも、
自分のためにある程度手は抜くっていう、
使用者の、それこそだから、
使用者の言うことを聞いている手で、
全面的にそこを言うことを聞かなきゃいけない立場なので、
言うことは聞かなきゃいけないんだけれども、
最低限聞いている中で、聞かれていないことに関しては徹底的に怠けていく。
その怠けこそがむしろ、
労働者における最後の自由のテリトリーというか、
この人がこであれるあることを担保する場所なのではないか。
だからそこで労働者が現場で怠けているっていうことを、
一概にすべてをその人がだらしないっていうふうに考えるのではなくて、
使用者によって全人格的に所有されることから、
いかにして漏れ出ていくかって、
実践の形としての積極的に怠けていくって態度があり得るんだっていうようなことを、
書かれているなというふうに僕は読んで、
割とそれがその日常的実践のポエティックにおける、
使用者、非使用者側の弱い立場で、
ほとんど発泡ふさがりの状況の中で、
いかにしてチンプの言い方をする自分らしさを確保していくかというか、
守っていくかみたいな話に通ずるところがあるのかなっていうふうに思ってるんですね。
なるほど。
そうですね、なんか通じてそうな感じはしますね。
そうなんです。とはいえ、ブルリューであったり、
渡辺さんって販売がかかれた方とかは、
どっちかっていうと、とはいえ使用者の力というのはものすごいでかいから、
労働者のやれることなんて本当に少ししかないんだっていうのは、
多分書き方はそうで、
それに関してその方が僕らも納得感があるんですけど、
フェルトの変なところは、
そういう弱いものの実践みたいなところに対して妙に楽観的なんですよね。
そうですよね。
事前にちょっとやりとりしてる中でもおっしゃってましたけど、
なんかすごいそういう労働者であったりとか、
弱い立場にいる人のことを、ある意味いじわらないことをちょっと理想化しすぎてるというか、
みたいなところがあるよなっていう話があります。
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そうですね。
労働者の辛さっていうのは書かないよなとはずっと読んでて思って、
具体的にその被使用者であるとか消費者がどういったことをしてるのかっていうのを具体的に挙げてもいないんですけど、
なんというか、そのセルトって、
序盤じゃないんですけど、前半ぐらいで、
清職者とか社会的に上な人たちが社会の仮想の労働者とかを代弁するのってかなりおかしなことだよねみたいなことを書いてるわけがあるんですけど、
セルト自身も清職者じゃないですか、カトリックスも確か。
そうですね。
中ですごい自覚的にこれは書いてるんだなと思った。
あえて労働者であるとかそういった人たちがクリエイティブなことをしてるんだっていうことは言いつつも、
あくまでその人たち視点で勝手に語るっていうのは抑制というか、あまり控えようみたいな態度があったのかなとは思います。
そうですね。
結構そこ難しいところですよね。
上から、上とか下とかっていうあれも区分あれですけど、
社会的な上位のレイヤーから、どちらかというと仮想の実践みたいなものを語ろうとするときに、
一番あり得るのはそれこそ、暗義にめちゃくちゃ理想化するというか、
そこにある過劣な現実を脱飾して、ただただ俺たちみたいな息苦しい官僚制システムからちょっと外れたお気楽な世界みたいな感じで書かれて、
それをガイアからの記述として非常に暴力的だなと。
そうですよね。
で、セルトはそれをさも自分がレイヤーとして上にいるっていうことを忘れたかのように書くっていうような傲慢さは持ち合わせてはいないんですけど、
ふわっと書きつつ、楽観的に過ぎるせいで、ちょっとそういう理想化の方に寄り過ぎちゃってるのかなって危うさはちょっと読んでてハラハラするところではありますよね。
そうですね。
そこはだからハラハラはするんだよなっていう。
ハラハラはしますよね。一体どこにいるつもりで語ってるんだろうっていうのはずっとわからないんですよね。
そうなんですよ。結構ふわっとしますよね。だからその分かりやすい戦略と戦術っていう分け方の中でも、
それこそご指摘の通り具体例みたいなものは特に出てはこないので、戦術っていうものが一つ何か、言ってしまえばちょっと神的なものというか、
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それによって何かいろんなものがうまくやっていけるようになるものみたいな感じで成果されてしまっていて、
それについての至る道みたいなものはなくって、それを最終的に戦術というものがきっとこの労働者の中にはあるんだろうみたいな託していくような姿勢になっていかざるを得ないのかなっていう感じも読んでいても思うところではあるんですけど。
このふわっとしたところに、ある意味ふわっとしてるからこそ、なんか自分たちなりの戦術って意外とあんのかもっていう気持ちにさせられる部分もあるし、逆にじゃあどうすりゃいいんだよって言いたくなるような気持ちが湧いてきたりっていう。
そうですよね。何かの記事で戦略と戦術、これ解説でしたかね。戦略と戦術っていう用語があまりにキャッチすぎてほぼで真似されてましたみたいな。
確か文庫の解説でしたっけ。
文庫の解説かな。
だからこの柿内さんのおっしゃるふわふわ感も手伝って、すごい使いやすい概念になっちゃってる。
そうですね。
とは思いました。
結構厄介なのが、使いやすい概念になっちゃうことをセルト自身割と狙ってるんじゃねえのかなってこの本に関して思っちゃう。
そうですよね。
なんだろう、それこそこの中に出てくるフーコンのパノプティコンの概念であるとか、ブルーデンハビティスであるとか、あとはここには出てこないですけど、
ドゥルーズのノマドみたいな概念とかって、それこそビジネスパーソンまで安心して使える原理ワードぐらいにどんどんなってきてると思うんですけど、
それはその哲学研究者からするとすごい軽薄なというか、けしからん使い方なのかもしれないけれども、
そういう軽薄な使い方、その権威がある学者さんが頑張って考えた概念をすごい安直に使いやすいものとして使い倒してしまうっていう、
たくましさみたいなものこそ、わりとセルトは面白がってるし、それを誘発するためにこういう書き方をしてんじゃねえかっていうふうに考えたくなるような本であるっていうところが結構、
ややこしいところというか、なんか安易に使っちゃいけないかもしれないと思って真面目に読もうとすればするほど途中でどんどん馬鹿らしくなっていくところがあるなって。
そうですよね。
それは思います。だからいったん、いったんというか、いろいろあるんだろうけども、戦術っていうのはすごくクリエイティブでいいものなんだよっていうのは、
とりあえず疑わずにおこうみたいな態度はすごいありますよね。
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そうですね。そうなんですよ。ある意味、責任ではあるんですけどね。
責任投げっぱなしだからこそ受け取る側がなんかこういろいろ考えて楽しいというところがあるんですけど。
はい。だからいろんなに考えられますよね、戦略と戦術を。
そうですね。でもなんか、僕がこれ最初に読んだときなんであんなに感激したんだっけっていうのを読みながら思い出してたんですけど、
それこそその頃僕が読んでた本って割とそういう、なんだろうな、
左翼思想的なマルクスだったりとかをベースにした、
労働者というものであったりとか、もしくは使用者というものはこんだけひどいんだっていうようなことを、
いろいろと理論部層していくような本。
それこそ一つの使いやすいバズワードになってしまっている新自由主義って言葉がありますけど、
全部新自由主義のせいだっていうようなことをいうような思想書をずっといろいろ読んできた中で、
結構絶望してたんですよ。マーク・フィッシャーの資本主義リアリズムっていう本もありますけど、
資本主義であったりとか労働みたいなものを否定しようとすればするほどどんどんとはいえ、
自分が生きてる間はこの資本主義のシステムの中から出て生きていくってことは無理だろうなみたいな、
現状遂にの気持ちに結局とらわれていってしまうというか、
権力というものについて考えれば考えるだけ、権力というものの考え方をどんどん内面化していってしまって、
むしろ考えれば考えるだけ仮想的としての権力っていうのがどんどん強くなっていってしまうみたいなところで、
もう逃げ場ないなーみたいな気持ちにどんどん気持ちが塞いでってるときに、
このふわっとした本を読んで、
そうしたら意外と使用者であったりとか権力側から着手定義に確立化されていってしまうみたいな恐れを、
持とうが持つまいが確立化ってそんなにぶっちゃけできないんだよなというか、
設計者の思惑通りに使う使用者なんて一握りで、他の人って大抵何もしてないのに食われましたとか、
それこそ仕事をいろいろたらい回しにして複雑なシステムを逆手にとって自分から仕事を遠ざけたりとか、
それこそそんなに思惑通りに動いてないんだよなって。
この本の中でもそんなに人々はバカじゃないみたいなのが書かれてましたけど、
意外と厳密に考えようとすればするほど悲観的になってたところに、
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もっと楽観的でいいんじゃないかみたいな態度を思い出させてもらうきっかけに、
この本がなったのかなっていう気がしていて。
なるほど。
そういう意味でそのときはゆるふわさをめちゃくちゃポジティブに捉えて、
最初読んだときは読んでたんだなっていうのを思って。
今はちょっと僕自身がわりとゆるふわな態度を一つデフォルトにしてしまった部分があるので、
その態度でこの本を読むとちょっとふわふわしすぎてるんじゃないのって思うんだなっていう感じではありました。
はいはいはい。
そうですね、軽やかな本ですよね。
そうですね、いい感じに言うとそうですね、軽やかな本。
そうだから、なんだろう、この本、結構僕も方々でいろいろといいですよ、いいですよって言い続けて、
多分それを見て8人ぐらいの人が買ってくださったんじゃないかっていう手応えがあるんですけど。
すごいですよね、8人。
そうだからすごい、やっぱ嬉しいなって思ってるんですけど、
なんか読んでてそれこそ変な賢そうなカタカナ語とかたくさん出てきて、
なんか難しい本だから読めないやみたいに放り出している人がいたらちょっと申し訳ないなって気持ちがなんとなくちょっと出てきていて、
結構いい加減に読んでいいぞっていうことが伝わればいいなっていう気でいるというか、
結局それはこの本の読書論みたいなところにも書いてありますけど、
結局正しく読むみたいなことよりも、いかに楽しく読んでそれを実用的に、
自分で好き勝手使っていけるかみたいなところに重点を置いている本だなと思うので、
割とこう、なんか読んで何かしら引っかかってそれを自分で試してみようかなって気にさえなれば、
なんか割と厳密さとかはいいんじゃないかっていうか、
割と厳密さ自体はそもそもこの本にはないんじゃないかっていうぐらいの気持ちで挑むのがお勧めなんじゃないかなって、
これはちょっとだけ僕が読めてなさを正当化するぐらいの感じで言っちゃいますけど。
私も自分が全然読めてる気がしないので、もう分からないものは分からないって、
普段の読書でもそれやりがちなんですけど、ある程度ふわっと読んでいいんじゃないかなと思ってるんですよ。
そうですよね。
本当に真面目な人がこのポリエティック読んじゃったら、
エトランジェって何から頭を悩まし始めたら読めない本だと思うんですよね。
そうですね。
全部エトランジェじゃんっていう違う概念。
そうなんですよ。これすごいですよね。
なんて言うんだろうこれ、ジョジョのスタンドみたいな感じで、
36:01
日本語の訳文にカタカナでフリガナが振ってあるんですけど、
だいたいの言葉全部エトランジェでルビ振ったんじゃないかぐらいエトランジェ出てきますからね。
すごいですよね、エトランジェ。
しかも強調点を点々を右に打って左にルビ振ったりしますもんね。
そうそうそう、あれ最初混乱しますよね。
そう、あれずっと左の言葉に対するルビだと思ったら、
実は右の言葉に対するルビだったとか。
全然対応してなさそうなんだけど、でもこれそういうことか、
右のやつに振ってあんだんです。
わかってるんだっていう。
そうなんですよね。
でもだからそうなんですよ、訳文がかっこいいですよね。
かっこいいですよね。
全部必殺技っぽいというか。
必殺技っぽいにしては多いですよね。2ページ2個ぐらいありますもんね。
まあ確かに、出し押し見せたすぎる。
そうなんですよね。
今ペラペラめくってますけど本当に多いですね、ルビが。
そうなんですよね。
まあこれはでもリズムですよね、きっと。
そう、読んでると結構気持ちいいですよね、これ。
そうそう、読んでてかっこいいですよね。
かっこいいんですよ。
だから軽やかに読んでいいんだって私は思ってます。
そうですね。
なんかそのなんだろう、ポエムって悪口になりがちですけど、
そういう悪口ではなくて本当に、
岸並さんと詩についての話してるときも、
なんかかっこいいなって思ったらそれはもう読めてるから、
意味が分かろうとかって別に後でいいんだみたいな話を詩の読み方でされてたんですけど、
割とそれに近いものがあるというか、
それこそ音楽聴くときに、
この旋律の意味はなんだろうって考えなくてもそれはかっこよければいいように、
割とこの曲もそういうセンテンスのリズムが活かしてるみたいなところで読めちゃう部分があるので、
そういうところも結構いいところだなと思います。
そうですよね。
細かく言語化できなくても、
したい人は当然言語化する楽しみっていうのがあった上で、
なんかかっこいいっていうのは当然、
自分の中で否定しないほうがいいとは思います、当然。
結構なんかかっこいい哲学書って大事ですよね。
大事ですね。
やっぱり知的なことがかっこいいっていう態度は、
なるべく残ってほしいなっていう頼みがある。
そうですね。
ポストトルースとかそういうのがあんまり好きじゃなくて。
そうなんですよ。
そこはスノープでいようぜって思っちゃうんですよ。
そうなんですよ。
しゃに構えたり、ちょっとかっこいい言葉を頑張って喋ろうとする態度って、
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それはそれで尊いというかかっこよくないって思うんですよ。
そうなんですよ。
だからすごいファッションとしてこの本を一冊持っておくっていうのは、
大変かっこいいと思います。
かっこいいですよね。
タイトル化して日常的実践のポイエティックですね。
かっこいいですよね。
日常的実践のポイエティックってめちゃめちゃかっこいいですよね。
てかなんだろう、日常って入ってるともうなんか、
それこそあれですよね、
事前にも書かれてた料理についての話があまり出てこなくて、
ちょっとがっかりしたみたいな話があったんですけど、
なんかその日常的とか生活とか、料理とかいう言葉が入ってると、
しかも入っててさらにちょっと知的なフレーバーがそこにあると、
もうなんかその本絶対買うじゃないですか。
買いますよね、新刊本とかね。
そういう好みあるなっていうふうに思っていて。
そうです。でもね、料理についてはね、よくよく調べたら、
これって前書にも書いてるんですけど、2巻で形成されてる本で、
そうかそうですね。
その2巻目にいわゆるケーススタディというか、
実際に調べてた証言であるとか、インタビューで聞いたようなことが載ってて、
それが英語で言うと、何だったかな、何かとクッキング。
そうなんだ。
みたいなんですけど、
そうです。だから週刊と料理かな。
なんかそんなタイトルだったと思います。英語だったら。
2巻目がもうちょっと細かい地べた側の話をしてるっぽいですね。
じゃあ具体性はそっちにあるんだ。
みたいです。そういう分け方をしてたので、
全く具体的な話が出てこないっていうのは、そういうことみたいなんですけど、
ただ翻訳が1巻目しかされてないので、落としようもないんですよね。
そうか、2巻出してほしいですね。
こんだけなんか割と盛り上がってる気がするから、
つくまさんちょっとぜひ2巻も出してほしいですね。
英語で、フランス語がもともとなんで、英語では出てるみたいなんですけど、
なるほど、なるほど。
日本語ではついぞ見たことないですね。
そうか、英訳で買うしかないのか。
英語といえばこれもともとのフランス語が読めないので、
英語で調べたら、何でしたっけ、プラクティスインエブリデイライフなんですよね。
そうですそうです。それもかっこいいですよね。
かっこいいですよね。全然ポイエティックじゃないなって思ったんですけど。
そうなんですよ。全然ポイエティックじゃない。
だからこのポイエティックについては、これ絶対日本語の翻訳界でその頃流行ってたからでしかないだろうって思うんですけど。
そうですよね。この山田さんがあえてチョイスしたんですよね。きっと。
そうそう、これは山田さんのかっこよさだと思います。
でも大事ですよ、映画のタイトルじゃないですか。あえてかっこいい言葉を持ってくる。来て、ドンって出すっていうのが。
そうですね。
いいタイトルだと思います。
いいタイトルだと思います。
それこそ生活の実践とかそういうようなタイトルだったら、本場に跳ねないですよね、きっと。
42:04
跳ねないですよね。メンチにされた時のかっこよさが違いますよね。
そう、全然違いますよね。そもそもポイエティックってなんだろうみたいなところから入ってきますからね。
そこから読んで数十ページ読まないとポイエティック出てこないですね。
そう、出てこない。
1回しか出てこないというポイエティック。
最初の本にそこだけ出てきても。
出てきても。
でもそこまで読める人はきっと最後まで読める人なんだよね。
そうですね。
いい本だなっていう。
そうですね、いい本ですね。
なんかその具体例があんまり出てこなくていいから、自分たちでいろいろと例を出していく感じの本だなっていうのがやっぱりあって。
僕はこの前このラジオで話してたのはやっぱりそのエクセルを
お絵かきソフトじゃなくてお絵かきソフトで使うみたいなのがそうだろうみたいなしょぼい例を出してたんですけど。
エクセルの例いいですよね。もっとひどい例だったらコピーする時に右クリックじゃなくてCtrl-Cでやれみたいなのを絶対に右クリックでしかやらない人がやるみたいな。
そうなんですよ。設計思想上絶対それいけてないんだけど。
そうそう。絶対右クリックでやるみたいな。
そういう意志が。
そういう人絶対いますよね。職場にもいます。
それがこの実践だっていうふうに言ってたんですけど、
南村芳さんはサンリオの話を絡めてこの辺りを読み解いていったのかなっていう。
事前にいただいた感じだと思っていて、その話を聞きたいです。
そうですね。かわいいって言葉がかわいいはつくれるとかかわいいは正義とかすごく便利な言葉としてあると思うんですけど、
サンリオピュロランドのパレード中にずっとかわいいって連行する曲流れるんですよ。
ハローキティって名前だとかわいいかわいいって言って、その後また松丸かわいいかわいいみたいな。
あれってすごい怖いじゃないですか。その場にいたら楽しいんですけど。
改めて考えたらすごいかわいいで洗脳されてるみたいな怖さがあって。
そういう意味ではそのかわいいものってすごい暴力的とか上からかぶさってくるものなんだなっていう思いは少しあって。
ただそのかわいい概念っていうのも、ハローキティすごいかわいいじゃんっていう話の中で、
ハローキティっていうぼんやりした概念、かわいいよねみたいな話をAさんとBさんがしてたら、
多分細かいところで共有できないのかなっていうふうに思ってて。
Aさんは今YouTuberやってるハローキティが好きで、
Bさんは真横に座って首だけ90度曲げてる昔のハローキティのデザインが好きだと。
45:02
かわいいの中にもすごい一律的な、バラバラじゃないのかなと思い思いのかわいいっていうのがそれぞれの人の中にあるっていうのが一つ例として思ったんですよ。
なるほど、面白いですね。
日常的実践ポリティックで言った5の仕様というか、言葉というものを使用するときに一つの言葉が実は1位に意味は決まってなくて、
それぞれのかわいいというものが差し示す、
そうそうです。
シネフィエとしてのキティっていうものが実は複数あるんだっていう。
そうです、そんな感じです。
面白いな。
その場合は、サンリオ自身が掲げてるかわいい思いやり仲良くは、
戦略的なものとして定義されていて、
なるほど。
サンリオという権力から定義されるかわいいに対して、
おのおの受けては好き勝手にかわいいを密領しているっていうことですね。
そうです。
面白いですね。サンリオという路線を歩くということは、そのまま密領になるっていう。
そうですよね。
でもいろんな、服があるじゃないですか、サンリオのキャラクターって。
そうですね。
バツマルで言ったら、バツマルの趣味って銀座で寿司食うことなんですけど。
そうなんだ。
父親が多分マフィアっていう、そういうバックボーンのキャラクターの中で、
いかにもサンリオ的なかわいさの中にそういうキャラクターがいるっていう、
なんて言うでしょう、だから。
ちょっと前言抵抗じゃないですけど、戦略を押しつけてくる側にも、
すごいいろんな高知というか、みんな考えがある中で、
それをあくまでかいくぐって、ちょっと下手れっぽいバツマルが好きとか、
あの顔でグイグイくるぐっと花丸がすごいかわいいとか、
そういう個々人のかわいさの見入れ方というか、
かわいさの受け入れ方っていうのがあるんだなっていう、思うんですよね。
なるほど。
はい。
面白いですね。
そうなんですよね。
これ面白いな。
確かに。
かわいいっていう概念は確かにすごい射程が広いですからね。
射程広いですよね。
その言葉で示してるものが。
何を示す。
それこそ相手のことを貶めようとしてるのか、
もしくはすごいチャームポイントを引き出そうとしてるのか、
すごい前後手の言葉なのかっていうところで、
やっぱりグラデーションがありますからね。
かわいいの一言に。
そうなんですよ。
すごいポエティックに乗ってる網目は、
何でしたっけ、戦略の例えと結構似てるなと思って。
網目が細かくて、すごい広い範囲で追いかぶさってくるっていう。
48:03
確かに。
網目の細かさで言うと、
かわいいの戦略としてサンリオのキャラクターの多様さは、
かなり細かいですからね。
細かいですよね。
だいたい一人は好きなキャラがいるだろうみたいな。
そうですそうです。
なるほど。
非常に面白いですね。
キティさんはすごいですよね。
僕もサンリオピューロランドに一回遊びに行ってから、
キティさんのことさんづけでしか呼べなくなりました。
それはなんでですか、パレードとか見てですか。
パレードを見て、
かわいい思いやり仲良くってすごい大事なんだって、
すごい安易にコロッと感化されたからだと思うんですけど。
何がすごいって、
僕が見たパレードだと、
闇落ちするキャラがいるんです。
パレードの途中で、
パレードに邪魔をして意地悪をして、
みんながかわいいとか言ってるのやめようぜみたいな、
こういう人が出てきたときに、
他の人たちは結構、
けろけろけろって人は結構武闘派で、
武力行使にすぐ出ようとするんですよ。
かわいいを邪魔するやつをぶっ飛ばすみたいになってくるんですけど、
キティさんがそこでちゃんと止めるんですよ。
誰だってそういうふうに、
全部嫌になっちゃうことってあるよって言って、
すごいそこで一旦、
かわいいと一つのワンイシューであることによる欲圧みたいなものによって、
生まれる闇みたいなものを一回ちゃんと肯定するんですよ。
否定して、かわいいでネジを捨てるわけではなく、
かわいいだけじゃない以外のオルタナティブをちゃんと認める度量がこの人にあるんだと思ったときに、
キティさん。
最終的にそのパレードは結局、
一回闇落ちした子たちも含めて、
本当はかわいいが良かったんだみたいになって、
みんなで仲良くかわいくなっていくっていうパレードになっちゃうんですけど、
でもそこになっちゃうとちょっと納得しちゃうというか、
一回そのかわいさに対して、
持ってしまった反発を受け止める度量、
すげえなっていう。
そうですね。
それはそう思いますね。
あれはだからキティさんっていうのは真のリベラルだなって思いました。
結構誰かに怒られそうな発言だけど。
でも度量の広さはリベラルかくあれっていう感じ。
度量の広さですよね。
あれはすごいちょっと感動しましたね。
いいですよね。ピューロランドの話になっちゃいましたけどね。
51:02
でもそうですね。
結局ピューロランドの戦略側がすげえって話になっちゃうから、
セルト的にはちょっとあれですけどね。
でもこうやって勝手にキティさんのことを語れちゃうっていうのは、
これは戦術的な、すげえまた便利に使ってるけど、
あるんじゃないかなと思う。
それはそれでいいのかもしれないですけど。
そうですね。
そうか、面白いな、確かに。
かわいいのでいいですね。
おっしゃるとおり難しいですよね。
戦略側がどれだけ巧みかっていう話に、
今勝手に擦り替わっちゃったんで、頭の中で。
そうなんですよ。
いかに戦術側に立ち続けるってことが大変なのかっていう。
今喋ってて自覚しました。
そうですね。
だから僕らって戦略側で語ることに慣れすぎてるというか、
戦略側の言葉しか持ってないんですよね、もともと。
だから効率とかコスパみたいな言葉とかを言って、
正直それって経営者の言葉じゃないですか。
人件費とかってちゃんちゃらおかしくて、
なんで人間をコストにするんだよって。
俺たちが暮らしていくための仕事だろっていうふうに思っちゃうんですけど、
簡単に自分たちがいざ仕事をしようってなったときに、
コスト削減どこでしようとかいうときに、
あっという間に人件費っていうのが一つのコストにしか見えなくなる瞬間って、
やっぱり出てきちゃったりするんですよね。
結構それが怖いなっていうのがあって、
いかに個人の実践としてご機嫌にしていこうかってことを考えていたとしても、
気づいたらコスパとか、そういう話にすり替わっていって、
その瞬間に自分があっという間に管理者側に立ってるというか、
戦略側の目線で立って話してしまうんだけれども、
それって体制的な戦略側にとって都合のいい動きにしかならないから、
全然戦術的でないというか、むしろ戦略を強化していく動きに、
自分から進んでなっちゃいかねないっていうのって、
結構ずっと怖いし難しいけどどうしてもそうなっちゃうんだよなっていう思いが強くあって。
だからこの戦術側に立ち続けるってすごい難しいからこそ、
ゆるふわに見せかけて常に戦術の側に立ってるっていうところに関しては、
すごいかもしれないですね。
そう、セルトの骨太なのかもしれないなっていう気もしてきますね、こうやって話していると。
そうですよね。
ゆるふわであり続けるのは結構難しいんですよね、きっと。
ゆるふわであり続けるのは難しいですね。
54:01
どっかでどうしても人間ぶーたれたり、
やっぱり働いてないやつって自分よりダメなんじゃないかみたいな話しがちですもんね、どっかで。
そうなんです。
だから、ひぐち…なんだっけ、え?きょうすけ?
セーフサスカの…
あー、ひぐちきょうすけ。
ひぐちさん、きょうすけさんいらっしゃるじゃないですか。
あの方のツイートで僕好きなのが、
仕事で上司だか部下だかが全然働かなくて、
会社員としてはクソ腹立つんだけど、
左翼としてはめちゃくちゃ尊敬しているっていうツイートにされてたことがあって、
すげーわかるなって思うんですけど、
だからそれこそ戦術的なものを実践している人に対して、
ある意味、この日常的実践のポイエティックに何かしら共鳴するところがあるものとしては、
いいぞって思うんですけど、
それって自分事じゃないからで、
自分のデスクにそういう人がいたら、
結構簡単にイライラしちゃうんだよなっていう。
そうですよね。
だからこれ難しいんだよね。
難しいですよね。
だからこの目の前の仕事をやっつけなきゃいけないっていう気持ちは、
とその心情というか思想みたいなものとっていうのを、
別に全部を全部両立しなきゃいけないっていうような原理的な考え方じゃなくてももちろんいいと思うんですけど、
実践っていう言葉を込みで考えるときに、
どうしていくのが本当に、
自分にとって一番いい落とし所なんだろうかっていうのは、
結構考え込んじゃうんですよね、いつも。
リアルだとそうですよね。
そう振る舞えてるかちょっと微妙だなって。
そうなんですよ。
しかもその戦略的なものを大肯定して、
全部を全部そういって全ての仕事をサボっていけばいいかっていう、
そういうわけでもないっていう。
そうなんですね。
そういう意味がないのは何でなんだろうなっていうのも。
っていうのが難しいですよね。
難しいですよね、本当に。
なんかそれはその仕事だけじゃなくて、
このコロナ禍と言われる状況下になって、
一層顕著だと思うんですけど、
それこそ東京だと緊急事態宣言がまた明日からみたいな、
今日まで緊急じゃなかったんだみたいな風にも言いたくないような、
しかもしょうもない規制が出てきたりとかっていうところで言うと、
戦略側のやってることに対して、
すげえ腹も立つし、
何かしらそれに対して実践的に抵抗していきたいって思ったとしても、
ある意味全体主義的な生活のあり方そのものを統制していくような、
57:02
異性者のあり方に対して、
じゃあ実践的な抵抗って何なんだろうって考えていくと、
結構すぐにわかんなくなるんですよ。
一番わかりやすいのが、
残念ながら一番やりたくないノーマスク派の人たちの振る舞いになっちゃいかねないなっていうところで、
そっちに行きたいわけでもないんだよなっていうところで、
バランスの取り方がすごい難しいとか、
やけになり方がすごい難しいというか、
別にマスクしたくないわけじゃないとか、
マスクは必要だと思ってるんだけど、
ある程度のところで外に出たりとか、
人と会ったりっていうのは、
もしくはそれこそ本屋さんに行ったりとかっていうのは、
普通に必要だろって言いたいときに、
どういう実践があり得るんだろうかみたいなことを考えていくと、
結構立ち止まっちゃうんですよね。
わかりますね、それは。
本が私も好きな中で、
今回休業対象みたいな話になったときに、
本屋は大きい声で喋る人もいないから大丈夫でしょうみたいな話もあるんですけど、
というよりは、
自分たちの好きな本屋が占められるのがすごく嫌っていう気持ちが先にあるんですよね。
そうですね。
なかったときに本屋行けないとか、
気が詰まったときに雑誌買いに行けないみたいな、
そういう状況に陥っちゃう。
しかも2週間ぐらいっていうのが、
すごくやってあった中で、
頑張って頑張って出した言葉が、
政府の出した基準を守ってますよって、
みたいなすごい情けない気持ちがあるんですよ。
そうなんですよ。
もっとこう、
自分たちなりのポジションの言葉がないっていうのが、
それを停止しちゃってるっていう。
そうなんですよ。
だからなんか、
これまで言われたことを全部言う通り聞いてきたのに、
この周知ってないよっていう、
その理屈のもともなんだけれども、
結局そういったある意味だから、
その戦略側のいうことだけ、
聞くっていう選択肢しか、
もう想像ができなくなっちゃう、
っていうというか、
そこでこう、
なんだろうな、
ある意味、
ある程度吹けるみたいな、
一加減差を持つみたいな弾力が、
この1年で結構その、
個人レベルでも、
企業レベルでも、
こう、
明らかに疲弊してきてしまったなっていう感覚が、
僕の中にもあって、
はい。
すごいこう、
なんか、
どうしたもんかなってくたびれちゃうところが、
あるんですよね。
そうですね。
そう。
だからちょっと今はやっぱりこうやって気分が塞いできたから、
やっぱりセルトを読み返さないといけないですね。
そうですね。
ちょうど読み返してますね。
1:00:00
そうですね。
ゆるふわを取り戻さないと。
地べたにいてばかりだと、
気持ちだけでもね、
ゆるふわでいたいと。
そうなんですよね。
はい。
やっぱり多分それなんだろうな、
問題は、
その地べたの側に、
理屈というか、
論理がない。
それはその、
セルトも書いてますけど、
その手の技術っていうのは明文化できないから、
なんか大したことないようなものになっちゃうんだみたいな。
だからこそドキュメントができる上からの話っていうのだけが残ってくんだっていう話が書いてあるんですけど、
今もやっぱり地べた側の実践っていうのは、
明文化されないから、
なかなかこう、
なんていうのかな、
力を持ちきれないというか、
その状況に対しての影響力を持ちきれないみたいなところが、
あるっていう話なのかなっていうふうに思っていて、
そういう意味で言うとこのセルトの話だとか、
それこそフィールドワーク系の今また盛り返している文化人類学的なアプローチとかっていうのは、
そういう地べたのアプローチに対して、
何かしらそういうこう、
リオン武装の可能性を求めるというか、
なんかそういうようなところがあるんじゃないかなというか、
現場の暗黙地みたいなものをいかにして、
暗黙地じゃないちゃんとした地にしていくかみたいな、
それをちゃんとしたって言ってしまうと乱暴かもしれないけど、
体系立てていくかっていうところを考えるきっかけとしても、
こういう変な本がいろいろ出てくると楽しいんだろうなっていうのは。
なるほど。
柿内さんがよくおっしゃっている国立野外学習センターの中で、
聞いてた中で面白い例だなと思ったのが、
パンダの絵を売っている雑貨庫の人が、
そこに山下清志ってサインを書いてるやつを売ってると、
もし戦略的にこのパンダの売れなさそうな絵をどうするんだってなった時に、
山下清志って書いちゃえばいいでしょうか、
そういう軽やかさっていうのはすごいいいなと思ってですね。
絶対に戦略側の偉い人の考えの中で、
山下清志なんて書いちゃダメでしょうしか出てこない中で、
書いちゃうと売れるんですよみたいな、
そういう軽やかな感じってすごい大事ですごい面白いなと思ってるんですよね。
本当にあれは好きです。
いい話です。
きっと買う側も騙されてないし、
軽やかさで面白いから買ってるんだろうみたいなところもあるんで、
そういうだから真面目すぎてはいけないっていうのがすごい思いました。
そうですね、これは大事ですね。
真面目すぎると重たくなりすぎるから、
今日もやっぱり一つキーワードして出てきたのは、
軽やかさみたいなところだと思うので、
いかに軽く、軽やかに、
そうですね。
1:03:00
うん。
のが大事です。
あれ、ずっと見てらっしゃるトラさんにつながるんですね、
軽やかさというか、
あー、つながっていくかもしれないですね。
ちょっとすごい強引なこと言いましたけど。
いや、でもトラさんにつながり、
そうなんですよ、トラさんは面白いですよ。
トラさん見たことないんですよ、残念ながら。
いや、今、トラさんの人生を見たことないんですよ。
いや、でも、
さあ見たことないんですよ残念ながら いや今あの
正直最初の5作だけでいいと思います 最初の5作
最初の5作をちょっと騙されたと思って 多分1作目だと辛いんで5作目まで騙されたと思って見て
そこまでで騙されたな本当にって思ったら多分向いてない ああ
そこまでで意外となんかこれ見続けられるかもって思ったら多分前作見れちゃう
なるほど 何だろうあの寅さんの良さちょっと語っていいですかちょっと三陵だったり寅さんだったり
何だこれって どうぞどうぞ
あの僕前作最近ようやく見終わったんですけど 良くっていうのはそれこそ
こう正しくなさとか なんですよなんていうのかな
割とその厚見清史っていう俳優自体が 本物のヤクザもんなので
今の日本だと あんな人気者になっちゃいけないんじゃないかというか
なんだろうな 海外だと今でもあのマチェーテとか出てる
ダニートレホかな あのとか ダニートレホですね
それこそこうなんかそれこそ人殺しちゃうぐらいのことまでしているのに 服役して会心してハリウッドスターになれちゃうみたいな
ところが今の日本の芸能にあんまりないじゃないですか ちょっとそれこそ別に不倫程度で終わっちゃうみたいな感じがあって
なんかまあそれの是非っていうかなんていうのかな 虎さんはめちゃくちゃ下品でそやなんですけど
なんかそれでもその悪さを許容できている 柴又っていうフィクションそのものが結構今見ると
宿際感があるんですよ それは何かというと人って悪かったら汚かったりするものでしょっていうところに
何のペライもないから だからある意味それこそ軽やかな実践なんですよ
あの難しい理屈をこねるんじゃなくて だって毎回帰ってくる毎年帰ってくるんだもんっていうだけで
そういう悪を受け入れてしまう その団子屋のみんなっていうあり方っていうのは
結構それを当たり前にみんな受容してなんか喜んでたっていうところが 結構虎さんの
得意なところだったのかなと思って とはいえこれを気をつけなきゃいけないのが僕は5作目までって言ったのは5作目までは
まだこれがそんなにシリーズになると思ってなかった人たちが虎さんってヤンチャな悪役座 者としてやっぱりずっと書き続けるんですよ
1:06:04
6作目以降急に虎さんが良いおじさんになっちゃうんですよ どんどん
こっちかこっちから見たいですねそうなんですよ だから両地とかって最初すげーろくでもない奴なのにだんだんなんかすごいこう
なんかありがたいお世紀おじさんになっていくみたいなああいう変遷がやっぱりあって そこにすごい日本がいかにしてそういう乱暴さとか
はいとか汚さとか下品さみたいなものをいかに失っていったかっていう 変遷がこう見えていくもちろん1作目が始まったのがもうすでに60年代の後半なので
高度経済成長期の半ばにある意味トトロみたいなフィクションとして虎さんって生まれて きたんですけど
その頃にはまだある程度本当にいたなっていう実感があったところからどんどん こうすまし顔になっていくというか
今のワイドショーの威悪さに近いというかその 自分の方はお行儀が良い側ですっていうこの先生に言いつける側ですっていう
あの価値観の中で下品なことをずっとやり続けていくっていう 方向性に馴染まない人たちむしろ自分たちこそが下品なんだっていうところに居直った
上でやる下品さっていうのはやっぱり全然違うんですよね あの優等生ずらしてやる下品さほど醜悪なものはないなっていうふうに僕は思ってるんです
けど 最初から全然優等生じゃない人たちが自分たちはもうしょうがない俺たちはこういうものなんだって
言って下品なことやってる様っていうのは なんか
全然違うものだったというかなんかその 虎さんに僕は見る前偏見としてワイドショー的な下品さがあるものみたいなイメージで見て
こなかったんですけど そういうものではなくて
本当に下品な人たちの映画なんだって 気づいた時に虎さんっていうものが
ちょっとこう 本当に面白くなったなって
思いました なるほどそれは面白いですよね
面白いと思いますよ
昔読んだ本であかんやつらっていう 京都東映撮影所っていうところの
東映ってあれを作ってるとこですよね あの仁義な木
あーそうですね はいいうのを撮ってた人たちっていうのは決して彼らがヤクザとするわけじゃないんですけど
メンタル的にはかなりそれに近い人たちだったっていう中でそういうちょっとあかん人たちがあかん映画を作ったことですごい楽しいものができてたんだと
そのファッションとかそういうなりでちょっとアウトローを演じてるのではなくて 元々アウトローのメンタルを持ってる人たちが
まあちょっとフィクションで作ったらもうそれ迫力が違うでしょと そうですね
話を今思い出して それそうですよね 面白そう あかんやつら読みたくなります そうなんですよ
厚見清史もあの評伝であのおかしな男って本僕が最近読んでたんですけど あのそれこそ
1:09:01
寅さんは小築なんですけど 仁義な戦いがめちゃくちゃ羽ねてる中で人狂映画の法則から暴力とヤクザを抜いたもの
内司はそのヤクザっていうところに敵やっていうものを押し替えたものが寅さんなんだっていう話が出てきて
それもだから通じるところだというか 厚見清史自身も割と敵や的な家業
内司はもっとヤクザな家業から来てるんじゃないかっていう 話もあるんですけどそういう本物が出てきて
暴れさせる まあそのもともとショービジネス自体が今ほど上品なものじゃないというか
割とこうどちらかというと非差別的な職業というか あのどちらかというと汚い家業だったはずの時代なので
こういう時代の乱暴さみたいなものがしか埋め出せないものっていうのはあるよな っていうのはヤクザ映画は結構顕著に現れるところだなって思いますね
トラさんの映画見るとすごいですね Googleでトラさん映画って調べただけで
何スクロールあるんだろうと思う そうなんですよ48作ありますからね
厚見清史が生きていられただけ これはあって感じですね
だから本当に一種の長編小説として 楽しめると思いますよ
そうですよね タイ画どころじゃないですよね そうですね
怖いのがこれ当時だと半年に一本のペースで作られてたりとか 最初の5作とかって1年ぐらいで封切られてるんですよね
だからそのこうなんていうのかな 速さもそうだし
スケジュールのエネルギーというか 今だったら絶対非人道的な共同環境だったんだろうなっていうのが忍ばれるところも含めて
そうですよね 最初の5作のエネルギーってやっぱりすごいなって
思います すごい興味が出てきました
そうなんですよ多分面白いと思いますよ なんかこう
保守的な古き良き日本みたいなイメージがついちゃってますけど 本当にこれが古き良き日本だって言うんだったら今はもうこういう
ヤクザモンテレビに出してみろってんだみたいな気持ちになってます
出ちゃいけない人出せよみたいな
なるほどそうか そんな感じなんですね
このおかしな男っていう本自体もすごい良い本でした 成人としての虎さんみたいになっていく前の
男は辛いよ以前の厚見清との交流が 本のほぼ大半を占めるんですけど
なんかそういう厚見清という俳優自体の凄みであったりとか悪さであったりとか ないしはその厚見清っていう
俳優としての芸名であったり 虎さんっていうさらにその役名に囚われていた
1:12:04
田所康夫っていう実在の一人の人物の というのは果たして本当に幸福だったのだろうかというか
ある意味フィクションの食い物になってしまった 人間が一人で確実にいるわけですよね
どこに行っても虎さんとして扱われる
こうちょっと地獄見えたものというか 傲明たものみたいなものをちゃんと書いている本で
これもだからそのある意味綺麗事でない 国民的に人気というものの綺麗事でなさみたいなものの
ドキュメントとしてすごい面白かったなぁ なるほど
赤んやつらもちょっと僕は読んでみて 松竹の次は
東映ですね 読んでみたいと思います
きっと松竹も赤んやつらバカだったんでしょうけどね 松竹も多分相当ヤクザだったでしょうね
ちょっといろいろ読みたい本も増えて
読みましょう
なんだかんだで多分1時間ぐらい過ぎてますね
お時間的には一旦ここで 録音としては締めて
しまおうかなと思います サンリオと虎さんの話にボリューム差しすぎたかもしれないけど
そうですねほとんど内容の話してないですね 内容の話で何かこうしておきたいところとかあります?
内容の話でしておきたいところですか
フレーズのかっこいいところとかメモしてて そうなりますよね
そうなるんですよね
なんかねー 難しいですね
特に内容はごめんなさい 具体的にここで読解していくっていうよりは今日みたいなこう
ゆるふわの全体を受けてふわっと喋るって 正解だったかなっていうふうに思うので
また何かあったらそれこそ メッセージだったり
もう一回録音で話したりできたらいいなと思います
そうですね ありがとうございました
ポイントテイクラジオ 岡井寺隠内昌吾と
南森町サブロでした どうもありがとうございました