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2026-10-24 28:40

#128 表現と描写の違い / 小林秀雄「表現について」朗読解説その2

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今回は、小林秀雄の「表現について」

芸術の領域以外にも、「表現する」という言葉は様々な場面で用いるようになりました。
本文では、ロマン派主義前後の流れを、ベートーヴェンのような音楽家や、画家や文学者たちの運動に触れながら、表現をみていきます。
「表現する」とはどういうことなのか、小林秀雄の言葉を通じて考えていきたいと思います。

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サマリー

小林秀雄「表現について」を読みながら、ロマン派文学が告白に適した散文や小説へ向かった流れを確認する。詩は日常言語から詩的言語を組織する知的努力であり、言葉そのものによって読者を閉じ込める一方、小説は事物や事件を描写して現実の錯覚を与えるものだと説明される。実証主義や科学万能思想の影響で、文学や絵画が内的な表現から外的な描写へ移った経緯も、自然主義や印象主義、モネを例に語られる。科学やAI、SNS、ショート動画に囲まれた現代では、一度得たものを捨てられないまま、改めて表現と自我の問題に向き合う必要があると話している。

ロマン派文学と小説の時代
ここからは、さっきベートーベンの例で話してきたんですけれども、ちょっと文学の方に話を切り替えていきたいなと思ってるんですよ。
文学の、このロマン派の文学っていうものが、今度どういう風な道をたどるに至ったかっていう。
これさっきの表現っていうものがね、次第に難しい、見定めがたくなり、受講の行方は見定めがたくなり、表現というものがどんどんどんどんちょっと難しくなってるんだけども、それが文学においてはどういう結末に至
ったかっていう話ですね。
ちょっと読んでみますね。
ロマン派文学の時代は、告白文学の時代であり、自由な告白には約束の多い詩の形式より3文が適するから、これはまた3文の時代を招来しました。
って言ってるんですね。 なるほどと。
近代になり、ロマン派文学が生まれたとき、これは言葉を変えると告白文学の時代なんですと。
で、この告白には約束の多い詩の形式より3文が適すると言ってるわけですね。
それはその通りですね、確かに。 3文の時代が生まれたと言ってるんですよ。
なるほどと。
で、もうちょっと読むと、文学のロマンティシズム、これロマン主義ってことですね。
文学のロマンティシズムを裁量したっていうのは、管理監督したのはってことですね。
裁量したのは、ロマン括弧小説だったのであります。
って言うんですね。 フランス語でロマンって言うと小説を意味するってことなのかな。
これロマンって語源ってね、中世のヨーロッパにあって、中世のヨーロッパって正式な書き言葉ってラテン語だったんですよ。
うんうん。
やっぱラテン語の時代が長かったから、そのラテン語という言葉の言語体系が括弧だるものになっていて、しっかり表現できるんですよ。
その後生まれてくる言語とかって、例えばドイツ語とか、そこから派生して生まれてくる言葉っていうのは、
生まれてくる言葉っていうのは、まだ言語体系が弱いんですね。
だから、ある概念をラテン語で全て説明できてたものを、新しい言葉で説明しようと思っても、
新しい言葉には、まだそれを表現しきる語彙力がなかったりするわけですよね。
なるほど。
だから、長くラテン語で続いてたんですよ。
ああ、そうなんだ。
宗教革命とかで、ドイツ語を作り出したとかで、市民が読めるようになっていった、みたいな話とかもあるんですけれども、
一般的には掛け言葉っていうのはラテン語だった。
これに対して、日常的に話されている言葉が、ロマン、ローマ風の言語っていう意味なんですよ。
話し言葉ってことだったんですよ。
へー。
これ、日本においては、漢文が主に知識神たち、貴族たちの正式な掛け言葉だった。
ああ、なるほどね。
ひらがなっていうもので表現し始めるって、紫式部が。
そういうことで、話し言葉による小説が生まれたっていうね。
小説ってもともと小さい説って書くじゃないですか。
商人の説ってことですよ。
商人。つまり、大したことがない一般市民の説っていうことになってて、評価が高くないんですよ。
なるほど。
中世までは。中世っていうのは、やっぱりラテン語だし漢文だしみたいな世界で、小説に重きを置かれていなかった。
でも近代に入ってきて、ロマン派に入ってきたときに、もっとこの話し言葉でってことに、どんどんどんどん、しかも小説の方がってことになってきて、今にもそれが続いてるわけですね。
ってことなんですよ。
なるほど。
続きを読むとね。
ロマン派の大詩人たちは、すべて告白を小説を書いた。
ユーゴー。ヴィクトリー・ユーゴーですね。ユーゴーの決定的な成功は、レ・ミゼラブルによって定まったのである。
これ詩人たちがこぞって小説を書き始めたんだっていうことになるんですよ。
もうちょっと読むと、つまりこれは詩はその伝統的な形式の枠の中で、
詩的言語とボードレールの危機感
饒舌のために平行を失った内容で、はち切れんばかりになり、いつでも自由な三分形式に逸脱しようとする状態にあったということであり、これがボードレールが感じた危機であります。
そういうふうに詩人たちが自由な形式を求めて小説に変わっていった。三分に変わっていった。
ボードレールはね、これは危機だと感じてるんですよ。
なんで危機なのか、これの何がまずいのかっていうことをちょっとここから扱っていきますね。
ちょっと大丈夫です。難しい内容。
難しいけどね。でもさっきのベトベンの話がつながっていくのかなって、なんとなく予感しながら。
なんかね、普遍的なものが多様性によって薄まっていっちゃうじゃないかみたいな。
待ってるのかなと思いながら続けよう。
いきましょう。
お願いします。
小説三分の時代になって何がまずいと、何に危機感をボードレールは感じていたのか。
ちょっと読んでいきますね。
詩作とは、日常言語のうちに詩的言語を定流し組織するという極めて精緻な知的技術であり、
冷感と軽量等を一致させようとする、おそらく完了することのない知的努力である。
って言うんですね。
これちょっと難しいんですけれども。
これだから、詩を作るっていうことは言葉を扱うんだけれども、
その言葉っていうものは日常言語のように見えるんだけれども、
同じ言葉に見えるけれども日常言語と詩的言語は違うんだってことを言ってるんですね。
日常言語のうちに詩的言語を立ち上げる、作り組織するってことを言ってるんですよ。
そういう知的努力があって、詩的言語っていうものは生まれていると。
その詩的言語っていうものは、詩人の冷感と軽量等を一致させようとする、
恐ろしく完了することのない知的努力であると言ってるんですね。
これが、近代詩人が自らのうちに批評家を増するという本当の意味であってってことを言ってるんですよ。
だからボードレールの有名な、
私は詩人をあらゆる批評家中の最上の批評家とみなすっていうね。
詩人の中に批評家がいるって言ったことの意味はこれなんだってことを言ってるんですよ。
近代絵画の時にも使った記憶があるんですけれども、
芸術を作り出す時には、感覚的なもの、もっと言うと冷感なんから、
ただ単に感覚っていう素大なものよりも、もっと微細なものを感じていく、
もっと深いものを感じていくっていう、それを多分冷感って言っていいと思うんだけど、
そういう冷感と一方で軽量って言ってるのは、
知的な部分も入ってるわけね。
こういうものが、ちゃんと両方動いて始めて、
詩的言語が生まれてくるっていう。
っていう風にボードレールは詩の言語を捉えている。
つまり、この三文の時代、小説の時代になってきた時に、
これが失われてんじゃないのかって話になってくるわけですね。
ちょっと読んでみますね。
表現から描写へ
現代は三文の時代である。
詩は三文の攻撃にほとんど耐えられないようになっている時代である。
とは皆様ご承知のことですが、
このことを表現という問題から考えてみたら、どういうことになるか。
これは一般にあまり注意されていないように思われます。
前に、エクスプレッションという言葉は、
元来、物を圧しつぶして中身を出すという意味合いの言葉であることを申し上げたが、
三文では、そういう意味合いでの表現という言葉は、
次第にその意味が薄弱になってきた。
その代わりに、広い意味で、
描写という言葉が使われ出したと考えて良かろうと思う。
表現するのではない。
描写するのである。
言うまでもなく、こういう傾向は、
実証主義の思想がもたらした観察力の重視から来た。
ってこと言うんですね。
現代は三文の時代、小説の時代ですよね。
今もそうですよね。
詩は三文の攻撃にほとんど耐えられないようになったと。
もう詩なんか読まなくなったと。
このことを表現の問題から考えてみたらどういうことになるかと。
前にエクスプレッションというのは、
中身を押しつぶすという意味になったけれども、
三文の時代、三文では、そういう意味がもう薄くなってきたと。
その代わり、何が起きているかというと、
描写ってことになってるんですよ。
小説家たち、三文を書いている君たちは、
表現していると思うけれども、
小林秀夫から言わせると、それは描写なんだ。
表現じゃないんだ。
その描写っていうのは、言うまでもなく、
実証主義っていう科学で、
自然科学の没頭によって観察して、
生地に描写していくっていうことに影響を受けて、
描写ってことになってる。
表現と描写が違うんだって話をしたんですね。
面白いですよね。
面白い。
もうちょっと読んでいきますね。
小説家は、読者に現実の錯覚を起こさせる目的のためには、
手段を選ばぬように見えます。
詩の言葉ですね。
詩語であれ、抽象語であれ、実用語であれ、何でもかまわぬ。
彼は言葉自体の魅力などはほとんど信用していない。
小説家はね。
言葉は彼らの対象ではない。
対象は事物である。
対象の錯覚を読者に与えるために、
言葉という道具を動員するのである。
だから観察の深い浅いということはもちろん別だが、
大小説も見聞を語る普遍人の話と表現の上で本質的な違いはないといえます。
小説の読者は小説の形式の美しさに心惹かれるのではない。
書かれた事件や物語に身を任せるのだ。
葛飾が目に入れば、もう言葉はいらぬ。
勝手に人生の方に歩き出す気になればよい。
詩人は言葉の厳密な構成の中に人を閉じ込めようと努めますが、
小説家は事物の描写や事件の演繹によって文学形式という枠から読者を開放します。
したがってここに驚くほど無秩序な小説が現れた。
文学と絵画に広がる描写の傾向
詩人と小説家の言葉が全然違うんだと。
小説家っていうものは、描く対象のある事件だったり、ある伝えたい物語っていうこっちに重心を置いていて、
葛飾ってことは、その手段に過ぎなくってこと言ってるんですね。
その事件とかをありありと映し出せればそれでいい。
だから描写になってくるんですよ。
でも詩人はそうじゃないですね。
詩人はもっと言葉の持ってる魅力とかを信用してるし、
言葉が持ってる美しさに信用していて、
読者をこの言葉の中に閉じ込めようとするんだってこと言ってるんですよね。
詩人は心とか魂に訴えかけるんだけれども、
小説はちょっと間違えると、頭に訴えるって感じになってくるんだと思うんですよ。
でね、これ面白いのがね、
無論、私は極端を話しているので、
実際には詩と三文とがはっきり区別されて世に現れるものではない。
ボードレールでさえ、ある字作には三文子という名を与えているのですし、
全く詩の性質を含まぬ小説というものはない。
しかし傾向としては、以上述べたようなことは疑いのないようなところであって、
一般の情勢は内的なものに自ら形を与えるという意味での表現というものから、
外的なものをそのまま映し出す描写というものに進んでいった。
ゾラのナショナリズム、ナショナリズムって自然主義なんだけど、
が現れる頃には、絵画の方でも描写の極端なものとして、
アンプレッショニズム、これ印象主義ですね。印象主義が現れるといったようなものである。
そういう芸術家たちがどうして外的な真実を映し出すことに専念し、
映し出す主体の問題に心を弄しなかったかというと、
これは当時の科学万能の思想に裏付けによるのであるというふうに言うんですね。
つまり、絵画も同じように表現から描写に変わっていったんだってことですよ。
文学においては、詩から三文や小説に変わっていくことで、
表現から描写に変わったと。
絵画においても、ロマンガ主義の絵画から写実主義や自然主義っていうふうに、
写実主義はモロですよね。描写するって方に変わっちゃったんだと。
印象主義も、小橋ひとはここで、印象主義は捉え方がいろいろあるんだが、
ここでは、描写するって方の極致なんじゃないかってことを言ってるんですよ。
例えば、モネってものは、あの光を描写してるんですよ。
ってことを言ってるんですね。
すごいね。それが時代と連動してたとは何か。
すごいメタ認知なんだよな。
すごいよね、これで。
科学万能主義の時代から。
どんどん具体とか表面に現れてくる描写的な捉え方に時代が寄ってったっていうのを見つけているってすごいことだなと思いながら。
そうなんですよ。
本質とか内側のエッセンスっていうか、圧縮された命的なもの、魂的なものっていうものに目を向けなくなっていっている大衆はみたいなね、時代はっていうところを捉えてるのか。
すごいですね。
魂に訴えてたものが、頭に訴えるようなものがもてはやされて、時代は。
それが何にも及んでいるっていうね。
あらゆる分野に。
そうなんですよ。
いやーこれだから。
そうなんだよな、表現するっていう時にやっぱりロマン主義の表現はやっぱり凄まじいものがあったんだけど、
デイトーペンを真似して、じゃあ自分も音楽を作りたい、芸術を作りたいってなっても、あまりにも凄すぎて難しくて、これ今度描写に逃げてるっていうことが言えるのかもしれない。
でもその逃げてるとも感じてないんだろうけどね。
この時は科学が没効していって、そっちの方が大事なんじゃないかって、そっちの方がもっと真実を解き明かしてくれるんじゃないかっていうことになってきたから。
でもそれはそれの一つの大事な運動だったのかもしれないんだが、今回このエクスプレッションっていうことに関して言えば、ずれてるよねって言ってるわけですよね、コバイシーティアはね。
そうなんですよ。
空っぽじゃないのかい?みたいなね。
まあでも確かにそうですね。
これ僕も今仏像彫刻始めてね、今年からね。
このシルバーエクスプレッションもひたすらやってたんですけどね。
昨日なんて丸一日やってたんですけど、これ確かに描写に近いですね。
だって下書きするんですよ、まず木に鉛筆で彫っていくっていう。
その仏はさ、自分がその顔を表現してるかというよりかは写してるからね。
だから描写と表現は違うってね、これ結構大事だなと思って。
そんなんですよ。
手段とか目的みたいなところがなんか、手段極めちゃうときってありますよね、でもね。
そうですね、そうですね。
それでね、こういう動きが、19世紀に科学思想っていうものが非常に成功を勝ち得たっていうことがあるんだけれども。
だけれども、この科学の進歩に伴って、科学っていうものは、とはいえごく一部の真理を扱ってるのに過ぎないのではないかってことに気づき始めるわけですね。
ある大きな前提を置いて扱ってるに過ぎないっていうね。
量子力学とか含め、そういうことがわかってきたと。
ってことになってきたときに、今度、科学だけに寄るってわけにはいかないってことに気づき始めたわけですよ。
そうなってくるとどうなるか。
そういう反動期を経た今日とは、そういう反動期っていうのは、科学に進歩してたけど、いや、科学は一部に過ぎないってことから、科学と距離を置けるってことになってきたっていう意味での反動期ね。
自我の問題と現代の表現
そういう反動期を経た今日では、小説家も、もはや往年の自然主義や社立主義の進歩者ではなくなっている。
ということは、ロマン派文学がもたらした自我の問題の重みを、また新しい形でめいめいが追わねばならぬ主義に立ち至っているっていうんですね。
もう一回今度、表現の問題に戻ってきていて、やっぱり自我の問題の重み、自分の内面のことってことにもう一回立ち戻ってきた。
ということなんですね。
もうちょっと言います。
それは、ともかく歴史上に来る反動というものは、決して過去の重荷を取り除いてくれるものではない。
私たちは一旦得たものを捨て去ることはできないように作られている。
これどういうことかっていうとね。
わかりやすいのは、中世の時はそんなに個人の内面のこととかって重きに置かれてないんですよ。
っていう時代から、個人の内面が重きに置かれるってことになってきた時に、もう後に戻ることはできないわけ。
個人の問題がやっぱり大事になってきちゃうわけ。
だから、自分の内面が問題になってきているってこととか、そこに内省するっていうことが捨て去れるかっていうと、もう一度気づいてしまったら、もう後には戻れないってことなんだよね。
だから、中世みたいに形式に戻ろうってしても無駄ですよ。
それくらい個人の表現するっていうことに関して、自我の問題を扱わざるを得ないっていう難しい時代に入っていってると言ってるんです。
これあれですね、19世紀後半の芸術家たちがね、物理学とか自然科学の科学思想に寄った。
現代の僕らは、データサイエンスとかAIとか、そういうものにマインドがコントロールされつつある気がしてるんですよ。
少なからず影響を受けてるじゃないですか。
SNSっていうのもわかりやすくて、自分を他者にさらして、それをまた自分が見るっていう、ちょっと観察するっていう意味では過剰な感じもするし、
こういうことの環境下に置かれて、この表現するってことをどういうふうに自分が新しい形で追わないと、向き合わないといけないのかってことが言えますよね。
それに対してどういう答えを持つのかは、一旦置いておいたとして。
僕らもAIなしでは、ちょっともう語れないところがある。いろんなことが。一旦得てしまうと戻ることはできない。
ありますよね。ちょっと今自分で話しながらあれですけど、ドパ書きとかって言って、ショート動画とかずっと見ちゃう話とかあるじゃないですか。
ああいうものとかって即時的なものになって、だんだん私たちの感覚が犯されていって、小説みたいな長いものを書けて感じるみたいなことに耐えきれなくなってしまってるっていうね。
そういうものの中で表現っていうものも、ある意味ではこのショートショートで短いものでバッて訴えかけるみたいなことに変わったりとかありますよね。
ユクもアリコも。
和泉階段のイメージが。戻れないんだけど、同じ階層にはいないんだけど、和泉階段で時代を巡るのかなと思いながら。
表現するってことがね、もう一回また科学思想を経て、もう一回表現に戻ってきてるっていうね。
それはちょっと、より難しくなっていると言えるのかもしれない。
そうなんだよな。だからこれ今も表現するってどういうことなのかっていうことをもう一回考えてみないといけないんだけれども。
ひとつヒントになるのは、ここから紹介するボードレールの話になるんですよ。
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