今回は、小林秀雄の「表現について」
芸術の領域以外にも、「表現する」という言葉は様々な場面で用いるようになりました。
本文では、ロマン派主義前後の流れを、ベートーヴェンのような音楽家や、画家や文学者たちの運動に触れながら、表現をみていきます。
「表現する」とはどういうことなのか、小林秀雄の言葉を通じて考えていきたいと思います。
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サマリー
小林秀雄「表現について」を読みながら、表現という言葉の語源と、古典派からロマン派への芸術観の変化を考える。古典派が形式を重んじたのに対し、ロマン派では個人の主観や内面を押し出すことが課題になったと説明される。ベートーベンは、教会や宮廷のための音楽を自由な市民の公共財産へ変える、新しい音楽を自らの意思と才能で作った転換点の人物として扱われる。さらに、表現には内省と言葉が必要であり、ベートーベンの作品には音の美と思想・真実の心の均衡があると論じられる。後続のロマン派芸術家たちは自己表現の手段を豊かにした一方、自分の行方を見失い孤立する傾向も生じたとされ、次回以降はロマン派文学へ話を移す。
小林秀雄「表現について」と表現の語源
こんにちは。
今日はですね、小林秀雄さんの表現についてっていう文章を読みたいと思います。
小林秀雄さん、ちょっと一番扱ってますね、たぶんね。
何冊扱ったかな? 最初に、私の人生観ってやつ扱って、
あとなんだ? 五歩の手紙やって、近代絵画やって、美を求める心やって、
たぶんでもそれぐらいか、四つかやって、五つ目ですね、今回ね。
小林秀雄さんお気に入りの表現が。
学ぶことが多くて、私もちょっとどこまで理解できてるか怪しいんですけれども、
表現についてっていうタイトルの文章がありますんで、
これおそらく講演録じゃないかなって気がしますけれども、読みたいと思います。
で、文庫だと考えるヒント3に入ってますね。
ちょっと僕もそこから読んでいきますけれども。
表現について、これがあれなんだよな、内容的には、
そのやっぱ近代絵画の本で扱ったものと結構近しいことが書かれてるし、
あの有名なボードレールの言葉、詩人の中に批評家がいるんだみたいな話とかは、
ここにも出てくるし、あと詩についてっていう文章の中にも出てくるし、
いく度か結構近しい主題が書かれているんですよね。
なので、その辺の本の理解を深めるためにも、結構わかりやすかったですね、今回のやつは。
こっちから先に紹介した方が本当は良かったんじゃないかなって今になって気づいたんですけれども。
扱っていきたいと思います。
内容は表現についてってことだから、表現とは何なのかっていうことを考えてみようっていう回になります。
なんで、えりすさんもワークショップやるときとかに表現を扱ってるし、もろに。
僕も詩を書いたりとか文章を書くときに表現について考えてるし、
もろというと仕事の中で自分をどう表現するかとか、そういうふうにも用いられたりすると思うんで、
そこまで広く伸ばして表現っていうものについて深めてみようと。
いいですね。
小林寺夫さんは、ちょっとここでは歴史になぞりながら、表現というものがどういうふうに生まれてきたのか、そして変わってきたのかっていうことを話していくんですね。
特に音楽と文学において表現というものがどういうふうになっているのかっていう、こういうことを話してくださるんですけれども、
表現もちょっと広い、いろんな意味があるとは思うんで、違う捉え方をしてもいいと思うし、
ここに書かれてないこと以外にもいろんな捉え方があると思うんですけれども、
一つの捉え方として、ちょっと一緒に見ていけたらなと思っております。
じゃあ、早速読んでいきましょうか。
読みますね。
エクスプレッションってありますね。表現って意味ですよね、英語で言うとね。
エクスプレッションの表現という訳語は、あまり上手い訳語とは思えません。
エクスプレッションという言葉は、元来、みかんをつぶしてみかん水を作るように、ものを圧しつぶして中身を出すという意味の言葉だ、っていうんですよ。
エクスプレッション。面白くないですか。
これ言葉は、元来、みかんをつぶしてみかん水を作るように、ものを圧しつぶして中身を出すという意味の言葉だって。
プレッスみたいな。
そうそうそうそう。
プレッスって押し出すってことだよね。
で、Xっていうのは外へってことだから、外へを押し出す、押しつぶすっていうことだよね。
何から外へ行ってるのかっていうと、中から外へ行ってるんだよね。
そのみかんの中にあって果汁が、それを外に押し出していると。
ちょっと読んでいきますね、続き。
古典派の形式とロマン派の表現
もし、芸術の表現の問題が、一般芸術上のロマン主義の運動が起こってきた時から、やかましくなったということに注意すれば、エクスプレッションという言葉のその意味合いを軽視するわけにはゆかぬことがわか
る。
古典派の時代は形式の時代であるのに対し、ロマン派の時代は表現の時代であると言えます。
この表現っていうもののことが、芸術の歴史上、いつやかましくなってきたかっていうと、それはロマン派の時代なんだってこと言うんですよ。
古典派の時代は形式の時代であるのに対し、ロマン派の時代は表現の時代であると言えます。
これ近代絵画の時にもちょっと使った気がしてて、絵も描く対象っていうのが決まってるんですよね。ある意味形式が決まってるって言い換えていいと思うんだけどそれは。
宗教的なもの、聖書になぞってそのシーンを描いたり、時代告知の場面を描いたり、最後の晩餐の場面を描いたりっていう、こういう風になっていると。
そういうものではなくなってきた近代からは、近代からロマン派が生まれてくるんだけども、宗教的なものが画界したときに、今度自分の内面のことを出していくっていうことになってくる。
だから、その時に表現の時代が来たんだっていう話ですね。ここはそうですよね多分ね。もうちょっと読みます。
常に全体から個人を眺めていた時代、表現形式のうちに個性が一様化されていた時代に、何を表現すべきかが芸術家めいめいの問題になったはずがない。
足つぶして出す中身というものを意識しなかった時代から、自明な客観的形式を破って、動揺する主観を足つぶそうという時代に移る。形式の統制のもとにあった主観が動き出し、何もかも自分の力で作り出さねばならぬ
という非常に難しい時代に入るのであります。
っていうんですよ。
その形式古典的な時代、中世の時代っていうのは、そもそも個人を表現するってことが問題になってないんですね。もう書くべきことは決まってるっていうのがある意味常識だったから。
それを今度、そういうのを捨て去って、主観、自分の考えていることを押し出そうとなると、それは非常に難しい時代になったんです。何もかも自分の力で作り出さねばならぬという非常に難しい時代に入ったんです。
ということなんです。
これ、近代絵画の時にボードレールが、彼も死の自立性、死の独立性っていうものを回復させたいっていうふうに思って、それはこれまでの通元上の約束とかルールってものを一回全て破壊してしまわないといけないんだ。
形式をとにかく破壊しないといけないと。そうしないと、本当の表現ってものが出てこないんだっていうことなんですね。
これちょっと読んでて、そのとおりなんですけれども、仮にこれだから、古典派自体は形式の時代で、ロマン派自体は表現の時代っていうから、形式と表現っていうものを分けて考えた時に、
それがじゃあ0-100で形式100の時代から、0-100で100形式表現の時代に変わったかっていう、そういうことではないと思うんですよ、おそらく。
だって古典派の時代にも個性は出てるし、やっぱり何らか表現したいものが入ってると思うんですよ。
なので、重心がどちらにあるかっていう、そういうことだと思うんですよね。
この後ベートーベンの話が出てくるんですけれども、ベートーベンがロマン派の表現の時代の象徴的人物なんだっていうふうに語られるんですけれども、
ベートーベンの前のハイドン・モーツァルトっていう人たちも、やっぱり自分の思いが入ってなかったかっていうと入ってると思うんでね。
私ベートーベンも形式を全く大事にしてなかったかっていうと大事にしてたと思うんですよ。
例えばその後形式とかを使い続けていたしね。
なのでまあまあ0-100じゃないんですけれども、だんだんだんだん重心が主観を圧しつぶすっていうこの表現の方に移ってきたということですね。
ちょっと続きを読みましょうか、そしたら。
ベートーベンが示した自己表現
ベートーベンはこういう時代の転換点に立った天才であった。
青年期にフランス革命を経験した彼には、個人の権利と自由の思想は深く浸透していたのであるが、
音楽を教会と宮廷から脱開して、自由な市民の公共の財産とするためには、単なる観念上の革命では足りぬ。
まったく新しい音楽を実際に作り出さねばならぬ。
表現するとは、己を圧しつぶして中身を出すことだ。
己の脳障を絞ることだ。脳障って脳だね。
己の脳を絞ることだ。
そういう意味合いでの芸術表現の問題に最初に出会い、この仕事を驚くほどの力で完成した人である。
て言うんですよ。
かっこいいっすね。
かっこいい。
そうなんです。
表現するとは、己を圧しつぶして中身を出すことだ。
己の脳障を絞ることだ。
ってことですね。
本当、すごい表現だなと思って。
ほんとだね。
このみかんをつぶしてね、っていう表現といいね。
エクスプレッションではそういう絞り出すっていうね。
足つぶして。
体感がその人とともにピシャーって感じが、
イメージとして鮮烈に来ますね。
ね。
表現に必要な中身と内省
ちょっとこれなんか僕、このメタワーを感じたとき、
ドキッとしたのは、
みかんの中がね、かすかすだとね、出てこないんですよ、足つぶしてもね。
辛い辛い。
分かります?
だからやっぱ中身が詰まってないと、物凄い良い表現は出てこないみたいな感じがしてくるじゃないですか。
違う取り方もできると思うんですけどね。
でもこれ表現の語源から言うとそういう感じがしてくる。
だから何もかも自分の力で作り出さねばならぬという非常に難しい時代に入ったのでありますっていうのはそういうことだと思うんですよ。
自分のこの中身が問われてるっていうね。
ほんとね。
恐ろしいですね。
そうですね。
ちょっと表現にもいろんなね、次元があっていいと思うんで。
でも偉大な作品を残すってことになると、やっぱり己の中身を足つぶさないと出てこないんじゃないかっていうね。
ちょっと続き読みますね。
はい。
ここで忘れてならぬのは、
ベートーベンは自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であったが、
自分の意思と才能との力で新しく作り出すところは、また万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱いたということです。
って言うんですよ。
ちょっともう一回話すとね。
表現するっていうことがね、足つぶして中身を出すことだって。
これを初めて出会って、完成させた人がベートーベンだっていうふうに言ってますと。
ここで忘れてはならぬのは、ベートーベンは自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家だったと。
うん。
これいいですよね。
だって、そういうふうにしないと、当時の教会とか宮廷に流れてた音楽じゃなくて、
もっと自由な市民の公共財産にしないといけないっていう革命を起こしたかったから。
そうなってくると、自覚的に新しい表現、新しい芸術っていうのを作ろうって自覚してたからね。
うんうん。
自覚した人、音楽家だった。
自分の意思と才能との力で新しく作り出すところは、また万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱いていたということです。
不…
不抜。
不抜っていうのは、かっこたるってことですね。
かっこたる。
うん。
この音楽を作ることが万人の宝になるっていうことを信じてやっていたと。
うん。
うん、いうことですね。
これだから、結果的に、その…これ芸術家作家のあるあるだと思うんですけども、
結果的に、その素晴らしい作品が生まれてくるってことがあるとは思うんですけれども、
うん。
やっぱ自分の意思で作るっていうことと、たまたまできたってことは、これ運命の差があると思っていて。
うん。
ベートベンは自分の意思と能力で、意思して作ったんだと。
うん。
うん。いうことがすごいことだと。
うん。
うん。
っていうことですね。
だから、これちょっと、もうちょっとだけ読みますと、
個人の独創により普遍的人間性を表現しようとする19世紀理想主義の権下たる点において
ベートーベンは文学の世界で言うならゲイティア・バルザックに必須的、軽裕な芸術家だったのであって
そういう人たちが実現した具体的な反省を思わずに、反省って手本ですね
思わずに、芸術表現の問題を論じても仕方ないのであります。 彼らが残した芸術表現の反省は
誠に及びがたい考証にあるのでありまして、その後ロマン派芸術家たちはいよいよ表現の問題に苦しむようになったが
誰にもこれを突破して済むことはかなわなかった。 彼らの表現はむしろその頂上から次第に転落し分裂していったように思われます
ていうんですね。これくらいベートーベンが 及びがたい考証にあって、以降の芸術家たちはもうそこから転落していった
ように思われるっていうぐらいベートーベンは頂点にいたんだと
言ってるんです。 圧倒的存在だった。 圧倒的存在ですね。
時代時代でそういう人が出てくるんですね。 表現ってことを考えるとやっぱりこのベートーベンのこの動きってことは外せないでしょう
ということで紹介しているんですけどね。 まぁちょっとこの後またベートーベン引き続きやっていくんですけれども
そうなんです。これなんで 他の芸術家、ベートーベン以降もいろんないい芸術家が生まれているのに
頂上から次第に転落していったってどういうことなんだっていうね。 これちょっともうちょっと読んでいくとだんだんわかってくるんですけれども
うん
一旦ここまでね。
いいですね。
じゃあちょっともうちょっと深入りしていきましょうか。 読んでいきますね。
はい 個性や主観の重視は
各人に 特殊な心理や感情や思想の発見とその自覚を生む
己の生活経験に関する独特の解釈とか批判とかが必要になってくる こういう仕事をやるのに最も便利な道具は言うまでもなく言葉という道具です
したがってロマン主義の運動はまず文学の上に開花したのであるが やがて音楽もこの影響を受けずにはいない
って言うんですね
これ その形式の時代から個人の主観を足つぶして表現していくっていう時代に変わった時に
それを言い換えると個性や主観の重視ということなんですけれども 個性や主観の重視は
各々に 心理や感情や思想の発見とその自覚を生むと
自分が何を感じて どういう思想を持っているのかってことを自覚できないと
それを表現できないだろうということですね だから己の生活経験に関する独特の解釈とか批判とかが必要になってくる
自分が日々いろんな経験していてこれはどういうことなのかってこととかを自分なりに捉えたりとか深めたりとか
そういうことが起きてこないと思想の発見ができないし 思想が含まれることがないから
そういうことが必要になってきますね そういうことをするときに
必要なものは言うまでもなく言葉ですと 言葉でいろいろ考えたりするからね
したがってロマン主義の運動はまず文学から生まれたんだと
いうふうに言ってるんです 近代絵画の本でも一番最初にボードレールを持ってきたのは
あれも画家たちの烈伝なのになぜ画家ではないボードレールを持ってきたかっていうと
その革命の運動 近代化していく革命の運動はまず詩人のうちに現れたんだってことを言っていて
同じことなんですけれども
ってことですね 内省しないといけないから
表現するには 内省するに言葉を扱うから文学が一番最初にこういうロマン主義の運動が現れてきた
で音楽はそれの影響を受けたんだっていう もうちょっと読みますね
ちょっと待ってください これから
そうなんだよなぁ これが結構大事なことが書かれてあると思っていて
本当にいろんな取り方あってもいいんだと思うんだけど 表現しようと思うならば
自分の思想がまずないとそもそも表現できないんですよね 中身がカスカスになる
うんうん
そう 思想ってどうやってたまっていくんだろうって今思って
そうだよねー なんか感じていることの
思想にどう熟して なんていうか感じていることの連続が
熟していくと思想になるのかなとか そうだよねー
ちょっと 果実の中でオレンジの中で何が起こってるんだろうみたいな
そうだよねー 思いが追い上げますね
大事な問いですね
ちょっと続きを読んでいきますと
音の美と言葉の真の均衡
かつて 音という普遍的な運動の中に溶け込んでいた音楽家の意識の最重要部が
言葉の攻撃を受けるという主義になったことになったということですね こういう攻撃に耐えるにはよほどの力がいる
今日から見て米東弁が古典派とロマン派との間を結ぶ大天才と移るのも音と言葉 音の運動の必然性がもたらす美と観念や思想に関する信念の
生む神との間の驚くべき均衡を私たちは彼の作品に関せざるを得ないからであります
もう一回読みますとね
かつて音という普遍的な運動 って言うんですよ まあちょっと普遍的な運動ってなんだって感じるかもしれないんですけれども
その まあでも音ってすごいんですよ音っても
その それだけで美を持ってるんですねうんうん
そうで そういう美に溶け込んでいってた音楽家の意識が
言葉の攻撃を受けるような主義になった って言うんですよ
それはさっき話した通り 表現という時代に変わって
自分音が内省して 反数してってことになってくるから
言葉の攻撃を受けるんですよ いやその
ベートベンさんなんでその作品作ってるんですかって どういう思いで作ってるんですかってこととか聞かれちゃうわけ
言葉で返さないといけないわけちゃんと そういう言葉の攻撃を受けるんですよ
うん でこういう攻撃に耐えるにはよほどの力がいると
今日から見て ベートーベンが古典派とロマン派との間を結ぶ大天才と移るのも
音と言葉の均衡を保っているって言うんですね 音の運動の必然性がもたらす美と
観念や思想に関する信念の産む心 これ心って心前美の心なんですけど
これ連動してるんですね 音イコール美
それに対して 言葉イコール
心 真実の心
この間の驚くべき均衡を 私たちは彼の作品に感じざるを得ないからであります
だから大天才なんだって言っちゃうんですよ
こういう捉え方をしたことがないんですけれども こうやって歴史を見るとそういうふうに言えるだろうと
小林さん言ってるんですよ
音と言葉 美と真の均衡
これ美だけに寄っちゃうと
難しいですね どうなんだろうな
音は募ってるけれども どこか
生きた人間の叫びが入ってない感じというかね
逆にじゃあその 真 言葉の方にだけ寄っちゃうと
人生はこうあるべきだとかね ちょっと積極さくなってたりとかしちゃったりもする
この見事な均衡ってものが 必要なんだと思うの次第になってくるとね
中世の時は そもそも
内省するってこととかがなかったし言葉の攻撃を受けるってことがなかったから 美しい音楽を奏でたら美に寄っててよかったんだけども
もはや 信じる宗教が消え去った近代
人間の主観理性を重んじる時代に入ってきた時には もう言葉の攻撃が受けてしまう時代になってしまったから
この両方が見事に均衡しないといけない時代になってしまったと いうことですね
もうちょっと続きを見ますね
ベートーベン以後のロマン派芸術家
そしてこれがどんなに常人の及びつかぬ力技であったかは
彼の後に来た豊かな才能を抱いた多くのロマンハ音楽家の苦しみを見れば 芽点が行くのである
ベートーベンにおける 個性や主観の強調は大工シンフォニーの喜びの参加という信念に保障されている
ただこの信念の正しさはベートーベンという一個の天才の力によって支えられていたのであって
かつての教会という社会的な組織の力によってではなかった そういうところに歴史というもののどうにもならぬ
善酷な動きがあるのでありまして 彼の後に来た者は既に失われたこの天才の力を再び取り上げようとして
その力の不足を断ぜざるを得なかったということになったと
ですね
なるほどいや憧れたなぁ中世の音楽ってまだ その教会とか宮廷が雇って音楽が生まれてたわけですよね
そのハイドンにしてもモーツァルトにしても その
まあ ブリーサンスとかもうあの辺も結局は
富の格差がたくさん生まれてその持っている貴族たちっていう人たちが芸術にお金を 突っ込んでいった時代でもあって
でそういう貴族たちは自分で料理人雇ってみたいな話の中で まあまだあの時代はそんな
cd 流すとかステローとかもないしだから音楽家を雇って 自分の夕食とかにかけたりとか
でまぁミサとかもやってただろうからそういう時に音楽 必要だしっていうので雇っていた
だからそのそういう時代っていうのは音楽が生まれる そのシステムがあるわけですそうやってお金を作ってくれる人がいて
っていう そういう
まあで皆がキリストを信じていてっていう そういう教会とか社会的な組織の力によって音楽ってものが支えられていた
歴史があるんだけれども 彼はそういう力によって生み出したんじゃなくて
もう丸々1個の天才の力によって作り出したっていうね こと言ってると
相当すごいですね
すごい もうちょっと続きを見ますね
ちょっとさっきのあれだな 戻って読むと彼の後に来た者はすでに失われたこの天才の力を再び取り上げようとして
その力の不足を嘆ぜざるを得なかったということになった いや到底及ばないということになった
自己表現欲だけはいよいよ盛んになり 複雑なものになりまたその表現手段としての和製的規格の形式も豊富なものになったが
自己の行方は次第に見定め難くなり おのおのがおのおの独自の幸福や不幸を抱いて孤立していくという傾向をたどったのでありますと
いうんですね こう今にも通じてそうですね
自分の表現欲はいよいよ盛んになり複雑なものになり なってますよね
また表現手段もいろんな音楽が生まれて楽器が生まれてきて いろんな音楽理論も生まれてきて豊富になったんだけれども
自己の行方は見定め難くなり 結構になっていってると
言ってるんですね ちょっとねそういう流れをたどっていったっていうことが
ロマン派文学への展開
ロマン派主義の動き そして表現が生まれてきた原点みたいなものでした
ちょっと引き続き表現扱っていきたいんですけれども ここからは
さっきベートーベンの例で話してきたんですけれども 文学の方にちょっと話を切り替えていきたいなと思ってるんですよ
文学のこのロマン派の文学っていうものが今度どういう風な道をたどるに至ったか
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