1. 宮本雅史が語る 特攻隊と女性たちの戦後
  2. 第1話 婚約者との1年の文通..
2022-04-01 16:18

第1話 婚約者との1年の文通と長い戦後

先の大戦末期の昭和19年10月から昭和20年8月まで、日本軍は航空機などで敵艦に体当たりする特攻作戦を行いました。特に米軍が沖縄本島に上陸して以降は、10代、20代の若者が鹿児島県内の基地から沖縄近海へ出撃しました。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、終戦までに6418人が戦死したとされています。

産経新聞の宮本雅史編集委員は、元特攻隊員や遺族への取材を20年以上続け、多くの証言や知られざる事実を記事化してきました。これまでに連載された特攻隊に関する記事のうち、女性に焦点を当てたドキュメントを3回に分けて音声コンテンツで配信します。語りは宮本編集委員が務めます。

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林義則と小栗楓子の出会い
産経Podcast 特攻隊と女性たちの戦後
大東亜戦争末期、日本軍は特攻作戦を行いました。
祖国を守るため、多くの若者が命を失いました。
これは、特攻隊と残された家族や関わりのあった方々、
特に女性たちの戦後に焦点を当てたドキュメントです。
語りは、長年、特攻隊員の遺族への取材を続けてきた
産経新聞記者の宮本雅史です。
宮本記者は、昭和28年、和歌山県へ生まれ、
事件記者として東京地検特捜部を担当し、
政治家の汚職事件などで数々のスクープを放ってきました。
外国企業による日本国内の土地買収問題を発掘したことでも知られています。
第1話は、特攻隊員の婚約者。
1年の文通と長い戦後です。
彼女の名前は小栗楓子さんと言います。
子先上は楓子さんですが、楓ちゃんと我々は呼んできました。
ご本人も楓でいいというふうにおっしゃっていました。
幼馴染の特攻隊員というのは林義則さんであります。
当時は将尉でありましたが、亡くなった後は隊員になられております。
当時、楓さんは25歳、林さんは24歳でした。
林さんは鹿児島県の千蘭飛行場から特攻隊員として出撃、
沖縄近海で産芸します。
昭和19年3月23日。
岐阜県上野郷村の村役場で戸籍係をしていた小栗楓さんは、
小学校の同級生だった幼馴染の男性と再会します。
男性の名前は林義則さん。
林さんは戦闘機の操縦士の訓練で満州に行くことが決まり、
不仁の挨拶のため役場を訪れていました。
楓さんは懐かしさの余り、別れ際に思いを込めた短歌を書いた紙切れを渡します。
大空を射たてと駆ける勇士にも、
いとけなき日の面影残ると読んだ紙切れを楓さんに渡したそうであります。
二日後、電報が届きました。
電報には、我戸に尽く、君幸あれ、吉典と書かれていました。
これをきっかけにして、ほぼ一年間にわたる二人での文通が始まったわけです。
二人は手紙だけのお付き合いでした。
言うのもしておりません。正式な婚約をしたわけではありません。
しかし、楓さんと俳優さんとのやりとりなどを見ますと、
二人の文通の始まり
私だけでなく事情を知る人たちは、楓さんのことを婚約者と呼ぶようになりました。
私が楓さんと初めてお目にかかったのは、もう二十年ほど前であります。
今でも鮮明に覚えております。
岐阜県の山間部にありますご自宅の一室は、何十年も変わっていないと言いました。
戦後、子どもたちに書道を教えてきたので、書道の道具はありましたが、
部屋の壁には、日本刀を片手に、九十九式襲撃特攻機です。
祈り込む俳優さんの写真と、そばには遺牌がありました。
インタビューはだいたい四時間ぐらいかかりましたが、
彼女が、楓さんが、この間何度も繰り返したのは、
私たちはあの人たちのおかげで生かさせてもらっている。
あの人たちの分も一生懸命生き抜かなければいけないと、
こう言って部屋の家に何度も手を合わせておりました。
お話をだいたい聞き終わった後、
ちょうど私が楓さんに会った日は、
楓さんの命日でしたので、お墓参りをさせていただこうと、
させてほしいと頼みますと、
宮野さんお墓参りしていただけるんですか?
楓子の夫として生きた林義則
ありがとうございます。少しお待ちくださいね、と言って腰を上げました。
何をするのかな、と。
10分ぐらいでしょうか、経つと帰って戻ってきました。
その時、彼女の姿を見た私は驚きました。
装い着の着替えた上、薄化粧をしていたのです。
二人でそのままお墓にお参りしました。
お墓は山の中にありました。
その日は大雨で雨が降っていました。
山の中にありました。
その日は大雨で、タクシーを呼んで途中でお花を買って山に入りました。
楓さんはお墓に着くとすぐ車を降り、傘もささないでお墓のそばへ行きますと、
お墓を撫でながら、東京からこういう人が来ましたよ、
あなたのことを話してほしいと。
私は全部喋りましたよ、と彼女は言いながら何度もお墓を撫でているんですね。
お参りした後、もう一度楓さんのご自宅に戻りまして、話をさせていただきました。
彼女がその時も繰り返したのは、あの人たちのおかげで、
そして私はあの人と会って、彼が出撃して亡くなるまでの一年間が私の人生の全てでした、
ということを何度も繰り返しておりました。
楓さんと林さんの文通が始まりました。
二人は手紙を通じて心を通わせますが、そのやりとりが途絶える日がやってきます。
文通の始まり
手紙は最初は軍隊長の簡潔な文面で、甘い言葉なんかは一言もなかったみたいです。
楓さんは文言から林さんの居所を推測し、地図とにらめっこしながら一緒に空想の旅を始めます。
楓さんも居場所をそれとなく知らせるように、例えば神社の鳥居の前で写真を撮ったり、
自分がどこにいるのか推測できるような方法で手紙に託したようです。
手紙のやりとりは頻繁になり、いつしか軍隊長の簡潔な文面だったのが会話しているような文面に変わったといいます。
その時の気持ちを楓さんは私に一緒に暮らしているような気持ちになったというふうにおっしゃっていました。
林さんから楓さんに求婚の言葉は一言もありませんでした。
ただ一度だけ、ワイフというのはありがたいものだなと書かれていたそうです。
楓さんの最後の手紙が届いたのは、出撃直前の昭和20年4月末のことであります。
いよいよ今日、出撃する。この5年を読んで、何も言うことなし、よく耐えてくれたお前の心を大切に持っていく。
君やりて、我幸せなりし、体を大切に、静かに平和に暮らしていることを祈る。
楓さんはこの手紙を読んだ時に、ああもうこれで最後だなと思ったと私に話していました。
そして彼女は私にこう言いました。私が本当に生きたのは昭和19年3月から20年4月までの1年でした。
林さんは生前、遺品を楓さんに渡すことを望んでいました。
そして楓さんは仕事の上でも林さんの死と向き合うことになります。
林さんの遺品が戻ってきたのは20年の4月の末です。冬用の軍服と時計にカメラ、満州で撮った写真、遺品と一緒に両親宛の手紙も仕立てられていました。
手紙にはこう書いていました。楓はよく手紙をくれて励ましてくれた。詳細がいなくなると当分は寂しいと思うから、楓までよく慰めてあってください。写真機と時計を楓に渡してください。
時計はいつも楓さんは手に巻いていました。時計の針の音がタイのハエさんの鼓動のように聞こえたそうです。
彼女は、残されし時計の刻む針の音は脈拍のごとく胸に伝いきと呼んでおります。
実は私がインタビューしているときに彼女は、宮本さんこれは何かわかりますかと言って私に指輪を見せたんですね。
その指輪は銀製で百合の花が刻まれていました。
聞きますと、手紙のやり手の最中にハエさんが日頃使っているシガレットケースを送ってきたそうであります。
お返しにと当時使っていた指輪を楓さんは送り返しました。
その指輪が遺品の中、遺品として戻ってきた冬用の軍服のポケットに入っておりました。
百合の花はつぶれていました。
彼女は私にこう言いました。出撃するとき持って行ってくれればよかったのに。
でもこの指輪があの人と一緒に動き、そして手元に戻ってきたなと思うと、あの人のぬくもりが伝わってきますと私に涙ながらに話しておりました。
昭和20年10月、戦死広報が届きました。
役場で戸籍係りをしていた楓さんは自分の手で林義典の文字の上に戸籍抹消の手銭を引きました。
楓さんの後半生
亡き人の数に入るかは今日よりは戸籍の手銭胸に致しもう。
楓さんは松ごろ水を取ってあげる気持ちで手銭を引いたというふうに振り返っておりました。
楓さんは戦後一度だけ結婚しますが昭和34年に離婚しています。
楓さんはかつて宮本記者の取材に、あの人のことを思う気持ちでいっぱいで、あの人のことを考えるだけで幸せでした。
と答えています。
晩年は養護室に入られました。何度かお目に隠りました。
その時に彼女が私にこう言ったんですね。
あの人たちはどうして死んでしまったの?私はあの人のおかげで生かさせてもらっている。
でも今の日本を見るとかわいそうで仕方がない。
あの人たちは何のために死んだのかしら。
今の日本人はあの人たちの思いと姿を忘れてしまったのかしら。
悔しさが出てきて感じました。
初めて会った頃は、あの人たちのおかげで生かさせてもらっている。
生き抜かなければいけないという前向きだったんですね。感謝の気持ちと。
ところが晩年は何であの人たちは死ななければいけなかったのか。
あの人たちの最後の姿を今の日本人は忘れてしまったのかというふうに
不平とも不満とも言える言葉を私の前でおっしゃっていました。
2015年夏、宮本記者は入院していた楓さんのお見舞いに行きました。
これが最後の面会になりました。
そして宮本記者には一つの役割がありました。
楓さんから自分の骨はあの人のいる沖縄の海に沈めてほしいと頼まれていたのです。
婚約者との1年の文通と長い戦後
食事が喉を通られなしく点滴を受けておりました。話もできない状態だということでした。
もともと小柄でしたけれども体重は25キロでした。
布団にくるまっている小さな体が楓さんを見るとまるで子猫のようでありました。
楓さん、私が声をかけますとうっすらと目を開け、私の顔を見ると手を合わせるのですね。
楓さんの名前を呼びながら準備していた林さんの写真を見せると
彼女はそれまでうとうとうしていた目をカーッと見開いて奪うように写真を手にして
食い入るように写真を見ていました。目はうっすらと涙を浮かべ
一言も喋らないのに私の方を見てありがとうと言ってまた手を合わせたのです。
それから数日後、楓さんは亡くなりました。
本当の約束の通り私は楓さんのご遺骨を沖縄の海に産骨させていただきました。
私は今でも手のぬくもり、彼女の手のぬくもりを覚えています。
宮本さん、私が死んだらお骨は沖縄の海に沈めてほしい。
死んだらあの人を探しに巡礼の旅に出るの。あの人に会えるかしらと私に問いかけました。
沖縄の太陽の日差しを浴びながらキラキラと沖縄の海に散る楓さんのご遺骨を積みながら
長かった楓さんの戦いとそして戦後は終わったのだと感じました。
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