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2022-11-07 05:41

加藤登紀子さん(2)夢とロマンで路頭に迷わす父

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 平成4年、父、幸四郎さんが82歳で亡くなったとき、遺骨をスンガリー(松花江)に流した。登紀子さんの生まれ故郷で、両親がこよなく愛したハルビン(現中国東北部の都市)を流れる川である。ロシアの専門家を養成する哈爾濱(ハルビン)学院出身の父の夢は「ハルビン発パリ行きの列車に乗る」ことだった。
加藤さんが当時を振り返る。

 「父は、お酒が好きで、歌が好きで、何より人間が大好きな人。戦後、引き揚げてきて、レコード会社に勤めたり、興行師になったり、ロシア料理のレストランを始めたり…どんどん何かをおっ始める、怒濤のように切り開く、そして家族を路頭に迷わせる(苦笑)」

加藤さんが、自らの反省を回顧する。

※このエピソードは、2016年に産経新聞紙面に掲載された「話の肖像画」を、加藤登紀子さんの次女である、半農半歌手の Yae さんが代読したものです。

加藤登紀子プロデュース『Yaeコンサート2022「for you」今、あなたに伝えたい @東京・渋谷伝承ホール』が11月10日に開催されます。
詳細はこちら(リンク)

■加藤登紀子(かとう・ときこ)
昭和18年、ハルビン(現・中国東北部)生まれ。東大文学部卒。在学中の40年にシャンソンコンクールで優勝。41年「赤い風船」でレコード大賞新人賞、46年「知床旅情」で同歌唱賞。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」などヒット曲多数。女優、声優としても活躍した。

■Yae(やえ)
昭和50年、東京都生まれ。加藤登紀子さんの次女。平成13年に歌手としてデビューし、 NHK「みんなのうた」や人気ゲームソフトの主題歌などを歌唱。代表曲「名も知らぬ花のように」は東日本大震災応援メッセージソングとして採用された。現在は、千葉県鴨川市の「鴨川自然王国」でスローライフを送りながら音楽活動を続けている。

 


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父高志朗の人生
話の肖像画 歌手 加藤時子
夢とロマンで路頭に迷わす父
1992年、父高志朗が82歳で亡くなった時、遺骨を松果港に流した。
時子の生まれ故郷で、両親が子よなく愛したハルビンを流れる川である。
ロシアの専門家を養成するハルビン学院出身の父の夢は、ハルビン初パリ行きの列車に乗ることだった。
父はお酒が好きで、歌が好きで、何より人間が大好きな人。
戦後、引き上げてきてレコード会社に勤めたり、工業士になったり、ロシア料理のレストランを始めたり。
どんどん何かを追っ始める。
怒涛のように切り開く。
そして家族を路頭に迷わせる。
母はいつも父の男のロマンの尻拭い役。
給料は飲み代に消えちゃうし、突然引っ越すと言い出したり。
母の世話にならないと宣言していたレストランも、結局は母が切り漏りすることに。
母は気丈で凛としていて、我が家の船長役。
沈めるわけにはいかないから頑張る。
母がいなければうちはとっくに家庭崩壊していたでしょうね。
時に壮絶な夫婦喧嘩もしましたけど、母は結構面白かったわよって。
歌手になるきっかけを作ったのも父だった。
甲子郎はハルビン時代イタリアから来たプロのバリトン歌手に個人レッスンを受けていたほど歌が大好き。
戦後は京都で新人歌手を養成する歌謡学院を主催。
小学生だった時子はその同様の部に通った。
そして東大3年の時、アマチュアのシャンソンコンクールに父が勝手に応募してしまう。
1964年、東京オリンピックの年でした。
加藤時子のデビュー
重商商品がヨーロッパ旅行。それに釣られたんですよ。
だって個人の海外旅行が自由化されたばかり。
簡単に外国へ行ける時代じゃなかったですからね。
でも最初の年はピアフの歌を歌って審査員からダメ出しをされ、結局4位。
次の年は父と必死で作戦を練り、ピアフのような大御所の歌はやめようとなった。
そして当時流行っていたフレンチポップスのような曲を選んで優勝。
ヨーロッパ旅行を楽しんだ後に歌手デビューが決まったのです。
だから私の場合、父にハルビンハズ、パリ行きの列車に乗せられたという感じかな。
甲子郎は旧正高校などの寮家も大好きだった。
歌手になった時子に寮家を歌わせたくて、
寮家は男が歌うものだという旧正高校OBの反対を押し切って、
47年に日本寮歌集のレコードを企画、ヒットさせている。
旧正3校、京都の美和子集校の歌は今も歌い続ける代表曲の一つだ。
父はね、70歳を過ぎてから一人で世界中を回り、
南アフリカの音楽がすごいって教えてくれたり、
美味しいものを食べて、お酒を飲んで、歌って、踊って、
人が一番輝いている時が好きだったのね。
話の肖像画
ありがとうございます。
今回語りを担当していただいた加藤時子さんの次女で反応半歌手の八重さん。
コンサートが2022年11月10日木曜日、東京渋谷の伝唱ホールで行われます。
タイトルは、「八重コンサート2022 加藤時子プロデュース for you 今大切なあなたに伝えたい」
詳細は概要欄のリンクからご覧ください。
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