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戦後史開封)
ライバル物語
ドリフト対コント55号
ナビゲーターは、内田謙介です。
徹底したネタとセット作り
頂点のドリフト
挑む金ちゃん
新たにスタートした8時台を全員集合で
ザ・ドリフターズと番組スタッフは
作り込まれたコントを目指した
目標は丸一日かけて番組ディレクターや作家などと
翌週のコントのネタ作り
作家が書き上げた台本がそのまま通ったことは
一度もない
どこが面白いの?これ
唇を切るのは多くの場合
イカリやチョウスケだった
誰かが新しいネタを提案するまで
沈黙が続く
おも苦しい雰囲気の会議はほぼ毎回
深夜まで続いた
番組制作に13年間携わった
フルやアキツナは
僕の中では全員集合は
イベントを仕掛けてそれをテレビ中継するという
感覚だった
会場に詰めかけた2000人を笑わせよう
そうすればブラウン管の向こうでも
笑いが起きているはずだと
そのためのネタ作りは徹底してやった
と語る
金曜は翌日のリハーサル
土曜も本番ギリギリまで稽古を続けた
それでも視聴率は10%台
コント55号は
まだ遠く離れたところにいた
全員集合の
初代プロデューサーだった
一つの仕掛けを用意する
当時TBSの人気ドラマだった
銃道一直線
キーハンターの出演者に
3週にわたってゲスト出演してもらうという
残りの1週は普段通り歌手のゲスト
これで視聴率が下がるなら
全員集合はそれまでの番組だ
悲壮な決意で挑んだが
視聴率は4週とも20%台を獲得した
いづくりは
作り方が間違っていなかった
と自信を深め
番組開始の1年3ヶ月後には
視聴率が10%を超えるまでに成功した
頂点を極めた2つのグループ
しかしコント55号は
40年代後半になると
03:00
息切れし始めた
全員集合と同じ時間枠だった
コント55号の世界は笑うわ
45年3月で打ち切り
萩本錦一は46年にスター誕生で
初めて一人で司会にチャレンジし
一方の坂上二郎は
テレビドラマへの出演など
俳優や歌手としての歩みをスタートした
個人活動を始めた萩本と
後にテレビ朝日で仕事をした
人杉武夫は
金ちゃんは家庭向け番組の司会などをしながら
茶の間のテレビがどういうポジションにあるのか
改めて考えていたのではないか
金ちゃんの番組ではほんわかした笑いを作り
下ネタは絶対にやらなかった
と語る
その萩本は50年4月にスタートした
金ちゃんのドンとやってみように
勝負をかける
AMラジオの日本放送で萩本がやっていた
視聴者から送られてくるギャグの
葉書きを読む番組を
テレビに持ち込みたいと
世界は笑うの時のプロデューサー
ときたくにこに持ちかけ
そのまま番組化された
放送時間は全員集合と重なる
土曜7時半から
9時だった
お相手は内田健介が
三景新聞社がお届けする
戦後紙開封
最後までお聞きいただき
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