昭和41年7月3日午前10時43分、ビートルズは五日間の日本滞在を終え、羽田空港を飛びたった。高速で羽田へ向かう途中、4人は黒塗りのキャデラックの天井に、マジックで思い思いにサインを書いた。
ビートルズの来日直前、30万円で購入されたこの中古車はその後、あるアメリカのロック歌手のコンサート・チケットを発売した際の“賞品”となり、幸運なファンの手にわたるが、彼らが残していったものはこのサインだけではなかった・・・

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00:01
戦後史開封
ビートルズが日本にやってきた
最終話、彼らが残したもの
ご案内役は私、ナレーターの小杉和則がお届けします。
昭和41年7月3日午前10時43分
ビートルズは5日間の日本滞在を終え
羽田空港を飛び立った。高速で羽田へ向かう途中
4人は黒塗りのキャデラックの天井に
マジックで思い思いにサインを書いた。
ビートルズの来日直前、30万円で購入されたこの中古車は
その後あるアメリカのロック歌手のコンサートチケットを
語るが、彼らが残していったものはこのサインだけではなかった。
音楽雑誌ミュージックライフの編集長だった
星香留美子はこう語る。
当時、ロックを聴いたりエレキを弾いたりする若者は
大人から非公、不良扱いされた。
でもビートルズが日本に来て歯止めがきかなくなり
男の子は平気で髪を伸ばしたし
音楽面ではグループサウンズがブームになった。
他にもステレオの普及やコンサートの音響設備の向上など
様々な波及効果をもたらしたと思う。
ビートルズ来日直後の41年7月、ブルーコメッツの
青い瞳が50万枚を突破するヒットとなり
青い日が泣いているが続いてグループサウンズブームに火を付けた。
ブルーコメッツのギタリストだった三原恒樹はこう振り返る。
それまでブルーコメッツはビートー伊沢さんや
中尾美恵さんなどの伴奏バンドをやっていた。
僕らに限らずその頃は歌手とバンドが分かれていたし
人気があったのはベンチャーズ風のエレキインストルメンタルのバンド。
ビートルズのように自分たちで曲を作り
歌もコーラスも演奏もやるというスタイルはなかった時代で
日本にもビートルズみたいなものを作ろうと
メンバーの井上大輔が曲を作った。
それが青い瞳だった。
03:02
タイガースの澤田賢治も
グループサウンズはみんなヘアスタイルでもなんでもビートルズの真似をした。
僕らも日本のビートルズになれるかなと話し合っていたという。
だがグループサウンズブームの陰で葛藤もあった。
スパイダースの釜矢津博史はこう打ち明ける。
夕日が泣いているは僕らが目指している音楽じゃなかった。
本当にやりたかったのは少しでもイギリスのリバプールサウンドなどに近い
もの。
でもそういう曲は日の目を見なかった。
どのバンドもグループサウンズという衣を着て中身は歌謡曲だった。
その方がビジネスになるし人気が出るから。
だから消えるときはいっぺんに消えていった。
グループサウンズブームは42年から43年にかけピークを迎え
テンプターズ、ジャガーズなどデビューしたグループは100を超えたが
46年1月のタイガース解散で完全に幕を閉じる。
ビートルズがラブミードゥでレコードデビューしたのは37年10月。
日本では39年2月に東芝から発売されたシングル
抱きしめたいが最初だったが誰もがすぐ飛びついたわけではなかった。
当時東芝音楽工業の洋楽ディレクターでビートルズを売り出した
高島博之はこう語る。
私自身初めてビートルズを聞いたときはそれまでのサウンドとは全く次元が違い
エイリアンの音楽を聞いているようだった。
しかも当時は洋楽の主流はアメリカの音楽でイギリスはマイナー
だから放送局の人に聞いてもらっても訳がわからないと乗ってこない。
発売当初の売上は5万枚ぐらいだったと思う。
そこで高島はあの手この手を駆使する。
ある日若い東芝の社員4人をとにかくビートルズを売らなきゃいかんからと連れ出し
東京五段田にある高島行きつけの利用室へ行った。
紙を短く借り上げ七三に分けた4人を待っていたのは
ビートルズのマッシュルームカット風の挑発活だと
高島が親しくしている某スポーツ師のカメラマンだった。
06:02
翌日カツラをかぶり鏡に向かって散髪する4人の写真が
早くも現れたビートルズカットの若者の見出しとともに紙面を飾った。
銀座のあるテーラーにはビートルズのトレードマークだった襟なしスーツを作らせ
社員に着せて銀座4丁目を更新し
ノーブルキャッスルのブランドで全国一斉発売も
それに飽きたらず今度はラジオの電話リクエスト番組の集計係に
高校生3人を潜り込ませる。
聴取者からローリングストーンズをお願いしますというリクエストが来ても
その場でビートルズに化けた。
その高島もビートルズは時代の流れに乗りながら
ビートルズは時代の流れに乗り流れを作ったという。
日本ではビートルズ世代の中核は段階の世代だった。
法政大学の教授だった中野治はこう分析する。
段階世代のビートルズマニアにとり
ビートルズは自己表現と反抗のメディアだったと思う。
大学紛争の中盤から後半に登場してきた学生たちも
ビートルズ世代と重なり学生もマニアも
体制や規範に対する反発、不快感では共通していた。
作詞家のA六助はこう語る。
日本だけで言えばリンゴの歌に始まった戦後の歌謡曲の路線があり
ジャズが加わりフォービートのリズムの時代が長く続いた。
それをエイトビートに変えたのがビートルズだった。
ビートルズのリズムそのものが時代へのメッセージだったと思う。
日本でのコンサートを終えたビートルズは
次の公演地のフィリピンマニラへと向かった。
しかし当時のイメルダマルコス大統領夫人が主催する歓迎会をすっぽかしたことから
空港で群衆に襲われるなど命からがらマニラを抜け出した。
これには裏話がある。
歓迎会の招待状はビートルズが日本滞在中に
マニラのプロモーターから電報で送られてきた。
マネージャーのブライアン・エプスタインは
スケジュールが過密であることなどを理由に断ったのだが
プロモーター側はマルコス大統領と夫人の怒りを恐れ
ノーの返事を伝えなかった。
この年の8月にはジョン・レロンが雑誌のインタビューで
09:02
僕たちはキリストより有名だと発言し
アメリカ各地でビートルズ排斥運動も起きた。
結局ビートルズは1966年8月29日に
サンフランシスコで行ったコンサートを最後に
公演活動に終止符を打った。
お届けしたのは産経ポッドキャスト戦後紙開封
ビートルズが日本にやってきたの最終話でした。
産経新聞社がお届けする戦後紙開封
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