講談社の少女雑誌『なかよし』の編集長だった牧野武朗が、野間省一社長(故人)に呼び出されたのは、昭和34年1月中旬のことだった。
 「いよいよわが社でも週刊誌を出すことにした。大人向けと子供向けを考えているんだが…」
 昭和31年、「週刊誌は新聞社のもの」という常識を破って、新潮社が『週刊新潮』を創刊。これを機に、出版業界は週刊誌ブームを迎えていた。民放テレビの在京キー局がほぼ出そろい、週単位で番組を提供するテレビが生活に根付き始め、日本人の生活も月単位から週単位に移りつつあった‥

■『歴史の真相』教科書検定「侵略→進出」は大誤報だった(リンク)

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00:01
戦後史開封
漫画2
高段社の少女雑誌
仲良しの編集長だった牧野が
野間社長に呼び出されたのは昭和34年1月中旬のことだった。
いよいよ我が社でも週刊誌を出すことにした。
大人向けと子供向けを考えているんだが
昭和31年
週刊誌は新聞社のものという常識を破って
新庁舎が週刊新庁を創刊
これを機に出版業界は週刊誌ブームを迎えていた。
民放テレビの在教記輯局がほぼ出揃い
週単位で番組を提供するテレビが生活に根付き始め
日本人の生活も月単位から週単位に移りつつあった。
とは言っても入社以来
児童雑誌の編集一筋に歩んできた牧野にすら
子供に受け入れられる週刊誌がどういうものなのかわからなかった。
見当のつかないものは避けたいと大人向けのスタッフを志願したが
押し付けられる形で子供向け週刊誌の編集長になった。
雑誌は週刊少年マガジンと名付けられる。
野間社長が子供向け週刊誌発行に踏み切った理由はすぐにわかった。
高団社のライバルである小学館がその準備に入っていたからだった。
当時、児童雑誌といえば漫画を中心とした
少年、少年クラブ、少年画法、少年ブックなど月刊誌の前世時代だった。
牧野良、マガジンの早間スタッフ5人が社長室に集められた。
野間社長は週刊となると月4回刊だから準備期間も月刊誌の4分の1で考えてほしいと無茶とも言える指令を出す。
わずか1ヶ月半で早間にこぎつけろということだった。
すでに子供に最もアピールするものは漫画であるという認識では
一致していたが問題は漫画家の確保だった。
現在に比べて著名な漫画家は少なく
アシスタントを使った漫画大量生産制度も確立していない。
しかも漫画家の目はまだ月刊誌に向いていた。
週刊連載2本を抱えるのは物理的に無理があった。
手塚治虫は小学館との契約があるからできない。
03:02
長い付き合いだから何とかしたいんだけどしばらく待ってくれないかと依頼を断った。
藤子不二雄は著書時はそう青春日記の中で
サンデーの依頼を受けた2日後にマガジンの依頼があり断ったとしている。
昭和34年3月17日
サンデーとマガジンの送刊後は同時に書店に並んだ。
サンデーは一部30円で発行部数35万部。
マガジンは別冊漫画3部を付録につけて40円。
20万5千部が発行された。
それでも両種とも送刊から2、3年は苦戦が続いた。
特にマガジンがサンデーに遅れを取っていたこともあって
牧野は売れるまでは社内で売っていた。
送刊から半年後
牧野は編集会議でスタッフに要求した。
内容についてでも販売についてでも何でもいいから研究テーマを持とう。
1ヶ月後に発表してくれ。
漫画以外で児童が興味を持っている雑誌は何かと書店を訪ねて歩いた。
スタッフはマガジンの依頼を受けた。
漫画以外で児童が興味を持っている雑誌は何かと書店を訪ねて歩いた。
すると意外な名があがった。
戦記雑誌のマルだというのだ。
すぐさま編集長に面会を申し入れた。
これが縁で少年太平洋戦記など戦記記事の執筆や
マガジン初期の成功作の一つとなる日の丸いっぺんの原作を
マルの編集長に依頼することになる。
一方、営業部員との雑談から
子供の間で切手のコレクションが流行っていると知った牧野は
切手プレゼントの企画を始める。
人気の出そうな記念切手をできるだけ多く仕入れて
市場で紹介し、希望者に実費で贈るという
この企画は大反響を及んだ。
それでもサンデーにマガジンが追いつき
追い越すのは劇画路線を推進し始めてからだった。
そして40年代になるとこの漁師の競争から
週刊少年誌がそれまで一時代を隠した月刊誌を
駆逐していくことになる。
周囲者少年ブック当時の編集長は
在来線が月刊誌と新刊線が週刊誌というところだった。
と40年代初頭を振り返る。
子どもたちの生活も月から週へ。
要はまさに高度成長時代を迎えていた。
06:29
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問題14
三河統一を成し遂げた家康が松平から徳川への解明を決断した理由とは。
家康の生涯はピンチの連続。究極の選択と決断を順次公開。
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06:46

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