昭和30年ごろ、東京・池袋近くの椎名町にあった「トキワ荘」というアパートに、藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎ら、若手マンガ家たちが集まって互いに腕をみがいた。マンガ史上有名な話である。
 同じころ大阪でも、辰巳ヨシヒロや松本正彦、佐藤まさあき、さいとう・たかをといった若手が「八興」という出版社の「日の丸文庫シリーズ」で競い合っていた。作品は貸本として全国に出回った。貸本屋全盛の時代である。

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貸本マンガ家集まる
戦後史開封
漫画4
歌詞本漫画家が生み出した劇画
昭和30年頃、東京、池袋近くの椎名町にあった
時はそうというアパートに、藤子藤代、赤塚藤代、石森翔太郎ら
若手漫画家たちが集まって互いに腕を磨いた。
これが史上有名な話である。
同じ頃大阪でも、辰美芳弘や松本雅彦、佐藤雅昭、斉藤隆雄といった若手が
発行という出版社の日の丸文庫シリーズで競い合っていた。
作品は歌詞本として全国に出回った。
歌詞本屋全盛の時代である。
辰美も松本も、当時人気絶頂の手塚治虫のファンだった。
それだけに、当初の作品は手塚の影響を色濃く受けたものだった。
しかし、徐々に手塚に対する不満が生じてきた。
シリアスな作品への展開
松本は、あれだけ好きだった手塚先生の作品でも
ロケットからフロスキーを落花さんにして飛び降りてくるような描写にピンとこなくなった。
と言う。
辰美は当時流行していたスリラー映画の影響を受け
緊迫感を紙の上で表現できないかと思った。
当時の漫画は漢字の漫画の字通り
作品中に笑いの要素が不可欠とされていた。
漢字の漫画ではない漫画を描きたい。
月に一度の健康料四休日に顔を合わせた日
辰美は松本や斉藤と銀材橋界隈で飲んでは漫画論を戦わせた。
松本は判断のつかない子供に読ませるのは不愉快だ。
15、6歳以上を対象に書こうなんて話したものです。
と言う。
そうした実験作を発行はほとんど無条件に受け入れてくれた。
社長が作品を読まなかったからね。
松本は笑いながら振り返るがお上品な東京と違い
売れれば何でもありという雰囲気が強い大阪の歌詞本出版社だったことが幸いした。
内容がシリアスになると効果を狙ってベタと呼ばれる黒塗りの部分が多くなっていった。
印刷屋の親父に会った時
お前の作品はインクが減って困る音を立てて流れて生き寄るんやなんて言われた。
辰美は苦笑する。
内容も対象読者層も従来の漫画とは明らかに違う作品を意識するようになると漢字の漫画という言葉を使いたくなくなった。
まず松本が自らの作品にコマンガという呼び名を付けた。
少し遅れた32年12月
辰美も名古屋のセントラル出版から発行された歌詞本用短編集
12号に掲載された幽霊タクシーに劇画工房と付け初めて劇画という呼び名を使った。
ドラマ性を強調するために劇場の劇という字を使ったんですが
後で激しいの劇にも通じると思いました。
この年の暮れ辰美松本斉藤らは東京進出のため国分寺で共同出版を始めた。
辰美らの劇画は当初東京の出版社には絵が下手内容がどぎついと批判されたが
徐々に人気を得て劇画という呼び名を使わせてくれという作家が増えた。
そこで34年1月辰美は斉藤、佐藤、石川組康らを仲間に正式に劇画工房というグループを設立した。
このグループを作り出版社から編集も請け負うようになる。
劇画工房責任編集の歌詞本短編集が続々発行されるようになると
同傾向の作品を書いていた斉藤三平、菅義晴、水木茂ら、東京の歌詞本作家も劇画に共鳴するようになった。
こうした劇画の流星に最もショックを受けたのは他ならぬ手塚だった。
その著書僕は漫画家によると劇画が歌詞本屋にあふれだし
僕の家の女子たちまでもが20冊も30冊も劇画を借りてくるようになったとあっては
僕も心中穏やかでない。
ついに僕はノイローゼーの極みに達しある日2階から階段を転げ落ちた。
松本はその話を聞いた時はやったと思いました。
時代が手塚さんから我々のものになったんだという感じでしたねという。
だが漫画界は必ずしもその思い通りにはならなかった。
37年頃になるとテレビの普及などで歌詞本業界は衰退していった。
代わりに劇画の舞台となっていたのが週刊少年雑誌だった。
34年3月に創刊された少年マガジンの初代編集長は漫画の生産方法を変える必要性を感じていた。
貸本マンガ家の創作プロセス
週刊家で作家一人当たりの執筆量が増える中でストーリーから絵まで一人で作るのには限界がある。
漫才が作家と漫才師の共同作業であるように漫画もストーリーと絵を分業で作るべきだ。
そう考えた牧野は賛同する漫画家や原作者を探した。
その中に梶原一喜がいた。
スポーツライターとして活動していた梶原は漫画の原作をと話したら最初は気乗りしない顔をしていたという。
40年に編集長となった内田はこうした路線の上に梶原の原作による巨人の星や明日の女王などをヒットさせるとともに
瑞希や斎藤、白虎、歌詞本漫画家を積極的に起用、劇画路線を推進していく。
しかしその頃になると劇画を生み出した歌詞本作家たちの多くは第一線にいなかった。
辰宮は45年に何度かマガジン市場に作品を発表したが新しい漫画の読者たちの共感は得られなかった。
今辰宮松本が目指した笑いのない作品はごく当たり前に漫画として流通している。
辰宮は言う劇画という言葉は完全に自分から離れたが僕の中では劇画はこんなもんじゃないという思いはあります。
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劇画路線の推進とその影響
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