2022-11-03 12:27

スカルノ大統領夫人としての半生「デヴィ夫人の独白(4)100万人以上が殺害された」~大統領失脚の真相

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1965年9月30日深夜から翌朝にかけて、インドネシアの首都ジャカルタで、陸軍左派が親米派の陸軍将軍6人を含む7人を殺害するクーデター未遂事件が起きました。9・30事件と呼ばれています。

陸軍戦略予備軍司令官だったスハルト少将が直ちに鎮圧。事件の背後にインドネシア共産党と、共産党を支持基盤の一つにしていたスカルノ大統領がいるとして、スカルノは辞任に追い込まれ、スハルトが大統領に就任しました。

背景には、インドネシア共産党に武装闘争を呼び掛けた中国共産党の存在も指摘されています。事件当時スカルノの身近にいたデヴィ夫人はインタビューの第4話で、スカルノは事件に無関係で、事件後の動きを見ると、結果的に権力を握ったスハルトと、インドネシアの共産化を警戒していた米国が黒幕ではないかと推測しています。

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はなしの肖像画
デビー夫人の墓白。第4話スカルノ大統領失脚の真相
インドネシア大統領夫人として活躍されていたデビー夫人ですが、スカルノ大統領は権力を奪われ、夫人の人生は再び大きく変わります。
そのきっかけとなったのが、いわゆる9.30事件です。
1965年9月30日の深夜から翌朝にかけて、
スカルノ大統領の親衛隊の一部が、陸軍の将校6人を殺害する事件を起こし、
それをスハルト少将が侵圧しました。
そして、事件の背後にインドネシア共産党とスカルノ大統領がいるとして、
スカルノ大統領は辞任に追い込まれ、スハルト少将が大統領に就任したのです。
10月5日の国軍記念日に開かれる軍事パレードの際に、
スカルノ大統領を暗殺するという空出たを起こそうとしているという名目でした。
その当時のスハルト少将がその事件を侵圧いたしましたが、
いち早くこれはインドネシアのPKI共産党がやった、犯人は共産党だということを留守いたしました。
このような残虐な行為をしたのは共産党員であると不意調し、国民に共産党員を憎悪することを煽りました。
そのため、その後インドネシアでは天地がひっくり返るような暴動、虐殺、放火、強盗殺人が3年近くあり、
100万人とも120万人とも言われる人々が殺害されました。
その当時のインドネシアは、共産党と陸軍、アジアで最大の陸軍の上にスカルノ大統領が立っておりましたが、
1966年3月11日にスカルノ大統領は実権を奪われます。
その翌年の1967年3月、暫定国民協議会が衆心大統領の地を剥奪いたしました。
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この日は、くしきもカルティカの生まれた日でした。
その翌年の68年には、サールト首相が第二代インドネシア共和国大統領に就任いたしました。
ここでお話を、1965年9月30日に起きたあの忌まわしい事件に戻りたいと思います。
スカルノ大統領は事件の翌朝、私たちのウィスマヤソウ間からいつも通り大統領官邸に向かったのですが、
どこの部署か分からない、つまり腕や胸、帽子にどの部隊に所属するか分かるものがついているのですが、
それがむしり取られた多くの兵隊が大統領官邸を取り巻いておりました。
そのため、敬語家の判断でUターンをしてしまいました。
これがスカルノ大統領の運命を変える第一です。
スハルトは鎮圧を報告しようとして待っていたのですが、誤解を招くことになってしまいました。
それ以降のスカルノ大統領の行動は、あたかも運命の神に見放されたごとく、ことごとく逆、ミステイクでした。
そして、事件にあたかも関係しているかのように思われてしまいました。
私は裏では、何とかして陸軍とスカルノ大統領を結びつかねばならぬ。
これが私の使命だと思い、スパイ小説のような情報収集活動を行いました。
まず、陸軍ナンバーワンのナスチョン将軍夫人と連絡を取り、スカルノ大統領のためにスカルノ大統領の耳には入らない情報を一生懸命取り寄せ、スカルノ大統領に提供していました。
しかし私の行動は、サハに近いスバンドリオ外装に睨まれ、プンガッチョウと呼ばれました。
プンガッチョウとはトラブルメーカーです。
私は陸軍側には信頼を得ましたが、サハの、そしてその当時一番大統領に近かったスバンドリオ外装側には憎まれました。
当時私はスカルノ大統領に疎まれていたナスチョン将軍を信用し、サハルトのことも信用していました。
そのため、サハルト将軍とゴルフをしたり、ナスチョン夫妻、サハルト夫妻を官邸に招いてディナーを開いたり、一生懸命大統領と陸軍の関係を取り持つことに懸命に努力をしておりました。
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それがスカルノ大統領を取り巻くサハの人間たちにどんな目に映ったことでしょうか、私は身の危険を犯していました。
殺害された陸軍No.2のヤニ将軍未亡人や他の未亡人たちを招いてお慰めしたことは、陸軍の方たちに大変好意を持って取られました。
その私の努力のためか、一時は平穏が戻ったように思えました。
当時の私はインドネシアの首都ジャカルタに救急病院を建設しようとしておりました。
日本からの演釈館と、当時の医師会会長の竹見太郎先生、そして設計は鹿島建設でした。
お正月にはシャリフタイム厚生大臣を伴って日本を訪問いたしました。
その後私はヨーロッパに向かいました。各国での病院の視察と、医療器具の工場を視察するためでした。
スカン大統領と陸軍を結ぶ随地の綱、私がいなかったその間に、事態は大きく進行してしまいました。
あの時2ヶ月もインドネシアを離れず、スカン大統領を支えていればよかったと、今でも悔やんでおります。
しかし、後で聞いたことですが、私の旅行はスバン同僚、外相が組んだとのことでした。
スカン大統領は共産党を支持基盤の一つとしていたので、事件の背後に共産党がいるという宣伝はスカン大統領にとって不利だったわけですね。
スカン大統領は共産党に同情的だったのですか?
スカン大統領は共産主義者ではありません。民族主義者でした。
スカン大統領は、周りからPKIを避けるように言われても、独立を勝ち得た時の同胞を捨てることはできないと断っていました。
確かにインドネシア共産党PKIは巨大でした。それ以上にインドネシアの陸軍はアジア最大でした。
スカン大統領はこの二つの上に立ち、バランスを保っていましたが、そのバランスが崩れたのです。
あの当時、世界はロシアとアメリカにそのパワーが牛耳られていました。
09:01
スカン大統領はアメリカの勢力やソ連の勢力に属さない中立のグループとして、アジアやアフリカ、中南米、アラブ諸国を団結させようとしていました。
それがAAAグループです。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、アラブカントリーです。
そして中立国、そのグループを作って第三勢力というものを作ろうとしました。
スカン大統領の存在はアメリカにとって目の上のたんこぶ邪魔だったのです。
スカン大統領はアメリカの支援を受けたサハルトに負けたのです。
CIAがスカンの政権を倒したのです。
それまでもCIAは何度もスカン大統領を暗殺しようとしていました。その数、なんと5回です。
このことはニューヨークタイムズの記者が書いたCIA記録という本にも出てきます。
インドネシアで大規模な虐殺が起きているのに国連は何もしませんでした。日本もです。
それどころか、当時の佐藤英作総理大臣がサハルト側に600万円という資金援助をしていたことが後で知りました。
カンボキミスというのでしょうか。そういう方が後にノーベル平和賞を受けたということで私は大変憤慨しています。
カンボジアでポルポトが大虐殺を起こしたとき国連は動きました。
しかしインドネシアで120万人の人間が殺されていたときに国連は指一本動かしませんでした。
デビー夫人の立場からすると9.30事件の黒幕はスハルト少将ではないかという推測ですが、スカルノ大統領自身はどう見ていたのですか。
これは陸軍の権力闘争、内部争いと捉えていました。
このことはスカルノ大統領と私との所感が残されております。
私は大切に保存しておりますが、オランダ政府もアメリカ政府も認めているスカルノ大統領の潔白を証明するものです。
デビー夫人の独白、最終話の次回は世界を見てきた夫人が今の日本人に思うことを語っていただきます。
話の肖像画。ナビゲーターは相川優里がお届けしました。
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