2022-10-27 08:30

スカルノ大統領夫人としての半生「デヴィ夫人の独白(3)国民に敬愛された『国の父』、そして政変へ」~ 国境を超えた愛

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タレントのデヴィ・スカルノさんは昭和34年、19歳のときに、インドネシアのスカルノ大統領と出会い、結婚しました。

スカルノはインドネシア独立運動の中心的存在で、初代大統領に就任し、今でも「建国の父」と呼ばれています。

インタビューの第3話では、スカルノとの出会いや、母や弟との死別、娘とのわだかまりについて、時折声を詰まらせながら語っています。

 


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話の肖像画
レビィ夫人の独白 第3話 国境を越えた愛
レビィ夫人は19歳だった1959年、昭和34年、インドネシアのスカルノ大統領と結婚されました。
早く一人前になって母と弟を養わなくてはと夢中で生き抜いてきました。
そんな10代の最後にスカルノ大統領に出会って、
Please be my inspiration, please be my strength, please be joy of my lifeと言われました。
私の着想の源に、精神的な力に、人生の喜びとなってください。
とおっしゃったのです。この後、100年生きてもこんなに美しいプロポーズのことは聞くことはないだろう。
選ばれた以上この方に美ししよう、これは典型だと思いました。
そして今までの苦労は、きっと神様がこれからの人生に立ち向かえるように試練を与えてくださったのだと思いました。
スカルノ大統領と初めて出会ったのは、1959年6月に帝国ホテルで行われていたティーパーティーです。
その後3ヶ月分通が続き、お招きを受けてインドネシアに2週間の予定で行きました。
そこでスカルノ大統領が国民からそれはそれは敬愛されている姿を目の当たりに致しました。
バリ島では子供たちを見かけるとわざわざ車を止め、石の上に薄木で数学を教えました。
森の中から妊婦さんが出てくると、元気な子供が生まれるようにお腹を触ってください、と声をかけてくるのです。
日本の政治家にはいない本当の国の父の姿だと感じました。
インドネシアは300年以上オランダの植民地でした。
スカルノ大統領はそのインドネシアを開放し、一番大事な人々に共通の言語を与え、
劣等感で打ちのめされていた民に誇りを持たせました。
本物の指導者でした。
本物の指導者でした。
その姿を間近に見て、日本との架け橋になりたい、
歴史的に勝ってない存在として名を残す存在になりたいという野心のような人生の目標を得たのです。
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まずはスカルノ大統領の同志となり、良きアシスタント、良くセクレタリーになろうと思いました。
レビィ夫人はスカルノ大統領と結婚されたことで、日本にいる家族と離れ離れになりました。
愛する家族を大切にする心とスカルノ大統領への忠誠のどちらかを選ばなくてはならず、
それは大変悩み苦しみ悲しみました。
そして大統領の下に留まる決心をしたのが一生で一番つらいことでした。
当時のインドネシアは国際電話を予約してから3日ほどかかる状態で、直行便はなくプロペラ機でした。
母は本当に悲しんでついに病に倒れました。
その後、22歳の時、母親を亡くし、弟はその2日後に自殺いたしました。
母と弟につらい悲しい思いをさせてしまったという心の十字架は一生を背負っています。
スカルノ大統領との間に娘カルティカが生まれました。
でもカルティカとの間には長年わだかまりがありました。
政変後、私は幼いカルティカを抱いてフランスに亡命をすることを余儀なくされましたが、
1970年6月にスカルノ大統領は延民されました。
その後インドネシアではすべての雑誌、新聞、スカルノのすの字も出ませんでした。
これまではインドネシアの各家にはスカルノ大統領の写真が飾られ、すべての建物も大統領の写真でいっぱいでした。
10年間スカルノは完全に無視され、スカルノ派の人間たちは盗獄されたり死刑にあったり、冷飯を食わせられていました。
1979年にそのスカルノ家におめでたがありました。
産男が結婚するということでした。
その結婚式に招かれた私とカルティカはジャカルタに戻りました。
私たちの姿を見たインドネシアの国民はあたかもスカルノ大統領の再来のように涙し喜び、凶器のようになりました。
私たちが通りに立つと何十何百何千という人が集まってきて、熱い涙を流し私たちの体に触りました。
スカルノ大統領が建てたサリナというデパートに私たちが買い物に行くと、持ち場を離れた全職員が私たちの周りに集まって、
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みなさん自分たちの持ち場に戻ってくださいという館内放送が出るほどでした。
私は時期到来と思いました。これで私たちはインドネシアに戻ってもいいんだ。
インドネシアに戻ることができるんだと思いました。
私は私と娘のために石油関連事業を立ち上げるために一人でインドネシアに戻らなければなりませんでした。
カルティカをフランスの全寮生の学校に預けたのですが、カルティカは母に捨てられたと誤解をしてしまったんです。
分かり合えるまで時間がかかりました。
その後、カルティカは結婚して、私は孫にも恵まれて幸せだったのですが、ご主人が突然亡くなりました。
私も娘もそのショックから未だ立ち直れていません。
先ほど夫人が触れられた戦兵の姿を見ると、
カルティカは自分の家族の姿を見ることができるようになりました。
カルティカは自分の家族の姿を見ることができるようになりました。
先ほど夫人が触れられた戦兵というのは、スカルの大統領が失脚して夫人がインドネシアを去らなければならなくなった出来事ですね。
次回はその戦兵の背景についてお聞かせください。
関係新聞社がお届けする戦後紙開封。最後までお聞きいただきありがとうございます。
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