万博のシンボルマークは、厳正なコンペを経て決定された。しかし、発表の直前、万博協会の会長が「あのマークは何が何だかピンとこない」とまくしたて、つぶしてしまった。

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00:01
戦後史開封
昭和45年の大阪万博
第3話 わざとやった?マークの差し替え
昭和40年6月、通産省の繊維局長から
大阪国際博覧会準備委員会の事務局長に任命された新井新一は
戦前の昭和15年に当時の商工廠に入りました。
新入職員の歓迎会で何かやれということになり
大阪出身の新井は、昭和初期の人気落語家
桂春断寺を真似て髪型落語の金の大黒をやったそうです。
それ以来、大阪といえば原井ということになり
最後に回ってきたのが大阪で開く万博の裏方役だったのです。
案内役は私、ナレーターの中川睦です。
大阪市内のホテルにとりあえず事務所を設け、
数人の職員を率いて着任した新井は、その2、3日後、
民族学者の梅佐夫忠夫、作家の小松佐強らが
行政とは別に作っていた万国博を考える会から
呼び出しを受けた。
当初、こんなことより大学や病院を作った方がええ
と思っていたという新井だが、梅佐夫らと話したり
ブリュッセル万博の事務局長が書いたものを読んだりするうちに
考えを変える。
国際交流といっても、国連などのように
鎧かぶとをつけて国益を代表し合うところではなく
裸で風呂に入って付き合えるような、しかも
50年、100年のロングレンジで話し合える場が
万国博やと分かりました。
新井はまず基本テーマ作りに専念する。
東大一流の経済人や文化人にテーマ特別委員を委嘱し、
梅佐夫が作った基本理念を基に3回にわたって議論した。
当時、万博協会の総務部長兼広報部長で、
後に事務次長になる今枝信夫は
黒板にいくつもの案を書いて決しては議論していました。
万博の取材に当たっていた元読売新聞記者の前田明雄の著書によれば
なかなか全員で一致するものがなく、みんなでもう一度
基本理念を読み返した。
すると、委員の一人であるジャーナリストの松肩三郎が
03:01
言わんとするのは調和と進歩なんだよね、と発言した。
副委員長の京都大学教授桑原武雄が
今、何とおっしゃった、と聞いた。
調和と進歩ですよ、と答えた松肩に桑原は
人類の調和と進歩でどうですか、と
提案した。評論家の村山龍が
進歩と調和のほうがいい、と言い、最終的に決まったという。
ところで、この人類の進歩と調和のうち
進歩と調和がブラジルの国旗に書かれているポルトガル語の文句と同じだった。
今枝は、当時から気づいた人もいて
ブラジルコーヒーみたいだな、と笑っていました、という。
この基本テーマが決まったのが40年の11月。
10月に日本万博協会が発足しているが、まだ会長も決まっていなかった。
当初、最も有力視されたのは
松下電機の社長から会長になったばかりの松下幸之介だった。
前田によれば、
とにかくなり手がいませんでした。
だいたい万博なんて海のものとも山のものともわからない。
特に東京財界は大阪のことは大阪でやったらいいんじゃない、という空気でした。
ところが、その松下も大阪府知事佐藤義仙の要請を断る。
前田はその前後松下に話を聞いた。
前田はこう言う。
松下さんは、僕は金を惜しんで引き受けないんじゃない。
僕が会長をやれば、ナショナルの大阪ローカルの博覧会になってしまう、と言っていました。
曲説の末、会長は慶壇連会長の石坂大蔵が引き受けることになる。
日本の財界を代表する大物会長の就任。
だが、すでに基本テーマも決まった後の40年11月のことだった。
当初、俺は雇われ会長と全てを事務当局に任せていた石坂だったが、
41年2月になって、突然強権を発揮する。
いわゆるシンボルマーク差し替え事件だ。
東京、築矢橋にあった万博協会東京事務所で、万博のシンボルマークの発表があるはずだった。
ところが、やがて現れた石坂は、
あのマークは何が何だかピンとこない。
私の考えは古いかもしれないが、誰にでも分かるものでなくてはダメだ、と幕立てた。
06:04
シンボルマークは、協会が国内の一流デザイナー17人を指名しコンペさせた。
デザイン評論家として著名な勝美雅留を委員長とする審査委員会で、福岡市のデザイナーの作品に決めた。
そのシンボルマークは、上に1つの円、下に鉄アレンのようにくっついた2つの円が配置された。
上の円は、日本を象徴する日の丸。
下の2つの円は、東西世界や対立する人間同士が手を取り合う様子を表現していた。
理事会に諮ったのだが、石坂一人の反対で潰れてしまった。
結局、コンペをやり直し、4月の審査会で桜の花びらをかたどった新たなデザインが正式にシンボルマークになった。
後に新井が事務総長を肯徹されるきっかけになったとの見方もある。
通産省で初代のデザイン課長を務め、自らも絵筆を取る才人でもある新井はその後も
あれは勝美さんのような一流の評論家らが選んだ作品。どうして石坂さんは拒否したのかなあ。
と、腑に落ちない様子だった。ただその一方でこんなことも言う。
それでもあの事件は新聞も大きく扱って、マスコミもあれ以来万博に注目するようになりました。
石坂さんひょっとしたらわざとあんなことをしたのかもしれません。
次回第4話は、太陽の塔についてお送りします。
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