2023-02-16 09:04

昭和45年の大阪万博① 見合いの席で決まった開催

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万博の誘致の発端は、後に作家・堺屋太一となる大阪出身の通産省通商局通商調査官、池口小太郎の見合いの席だった。

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戦後史開封
昭和45年の大阪万博
第1話 宮城の関で決まった開催
令和7年、2025年に大阪関西万博が開かれます。
大阪で開かれる万博は昭和45年、1970年以来55年ぶりです。
産経新聞に平成7年に連載された戦後史開封をもとに、前回の大阪万博での関係者の苦労を紹介します。
案内役は私、ナレーターの中川睦です。
昭和39年の東京オリンピックと並ぶ戦後の一大イベントは、45年の大阪万博だった。
挿入乗車は6400万人。日本人の2人に1人以上が大阪千里の会場に足を運んだ計算だ。
カジュアルウェア、ファストフードなど万博が残した文化も多い。
だが、誘致段階から成り物入りだったオリンピックに比べ、万博の計画スタートはひっそりとしたもので、担当者たちにとっての難問も多かった。
昭和38年、8月のことである。
後に作家、堺谷大地となる大阪出身の通産省通商局通商調査官池口小太郎は、東京青山にあったボーリング場で輸出振興課長だった山下英明夫妻、それにもう一人の苗例の女性とボーリングをしていた。
当時、日本でボーリング場といえばここだけだった。
ブームが起きるのはもっと後の話だが、ボーリング機会の輸入問題がきっかけとなって、通産官僚は結構早くからボーリングを楽しんでいたのだ。
プレーの後、4人はお茶を飲んだ。
実は山下が池口のためにセットしたお見合いの席だったのだ。
お互い気に入らないのか、池口と若い女性との話は盛り上がらない。
勢い、池口は山下とばかり話すことになる。
境谷はこう振り返る。
その時、人間がおかしくなるほど一つの目的に向かうことができるのはどんなことか、という話をしていて、それは日本で万博をやることじゃないか、ということになりました。
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その時以来、何としても万博をやってみようという気になって、いろいろ調べ出したんです。
見合いはもちろんダメで、おかげで万博が終わるまで独身でしたよ。
山下もこの時のことはよく覚えている。
どちらが早かったのかわかりませんが、私もその前後に万博の資料を集め始めました。
池口はその直後の10月に、企業局工業養水課に移動になるが、その仕事とは関係なく万博開催に突き進む。
半年の間に通産省の中と外に数十人の同志を集めた。
坂谷は言う。
問題はいかに通産省の商議決定に持ち込むか、つまり新政策に入れるかということでした。
省内の空気はハンハンで、万博のような遊びではなく、重価格に力を入れるべきだ、という意見も強かったんです。
万博万博と言っていると、それは通産省のためにならないから自表を出せ、とまで言われたこともありましたよ。
何しろ国中が東京オリンピックに夢中になっていて、国民の万博に対する関心はほとんどなかった。
新聞に通産省が万博の検討を始めている、という記事が載ったとき、
通産省に問い合わせてきた民間業者は、学校の運動会などで使う万国旗を作る業者一社だけだった。
そうした厳しい状況の中、池口はこんな方法まで考えた。
夜、各局長の車の運転士たちが集まっているところへ行き、
実はこんなことが始まろうとしているんだよ、と万博のことをさりげなくPRする。
むろん局長が帰る車中で運転士から、万博ってのが開かれるらしいですね、という話になるのを計算してだ。
これはずいぶん効果がありました。少なくとも4人の局長が賛成に回ってくれたんです。
通産省にとって大きな転機になったのは、ベルギーのブリュッセルにいた林義郎が本省勤務になっていたことだ。
林は同じ山口県出身で、当時通産省に力を持っていた後の総理大臣佐藤英作に近かった。
林は池口を東京大沢の佐藤の自宅へ連れて行った。
万博について聞いた佐藤は大いに乗り気になった。そして通産省の空気も大きく変わっていった。
昭和39年2月には大阪府知事の佐藤義仙が記者会見で、大阪で万博を開催したいとぶち上げ、
政府に対し開催を申し入れるなど次第にムードは盛り上がった。
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そして9月、通産省内に国際博覧会調査室ができ、この年の12月の臨時国会で国際博覧会条約へ調印を批准したことで、万博は実現に向け一歩前進する。
日本は戦前、条約に調印していたが、戦争などで批准されないままになっていた。
坂井家は、「何年もほったらかしにしていたのを、なぜ急に臨時国会で批准するんだ。
どうせほっといたのだから、通常国会まで待てないのかと言われ、その説明書を書くのにずいぶん苦労しました。」と言う。
だが、そうしたバタバタとした準備が逆に、国際的には極めてスムーズにいく理由となった。
坂井家によるとこうだ。
国際博覧会条約によると、日本は戦前、条約に向け一歩前進する。
日本は戦前、条約に向け一歩前進する。
当時、万博の誘致合戦が盛んで、オーストラリアが1972年、昭和47年に開催を予定していましたから、その前にやらないと当分はできなくなります。
だから、ぜひとも45年にはやりたい。
5年前の40年には、パリにある博覧会国際事務局に申請する必要がありました。
しかし、日本は条約の批准もしていないから、どの国も警戒していなかったんです。
翌40年には、大阪の戦利給料で45年に万国博を開きたい、という申請を国際事務局に行い、承認された。
いわば、外国を出し抜いた形で一気に開催までこぎつけた。
しかし、準備に10年かかるといわれる万博を、その半分の期間でやろうとしていた。
第2話の次回は、青海の大物を抑えた関西の在海人の話をお送りします。
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この時、家康が下した決断は。
家康の生涯はピンチの連続。究極の選択と決断を順次公開。
産経ニュース、徳川家康100の決断。概要欄のリンクからどうぞ。
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