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戦後史開封
昭和45年の大阪万博
第4話 渋浦岡本太郎をサウナで駆毒
昭和43年3月、日本万穀博協会会長の石坂大蔵は
教会幹部を引き連れて東京・北の丸公園の科学技術館に行きました。
大阪万博のテーマ展示プロデューサーで、画家の岡本太郎が設計したテーマ館の模型を見るためでした。
テーマ館といえば分かりにくいですが、そのシンボルがあの太陽の塔です。
案内役は私、ナレーターの中川睦です。
岡本のパートナー、岡本敏子は、その場面を昨日のことのように覚えている。
石坂さんは一度決まったシンボルマークをひっくり返すということがあったから、
教会の人たちは、もし太陽の塔も石坂さんがダメだといったらどうなるんだろうと、
みんな青い顔をしていました。
岡本も知らん顔をして、あちらの方を向いて、ろくすっぽ説明もしません。
とても長い時間に感じました。
だが、模型をじっと見ていた石坂は、岡本太郎に向かってこう言う。
うん、これで万博は成功です。これさえあれば何もなくてもいい。
岡本敏子は、みなさん急にニコニコされましたね、と振り返る。
岡本太郎がテーマ展示プロデューサーを引き受けたのは、前年の42年7月のことだった。
当初就任をしぶっていた岡本を引っ張り出したのは、万博協会事務総長の新井新一だった。
新井は万博の中心施設となるお祭り広場の設計者である建築家の丹下健三から岡本を推薦されていた。
岡本敏子が振り返る。
新井さんは、岡本の家に来て、引き受けていただくまで帰らないとおっしゃいました。
10億円予算があります。絵を一枚描こうが、どうしようが全て任せますと。
新井も、丹下さんと岡本さんと一緒にサウナに行ってくどいたこともありますよ、と言う。
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ようやく引き受けた岡本は、当時開催中だったモントリオール万博を見学した。
その後打ち出したのは、お祭り広場の地下と広場を覆う大屋根の上。
そして、その間を結ぶモニュメントの中の3箇所に展示場を作り、地下が過去、中間が現在、屋根の上が未来を表す、というものだった。
隠して、地下から大屋根を突き破って、空中にまで泳ぐ巨大なモニュメントとして登場したのが、太陽の塔だった。
岡本は、石膏で太陽の塔の模型を作り始める。
岡本敏子によれば、かなり早い段階で塔の形や顔、それに稲妻の模様までほぼ完成品と同じものが出来上がっていた。
ところが、敏子はこう明かす。
最大の難関と見られた石坂はOKしたものの、当初、太陽の塔の評判はかんばしいものではなかった。
会場のメインゲートをくぐってすぐのところに作られた太陽の塔と、
名神高速道路を挟んで反対側に万博協会の建物があり、2階に記者クラブがあった。
毎日出来上がっていく太陽の塔を、真正面から眺めていた万博担当記者たちには取り分け不評だった。
元読売新聞記者の前田昭雄は、
はじめは誰があんなもの喜ぶんや。芸術家ってアホちゃうかと思いましたよ。
と言う。しかし、太陽の塔はやがて万博にとって欠かせないものとなり、
閉幕後、他の建造物がほとんど取り壊された中で、現在もその姿を万博記念公園に残している。
シンボルゾーンをはじめ、ゲートやタワーなど中心施設のプロデューサーを務めた田んげによると、
シンボルゾーンにお祭り広場を作る案は、基本テーマを検討していた40年頃からあった。
田んげは言う。
それまでの万博は自分の国にこんな科学技術がある。こんなに進歩しているということを見せるためのものでした。
しかし、日清月歩の技術というのはすでに常識となったんですから、
今度は万博をお祭りと考えようということになり、お祭り広場をメインに据えることになったんです。
その広場を長さ292メートルもの大きな屋根で覆うというのが、田んげのアイデアだった。
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重さ6000トンの屋根を30メートルの高さにまで吊り上げる作業は、海上建設のハイライトになった。
この大屋根をはじめ、エキスポタワー、各ゲートなど中心施設の設計には、田んげを中心に10人の一流の建築家が当たった。
当時、東京の原宿にあった田んげ事務所の2つのフロアに10人の建築家スタッフたちが常駐した。
さらに2週間に1回くらいの割合で、建築家たちも集まって、「大屋根はどうする?タワーは?」と議論を繰り返した。
このため、設計そのものはそれぞれの建築家が分担してやったが、全体にバランスの取れたものになったという。
その田んげが設計した大屋根に穴を開けてしまったのが、岡本太郎だった。
田んげは言う。
他の人は全体のバランスが壊れると反対だったんですがね。
私は岡本先生だから、まあいいじゃないかと思いました。
岡本敏子は、太陽の塔がほぼ完成し、足跡が見えなくなった。
田んげが岡本太郎と一緒に大屋根から歩いて降りてきながら、
どうしてこんなものがよく見えてくるんだろう。不思議だね。
と言っていたのを今でも覚えている。
次回の最終話は、入場者5000人が野宿した万博最大の危機をお送りします。
産経新聞社がお届けする戦後紙開封。
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