そうですね。特に現会長がですね、創業会長から今現会長が社長に就かれた時からより明確に経営理念を打ち出しをされましたですね。
ちょっと長くなるんですけど、これ私の個人的な見解なんですけども、このパナソニック町田電機のですね、その経営理念というのが、
この産業人材の本分に徹し、社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与するというですね、こういう理念を持っているわけですね。
それをその代理店としてこの実践の場でね、それを具現化をするとする言葉は何かと突き詰めていったら、
多分ですね、お客様の繁栄にお得意先の繁栄に貢献するということが、我々代理店現場第一線に立っているもののですね、具体的な取り組みじゃないのかなという感じがいたします。
それをその理念として、この75年間ですね、ずっと培って持ってきて今に至るというふうに、私たちは理解して動いております。
これまた後で詳しく伺うんですが、大津社長も元々は松下電機に入社されたんですね。
そういった意味では何重にも松下幸之助イズムというのが染み付いているということは言えるんでしょうか。
そうですね。うまいこと言えないんですけども、今はですね、私自身の血肉になっているようなところというのはございますね。
この年になっていたら大変遅いんだと思いますけれども、若い頃は頭でわかって体がついていけなかったという、こんな感じがまだ一体化していないような感じがしたんですけれども、
最近になって松下創業者がおっしゃっている言葉の意味であるとか、動きであるかというのは、何か深く理解ができるような、自己満足ですけれども、今はしております。
もともと松下を大学卒業して死亡されたのも松下幸之助さんへの憧れのようなものだったんでしょうか。
いえ、そんな大業なもの実はございませんでね。私は昭和52年に松下電機に入社をしたわけですけども、ちょうど昭和50年からオイルショックがございましてね。
だから2年先輩の方というのは自宅待機を余儀なくされたりとか、1年先輩の方々というのはものすごく人数が絞られて就職難の時期でしてね。
ちょうど私が就職する昭和52年というのも、ほぼ少しこの門戸が開いたみたいなところで、そういう中でこの松下電機というのは当時大変学生にですね、文系の学生、理系の学生にも人気がございましたんで、入れたらいいなぐらいの感じで実は入社試験を受けたような、こんな感じですね。
確かに採用されたという連絡をいただいた時は大変嬉しい気持ちだったですね。
ちょうどその頃、僕は学生だったり高校生だったりする、実は社長とは4つの人生になるんですけども、ちょうどこのすくさんが松下成形塾を立ち上げられた頃で、ただの産業人じゃなくていろんなことにも発言をしようとされて、あるいは社会を変えようとされた時だったので、そういった時にその入社先として選ばれてますんで、
かなり新種の気分と言いますか、新しいことをやろうとしているところに憧れられたのではないかという気がするんですけど。
私がちょうど松下に入った頃っていうのは、まだやっぱり松下電機は金太郎網だとかですね、一部ね、お口の悪い方ですと真似した電機だとか、まだ言われてることがたまにございましたですけど、そういう中で成形塾とかね、いろんなその革新的なことをやっているということは、
大変、私は若かったですけど、若い社員でしたけど、本当に一回の平社員でしたけど、なんかこう誇りを持てるような、今から日本を変えていくという形のですね、息吹っていうんですかね、脈動を感じましたですね。
わかりました。関西経済にとってはやっぱり松下電機とか松下幸之助さんっていうのは非常に大きな存在ですし、昭和50年以降の発展にかなり寄与したという意味では関西を代表する企業だと思いますので、そこでどういう活動をされていたかという話も伺うのが、ちょうど関西の経済を語ることになると思いますので、後半はその辺りを伺うと思いますので、よろしくお願いします。
はい、ここから後半です。引き続き、関西株式会社の大津泰次郎社長にお話を伺います。
前半、社長個人のことと松下電機の関係をちょっと伺ったんですが、会社の年表を改めて拝見しますと、昭和23年に関西が創業して、すぐに松下電機産業と大移転契約が決まるんですね。
社長が松下電機に入られたのは昭和52年になりますね。1977年ということですね。となると、関係とバランスウィックの大移転契約が結ばれて、20年以上、もう30年近くという段階だったんですが、最初は大津社長は松下の社員として関係を見られているわけですね。
私が関係を担当したのはちょうど、弱いでいうと40ちょっと前くらいですね。
例えば大金様のような大手の空調メーカー様に向け、ファンモーターですね。室外機を動かすファンモーターでございます。
そういうところで使っていただいておりますので、この生産材を担当している側から見ると、全然違和感なく、
逆に大変素晴らしいお客様を持っておられるお会社だなというふうに感じておりましたですね。
納入する者としては共通点もあるし、なおかつ関西を代表する企業ですね。
目の付け所が言葉悪いですが、いいなという気がするんですが。
私は素晴らしいなと思いますね。
こういう大きなお会社を担当させていただいているというのは、私も後輩の社員にとりましたら、
大変何事にも買いがたい財産だなという感じがいたします。
時期も非常に良かったと思うんですね。昭和59年から大金工業とは第一転契約ということですから、
これからどんどん日本も豊かになっていって、空調設備がたくさんいるなというところに、
ちょうどうまく契約されているなという気がするんですが。
それはおっしゃる通りだと思います。
各地の創業者の人たちが非常にタイムリーに契約されてきたなということが伺えるという気がしますね。
おっしゃる通りだと思います。
創業者及び先輩の方々の、やっぱり大変素晴らしいご活動が今に至っていると、このように感じます。
なるほど。やはりここ2社と一緒に歩んできたということが、官機にとってもやはり成長の一つの原動力になったというふうに考えられますかね。
もう一つ大きいのは、大手の電気サブコンさんである金田様ですね。
金田様とのご契約をさせていただいたというところで、私どもの大阪、東京も含めて、大きく飛躍をした密接になっております。
こうやって伺っていると、ようやくリスナーの方たちも自分たちに馴染みのある会社がたくさん出てきたなと。
そこで消費代を作っているわけですかね。大金にしてもパラソニックにしても。
そこのところのしっかりとした下支えは、官機がやっているということをぜひ知ってもらいたいと思います。
魅力でございますね。その一部を担っているという自負がございますね。
もう一つついでながらなんですが、社長ご自身は長崎県の出身で広島大学を卒業ということですが、
関西との縁というのは、松下入社が初めてですか。
そうですね。それまでは関西とは全く縁がなかったですね。遊びに来るぐらい。