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みなさん、おはようございます。今日は【初空月】がおくりたいと思います。
今日お話したいと思うことは、【白骨の御文章】と言われる教えです。
ちょうどお盆のタイミングなので、こんな話はどうかなと思って、ちょっとだけお話しさせていただきたいと思います。
それでは、白骨の御文章を読ませていただきたいと思います。
それ、人間の不祥なる姿をつらつらかんずるに、おおよそはかなきものは、この世の死、中、十、幻のごとくなる一語なり。
されば、いまだ万歳の人心を受けたりということを聞かず。一生すぎやすし。
いまに至りて、誰が百年の業態を保つべきや。
われや先、人や先、きょうとも知らず、あすとも知らず。
おくれ先立つ人は、もとの雫、末の露よりもしげしといえり。
されば、あしたには高岩ありて、ゆうべには白骨となれるみなり。
すでに無情の風来たりぬれば、すなわち、二つの間なこ、たちまちに閉じ。
一つの息、長く耐えぬれば、高岩むなしく返じて、通りの装いを失いぬるときは、
独身、犬賊集りて、嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしも、あるべきことなれねばとて、野外に送りて、弱の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみの残りけり。
あわれとゆうも、なかなかおろかなり。
されば、人間のはかなきことは、老少不上の境になれば、
誰のひとも、早く五生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏もうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
現代語訳を読んでみたいと思います。
人の世の儚い様子をよくよく考えてみると、
この世は常に移り変わり、幻のような一生です。
いまだかつて万年も生きた人は聞いたことがありません。
一生はすぐに過ぎてしまいます。
今まで、誰が百年の命を保つことができたでしょうか。
私が先か、人が先か、今日かもしれず、明日かもしれません。
今から命を終えていくものは、草木のしずくや梅雨のように、
気づいたときには落ちてなくなります。
朝には元気な顔であっても、夜には白骨のなってしまう身なのです。
無情の風が吹けば、二つの目は閉じて呼吸が止まり、
元気だった顔も虚しく変わり果て、
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家族や親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうすることもできません。
また、いつまでも悲しんでは折れず早々の準備を整えて、
儀礼を行い、化葬して煙となってしまえば、
ただ白骨だけが残るのです。
なんと哀れで虚しいことでしょうか。
このように人間の儚さは、若い者も老いた者も関係がなく、
全ての人は一刻も早く命の行く先を考えて、
阿弥陀仏の願いを深く受け止め、
南無阿弥陀仏と唱えるべきです。
恐れ多いことです。もったいないことです。
と、最後に宗教勧誘が入るんですけれども、
とりあえず一生なんて過ぎやすいし、
今を生きるしかねえんだよっていう感じのことですね。
私はそういうふうに解釈をしています。
今がお盆ということで、
故人を忍ぶとか思い出すことって多いと思うんですよ。
で、白骨のお踏みにちょっと関わる話といえば、
私の母方の祖父の葬儀の時に、
お坊さんが言ってくれた言葉の中で、
葬式の場所って悲しいだけじゃなくって、
故人を忍ぶことっていうのは、
その人の人生をたどって、
その中から自分が、
あ、これは生かせるなって思うことを見つけて、
自分の人生に生かしたり、
そういうことを考える時間でもあるから、
これは決して悲しいだけの場所じゃないんだよって言ってくれたことです。
皆さんは今回お盆祈祷する人もいるのかな?
お墓参り行ってる人もいるのかな?
もし、あの時おばあちゃんがねとか、
あの時そういえばおじさんがとかって話す時があったら、
少しでもそんなことを思い出して、
その人から何か得られるもの、
こういうことを、
あ、そういえばやってたな、
そういえばこんなこと言ってたなっていうことを、
思い出してみるのもいいかもしれませんね。
それでは今日は私にしてみれば、
ちょっと長くなった配信ですけれども、
お聞きいただきありがとうございました。
それではまたバイバイブー!