多分なんかそのね、バックグラウンドが調べていくとすごい出てきたりしたんですけど、
じゃあ軽くちょっと強平先生のですね、経歴というところもちょっとご紹介できればなと思うんですけど、
残念ながら今年のですね、2020年の10月7日にお亡くなりになられてるんですけども。
ちなみに津泉強平という人物を一切知らない人もいると思うんで、ちなみにあのめっちゃ有名な曲とか最初に言っておくとイメージあるんですか?
そうですね。代表曲ね、もうこれはね、もう言い切れないレベルでたくさんあるんですよ。
古い曲からね、一番津泉先生の中で売れてる曲っていうのが、ジュディ・ヨングの魅せられてですね。
これが未だにこの作曲家としての、日本のギネスではないんですけど、一番売れた曲という風に言われてるんですよ。
ちょっと古い曲なんでね、若い方はご存知ない方もいると思うんですけど、我々は本当によく知ってる曲で。
あとはもうそうですね、マッチで笑っちゃったんですけど、近藤雅彦さんのスニーカーブルースとか、キンキラギンにさりげなくとか、まあ80年代のね、定番の曲とか。
あともうね、ちょっとキリがないんですよね、もう言い始めると。白亜佑美さんのやっぱブルーライト横半とか、あとは松野真彩さんのトンデトンブルーとか。
80年代ってそういったところがすごいね、めちゃめちゃ名曲としてね、あると思うんだけど。
あと斉藤幸の卒業とか、古いねちょっと。
僕も実はつつみ強兵オーチャーだったりとかしてですね、90年代以降ってあんまりないじゃないですか、最近のJ-POPのって。
でも僕は全部追ってたから、中学生の時からこれつつみ強兵だとかって聞いてたんですよ。
いまだに調べてなくても分かるんですけど、まずね、99年ぐらいにキンキキッズのやめないでピュア。
これ僕当時中学生ながらつつみ強兵かって思いながら聞いてて。
そしたらね、その後ぐらいにね、阿部浅見。
阿部浅見さんね、あのお姉ちゃんね。
お姉ちゃんでしたっけ。
妹だっけ。
妹、妹。
あの人の曲作ってたりとかして、これもつつみ強兵かって思いながら僕は聞いてたし。
意外とハロプロにね、ちょっと曲提供してたりとかしてんだよね、実はね。
あとはあれですね、TOKYOのアンビシャストジャパン。これが一番有名かもしれないですね、最近だとね。
これはね、つい最近ね、かんじゃにのね、かんじゃむっていう番組でもやってた。
これなんか、そのBE AMBITIOUSのいかにすごい曲かって。
あとは、実はその電波組ドットインク。電波組にも曲提供してたりするの。2010年以降。
最近、もう全然、最近まで全然元気でしたよ。
しかもなんかね、あの強兵先生ってあんまこう選ばないんですよ、その提供する人とかね。
いわゆる売れてる人だけに提供するわけじゃなくて、結構インディーズの人に提供してたりとか。
だから知られてない、あんまり知られてないその名曲もね、あったりしたりするんですけど。
だから幅広いよね、ほんとね、もう。
いわゆるさ、石田愛美さんみたいな、ほんと歌謡曲のさ、初期のレジェンドみたいな人にも提供してるし、
少年隊とかにも、それこそやっぱジャニーズに提供してたりもするし。
やっぱりその歌謡曲のレジェンドの筒美強兵という作曲家が、最近のそういうポップスに提供したときの曲が僕すごい好きで、
なんかこう、なんかちょっとした暗さだったりとか、哀愁がちょっと漂うんですよ。
それは僕、阿部アサミの曲を聴いたときに、なんかすごい感じて。
阿部アサミちゃんに結構曲作ってるんですよね。
そうそうそうそう。
あとね、中間ユキイとかにもね。
中間ユキイは歌を歌ってるんですね。
歌歌ってたんですよ。
実はちょっとだけ歌ってたんですよ。
極戦とか出てるとき。
そう、初期の頃に。
だから、そう、ほんとだからね、曲の数が半端ないから、
ほんとその、まあ有名な曲もほんとたくさんあるんですけど、
それこそほんとね、まああんまり知られてないけど、すごい良い曲みたいなのもあるし、
で、あとこれ意外にさ、これ知られてないかなと思ったんですけど、
サザエさんのオープニング曲とエンディング曲って共編奏なんですよ。
そうなんですね。
でさ、やっぱルーツ掘ってったらさ、
共編奏って言わない、黒人音楽に行くんですよ。
黒人音楽に行くと思って、
ちゃんとね、入れてるんですよ。
あのサザエさんの曲とかに。
やっぱその60年代のモータンサウンドって言われる、
やっぱソウル系の音楽のエッセンスをちゃんとサザエさんの曲にも入れてたりしてて、
だからやっぱりそのさっきちょっと言ってた外国の音楽に影響を受けて、
それをどう日本の音楽として変換していったかっていうのは、
やっぱり結構つつみ先生なりのポリシーがあって、
ちゃんとそのエッセンスを盛り込んでたりしてて、
その辺はすごい魂を感じるというか。
そういうところを見ると、
アーティストではなく明らかに作曲家って感じがしますよね。
そうなんですよ。
で、これはたださんもご存知かもしれないですけど、
つつみさんってつい最近までほとんどメディアに出てこなかった方なんですよ。
何なの?名前すらも知られたくないみたいな、あったらしくて。
で、あのね、だから顔を知らなかった人が多かったんですよ。
で、つつみ強兵っていう人が本当に存在してるかどうかっていうのがわかんないレベルで、
ゴーストライターなんじゃねえの?みたいな噂が立つレベルで、
だって昭和の歌屋曲はほとんどこの人が作ってたりするからさ。
確かに確かに。
で、昔の番組って作曲家とか出たじゃないですか。
作曲誰々。
作詞松本隆とかさ。
でもみんなさ、つつみ強兵だからさ、こいつ誰なんだ?みたいな。
確かに確かに。
ほとんどこいつ作ってるんじゃないかみたいな。
ちょっと不思議な名前だしね。
そうそうそうそう。
で、その割に出てこなかった。テレビとかに。
だから、やっぱり本当に裏方に徹するっていうマインドが非常に強い方だったらしくて、
当然作曲家たるものは歌詞より目立つものではないぞという、
多分すごいそこの職人っぽい、やっぱクリエイターっぽい感じというか、
やっぱすごい天面に出てる方だったんだろうなっていう。
だから結構ね、有名なんだけど謎多き人みたいな感じだったらしいよね。
僕だからそれこそ前に特集番組みたいなの見た時にピアノ弾いてたんですよ。
結構ガッツリつつみ強兵スペシャルだったから、
最後自分の曲だったかをピアノで演奏するっていうのがあって、めっちゃ上手くて。
それはそうなんですけど、つつみ強兵がピアノ弾いてるってなかなかイメージないじゃないですか。
いや、わかんない。全然イメージがない。
それはそうだろうなと思いながら。
結構さ、でもなんか、これで僕もちょっと最近亡くなられた後に特集されたテレビで見たんだけど、
かなり特殊な音楽の作り方する方だったらしいですよね。
だから、いわゆる音楽理論で言う原則とかあるじゃないですか。
何小節のリズムが続いて、Aメロ、Bメロとか。
つつみ先生って何小節とかっていうのもバラバラにイントロ作ったりとか、
あとはBメロなくて急にAメロからサビに行ったりとか、
そういう変則的な音楽を作る方だったらしくて。
なんでかって言うと、そこもすごいなと思ったんだけど、
いわゆる歌手の人、歌い手さんが一番歌いやすい形に編曲するらしいんですよ。
作曲はつつみ先生がやって、編曲家に歌いやすいように編曲してっていうオーダーを投げるらしくて、
例えば歌いづらい部分があったら削っちゃうみたいな感じで、
じゃあもうBメロなしにして、一番歌いやすいやつにしようよって言って。
もしかしたら作曲家だったら逆に、それを歌うのが歌手だろうって言いそうですよね。
でもなんか、つつみ先生のすっげえいい言葉で、
歌手が歌えないような曲を書くのは作曲家の仕事ではない。
徹底的な職人としてのポリシーが強い方で、
その歌い手さんにどう歌わせるか、歌ってもらえるかっていうところを一番に考える作曲家さんだったらしいですね。
この歌が面白いんだけど、藤井隆さんが何かに曲を提供したことがあったらしくて、
作詞が松本先生の。
絶望グッズバージョン。
そうそう、絶望グッズバージョン。
いい曲、いい曲。
すごいでしょ。作曲がつつみ強兵、作詞松本隆。
ゴールデンタックみたいなね。
でも松本先生の書く歌詞がちょっと難しかった。
藤井隆が歌えないフレーズがあった。
つつみ先生が歌いづらそうだから書いてあげない方がいい。
歌詞変えさせてあげるらしい。
松本隆にそれ言えるのはつつみ先生くらいしかいないわけなんだけど。
全然違うよね、本当に。
そういうところがプログレから来てるってことなんでしょうね。
なるほどね。
そこは小室さんにはないプログレっていう、
もっとクラブ音楽だからさ。
小室さんの方が影響を受けてるよね。
あ、そう。面白いですね。
プログレの路線で言ったら絶対ELT売れなかったもんね。
そうですね。
誰が聴くんだみたいな。
でもさ、確かによく聴くとちょっと入ってんだよね。
ギターのフレーズとか、編曲の仕方とか、コンポーズの仕方とか、確かにわかるな。
あとオマージュに近い形でそのまま入れてたりするやつも多いらしくて。
やっぱだからそういうのは、
これはね、筒美京平先生も当然作曲家、編曲家として歌手の方に提供して、
そこで新しく生まれてるエネルギーとかもあるから、
そこをそういう作曲家、編曲家の人が下支えして発揮させるっていう、
井河さんもそうだと思うんですけど、
そういうのはすごいね。
科学変化が起きる状況を、やっぱ下手なっていうとあれですけど、
作曲が前に出ちゃうとさ、どんどん行っちゃうわけじゃないですか、前に。
作曲の曲の凄さだけがね。
そこをコンビネーションを生まれさせるっていう凄さね。
あとね、京平先生、もう一つちょっと意外なところで言うと、
どれだけ影響力が大きかったっていうところなんですけど、
これもね、だいぶやっぱ先見の目が現れたんだなって思うんですけど、
これ、タモリクラブとかよくご覧になられてる方よくご存知だと思うんですけど、
近田春男さんっていう、もう骸骨みたいなおじさんいるんですけど、
ソラミミとかよく見る人はよくね、ご存知だと思うんですけど、
近田春男さんって、いわゆる日本のヒップホップ業界、ラップ業界の父みたいなの言われてるかたちで、
日本にラップ音楽を持ってきた人だったりするんですけど、
近田春男さんのソロデビューのアルバムとかをスティーミさんがプロデュースしてたりとかしてて、
楽曲提供したりしてて、そこでも結構新しい音楽を実は作ってたりして、
だから日本のラップ業界の礎のところも、実は京平さんのエッセンスが入ってたりするっていう、
これも面白い話なんですけど、
だから僕が好きなラップ音楽とかっていうのは、実は京平魂がルートをたどっていくのが入ってるっていう。
あと90年代中盤の渋谷系のブームとかも、
90年代入ると京平さんの楽曲の提供のペースが落ちていくじゃないですか。
後半まではどんどんすごい提供してたんだけど、
95年の小澤健二とタックを組んで渋谷系のプロデュースみたいなのもやってたりしてて、