1. 「大人の近代史」今だからわかる日本の歴史
  2. 第19回 日本初の女優「貞奴」
2021-06-08 24:32

第19回 日本初の女優「貞奴」

日本初の女優と言われる近代史をまさに生きた貞奴。 またの名は川上奴という。 芸者、女優、愛人として生きた波乱にみちた紆余曲折の人生はとっても刺激的。 そして世界中に愛される大スターとして女優の地位を確立し、怒涛の人生を送る。 今では多くの女優が活躍しているがその基礎をつくったのがまさに貞奴。 彼女を通して近代史の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。 また、リクエスト、感想は匿名メッセージサービス「マシュマロ」からも受け付けています。 


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00:04
たった一人、あなたに届ける。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いしまーす。
え?突っ込んでいいの?
何それ?
なんか、ほら、たった一人でもさ、こうやってなんか今聞いてくれてる人がいたら、
本当にそれだけで嬉しいな、みたいな。
あー、それでその人に向けて届けましょう、みたいなね。
そうそうそうそう。
何の授業やねん。
まあ、そういうまあ、こんなんで。
ちょっと今日はね、「大人の近代史」ってタイトルじゃん。
でも、「近代史」って言ったら、もうこの人みたいな。
お、有名人出てくる?
もう何だろう、近代史の王道というか、自分の中でももう、
ザ・キング・オブ・近代みたいな。
そんな人いた?
そんな近代史だぞ、みたいな人いたっけ?
そうそう。まあ、今日の主人公でもあるテーマなんだけども、
サダ・ヤッコについて話したいと思います。
はい、質問です。
どうなったの?
長丸知らない?
多分ね、リスナーの教わりくらい知らないんじゃないの?
ザ・キング・オブ・近代なんだけど、一応。
まず時代すらわからないよ。
本当に?
引っ張ってもあれなんで、
そうそう、この人ね、何をしたかっていうと、
日本初の女優って言われてる。
女?
そうそう、女性。
ヤッコって女の名前なの?
そうそう。まあ、本名はヤッコは舞台名なんだけどね。
で、この人は明治4年から昭和21年を生きた人なんだけど、
まさにその西暦だと1871年から1946年、終戦後ぐらいまで。
ちょうど本当に明治が始まって、その戦後まで生きた、
本当にキング・オブ・近代だよね。
クイーン・オブ・近代と言うべきかな。
そういうことか、キングじゃないか。ごめん。
まあまあ。
そうそう。
で、この人の75歳で亡くなったんだけれども、
この明治の始まりって、鎖国が解かれて、
外国製品がさ、一気に入ってきて需要が増加した時期でもあるじゃん。
なんか、例えば全員ではないけど、
女性とかコルセットとかしてスカート履いたりとか、
男性だったらステッキ持ったりとか、
ヤマタカボウっていうシルクハットみたいなね、
帽子かぶって、性を化していってるっていう時代だよね。
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で、さっき日本初の女優って、サダヤッコは言ったんだけども、
女優って定義って人によって難しいから、一応ちょっと辞書でね、
一応調べたのは、女優っていうと女性で、舞台やテレビ、映画などで、
人前で演技する職業の人、ことも女優って言うんだけど、
その当時さ、明治の初期だったら、もちろんテレビも映画もないわけじゃん。
ということは、舞台でしかないわけですよ。
人前で、それは女性も男性も関わらずね、演技するっていうのは、
舞台の上でしかなかったんだけど、
女優って聞くとさ、今だと誰だろう、
沢尻エリカとか、
なんでそこ出てくんだよ。
あさき、のぞみとか、あんとかね。
なんかスキャンダラスのやつやばっこだな。
ちょっと訳ありなとこ行って。
なんでさ、今だったらガッキーとか出てくるでしょ、どっちかっていうと。
そういうことか。
ちょっとごめんなさい。
偏った感じ。
偏りすぎや。
あるんだけども、
女性って、じゃあそれまでって、
女優というか舞台で演じてる人っていなかったのかっていうと、
歌舞伎とかのがあるわけじゃん、昔から。
あるね。
だけど、これって男性社会というか、
もう男性が踊ってるわけ。
踊ってるというか演じてるわけよ。
正確に言うと、歌舞伎は1603年ぐらいから、
江戸の初期ぐらいから最初女性が演じてる歌舞伎踊りっていうのから入って、
最初女性の、それを真似た女性たちが
女歌舞伎っていうのをやり始めたのがきっかけで歌舞伎ができたんだけど、
実は1629年には風紀が乱れるというか、
男性が群がるわけじゃん。
男女の関係になっちゃったりとか、
中には女の人がストリップみたいにやったりとか、
風紀が乱れるっていうので禁止になったんですよ、1629年に。
そこから女性って人前で演じるっていうことはなくなったんですよね。
そうなんだ。
これが明治の初期まで1872年に演じること、人前で女性が。
これが解かれたわけですよ。
ただこの時もまだ男性と女性が一緒に舞台に立つとかいうのはまだダメだったんですよね。
でも歌舞伎に関しては今でも男性だけだけどね。
そうだよね。だって男が女の役やる。
そうそうやるぐらい。正確には10歳以下の小さい子だったら出れるっていうのはあるんだけど、
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男社会それは歌舞伎に関しては今もそうなんだけど、
この佐田役子なんだけれども、ちょっと老いたちから順次に説明していくんだけど、
本名は小山佐田って言って、
兄弟がまたやっぱ多いんだよね、12人ぐらいいて、その末っ子として生まれる。
裕福な武家出身だったんだけれども、
生まれるちょっと前ぐらいからからもう裕福だったんだけど、明治維新が起こって、
当時裕福だった人たちが一気に崩れていくというか、
爆反体制が崩壊して身分がひっくり返るというか、
今までの裕福だった人がいきなり締め出しを食らう人って多かったのよ。
この人は例えば両替屋をやってたのね、両親が。
両替屋って新しい銀行制度ができてきて、
そもそも個人でやってる両替屋って全然稼げなくなってきたわけよ。
一気に12人も子供がいて、養うことができないっていう風になってきたわけよ。
この役子、小山貞なんだけども、
4,5歳ぐらいの時に浜田屋っていう芸妓の置き屋って言って、
芸妓さんがいっぱいいるようなところに売られたわけですね。
当時はこういうのって結構珍しくないらしいんだよね。
いわゆる人身売買じゃん。
実際にこの1872年に、
すでに人身売買は違法っていう風にはなってたんだけど、
実際やっぱりそういう人が多かったっていうのは実情なんだよね。
現実と建前とって感じだよね。
そうそう。
この人は芸妓さんだねとして、
亀吉っていう人に色波を叩き込まれて、
作法だったり踊りだったりとかっていう、
あとはお客さんとの接し方とか。
本当に一生懸命訓練を重ねて、
本当に人気の芸者さんになっていくんですよ。
その時の座敷名がヤッコなんですよね。
まだこれは全然女優とかじゃないんだけれども、
ただ一つの芸子さんだよね。
その時に15歳ぐらいの時に、
慶応義塾大生の桃助、
偶然出会って恋にちょっと落ちるわけですよ。
だけど当時好きな人とそのまま結婚っていう時代じゃなかったから、
運命は自分で決められないような世界だったから、
ましてや芸子の世界で生きなきゃいけないわけじゃん。
自分一番衝撃だったんだけど、
見習いの芸子さんがこの15歳ぐらいの時に、
09:01
一人前の芸子になる通過切れがあるんだよね。
これ水あげてるんだけど知ってる?
いや知らない。
いやこれね、来てるお客さんの中で一人選ばれるんだけど、
特に財力の豊かな人っていうのが、
見習いの芸子さんを一人前の女にするっていうか、
要は愛人になるんだよね。
要は諸情を捧げるみたいな。
そろそろ小片郎の好きそうな話になってきたね。
これはちょっと本題じゃなくてびっくりしちゃって、
小さな家1軒ぐらい買えるぐらいの、
かなりの金額で取引をされるみたいで、
今じゃ考えられないけどさ、
しかもその当時財力が豊かな人って、
客として来てたのは伊藤博文だったんだよね。
一番財力と、そして地位と名誉もあった、
その当時の内閣総理大臣だよね。
の愛人になるんですよ。
15歳から3年間ぐらいずっと。
愛人だったわけ?
信じられなくて。
だって当時30歳ぐらい年上なんだって。
だからもうなんかさ、本で読んだ時に、
いやもう伊藤って思っちゃったね。
何これって思って。
なんかあれだね、伊藤博文の像が崩れていく感じだよね。
もちろん反面政治的にはすごい、
いろんな革命的なことしてるんだけども、
プライベートというか、
女性遊びってこの人すごかったらしいね。
そうなんだ。
実は奥さんも2人目の奥さんは芸妇さんなんですよ。
結構そういう遊びもしてたって時代なんだよね。
これ結婚してるんですよ、伊藤博文この時も。
だけど公然としてそれが許されてる時代なんですよね。
今じゃ考えられないからね、それ。
考えられないよね。
だって菅首相がさ、今15歳の女の人に手を出したらさ、
もうそれだけでさ、やばいでしょ。
てか逮捕案件だよね、それは。
逮捕?逮捕だね。
三毛市都会じゃなくて逮捕してたよ。
すごい時代だなと思っちゃって。
ごめん、全然そっちにそれちゃったんだけど。
いいんだよ、それでいいんだよ。
好きな方の話題に行こう。
で、その後ね、愛人生活終わって3年間で。
伊藤博文はね、ずっと束縛するっていう感じじゃなくて、
あとはかけながら支援とかバックアップしてくれたんだよね。
そう、だからこの役子はもう島田ではすごい有名な芸者さんにますますなってったんだよね。
で、その後こう有名な力士と付き合ったりとか、
12:02
あとは演劇界でね、新しい風というか熱狂的な人気があった若い劇団があったんですよ。
それを率いてた音次郎に出会うんですね。
そう、これがね、当時の政治とか世間を風刺的に演じたりとか歌ったりっていうような、
例えばなんだろう、みんな西洋の服とか一気に出して西洋人の真似したりとか、
それをこう皮肉にというか風刺的に芝居したりとか、
芸者に針金つぎ込む人々を風刺的にこう演じてみたりとかしたんですよ。
それがね、すごい人気を得て、なんだろうな、自分思ったのはエミネムみたいだよね。
エミネム来たか。
これ聞いてる人たぶん知らない世代かもしれないですけど。
いや、エミネムぐらい知ってんじゃないかな。
ラップ調でこう一気にさ、こういうわけじゃん、エミネムは。
実はね、おっぺけぺー節で言ってるわけです。
そういうおっぺけぺーっていう言葉を入れた歌を流行らせたんですよね。
でも本当にね、チケットも取れないぐらいの人気の人で、
当時さ、歌舞伎とか能ってあったけど、それってさ、なんか筋書きが決まっててさ、
なんか儀礼的な感じでさ、自分の思いをストレートに言うような劇じゃなかったわけですよ。
だからそれを新しい流れをシンパって言うんですよ。
で、それまで古いというか、歌舞伎とか能っていうのは旧派って言われて、
で、この新しいシンパっていうのを作ったのが、おとじろって言われてて、
当時有名だったその2人が、ヤッコとおとじろが出会って、
それがもう恋に落ちるわけですよ。
惹かれあってね、お互い。
で、22歳の時に2人は結婚して、これが彼女の運命を変えたというか、
実はね、結婚したらヤッコはおとじろのバックアップというか、
やっぱ当時の日本的な女性だったら、男性をかけて支えるみたいな、
そんな感じに徹したわけですよ。
有名な芸者さんだったんだけども、
で、おとじろって、でもやっぱり当時の男性って、もうそうなんだけど、結構女遊びってすごかった。
その反面ね、芝居とかかなり追求して、独学でね、一人でパリに行って学びに行ったりとか、
すごい熱心なところもあったんだけど、
そんなこんなで、時は日清戦争が始まるわけですよ。
日清戦争を題材にした戦争劇っていうのをね、初めて取り入れたのもおとじろって言われてて、
おとじろの一座があって、その一座でみんなでやってたんだけど、
で、これがね、結構また受けて、皇后陛下の前で演じてたりするんですよ。
それぐらい有名となったんだけれども、
お金にはね、無頓着なところがあって、
自分たちでね、劇場立派なのを作ったんだけども、
15:03
それでね、多くの借金をして、実はね、なんかそれが返せなくなって、利息とかがどんどん溜まっていって、
借金取りに追われるようになっちゃったんですよ。
で、ヤッコとおとじろはどうしようって途方に暮れながら、借金取りから逃げるようにボートを買って、
海でね、何にもエンジンもない時代だから、風に任せてボートで逃げたっていうのもあったんだけど、
すごい結構ね、無茶な感じなんだけど、
そんな中ね、串引ユミンドって人に出会って、この人がアメリカの実業家というか、アメリカで成功してる人だったの。
その人がね、なんだろう、この一座をアメリカに連れてったらちょっと面白いかもしれないっていうので、
アメリカのサンフランシスコに連れていくんですよ。
これがまた運命というか、その当時サダヤッコはおとじろを支えるためについて行っただけなんだけども、
一切アメリカに行ったら、当時ね、女優の人気ってすごかった。舞台女優。
女性が活躍できる場所があったわけよ、アメリカもその当時から。
行ったさ、おとじろの一座はさ、男性だけの演者なのよ。
女性役も男性がやってたんだけども、それだと客が全然集まらないわけよ。
そこでサダヤッコが出てくるわけです。
当時は劇に参加する予定はなかったんだけども、ずっと芸者として踊りとかも4歳の頃からやってるわけだから、
舞台の上でそれを和装で芸者の格好で踊ったら、それが絶賛なわけよ。
西洋人って芸者にはすごい興味があったところがあって、この妖艶な踊りを見て、すごい感動したんだよねっていうのがあって。
この時に名前を本名のサダっていうのと、演劇名のヤッコっていうのを合わせてサダヤッコにしたんだけど、
ただここで上手くいくと思ったんだけど、実はこのアメリカに連れてきてくれた、支援してくれた人が、
お金をキャンブルに使い込んで、実は劇場代とかホテル暮らししてたから、ホテル代っていうのを払わずに持ち逃げしたんですよね。
お金がなくなっちゃった状態で、ホテル側とか劇場側から持ち物って没収されちゃったの、お金払ってないから。
何日も食べられない状態が本当に続いちゃったっていう。
でもやっぱりどこかで演じればお金が稼げるって思って、必死に必死に一軒一軒回って、
やっとの思いで一つ舞台先が決まって、ただみんな何日も食べてないわけよ。
だから本当にフラフラになりながら、佐田役子が言うには、最後自分が死ぬシーンがあるんだけど、
18:03
もう力が出なくて本当に倒れて起き上がれなくなったって、ぐらい過酷な状況で演じたんでね。
この極限の状態が逆に本当のリアルじゃん。
またこれですごい演技だってことになって、あとは西洋のアメリカに合わせて、
恋愛っていうのは万国共通だってことに気づくんですよ。
言葉が通じないわけじゃん。
だけど恋愛物って言葉が通じなくても何かわかるというか、通じ合うものがあって、
なんでここで芸者と武士っていう人権目が作られるんだけど、芸者と武士が壮絶な恋愛をするっていう物語なんだけど、
こういうカスタマイズしながら西洋に受けるような、それなおかつ日本の良さを出すみたいな、
そういうのをやっていってアメリカで大成功するんですよ。
ただね、ここでまたちょっと悲劇があって、この一座の中で女性役を演じてた男性の2人がいるの。
この人はなぜか亡くなっちゃったんですよね。
これ何でだと思う。
え?なんで?
これヒントは女性役なんですよ。
女性役?
そうそう。
女性役だと亡くなっちゃう?
これ伊藤博文の次にちょっと驚いたんだけど。
じゃあちょっと意外なんだ。意外っていうか。
意外、そうそう。自分は知らなかった。知ってる人は知ってるかもしれないけど、
女性役ってさ、白いお白いってめっちゃ塗るじゃん。
これにね、当時鉛の成分っていうのが入っているんだって。
あー、なんか気どこだったんだそれ。
本当に。これをさ、しかもアメリカで必死にずっと演じ続けて、ほとんど休みもない状態でやってたから、
ずっと塗った状態が続いて、鉛中毒になる。
で、例えば神経麻痺とかになって震えが止まらなくなって、そのまま亡くなっちゃったりとかしていっちゃうんだけど、
そういうのがあって、これさ、1934年までさ、鉛入りのお城って使われてたんだってね。
で、ここで禁止になって、それ以降は今もそうだけど、鉛が入ってないお城が使われてるっていう、ちょっと小ネタだした。
小ネタかどうかわかんないけど。
そうそう、これちょっと衝撃だった。
で、これからさ、アメリカ、サンフランシスコが行って、実はね、シカゴ、ワシントンって横切って行くわけよ。
これってさ、どっかで聞いたことあるよね。
これ1回目と2回目でやった岩倉秩序さんとさ、結構似てる経路なのよ。
そしたらさ、この先どこ行くかって言ったらさ、やっぱりヨーロッパなんだよね。
この位置座って、アメリカだけに留まらず、イギリス、これから行ったわけですよ。
21:00
で、イギリスでロンドン公演もして、当時ね、ヴィクトリア女王の息子のエドワード皇太子にも見てもらってるんだよね。
そうそう。で、このエドワード皇太子も感動しちゃって、当時公室では拍手をしないっていう習わしだったんだけど、もう我慢できずに拍手しちゃったぐらいすごかったって。
しかもあとはピカソ。ピカソにも会ってて、今このサダ役校ってピカソに描いてもらってるんですよ。
ただピカソは無名だったの。19歳の時だったから。
でも今でもね、残ってるんですよ、それ。ピカソが描いたやつ。
逆に描いてあげてもいいわよぐらいの感じだったからね、多分。
あとはロシアとかも行ったりとか、ホント来てる岩倉施設に行ってんだけど、最終的に行きたかったのはフランスなんですよ。
フランスってやっぱり芸術の国というか流行の中心地だったんですよ、当時から。
で、そこでパリで行われてたバンコク博覧会に初ですね、おそらく日本人で初じゃないかな、劇をやってるんですよ。
でもこうやってね、アメリカに留まらずヨーロッパでも大絶賛を浴びて日本に帰国するわけですよ。
もう時のスターですよね、帰ってきた時には。
で、この人たちがやった革命っていくつかあるんだけど、例えば芝居に関してなんだけど、今まで一日がかりで朝から晩までやるような劇がほとんどだったんだって。
要は娯楽がなかったからさ、朝からみんな食べたりとか飲んだりしながら見るみたいな、一日がかりで。
だけどそれを4時間とか数時間とかで完結するように、今では当たり前だけどさ、持ってったっていうのもこの川上一座なんでね。
あとはね、舞台がさ明るくて観客席が暗いっていうこの照明の技法も今じゃ当たり前だけど、この川上一座が先行して取り入れたって言われてる。
あとは当時ね、チケット買うのに劇場の近くの茶屋から席と座布団を買うっていうのがあったの。
だから茶屋がね、ちょっとチケットプラス割増しの料金を請求するわけ。
だけどそれをやめて直接劇場でチケットを販売するっていう、今じゃ当たり前だけど、これもやったのも川上一座って言われてる。
だから3分の1ぐらいのチケットで購入できるようになってきたんですよ。
そうそう、今じゃだって近くのドトールコーヒーでチケット買わないですもんね。
買わんだな。
このね、あの佐田薬庫ってこれだけじゃ留まらずに、帝国劇場って自分たちの劇場でも立派なのをもう一度立ち上げるわけですよ。
前回はちょっと借金取りに追われて潰れちゃったんだけど、この帝国劇場っていうのを建てて、しかもそこに女優の養成所っていうのを作るんですよ。
24:00
これも日本初というか女優を育てるところ。
しかもその養成所でいる間はこの帝国劇場に演者として出るっていう。
これ宝塚歌劇団みたいな感じじゃん。
これをね日本初でやった人なんですよ。
この帝国劇場ってね、すごいお金もかかってて、実はね、創立に資金援助した人たちもすごい人たちなんだよ。
例えば渋沢栄一とかね、企業家。
今NHKで晴天をつけてやってるけど。
あとは大倉貴八郎とかね、この人は息子さんがホテル大倉を創業してる人だね。
大富豪、この当時も。
で、あとは福沢桃介って。
これ桃介ってちょっと多分最初に話したんだけど、15歳の時にちょっと小田舎になった人なんですよ。
この人は伝緑王ってもうかなり有名な人で、福沢諭吉のね、実はね、娘さんと結婚した人なんですよ。
そうそう、あの当時、慶応義塾大盛の時に、実は福沢諭吉と娘さんで誰を旦那さんにしようかっていうので、慶応義塾の運動会に来てたんですよ。
その時に桃介がなんかもうかなりイケメンでいたわけです。
で、彼にしたいって娘さんが言って、福沢家の元に突入みたいな。
無効養子なわけね。
そう、無効養子、無効養子。
で、桃介ってね、ただそれだけに留まらずに、自分でやっぱり福沢諭吉の元で終わるじゃなくて、なんか自分で事業をどんどん立ち上げたいっていうので、あと頭も切れたんですよ、やっぱり。
で、当時なかった日本初のね、水力発電ダムとかも建設してたんですよ。
へー。
そうそう。で、今でもあるね、京都と大阪を結んでる、電力供給している大井ダムっていうのも、この桃介が計画したんですよね。
へー。
そうそう。今でも名を残してる人なんだけど、この人のね、実は役子は15歳の時に小田舎になってたんだけど、この後ね、弟次郎が47歳ぐらいで亡くなるんですよ。
その後に二人はね、愛人として生活が始まるんです。
へー。
そうそう。だからこれが第二の人生っていうぐらい、結構長い間、二人で豪邸建てて住んだりとかして暮らすわけですよ。
うん。
そうそう。で、これもさ、不思議でさ、実は桃介ってだって福沢夫妻っていう福沢家の娘さんがいるわけですよ。
うん。
で、離婚もしてないの。
うん。
で、その晩年になって、その佐田役子が桃介を福沢夫妻の元に帰してはいるんだけど、それまでずっと一緒にいるの。
へー。
でも福沢夫妻も離婚せずに待ってるわけですよ。
うん。
そんななんか、世の中というかすごいよね。
ちょっと小片郎羨ましいんじゃない?
そこもカットだな。
27:00
なんで?なんで?
まあなんかね、そういうこう、この佐田役子って一人の人生をとっても、こう当時の時代背景っていうのが感じられたなみたいな。
うん。
で、1946年にこの佐田役子自体も75歳で亡くなってるんだよね。
うん。
だからまあこの人がね、そう未だかつてこう、世界中でこれほど人気があって、今でもいないんじゃないかな。こんなに有名になった人っていうのは女優でね。
うーん。
そうそう。で、この人はだから芸者で育って女優になって、最後愛人として、まあいろんな人生を生きた。
でさ、今でもこういっぱい多くの女優さんいるけど、その活躍している、まあ本当に基礎を作ったっていうのが佐田役子なんだよね。
うん。
以上です。
いやいや、その切り方なの?
そうそうそう。どうかな。
え?いや、俺まず佐田役子って知らなかったからさ。
あ、ほんとに?
あれだよね。だって日本のその女性で有名な人っていうとさ、当時ね、当時っていうかその近代史レベルでいうとさ、
例えば平塚雷長とかさ、それこそ津田梅子とかさ、
あ、津田梅子。
よさの秋子とかさ、なんかそういう人たちじゃない?どっちかっていうと。
そうそうそう。
女優だし、まあ芸妓から入ってるっていうのもあるから多分さ、教科書とかには乗らないのかもしれないけどさ、
でも偉業を考えたら多分相当すごい人だよね。
相当すごい。本当はね、ここでは語らなかったけども、経済界の有名どころとはもうみんななんか知り合いなぐらい。
すごいよね、この人。
教科書って結構ご都合主義じゃないけどさ、あんまりいいところだけ見せたいんだなっていう気はしちゃう。
そうそう。で、これさ、そこまでメジャーじゃないから、本はね、結構出てるんだけど、今回はね、本はね、取り寄せたぐらい近くになかった。
あ、そうなの?
そんぐらいちょっと頑張りました。
最後ね、ちょっとあの、さたやっこでね、アメリカに行った時に取材された時の言葉がね、やっぱその当時を物語ってる言葉だったので、ちょっと読みたいと思います。
日本の女性は男性のように教育も受けていませんし、その機会もありません。
私はこれまでずっと機会さえあれば、女性も男性と同じようにたくさんのことができるとずっと信じてきました。
女性がしたいことを行い、地位を得ているという外国の地をいつか見てみたいとどれだけ夢見てきたでしょう。とうとうそれが叶ったのです。っていうね。
確かに時代をついているというかさ、だって参政権ですらなかったわけじゃん、当時って。
だからやっぱその辺もついてるなと思う。
そうそう、やっぱり女性ってさ、なんか言ってたけどさ、女性が一家に家に生まれるとさ、やっぱ男性じゃなかったっていうのでさ、喜ばれないってことが多かったらしい。
30:09
ね、今じゃ逆なのにね。
そうそうそう。
そういうことで、今回は日本初の女優、佐田役子についてでした。最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。
24:32

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