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もっと戦争に動揺しなければいけない。始まりました。「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いします。誰の言葉?これは、フリーライターの竹田佐徹さんという方が、ちょっと文章で書いてて。
そうそう。この、ある本を読んで、こんな風に感じたことを書いてたんだけど、それが、今回テーマでもある
奪還という本の中で書かれた、北朝鮮に取り残された日本人が、戦後いて、その人たちが南側のその朝鮮に脱出するという実話なんだよね。
おもとに書かれた本で、今日はそれをちょっとテーマにやりたいなと思ってます。
はい、よろしくお願いします。長まろは、奪還という本知ってる?
いや、知らない。これね、昨年発売されたばかりの本で、割と、結構人気でさ。
そう、白内康信さんって方が書いて、もう本当にね、今日話すのはこの内容のもとに話してるんで、そう、まあ興味があったら読んでみてください。
俺っていうか、あれだね、聞いてる人に言ったんかな、今。
じゃあ、早速本題に移るんだけども、戦後のその北朝鮮の話なんだけれども、その中で松村義司夫さんっていうのを、特にこの奪還という本は取り扱っていて、
この松村さんっていうのは、その北朝鮮に取り残された日本人をね、直接関わったり間接的に関わって、脱出の手助けをしたんだけども、その日本人の数がね、約6万人ぐらいじゃないかって言われてる。
でね、これがね、例えば長丸がやった、杉原中根の外交官の方がさ、第2次世界大戦中にユダヤの難民にビザを発給して救ったっていうのがあるけども、これが約6000人って言われてるから、
本当、数で比べるってもんじゃないけど、その6万人って10倍ほどの人と関わっているんだよね。
そうそう。なんでね、この松村義司夫っていう人はね、引き上げの神様って言われるぐらい、その助けられた人たちがそう言ってるんだよね。
で、これはね、脱出することができた日本人の数多くの証言が残っていて、そういうところからこの本っていうのができているんだけども、ちょっと時代背景を言うとさ、
まず8月15日に極音放送があって、そこでまあ日本は徐々にその武装解除していくよね。で、この8月15日より、まあちょっと前のその8月8日に日ソ中立条約をソ連が発揮をして、
日本に宣戦布告をしたっていうのがあって、これでさ、ソ連が北から満州であったり、というところにさ、攻めてきて、日本人はこう南へ逃げるっていうことをしたんだよね。
これさ、満州だけじゃなくて、実はその朝鮮半島の北側の方でも、例えば北東部の町のラジンなんかは、ソ連軍が空襲をしてきて、南へ避難していくっていう状況があったんだよね。
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で、終戦時朝鮮半島全体で言うと、約70万人ぐらいの日本人がいたって言われていて、北朝鮮に住んでいたのは推定だけども、約25万人ぐらいいたんじゃないかって言われてる。
さらにさ、これソ連が北から攻めてきたからさ、北朝鮮には満州からの避難も含めると数万人プラスされているような状況なんだよね。
で、終戦後朝鮮半島っていうのは、北位38度線より北はソ連で、南はアメリカが軍を派遣して分割統治をしたんだよね。
これは終戦直前からソ連とアメリカとの話し合いで決まっていたって言われているんだけども、この38度線はさ、現在の北朝鮮と韓国の支配地域のこの凸凹したラインとは違って、当時は世界地図で言えば水平にピシッと引かれた38度線で引かれた境界だったんだよね。
で、朝鮮の南側っていうのは当時その約23万人ぐらいの日本の陸軍がいたんだよね。で、アメリカ軍が来るまでその日本の陸軍に並ぶような武力っていうのは存在しなかったんだよね。
だからさ、朝鮮の人による威嚇行動とかそういったものはあったんだけれども、大きな混乱は避けられたっていうのはこの軍の存在が大きかったんだよね。
で、その後侵畜してきたアメリカ軍の主導による行政なんかが行われて、そこにいた在留法人の早期総監を徹底して、1946年の春までに約45万人ぐらいの日本人がその本国へ引き上げが完了したって言われてるんだよね。
南はざっくりとこんな感じで、で、一方今回のテーマである北朝鮮って言っちゃうけれども、北側の朝鮮っていうふうに思ってもらえればいいんだけども、これは侵畜したソ連軍は1945年の8月25日までに北緯38度線を封鎖したんだよね。
これによって北朝鮮にいた日本人とか朝鮮人も含めて南朝鮮の移動ができなくなったんだよね。この封鎖される前に南朝鮮に渡った日本人は約5万人ぐらいいたんじゃないかって言われていて、ただそれまでに渡れなかった約20万人以上の日本人っていうのは北朝鮮に取り残されるってことになったんだよね。
北朝鮮には中戦当時約12万人ぐらいの日本軍がいたって言われていて、ただ南と違うのはその多くがシベリアにソ連によって連行されていったんだよね。これは軍人だけじゃなくて朝鮮総督府の管理だったりとか警察官まで連れて行かれたって言われてる。
これシベリアとか連行する目的っていうのは単純にその日本人法律を労働力にしたいっていうのがあって、それはソ連自体がドイツとの戦争でかなり疲弊していたっていうのもあってこういう行動をしたんだよね。
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それと南とは異なる点で、朝鮮人による人民委員会を行政の主体としたっていうところなんだよね。ソ連軍はあくまでも間接統治っていう方式をとって、南のようにアメリカ軍が主導で介入するっていうことをしなかったんだよね。
これで戦後の不安定な情勢の中に日本人の保護が置き去りになるような形になっていったんだよね。それによってソ連兵とか朝鮮人による略奪とか暴行っていうのが日本人に対して行われて、中には赤ちゃんの着物まで剥ぎ取っていかれたっていう証言もあるぐらいで。
若い女性なんかは傲観にあったりとか、そのため日本の女性っていうのは当時髪を短くしてすすを顔に塗ったりとかそういった対策をしたんだよね。住んでいる住居に対しても、もともと日本人が住んでいた住居はソ連とか朝鮮人に奪われるような形になって別の場所を割り当てられて暮らすっていうことになったんだよね。
そこには大量の日本人が暮らすことになって、多いところでは1畳あたり10人ぐらいいたっていうような証言もあるから、これすごいよね。
そうだね。なんか1畳、みんな立ってる状態でしょ。もはや座れないと思うんだよね。
足伸ばせないよね。まずね。絶対。
そうだね。寝るときは重なって寝るしかないよね。
すごい環境で、しかも食料もなくなっていって栄養失調になるっていう人たちも多くいて、また北朝鮮は厳しい寒さがあって、その中で畳がなかったりとか窓ガラスが割れてるような劣悪な環境だったんだって。
感染症が猛威を振るって、不衛生な環境だから発信地物とか石利っていうのが流行したんだって。
それで抵抗力の弱いものからなくなっていくっていうことがあって、どんどん死者が増えていって、仮想できなくなって、簡易的に日本人自ら穴を掘って、3段4段死体を重ねてその土をかけて埋めたっていうのが書かれてたんだよね。
北朝鮮で死亡した日本人の数って、終戦後から1946年の春までだと約2万5千人とか6千人ぐらいいたって言われてる。
だから日本人がいる場所を死滅の村とか飢餓の村って言われたぐらいそんな状況だったんだよね。
こうした悲惨な状況の中、日本人の救済を目的に現地の日本人らが有志で結成して日本人世話会っていうようなのを組織するんだよね。
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これね、ソ連軍とか朝鮮側との交渉を試みるんだけども、全然最初その相手にされないんだよね。
例えば日本人世話会には全部じゃないけども、もともと国家機関で働いてた管理の人だったりとか、朝鮮にいる時に支配階級側にいた人が多かったって言われてるんだよね。
だから交渉しても朝鮮人は以前からの支配体制に不満を持っている人が多かったから、交渉すら応じようともしないっていうことがあったんだよね。
そこに冒頭でも言った松村義塩っていう人が現れるんだよね。
この人がロマンスの神様どうもありがとうじゃなくて引き上げの神様って言われた人なんだよね。
なんでネタをいちいちぶっこんだよ。そこで。
この松村っていう人が日本人の多くを北朝鮮から救済したんだけれども、彼はソ連軍とか北朝鮮側に顔が効いたって言われてるんだよね。
これなぜかっていうと、彼の経歴をざっくり言うと、彼は若い時から北朝鮮で日本窒素の工場で働いてたことがあったんだよね。
そこで労働条件が結構劣悪だったから、労働運動をそこで起こすことになって、彼もそれに加わってストライキなんかを行ったってことがあったんだよね。
この労働運動を行った中に、当時現地の朝鮮人の人たちも働いた人がいて、戦後その人たちが北朝鮮の新政権側にいたっていうこともあって、交渉がしやすい立場でもあったんだよね。
松村はその後、工場の後日本に帰って共産主義活動とかして、警察に目をつけられてたっていうのがあって、実際に検挙もされてるんだよね。
この本ではアウトサイダーっていうような書き方があったんだけど、危険視されてたんだよね、国に。
要はちょっと外れ者のような人だったんだよね。
再び彼は朝鮮へ行って、1945年の5月の時に、33歳の時だね。二等兵として軍に招集されるんだよね。
結構、33歳って何でだろうっていう理由まで書いてなかったんだけど、恐らく国として危険視されてた人物だったからとか、そういった理由があるのかなと思って。
彼は1945年の5月に招集だから、もう3ヶ月後には終戦になって、北朝鮮で終戦を迎えるんだよね。
彼はその後、ソ連軍に捕まって捕虜収容所へと連行される時に、自ら逃亡して逃げたんだよね。
そのまま連行された多くの人が、そのままシベリアへ抑留されたんだよね。
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だから、起点が聞くというか、彼は突然にそういう行動にしたんだけども、その後、北朝鮮で進駐したソ連軍司令部の食卓として働き始めたんだって。
これもすごいなって思ったんだけど、恐らく彼は中国語とか朝鮮語が当時話せて、語学が堪能だったってことから、そういう仕事をしたみたいなんだよね。
彼は日本人にソ連軍の意向なんかを伝える役もして、こういったことから、松村っていうのはソ連とか朝鮮の人に対しても顔が聞いたんだよね。
彼自身が共産主義思想に傾倒してたってこともあるし、労働者階級の立場っていうのもあって、
こういった経歴が、日本人救済のためにソ連軍とか朝鮮側に交渉役として話を聞いてもらえるってことになったんだよね。
彼は主に北朝鮮の中でも環境南部とか環境北部と言われている地域の日本人を救済したんだけども、
これは北朝鮮の東北側に位置するあたりなんだけども、この地域は北朝鮮にいた日本人の約6割ぐらいがいたって言われてるから、結構な人数がいたんだよね。
終戦直後、環境の避難民には米の配給自体もなかったんだって。
それを松村が交渉して、米の配給がわずかだけどされることになっていったんだよね。
彼はいろいろな交渉をしてるんだけども、一つ探眼書があって、この避難民たちは資本家ではない、搾取階級ではない、その多くは搾取されてきた労働者ではなかったかっていうような文言とかあって、
日本人の今の立場の改善を求めたんだよね。
あとは病院に日本人入るべからずっていう盾札が掲げられていたんだけども、これを交渉して、日本人も病院に行けるようにって言って、その盾札をなくしてもらったんだよね。
それでも根本的に食糧不足があって、栄養失調になる日本人が多くて、また感染症による死者っていうのは後を絶たないような状況だったんだよね。
そこで1946年の3月ぐらいから松村は集団脱出構想っていうのを考えるんだよね。
これは北緯38度線近くまでその日本人を鉄道なんかを利用して連れて行って、そこから鉄道から降りて徒歩で38度線を越境するっていうような構想だったんだよね。
当時ソ連としては北緯38度線を越えて南下するっていうことはもう禁止っていう立場だったから、そこを何とかソ連軍とか朝鮮側に、今人員が一部過剰になりすぎてて働く場もないし食糧もないしっていう生活の苦しさをひたすら訴えて、分散移住する必要があるって言ったんだよね。
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北朝鮮の南側の地域に人員を振り分けたいっていうことを言って、これがやっと認められて、最初は試験的になんだけども、1日30人ぐらい鉄道で南下して行って、そこから数十キロ歩いて北緯38度線を越えるってことに成功したんだよね。
その後次第に人数を増やしていって、数千人規模で北緯38度線を越えるっていうこともあったんだよね。これさ、規模大きくなりすぎてさ、さすがにバレるでしょって思うじゃん。
これね、成功した要因っていうのはもちろん松村の粘り強い交渉っていうのもあったんだけども、これはソ連軍とか朝鮮側の現場レベルでの黙認があったって言われてるんだよね。朝鮮側から日本人を大量輸送するためにも朝鮮側に専用車両を準備してもらったりっていうこともあったし、
そういった要因にはさ、北朝鮮っていうのは戦後、深刻な食料不足だったんだよね。朝鮮全体で言うと米の生産量は2600万国っていうのがあって、このうち2100万国は南側のその朝鮮の生産だったんだよね。
この米だけ見ても南より食料が豊富ではなかったんだよね。北朝鮮にいる日本人に対しても、わずかだけどさ、食料配布しなければならないっていうのもあったし、でも食料がない。そこで多くの死者が出てるし、だったら子供とか老人、女性なんかの移動だけでも認めてもいいんじゃないかっていう考え方が出てきたんだよね。
なんでその現場レベルでの黙認があったって言われていて、ただこれは地域差が出てさ、例えばぴょんやんなんかはすごく38度線の越境は厳しく禁止されていて、ぴょんやんってソ連軍の司令部があったりとか、北朝鮮政権の中心地だったから、日本人側が交渉するっていう機関が多くてすごく難航したんだよね。
そういったいろんな各地域のケースもあるんだけども、この38度線の越境ってすごく簡単なことじゃなくてさ、死の38度線越えって言われるぐらい命を落とした人っていうのも多かったんだよね。
いろんなケースあるんだけども、例えば北緯38度線から数十キロ離れた駅に降りて、そっから一週間ぐらいかけて山越えをしたってこともあって、その時の服装も十分なものでもなかったし、靴は粗末なものを履いてた人も多くて、山中を歩くと半日も経たずに底が抜けて足が血だらけになるんだって。
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あとは途中見つかってソ連兵なんかに銃殺されるって人もいたわけで、そういったことからもお母さんが乳児を置き去りにするっていうケースもあったんだよね。
これ赤ちゃんが泣くとソ連軍に見つかっちゃうからっていうので、苦渋の決断でこういうことが実際に行われてたんだよね。あとは通過させるためにソ連軍とか朝鮮側が金品を要求してくるってことも多かったんだよね。
避難民はそれでわずかに手元にあった金品を差し出して何とか通過したっていうのがあって、あとその場所によってなんだけど隣進港っていう100メートルほどの川幅があるところがあって、それを小型の船を使って人をピストン輸送して、
ただ船もわずかしかないから全員渡るのに半日ぐらいかかるっていう結構時間がかかって、やっとの思いでそこから38度線を越境したっていうのがいろいろな証言があるんだよね。38度線を越えたら米軍兵士に迎えられて米軍キャンプに入って、初めてその満足のいくというか食料が配給されて、その後日本に帰るっていうことができたんだよね。
これでどんどん越境していくって思われたんだけども、一時ソ連と朝鮮側の監視が厳しくなったことがあったんだよね。これは南朝鮮に進駐するアメリカ軍がソ連に抗議をしたっていうのがあって、
なんでかっていうと、米軍からすると北から大量に不衛生な脱出者が来るっていうんで、当時南朝鮮ではこれらが蔓延していて、その拡大防止のためもあってソ連側に越境を禁じるっていう対応を求めたんだよね。
これによって1946年の6月とか7月以降には、北朝鮮で日本人の移動禁止令っていうのが出たんだよね。これでしばらく越境ができないっていう期間があったんだけども、ただその間も朝鮮側とかに粘り強い交渉を日本人がしていって、徐々に再び脱出することができてきたんだよね。
最後の方は松村の計画で環境にいた残った約2000人ぐらいを一気に脱出しようっていうような構想があって、これが東南約20キロぐらい行ったところにソ連軍のいなそうな海岸で15隻ほどの帆船をあらかじめ手配していて、そこに2000人の日本人を乗せたんだよね。
ただこの船は動力のエンジンもなくて、風がないと動かない、ただの帆船なんだよね。だから最初風がなくて全然進まないっていうこともあって、そのうちに船に準備されてた食料もなくなって、もう本当に早くて1週間ぐらいかかってやっと到着したとか、遅くて10日半ほどかかって、北緯38度線より南の中門津っていうところに脱出にやっと成功したんだよね。
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その後も他の地域でもいろいろなケースがあって、多くの日本人が脱出することに成功してるんだよね。ソ連が北朝鮮にいる日本人の本国相関にようやく動き出したのは1946年の12月以降なんだって。
それは連合国側などからの批判が起こってきて、段階的に相関するという方針に転換したんだよね。ただその時すでに北朝鮮に残ってた日本人ってもう約8000人ぐらいって言われてて、その多くがすでに北緯38度線を越えて脱出してたんだよね。
そこには松村をはじめ有志による活動によって27万人以上と言われるような日本人が自ら脱出するってことができたんだよね。この本を読んで自分も思ったことがあって、北緯38度線を境に北と南で大きな差ができたなと思って。
アメリカはやっぱり速やかに日本人を本国へ相関したのに対して、やっぱりソ連っていうのはそれをしなかったわけで、そればかりか十分に暮らす場所とか食料さえもなくて、多くの死者を出したっていうのは本当にこの本を読む前には全然そんな事実知らなくて、本当に驚かされて。
日本人がただただかわいそうって思うだけじゃなくて、例えば日本人の立派な住居が奪われて、朝鮮の人が暮らしてた粗末な住居に住まなきゃいけなくなったっていうことがちょっと書かれてたのよ。
これっていろんな見方あるけど、例えば韓国併合した時に朝鮮の人の土地を日本人が実際に奪ったっていうようなケースもあったりするから、ここだけのピースを抜き取って考えると本当のピースは生まれないんじゃないかなっていうのもちょっと思ったね。
これが一番思って、松村義正っていう人がここまでする動機っていうのは一体何なんだろうっていうのが思って、彼は死の38度戦後へって言われるところまで避難民を送り届けて、また北朝鮮に戻って避難民を誘導するっていうことを何度も繰り返してるんだよ。
これもすごいし、彼は晩年日本に帰ってからも自分の功績を憎しにさえ語ってないんだって。55歳で彼は亡くなっているんだけども、亡くなって多額の借金が彼は残ってたんだって。
それは彼が終戦後の脱出工作のために自ら資本家から、その当時のお金で言うと41万2000円を借り入れたって言われてるんだよね。これ現在の価格に比較すると約1600万円ぐらいなんだって。
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これを彼は自ら借金を背負って多くの人を救ったっていう事実があって、さらにその活動がこうしていって各地で日本人脱出の動きが生まれたんだよね。
だからすごいこういう人がいたんだなっていうのを改めてこの脱韓って本で書かれてて、歴史に今までも自分を知らなかったし埋もれてしまった人を改めて知る機会ができて良かったなと思って今日はお話ししました。
はい。
いかがでしたでしょうか。
そうだね。小片郎の言った通りやっぱりこう歴史に埋もれちゃってる偉人っていうか素晴らしい人っていっぱいいてさ、今もなお埋もれちゃってる人って絶対多いと思うんだよ。
やっぱりそういう人を発掘するっていうのはものすごく難しい作業でもあるしさ、だからやっぱりその脱韓っていう本で改めてそういうスポットライトが当たってなかった人に当たるっていう機会を与えてくれたっていうところが一番やっぱすごいことだなって思ったね。
そうだね。俺なんかさこの本でさちょっと印象に残ったところがあってさ、ソ連が北から攻めてきた時に北朝鮮の人たちも逃げてさ、途中途中避難した場所で止まってまた南へ逃げていくんだけども、
そのさ止まった場所にまたその後ろからさやってきた日本人がまたそこに止まろうとするとさ、もうとてもじゃないけど止まれるような環境じゃなくなってるんだって。それ何でだと思う?
いや全然わかんないな。
これねなんかねもうそこら中うんこだらけなんだって書いてあって、そういう証言があってさ、でこれこそ戦争の不思議さ怖さっていうふうに言ってて、だから普通だったらありえないことがもうこれが行われるのがさやっぱ戦争なんだなっていう。
これって他でこうメディアとか教科書もそうだけどそういうのって取り上げないじゃん。でもなんかそういうのもこう知れて、本当戦争の不思議さ怖さってまさにその通りだなと思って。そんなお話でした。
じゃあ今日はですね、ダッカンっていう本から戦後のその北朝鮮のお話をしました。じゃあもしよかったらこの番組の評価の欲しいだったりとかいいねボタンを押していただけたら嬉しいです。
はいぜひともよろしくお願いします。
はいそれでは最後まで聞いていただきどうもありがとう。
なんだよそれ。