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先人に死し、職域に殉し、悲鳴に倒れたる者及びその遺族に思いを致せば、五代ために削く。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。なんか長いね。
長っ。今回はもうそのまんま、これ何だと思う?
いや、わかんないけど。
これは、玉音放送の一文なんだよね。
あ、そうなんだ。
そうそう。今日のテーマはもうそのまんま、この玉音放送をやりたいなと思います。
あ、やっぱりシーズンだからね。
まあね、この放送さえね、8月だからね。
うん。
っていうのもあるし、8月15日だよね、これ、玉音放送が流れたの。
うん、そうだね。
そうそう。今日はその、玉音放送と、それに至るまでの経緯なんかを説明できたらいいなと思って、
ちょっとこのテーマにしました。
ほい。
あ、ちなみにね、さっきこうバーって読んだところは、
戦場で亡くなった不幸な人々や、その遺族に思いを馳せると悲しみに耐えないっていう、
まあ、天皇のなんかメッセージが込められたとこなんだよね。
うーん。
そうそう。よくさ、玉音放送ってさ、
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍びみたいなとこが、
あー、有名だね。
そこだと、まあ、玉音放送ってわかるじゃん。
うん。
だから今、あえて全然違うところ読んで、
多分、リスナーの人も、これ何?みたいな、だったと思うんだよね。
だって、よっぽどじゃないと知らないでしょ、全文っていうかさ。
そうそう、知らないと思う。
自分もあんま全然そこの部分しか知らなかったもんだって。
これやるまで。
で、まあ、ということなんで、玉音放送とは、
1945年8月15日に昭和天皇がラジオとして終戦を告げる放送をしたっていうのが玉音放送って言われてるんだよね。
うーん。
玉音っていうのが玉音って書いて、天皇の声っていうらしいんだ。
あー、そういう意味なんだ。
そうそう。なんで玉音放送っていうらしいんだよね。
で、これね、時代背景から、今回ちょっと長めかもしんないんですけど、
日本っていうのは、どんどん大東亜戦争始まって、劣勢に追いやられてるわけなんだけど、
1942年のミッドウェイ海戦の敗北から、ガダルカナル島の撤退とか、サイパン、グアムの次々に撤退してったんだよね。
で、このサイパンの撤退で、B29って国旗が東京間とサイパンを往復できる距離になったわけよ。
これによって、東京にも大きく大空襲とか起こったりとか、後々どんどん劣勢に追いやられていくんだけども、
で、沖縄上陸があったりとかして、実はこの後にですね、1945年の7月に鈴木勘太郎内閣っていうのが誕生するんだよね。
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これが終戦に大きく傾いたというか、終戦内閣って言われるんだけども、
この内閣の存在っていうのはかなり大きいなと思って、今回思ったんだけど、漁港放送をちょっと調べてたら。
この鈴木勘太郎内閣って、終戦向けて動くんだけども、最初はソ連を仲介に挟んで日米の戦争を終わらせようとしてたんだよね。
そんな中に7月26日に、実はポツダム宣言っていうのは連合国からこの時に日本に発せられてるんだよね。
でも日本は天皇制の維持っていうのが明記されてないっていうのもあって、素直に受け入れなかったね、その時は。
さっき言ったソ連の仲介で和平の道を探ってたから、それも期待してたっていうのもあって、
このポツダム宣言を記者会見の時に鈴木勘太郎が黙殺っていう風に言うんだよね。
黙殺っていうのが当時世界では拒否したみたいな捉え方をしたっていうのもあったんだけど、
そんな中、その後に8月6日と9日に原爆が落とされるわけなんだけど、日本に。
これを思って、歴史にもしもはないけど、ちょっとポツダム宣言をすぐに自宅してたらっていうのはちょっと考えちゃうとこだね。
そうだね。
でも難しいだろうね、その当時の判断が。
より良い条件でお探ししてたと思うからね、難しいと思うよ、実際に。
そうだよね。
8月9日って長崎に原爆も落とされたんだけど、ソ連が中蘇中立条約を破って戦線布告してきたんだよね、日本に対して。
これでもうソ連を仲間に挟むっていう期待はもうなくなったわけなんでね、そればっかりかソ連がどんどん北から攻めてきて、
これ1日1日逃したらどんどん日本の、例えば北の北海道とかも遠慮されちゃうんじゃないかっていうような危機感も出てきたわけなんでね。
これで一気に終戦に大きく動き出すんだけども、一番大事なのが8月9日から10日においての午前会議が開かれたんだけど、23時50分なんだったね、これ時間。
すごい時間にやってんだよなと思って。
それどころじゃないからね。
これ午前会議っていうのは天皇を前にして会議が行われるっていう、本当に大事な時、決断をする時に過去にもそういう天皇を含めた午前会議っていうのは行われた経緯はあったんだけども、
ここで集まったのが、6人の最高戦争指導会議の構成員って言って、内閣の中でも権力を持っている人たち、鈴木首相と東郷外務大臣と与内海軍大臣とか、
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阿波見陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍需大臣とか、この6人なんだよね。
それに須光委員長の平沼貴一郎を加えた7人で会議が行われたわけなんだけど、ポツダム宣言をまずそのまま受諾して降伏するっていうのが、外務省中心に案が出たんだけども、
これに東郷外務大臣と与内海軍大臣と平沼貴一郎っていうのは、その案に賛成だったんだけども、他の人はこのポツダム宣言をそのまま受け入れるっていうことは、ちょっと受け入れられないっていうふうな立場を取ったんだよね。
意見が食い違ったのまま、鈴木首相を抜かして考えるのは3-3で分かれたのちょうど。これでもう決まらないって、それは会議をする前からもう意見が食い違ってるのは分かってあえてやったんだけども、そこで2時間ぐらい経ったときに鈴木首相が、もうこれはウルトラCだよね。
天皇の意見を直接聞いたんだよね。これって結構あり得ないことというか、大胆なことなんだよね。ここで天皇が私は外務大臣の意見に同意ですっていうふうに、はっきり言うんだよね。
残ってた記録だと、私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えること。今となっては一人でも多くの国民に生き残ってもらい、将来立ち上がってもらう他ない。私は涙を飲んで外相に賛成するみたいな、そんなような記録が残ってるんだけど。
ここでも、要は反対してた人っていうのは軍関係者なんだよね、全部ね。特に陸軍。世内海軍は反対ではない意見で唯一とってたんだけど、それ以外は全部反対っていう意見を天皇がこれは言わなかったらもうこの場を抑えられないっていうような状況だった。
日本自体がそうだったんだけど、そこでこの8月90日にあった午前会議というのは重要な日本の習性向けのメッセージなんだけども、その次に8月14日にも午前会議と行われてるの。これで再度ポツダム宣言にもういよいよ受諾するって意思表明を改めて天皇がまた示したわけ。
その時に天皇が自分が国民に呼びかけるのが良ければいつでもマイクの前に立つっていう風に言って、これでね、あの玉音放送っていうのがに至る経緯ができたわけ。で、これ玉音放送なんだけども天皇じゃなきゃダメだったのかっていうとこなんだけど、この経緯から見てその天皇じゃないともうこの戦争って幕引きできなかったんだよね。
要はもう首相がさ一段で決断したとしても、当時ってもう軍の力って強かったし、まあ226事件で殺されちゃったという事件もあるし、要はもう自存で決められるって言ったら天皇ぐらいしかなかったんだよね。
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戦後ってさ今だと天皇って象徴的な存在だけどさ、明治とか大正でこの昭和の戦争中の天皇って立場はさ、戦争の最高責任者だったわけじゃん。もう陸海軍の統帥権を持ってるみたいな。
これによってさ、一部ではさ、軍の空でたっていうのも食わ立てられてたんで終戦に向かっていく中で。これをまあ一気に牽制するっていうのも天皇じゃなきゃできなかったっていうのもあったし、でなんでさこれが玉音放送をするっていうこと自体がもうありえないことというかさ天皇自体が喋るっていうことが。
そうその当時ってさあら人神って言われてくらいもう神様だったんだよね天皇って絶対的な存在で、なんだろうどれくらいありえないかって言ったらちょっと例えが適切かわかんないけど卵かけご飯に卵がないくらいありえないんだよね。
よくわかんねえけどな。
卵かけご飯じゃないよねとりあえず。
そうだよね。まあそんなちょっと感じでした。
じゃああのそれでじゃあなぜこうラジオを使ったのかっていうことなんだけども、国民に一斉に伝えるには当時そのテレビはまだないからラジオ放送っていうのが一番有効的だったんだよね。
1925年からラジオって始まってて当時の普及率って約40%だった日本のでしかもない人にも近所の家とかお寺で聞くっていう環境があったのよ。
だからこれはラジオを通すことが一番だっていう風になってもともとさこのラジオって1923年の関東大震災がきっかけでこの災害の時とか情報をより多くの人に伝えるっていうのがきっかけでどんどん普及していったんだよね。
でねこの漁港放送が放送されたのって正午お昼なんだよね。
これはねあの当時もラジオを聞いていた最も多い時間帯っていうのが正午だった。
であのしかもねこのラジオ放送した後にあの実は新聞っていうのはいつも午前中に投函されるんだけどこの日だけは午後に投函されたんでね。
それはあの漁港放送の内容というか終戦を伝える内容にしたものを国民に一気に配るために。
そうそうだからラジオをしてさらに新聞でっていうようなもうすごいこうメディア戦略って言ったらあれなんだけど一気に国民に伝えるっていう。
そうっていうことをしたんだよね8月15日は。
でこれ誰がね漁港放送の原文を作ったのかっていうところなんだけど。
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天皇が作ったっていうのはまあちょっとないんだけど一応8月10日のこの午前会議の天皇の話をもとに作られたっていう風にはなってるんだけど。
まあ実際作った人はその内閣の初期官庁であった坂水紀卒音さんっていう方と勧学者これ川田瑞穂さんと養命学者の安岡雅宏さん。
でこの3名でねってねって作ったの3日間ぐらいで作ったと言われてるんだけど。
この勧学者の川田さんっていうのがかなり大きな上と締めてんじゃないかって言われてるんだよね。
要はさこの漁港放送ってさあのすごい難しい言葉なんだよね。
あのさ聞いててもよくわかんないじゃん正直。
わかんない。
漢文帳のさ漢字のカタカナ混じり文なんだってこれ。
要は話し言葉じゃないの完全に。
でなんでこれさ要は話し言葉交互体じゃないのかっていうとこなんだけど。
最初ね交互体にするっていう意見もあったんだって。
だけどなんだろう天皇が国民に呼びかけるってこと自体がなかったから。
なんて国民のことをこの話し言葉で呼ぶのかっていうことすら考えられなかったんだって。
皆さんはっていうのもちょっとなみたいな。
なんかあんたはんっていうのもあれだし。
なんだよそれ。
完全にちょっとね自分が今思っただけだけど。
そうそう。
でさ漢文帳になるとさなんだろういちいちその細かいところ気にしなくていいわけよそういう。
話し言葉が凝縮されてるようなイメージじゃん漢文帳って。
そうそうだから書くとより文字数も少ないんだけどなんだろう果汁100%みたいな。
濃縮した。
濃縮されてる感があんじゃん交互体に比べると。
でよりさ漢文帳だからさ拡張高いというか昔から使われてるそういう意味合いもあって漢文帳が選ばれた。
これね明治に入って1900年ぐらいから言文一運動っていうのがあって。
実はもう書き言葉と話し言葉ってそれまでって分かれてたんだけど。
もう話し言葉で書き言葉も統一しようよっていうのが運動があって。
それ以降はもうその要は交互体が使われてたんだよね。
だけど漁港放送に限っては交互体ではないっていうのはあった。
だから国民がその当時たぶんね理解できた人少なかったって言われてるね。
でこの漁港放送ができて閣議で揉まれるわけよ修正がいろいろ入るの。
特にね有名なのが先制非に非なりっていう言葉があるんだけど
これがねもともと入ってたんだけど変わって選挙区必ずしも公転せずっていう風に変わったの。
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これはね阿波見陸軍大臣がもうここは絶対変えて欲しいっていう風に言って変わったんだけど
最初の先制非に非なりっていうのはなんか1日ごとに劣勢になっていくよっていう意味なんだって。
で選挙区必ずしも公転せずに変えたんだけど
これは必ずしも盛り返したとは言えないっていうような
要は負けてしまったっていうイメージをあんまりつけたくなかったわけ。
だからこういうちょっと微妙なニュアンスに変えていったという経緯とかもあったんだよね。
でこれあのいろんな奇修正各所で天皇もね読む前に目を通したいって言ってこの原文を見て
天皇が直接かわかんないけど5ヶ所ぐらいねその後訂正が入った。
だからどんどんねこう急ぎでさあの玉音放送の原文作ってる時にいろんな修正が入ってくるから
このできた小書は継ぎはぎだらけになったのね。
そうそうだからなんかこれが本当に原文とか今でもコピーしたのが本とかに載ってるけど
なんだろう負けた日本の小書みたいな感じなんでね。
まさに。
そうまあそんなわけで玉音放送の原文っていうのがまあできたわけなんだよね。
でねここでねちょっと1回あの今回あの玉音放送1回目の放送はここで区切りたいなと思うんですけど
また次ね次回の放送で続き実際に玉音放送がどう録音されて流れていったっていう経緯も話したいなと思ってますので
次回聞いてくれたら嬉しいですありがとうございました。
ありがとうございました。