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  2. 第49回「薩長同盟」幕末の転換期
2021-12-21 28:01

第49回「薩長同盟」幕末の転換期

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1866年(慶応2年)に京都で薩摩藩と長州藩が結ばれたとされる盟約を
薩長同盟または薩長盟約という。
この薩長同盟がもたらした歴史の結果は大きい。
戊辰戦争において薩摩、長州を中心として、幕府との戦いに勝利し、明治政府ができた。
明治からの日本はこの薩長中心になっていったといっても過言ではない。
そんな薩長同盟はいったいどんなものだったのかを話しています。
00:04
議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
えっと、誰のセリフですかね?
これはね、坂本龍馬の言葉です。
へー、そうなんだ。
そうそうそう。
まあ、自分のなんか意見でさ、相手を打ちまかしたとしても、人ってそう簡単には変わらないよねって言ってんのかなっていう。
まあ、そのまんまだろうね、たぶん。
うん、そうそうそう。ということで、今回のテーマは、薩長同盟について、です。
あ、薩長同盟ですか。
薩長同盟。
いいねー。
長まろって薩長同盟って言うと、なんか思い浮かべるのある。
えー、俺はもうあれだね、やっぱり桂小五郎と、あの、西郷隆盛ってのがまず出てくるかな。
あー、ね、桂小五郎、木戸孝之になるけどね。
じゃあ、そんな感じで、ちょっと薩長同盟についてやりたいと思います。
はい、お願いします。
はい、じゃあまずね、薩長同盟とは、慶応2年、1866年に、京都で薩摩藩と長州藩が結んだとされる名役を薩長同盟。
または薩長名役、なんか言い方もするけど。
うん。
そうそう。これね、なんかね、今回いろいろ本を読んでみたんだけど、薩長同盟に関する本を。
うん。
あのね、結構みんなバラバラなのよ。
あ、そうなの?
俺、それにびっくりしちゃって。
うん。
なんかね、あの、結構その経緯とか、薩長同盟っていう捉え方が全然違うの。
んー、捉え方?
そうそう、ちょっとね、この後説明していくんだけど。
うん。
だから、もう読んだ感想だと、雲のようなね、なんかふわふわした存在。
これ薩長同盟って。
なんかこう、バシッてこれだっていうものがないっていうイメージなのかな。
そうそう。今回ね、薩長同盟に関する本だけでも4冊を読んだんだけど、
うん。
あのね、本当に同じのがないのよ、全部。
あー。
で、僕がもうどうしようって思っちゃって。
うふふふ。
で、まずね、薩長同盟って言い方するけど、
うん。
当時の資料だと薩長同盟って呼ばれてないのよ。
あー。
そう、さっきかつらこごろちたけど、木戸孝義が後に残した文章で制約っていう言い方をしてるんだけど、
うん。
当時はそう薩長同盟っていうのは呼ばれてないのよ。
うんうん。
で、この薩長同盟がなんでふわふわした感じなのかっていうと、
うん。
最大の問題点は薩摩側の資料がないのよ。
あ、そうなの?
そうそう、まあないっていうか、その経緯とかを若干あるんだけど、薩長同盟を結んだっていうその確たる証拠がないのよ。
あー。
で、これはね長州側の資料があるんだけど、
うん。
しかもあるのはその木戸孝義が薩長同盟が結んだ後に、後で自分でまとめた薩長同盟の6カ所っていうのが残ってるんだよね。
03:10
うん。
これが今薩長同盟の有力な資料になってるの。
うん。
で、要は薩長同盟っていうのは内密に行われたから口約束なんだよね。
うん。
だからその場で証明した書類っていうものは存在してないのよ。
あー、なるほどね。
そうそう、とりあえず今のところはね。
うん。
で、薩長同盟の2つの今大まかに分けると議論があって、
うん。
1つは今までこれが大体主流だったんだけど、長州が戦争起こした時に薩長が長州側に参加するっていう軍事同盟。
あー、なるほどね。
そう、ただね最近の主流は軍事同盟じゃなくて、
うん。
これは長州藩が朝廷の天皇の敵とされた場合に、
うん。
薩摩藩がその取り消しを、いやいやそうじゃないよっていうように朝廷に働きかけるっていう迷惑じゃないかっていう、
うん。
って言われ方もしてんすよ。
あー、そうなんだ。
そうそう。
ただあの歴史の結果から見るとさ、
うん。
薩摩と長州が中心となって幕府と戦いに勝利して明治政府ができたっていうのは事実だよね。
うん、そうだね。
で、明治からの日本はこの薩長を中心になっていったっていうのも事実だし、
うん。
そう、明治の内閣総理大臣ってさ、薩摩長州の出身者ばっかりじゃん。
うん。
ほとんどそれみたいな。それはさ、しばらくずっと続くし、なんなら今でもその影響はあるからね。
まあ、そうだね、確かに。
そうそうそう。例えば最近だと日本で一番首相在籍期間が長かった安倍晋三さんも、
うん。
結局東京都出身ってなってるけど、もともとは長州、現在の山口県にルーツがあって、
うん。
おじいさんは山口県出身の岸信介だし、
うん。
安倍晋三さんもさ、衆議院選挙毎回山口県から出馬してるし、
そうだよね、うん。
そうそうそうそう。まあそんな感じでさ、今でも。あと長州力とかも。
なんで急にぶっ込んできた。
長州力も山口県だから。
まあ長州力だからね。
そうそうそう。
そう、だから明治以降って薩摩と長州が日本の中枢にいたって事実はあるんだよね。
うん。
で、まあちょっと薩長同盟に関する時代背景について説明したいと思うんだけど、
うん。
1974年に新日本プロレスとしてデビューして、サソリー型目で勝利。
なるほど、いいね。
なるほどやめてよ、なるほどって。
06:00
なんかね、2秒ぐらい考えたんだけど。
どうしようかな、乗るかな、乗らないかなって。
でも恥ずかしくなったわ、マジで。
そう、まあこれちょっと長州力のデビュー戦なんだけど。
うん。
まあいいや、ごめん。
タイトル長州力に変えてもいいよ。近代史じゃねえって。
時代背景だと、毛利家、島津家っていうのがあって、毛利ってのは長州で島津が薩摩。
で、これは関ヶ原の戦いまで遡ると、西軍側について負けた側にいた。
で、それ以降徳川についた大名なんだよ。
だから、これって戸様大名って言われるんだけど、幕府の政治の中枢に入りにくいポジションにいたのよ。
で、ちょっと幕末に入るんだけど、京都には天皇がいて、その天皇をこっちの味方につけたいっていう尊王思想を持った志士たちがいたのね。
で、外国を排除したいっていう上位っていう考えが合わさって、尊王・上位思想を掲げる志士たちが集まってたんだよね、京都に。
特に長州はその中心だったんだけど、これが1863年に8月18日の政変って言って、
過激なこういう尊王・上位思想を持った長州藩だったり、それに同調していた区芸、朝廷に仕えてる人らを京都から追放したっていうのがあった。
で、翌年、これ新選組でも言ったけど、池田屋事件っていうのがあって、池田屋ってとこで尊王・上位思想を持った志士たちが団合してた。
で、その中には長州の人たちが多くて、新選組により弾圧というか捕まったり殺されたりとかしたんだけど、
で、同年この池田屋事件をきっかけに長州が報復として、金門の辺、または浜栗五門の辺って言うんだけど、京都に入って京都故所で幕府軍と対立するんだよね。
で、この幕府軍には藍津だったり、桑名県か今の、あとその中に薩摩がいたんだよね。長州とこの時は対立する関係にあった。
で、対立して長州は敗れるわけなんだけど、長州はその時から朝廷の敵って風にされたんだよね。
これはさ、なんか226事件をちょっと連想させるなみたいな。長州としては天皇中心の国を作りたいと思ってるけど、天皇からは嫌われるみたいなね。
で、その後その第一次長州制圧っていうのがあって、幕府軍が長州に兵を送って、で、その幕府軍の参謀として勤めたのが薩摩の最後高森だった。
これ長州藩と交渉する形になって戦わずに兵を解散させてるんだよね。
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これいろいろあるんだけど内戦は国力の低下を招くだけっていう考えが最後側にあったとも言われてるし、長州側が完全に降伏というか対応を見せたっていうのもあるし。
ただこのさ、第一次長州制圧争いはなかったけれども、金門の辺で長州は薩摩にかなり恨みが残ってるわけよ。
で第一次長州制圧の時に、ただその最後の動きがもしかしたら長州のことをなんか考えてくれてるのかっていうのは、藍津藩とはちょっと違う見方もされてたのかなっていうのは感じるとこなんだけど。
長州っていうのはその一方で下関戦争っていうのをやってて、これは外国戦に対して砲撃して下関環境を通れなくしたっていう。
これによってイギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合艦隊から降伏で砲撃にあったりとかボロボロに状態だったんだよね。
当然負けたんだけど、だから長州は朝廷にも幕府にも外国からも敵とされて孤立してる状態だったの。
で、孤立状態なんだけど、それまで過激な尊王攘夷思想を持った旧清派っていうのが力を失いつつあって、幕府に対して抵抗せずに従うっていう、
標準派もしくは俗論派って言われるんだけど、これが長州の実験を握ろうとしてたんだけど、その時高杉晋作が兵を立ち上げて劣勢の状況から旧清派が勝利して盛り返したんだよね。
で、一方ちょっと薩摩を見てみたいんだけど、薩摩も撮影戦争っていうのを行ってるんだよね。
これは生麦事件っていうのが発端で、島津・久光の大名行列を横切ったイギリス人を切りつけたことをきっかけに、イギリス軍艦が鹿児島に砲撃して薩摩藩との戦いが起こったっていう。
で、これで薩摩も外国の脅威っていうのは身をもって体験してるわけよ。
で、薩摩の島津・久光っていうのは京都で参与会議のメンバーだったんだよね。
これは朝廷の任命によって有力な大名たちが京都に集まって会議するというか、国の行く末をちょっと会議するような。
これってさ、冒頭でも言ったけど、薩摩っていうのは戸様大名で幕府の意思決定から今まで完全に排除されてたんだけど、薩摩の考えがこのメンバーになることで反映される可能性が出てきたわけ。
ただこれってひとつ橋を忍ぶと意見が合わなくて、数ヶ月で参与会議っていうのは崩壊しちゃうんだよね。
だから結局政治の中枢に入れないっていうジレンマがある。
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今後幕府の長州制圧がまた起こって、それが成功して長州が完全に徳川に降参しちゃったら、幕府に対する対抗する術がなくなるっていう薩摩がちょっと危機感を感じてたんだよね。
で、こうして長州と薩摩は近門の辺とかがあって、経営の中なんだけれども、お互いが必要な存在だったんだよね。
それは何だろうな、時の流れとともに会話のなくなった夫婦のように過去に大きな喧嘩とかいざこざがあったかもしれないけど、そうは言っても本心はあなたが必要だったっていうことだね。
なんだよそれ。
まあそんな感じなのかなと思って。
で、幕府に対抗するために長州はまず武器が必要だったのよ。
ただ武器が必要なんだけど、1863年に幕府が武器を買うのに事前の届け出が必要っていうふうにしたの。
で、倒幕姿勢を強める長州にとってはこれを嫌ったわけよ。
だって武器を大量に買い占めて、それを幕府にいちいち届けてたらこいつら完全に怪しいじゃん。
そうだね。
そうそう、そんなことできるわけなくて。だから長州は幕府を通さずに直接武器を購入しようとしたんだよね。
そこにイギリスのグラバーから購入しようともしたんだけど、
グラバーは幕府から長州に直接武器を売らないようにっていう話が事前にあって、売らなかったともされてる。
だから結局直接買うことができなくて、そこで薩摩っていうところに歩み寄りが生じるんだけど、
薩摩名義で買えば武器が買えるっていうことに行き着くわけ。
で、この薩摩と長州の経営の仲を取り持ったのが土佐藩脱藩漁師の坂本龍馬だったり、中岡慎太郎っていうふうに言われてるんだけど、
ちょっとこれはね、本によって諸説あるんで、実はあんま坂本龍馬そこまで活躍してないんじゃないかっていう議論もあるし、
中岡慎太郎が結構頑張ってたんじゃないかっていうのもあるし、
ちょっとね、ここは蜘蛛のようなフワフワ感があるんでちょっと明確には言えないんだけど、
結果さ、これ薩摩の佳龍っていう小松盾脇っていう人がいて、
この人って薩摩藩師の島津久光の最も信頼を得てる側近の人で、結構意思決定ができる人で、
薩摩名義での武器購入の許可を長州に出したわけ。
全然余談だけど小松盾脇って名前ってすごい良くない?
え?どういうこと?
いや小松盾脇ってさ、盾脇って明治大統の大統って帯に刀って書いて盾脇って読むのよ。
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いやなんかそれかっこいいなと思って盾脇って。
音は別にそうでもなくない?
小松ってちょっと弱い柔らかい感じなのに、盾脇って強めに来るっていうところが。
よくわかんない感覚だなそれは。
じゃあ次行こう。
薩摩名義で武器を購入するメリットっていうのは、薩摩にとっては討伐がより現実味に帯びるわけ。
長州にとってはもちろんその武器が手に入って、しかもその孤立だった長州が孤立から解消されるっていうのもある。
こんな風にしてメリットがあったんだけど、薩摩の名義でこの後長崎で長州の伊藤博文と井上香浦がイギリスのグラバーを通して武器を購入していくんだよね。
そこにさっき言った坂本龍馬とか亀山射中の絡みがあるんじゃないかっていうのがあるんだけど、
亀山射中っていうのは坂本龍馬とかその同士たちによって結成した日本で最初の勝者って言われてるんだけど、
銃とか武器をイギリスのグラバーと中間に入って取引をしたって言われてるんだけど、
ちょっとこれ実際に絡みがなかったんじゃないかっていう説もあるから、直接長州が勝ったんじゃないかグラバーを通して。
っていうのもあるんで、ちょっとふわふわ感出しておきます。
これによって長州は薩摩藩の船で長州まで武器を運んだって言われてる。
軍艦においても薩摩名義でユニオン号っていうのをこの時購入してる。
こんなふうにして薩長の歩み寄りが見られるんだけど、
これによって1866年に慶応二年薩長同盟っていうのが結ばれたとされてる。
これはね京都のさっき言った小松建脇邸で結ばれたってされてる。
そこに薩摩の西郷隆盛だったり、長州の桂小五郎、木戸孝義。
あと土佐藩を奪還した坂本龍馬が仲介として薩長同盟が結ばれたんじゃないかって言われてる。
冒頭でも言ったけど薩長同盟っていうのは秘密令に行われたから、皇党での約束ってふうにされてる。
残ってる資料として、長州の木戸孝義が後に薩長同盟の明約六箇条をまとめて、
それを坂本龍馬に送って、坂本龍馬が裏側に証人として署名をしたっていうのが残ってる。
ただ冒頭でも言ったけど薩摩の証明したっていう事実は残ってないわけ。
この背景を感じながら今から話すこの六箇条って実際どんなものなのっていうのを読みたいと思うんだけど、
まず一つ目が今の現代語訳にしたやつなんだけど、長州と幕府軍との間で戦いとなった時には、
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薩摩藩はすぐに2000ほどの兵を京都に出して、今すでにいる京都の兵と合わせて大阪にも1000人ほど出兵する。
そして京都大阪の両地域を固めるっていうのがこれ1個目な。結構長いんだけど。
これが兵を出すって言ってるから軍事同盟のように言われる要因なんだけど、
ただ一緒に戦うとまでは言ってないんだよね。兵を出して威嚇するというか固めるみたいな。
2番目が長州藩有利の占拠となったら薩摩が朝廷と交渉して戦争終結のために力を尽くすっていう。
3番目が占拠が不利となっても長州は半年や1年では降参しない。その間に薩摩が朝廷と交渉して戦争を終結させるよう力を尽くす。
なんか薩摩が朝廷と長州の間に入って取り持つみたいな感じが多いんだけど。
4番目が戦争とならなくても薩摩が朝廷と交渉して朝廷の命令で長州の冤罪を許すよう力を尽くす。
だからこれ今まで聞いてもらってわかる通り長州ばっかりじゃんと思わない。
長州有利の一方的な内容が多いよね。
だからちょっとこの薩澄同盟ってどうなのかなっていう議論もあるね。
で、朝廷に対して敵とみなされたおめえを晴らしたいという気持ちがすごく強い明訳になってんだね。
5番目に入ると京都の一橋、藍津、桑名が朝廷を抱え込んで薩摩の妨害に出るようだったら最終的には決戦する覚悟で力を尽くす。
ここでちょっと初めて薩摩が妨害されるようなら反撃に出るような感じが読み取れる。
最後が6番目が長州藩の名誉回復がなされたら薩澄両藩は日本を建て直すために共に力を尽くす。
こんな感じなんですよ薩澄同盟って言われて残ってる資料は。
ここで薩澄同盟が結ばれたとされてその後にすぐ寺田屋事件っていうのがある。
これは寺田屋事件って歴史の中で幕末で2個あるんだけど、1862年にあった薩摩藩士同士の争いで尊の上位派を粛清したっていう寺田屋事件もあるんだけど、
今回はそっちじゃなくて1866年にあった寺田屋事件なんだけど、
これは坂本龍馬が長州藩の三好信蔵っていう人と薩澄同盟の後に寺田屋にいたんだけど、
そこで幕府側の不死身武行書の背から物に襲われたんだよね。
21:00
坂本龍馬はその時両手を切られて怪我をしてるんだね。
ただピストルで坂本龍馬も応戦して三好信蔵も戦って、そこでピストルで応戦した時に一人を殺害してる。
そんなとこで怯んだところで宿の裏手から逃げたんだけど、坂本龍馬は怪我してるから財木の小屋で寝て隠れてたんだけど、
もう一人いた三好信蔵が薩摩藩邸に助けを求めて、その後薩摩藩邸で収容されて傷の手当とかを受けてる。
これ幕府側っていうのは薩摩藩邸にいるっていう情報を入手するんだけど、薩摩っていうのは有力な力を持った藩だから、
下手に手を出すと戦争になるって思いがあって、手が出せなかったってされてる。
なんでこの寺田屋事件今ちょっと触れたかっていうと、ここで寺田屋事件で坂本龍馬が襲われた時に、寺田屋に文章が残ってて、それが押収されたっていう記録が残ってるんだよね。
文章そのものは見つかってないんだけど、文章を押収しましたよっていう記録が、これねなんと2017年に発見されてる。
最近じゃん、割と。
最近。だから薩長同盟の議論がちょっと色々転換されてるんだよ。
で、ここで何が書かれてたっていうのは不明なんだよ。
でももし、これは想像になっちゃうけど、薩長同盟に関する件が書かれてたとしたら、薩摩っていうのは完全に幕府と対立するしかなくなるよね。
要はさ、薩長同盟っていうのは口約束で行われてるから、証拠がないわけじゃん。
ということは状況によって薩摩は幕府側にもつくこともできるし、徴収側にもつくことができるっていう可能性があるわけよ。
だけど、もしこれで寺田事件によって押収されたものが薩長同盟の件が書かれてたとしたら、徴収とともに幕府を倒すっていう道を、その選択しかなくなるわけよ。
っていうので重要な書類なんかじゃないのかって言われてる。
結果としては1865年に第二次徴収成罰があって、結果薩摩は第二次徴収成罰には参加しなかったんでね。
徴収側有利に運んで幕府側との講和が結ばれて、幕府が劣勢になって終わったっていう。
1867年になって坂本龍馬と中岡慎太郎っていうのは暗殺されちゃうんでね。
こんな感じが薩長同盟なのかなっていう流れなんだけど。
薩長同盟で振り返って思うのが、いろいろな本当に解釈がされてるんだよね。
これが軍事同盟なのか、いやいやそうじゃない。坂本龍馬も実はそんなに中を取り持ってないとかさ。
これ時代によってトレンドがあって、振り返ると歴史ってさ、過去には確実に存在してたわけじゃん。
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だけどさ、後世の人がさ、いざこう文章に書こうとした瞬間にさ、その書く人がさ、
現代の感覚っていうのをさ、少なからずのもさ、少しは入っちゃうような気がして。
だから微妙に変化していくってことはありえるかなと思って。
これさ、長丸が夏目漱石の心でも言ってたけどさ、明治の道徳って現代のうちらには理解できないって。
この薩長同盟もさ、現代の感覚から理解しようとすると、なんかまた違ったものにもなり得るかなと思って。
もっといくとさ、歴史の解釈ってさ、必ずしも真実に行き着くわけじゃないのかなと思って。
まあそうだよね。結局さ、その薩長同盟の話で言ったらさ、薩摩側の文章っていうか記憶がないわけじゃん。
だから本当は何か薩摩側にも何かこうあったのかもしんないけど、それが表されてないからすごい長州寄りのものしか残ってなくて、そういう同盟なんだってなっちゃってるのかもしんないしね。
そうそう。だってさ、今のさ、うちらにもさ、感覚としてさ、それが終わってからだとさ、悲しいもったりとかもありえんじゃん。
まあそれ言っちゃあれなんだけどさ。
なんかこの解釈って、今の現代の感覚で言うと納得感あるよねとか、それ気持ちいいわみたいな感覚が残っていくのかなっていうのも思ったんだよね。
うーん、そうだね。
そんな感じで薩長同盟いかがでしょうか。
いやまあその薩長同盟自体さ、名前くらいはさ、まあみんな知ってるようなレベルの話だけどさ、改めてなんかその審議っていうかさ、
要はちゃんとさ、その薩長同盟の中身っていう部分に関してさ、あんまりフォーカス当てる人っていないと思うんだよ。薩長同盟って聞いたら朝妻と長州が手結んだのねぐらいにしか多分思わないじゃん。
確かにね。
でもさ、その名役の内容っていうかさ、のところにまで踏み込んだりとかっていうところに関してはさ、やっぱりなかなかいけない。
そこまでやっぱ視野がいかないっていうのが多いからさ、まあ今日本当この話聞いて、なんかそういう感じなんだって。
で、まあ結局フワフワしてるってところでちょっと内容がちゃんとこう分かってるわけじゃないけどさ、
でもやっぱりちょっとこう薩長同盟っていうものに関して見る目が斜めから見れるようになったかなって気はする。
ああ、よかった。なんかこれね、苦戦したテーマでした。
まあね、要はじゃあ何が同盟なのっていうのが多分こう明確に分かってないんだろうね、実際のところ。
うん、そうだね。まあそんな感じでした。
はい。
ということで、今回は薩長同盟について話しました。
はい。
皆さんもなんかこんな同盟結んだことがあるとかあればどしどしコメントください。
こんな同盟ってどんな同盟だよっていう。
27:00
はい。じゃあ最後まで聞いていただいてありがとうございました。
はい、ありがとうございました。
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