眠れない夜と仕事の重荷
琴音の音cafe
今夜の朗読 タイトル午前3時のラジオ体操
作者は琴音です。 眠れない夜って世界に私一人だけ取り残されたような気持ちになる。
時計の針はもう午前2時半を回っていた。 ベッドの中で何度も寝返りを打ち、天井の薄暗い木目をいくら数えても、目を閉じるとうまくいかなかった今日の反省会が始まってしまう。
このデザイン全体的にパッとしないんだよね。 君らしさって何?
昼間クライアントから言われた冷たい一言が頭の中で何度も何度もリフレインする。 同期はどんどん大きな案件を任されていくのに私は修正ばかり。
頑張っても頑張っても空回りして空回りした分だけ心がそがれていく。 ため息を一つ吐き出すと胸の奥がぎゅっと縮こまるような感覚がした。
私はたまらずベッドを抜け出し薄手のカーディガンを羽織って部屋を出た。
冷たい雪がほてった頬をそっと撫でる。
静まりかえった住宅街をあてもなく歩いてたどり着いたのは町外れにある小さな公園だった。
街灯がぽつりと一つ誰もいないブランコと砂場をさみしげに照らしている。
ベンチに腰掛け冷えた膝を抱え込もうとしたその時。
カチッという機械音が静けさを破った。
午前3時のラジオ体操
続いて流れてきたのは小さなノイズと聞き覚えのあるピアノのメロディー。
ラジオ体操第一のあのイントロだった。
驚いて顔を上げると公園の中央に一人の小柄なおばあさんが立っていた。
花柄のエプロン姿のまま背筋をすっと伸ばしてラジオの音に合わせて深呼吸を始めている。
時計を見るとちょうど午前三時。こんな真夜中に一人でラジオ体操を?
おばあさんは私の視線に気づくと体操をやめることなく手招きしながらにこっとほほえんだ。
そこのお嬢さん見てるだけじゃ寒いでしょ。一緒に体を保護しましょうかね。
断るのもなんだか気まずくて私は戸惑いながらもおばあさんの少し後ろに立った。
腕を大きく振って背中を伸ばす運動。
ラジカセから流れるほがらかな声に合わせて手を伸ばし体を折り曲げる。
子供の頃は夏休みの面倒な日課でしかなかった体操がこわばっていた私の体をゆっくりと境遇していく。
首を回し大きく息を吸って吐き出す。
その度に胸の奥に溜まっていた泥のような重たいもやもやが少しずつ夜の空気に溶けていく気がした。
運動が終わるとおばあさんはポケットから温かい缶ポタージュを出して私に手渡してくれた。
わしは神谷と言うんだよ。ここで毎晩午前三時に体操をしていてね。
空回りでも進み続ける
神谷さん、どうしてこんな夜中に体操を?
夜ってやつは余計なことばっかり思い出させるだろう。
心が凝り固まったときはまず体を動かすのが一番。
ここはね、夜更かしの迷子が集まる場所なんだよ。
それから私は眠れない夜になると吸い寄せられるように公園へ通うようになった。
神谷さんは多くを語らなかった。
けれど私が今日もうまくいかなかったと落ち込むと否定もせずに
そうかい大変だったねとシワの刻まれた温かい手で私の手をそっとさすってくれた。
神谷さん、私今の仕事に向いていないのかもしれません。
どんなに頑張っても自分が作りたいものがわからなくなっちゃって。
そう漏らした夜神谷さんは夜空に浮かぶ月を見上げながら言った。
空回りでもいいじゃないかい。ぐるぐる回っていればいつか風を起こせる。
空回りもしないで止まっているよりずっといい。
それにねあんたのそのまっすぐで一生懸命なところきっと誰かが見てくれているよ。
自分の手と心を信じておやり。
その言葉は不思議なほどすっと胸にしみわたった。
神谷さんと過ごす数分間の体操と温かいスープの時間、
神谷さんの正体と再出発
それがいつしか私の暗闇の中の小さな灯火になっていた。
よしもう一回だけやってみよう。
私はデスクに向かい直し自分の書きたいぬくもりをテーマに夢中でペンを走らせた。
それから一ヶ月が過ぎた頃、
あきらめずに何度も練り直した私のデザイン企画が小さなポスターコンテストで優秀賞を受賞した。
見る人の心に風が吹くような暖かさがあると評価されたのだ。
一刻も早く神谷さんに報告したくて私はその夜浮き出す足取りで公園へ向かった。
午前2時55分。
いつものベンチ。けれど神谷さんの姿はなかった。
3時になってもラジカセの音は聞こえない。静寂だけが公園を包み込んでいた。
神谷さん?
なんだか胸が騒いで私は翌日の昼間初めてその公園を訪れた。
昼間の公園は明るい太陽の光に満ちていて夜とは全く違う顔をしていた。
公園の隅にある掲示板に一枚の紙が貼られているのが目に入った。
ご報告。
吸い寄せられるように近づき文字を追う。
そこにはこう書かれていた。
長年この地域で愛されていた神谷初英様。
去る3ヶ月前、去年85歳にて永眠いたしました。
生前のご抗議に感謝し。
え?3ヶ月前?
頭が真っ白になった。
私が神谷さんと出会ったのはほんの1ヶ月前だ。
そんなはずはない。
だって私と一緒にラジオ体操をして温かいスープをくれてあんなに優しく手を取ってくれたのに、
呆然と立ち尽くしてしまった。
あんたのそのまっすぐで一生懸命なところきっと誰かが見てくれているよ。
神谷さんの言葉とあの包み込むような手のぬくもりはどこか懐かしかった。
子供の頃、転んで膝をすりむいた私を痛いの痛いの飛んで行けと撫でてくれた大好きだったおばあちゃんの手にどこか似ていたのだ。
神谷さんは迷子になって立ち止まっていた私を心配して生前の姿を借りて訪ねてきてくれたんだろうか。
それともあの夜私が見た神谷さんは優しい幻だったんだろうか答えはわからない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
私の胸を押しつぶしていた重荷はもうどこにもなかった。
私の中には小さな温かい風が確かに吹き始めていた。
私はゆっくり深呼吸し前を向いて明日への一歩を踏み出した。
おしまいありがとうございました。